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「美味しい!」が好き

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2002年06月01日(土)

母の退院


自分では、母の入院中も日記風エッセイを続けようと考えていた。
しかし、現実は、結構忙しくて、エッセイまで手が回らなくなり、休んでしまった。
三年以上も1日くらい休んだ覚えはあるが、ずっと続けていたのに、とても残念だ。
残念だ、やはり、ずっと続けたいという気持ちが強くて、「当分の間、休載します」とHPに書けないでいた。
(何か書いていないかなと、私のHPを時々見に来てくださった方たちには、申し訳なかったです。)

母は、6月1日(土)に、以前の元気さを失わないで、そして、お医者さんからの生活に対する制限も少ない状態で、退院できた。

時間がなかったと言えば言えるけれど、結局、毎日毎日、5時に会社を出て、地下鉄で病院に行き、母の夕食を付き合って、そして、6時半から7時の間に病院を出る。
土日に買って、冷凍しておいたお肉や魚に添えるちょっとした野菜を買いながら、7時半頃家に帰る。
そして、初めの2週間は、8時に食事であったから、チャッチャッチャーと簡単に料理する。
(その後、色々なことで、9時近くになって助かった。)

ご飯は、妹が家を出る前にといでタイマーをかけておいてくれたし、洗い物も引き受けてくれたが、別に、一つひとつは大したことではなくても、毎日、ベルトコンベヤーに乗って、次から次に決まった仕事を片付ける状態は、段々、私から、「何かを書こう」「美味しいものを作ろう」という気持ちを減らしていった。

そこらへんから始まって、看病と言う程ではなく、毎日、母の様子を見に病院に通った1か月のこと、少しずつ書いて行こうと思う。



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2002年06月02日(日)

入院中に役に立ったもの


私の母の入院は、初め3週間は、安静にしていること(=寝っぱなしではなくて、働かなくてぶらぶらしていれば良いくらいの安静)と食事療法だけだったので、本人はとても元気。
そして、当然、退屈な入院生活なのだけれど、目も良くないし、読書の趣味もないし、どうしようもなかった。
でも、4人部屋だったので、他の同世代の入院患者のおばさんたちと、お互い、どういう人生を歩んできたか、今どんな暮らしをしているかなんて、話しながら、時間をつぶしていたようだった。

その話は置いておくとして、入院中に、病院に持って行って、役に立ったものをご紹介。

★イヤフォン用の小さなラジオ

入院前に母と多慶屋に買いに行った。
勿論、アナログより、デジタルの方が高かったけれど、デジタルだったら、微調整しなくても、スパスパっと選局できるので、デジタルにした。
妹の勧めで、テレビの音声も聞けるタイプにしたら、大正解。
母が入院した病院は、12時間1000円のテレビ用プリペイドカードを買って、備付のテレビを見ることはできるのだが、ずっと見ている番組は、音声だけでも十分楽しめたということであった。

★保温機能付きのカップ

多分、日本酸素のものだと思うが、中にお湯やお茶を入れておけば、冷めないし、冷たいものは、ずっと冷たく保つことができるカップ。
入院に必要なものに、「湯飲み」がリストにあって、普通の湯飲みを持って入院したが、妹が、後から買って来て、母にプレゼントしたののだが、とても役に立ったようだった。
何せ、5時半に、「お茶、お湯、お水」なぞを看護婦さんが配りに来て、6時に食事、そして、食後に薬を飲むのだが、その食後のお茶も、薬を飲む水も、改めて配られることはないようだった。
これは、入院時に必需品だと思う。(金属製だから、口をつけたときの感触は良くないとは思うけれど)

★大きな活字の本

台東区の図書館に、母が読めそうな本を探しに行ったら、「大きな活字の本」というシリーズがあった。
母が好きそうな本を選んで、2冊持って行ったが、1冊は気に入って、読んでくれたようだ。
(もう1冊は、気に入らなかったみたい)

入院中の暇つぶしの本だし、図書館にこういうシリーズが揃っていることはとても良いことだと思った。
老人に本を読ませようと思ったら、大きな活字の本が一番だと思う。



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2002年06月03日(月)

病院通い


私の母が入院したのは、文京区の根津の病院であった。
母が「最近の人」だったら、携帯持たせて入院させるのに、母は携帯が使えない。
だったら、「入院中に携帯を使えるように勉強したら?電話はいいから、メールだけでも打てるようになったら、いつでも私に連絡が取れるわよ」と提案しても一言「嫌だ」で終わってしまった。
(勿論、病院内は「携帯使用禁止」なのだが、足にギブスをはめた若い入院患者が外来の待合室に下りてきて、そこで、携帯で外部にメールを打っている姿も良く見かけた。若いということは、何でもちゃんと飛びついて覚えることかも知れないと思った。)
だから、母との唯一の通信手段は、「母からの電話」だけとなり、こちらから、連絡取るのは無理である。

ま、そういうことがなくても、毎日、家の人は病院に通うものかも知れない。
で、会社が5時に終わる私が毎日通った。
土日は妹が行くから、私は行かなくても良いと妹は言ってくれたが、結局は毎日通ってしまった。
(土日に通ったのは、自転車で病院まで通えて、それが気分転換になったからというところもあるが)

勤務先が高田馬場だったので、東西線で飯田橋まで行き、南北線に乗り換えて、「東大前」で降りれば、病院まで歩いて行ける距離であったのだ。
東大前という駅は、東大農学部の一番駒込寄りにあって、そこから病院までは、地図を見ると3,4通りのコースがあって、色々試しているうちに、「最も近い近道」を見つけた。(一番遠い道は8分くらいで、一番近いのは6分程度)
その最短の近道は、本当に狭い路地を曲がりくねった道なりに歩いて行くものであったが、昔からの家が多く、今の建築基準法か何かで決まっている「公道に2m以上面していない場合は、建替え不可」に引っかかるような小さな家が多そうに見えた。
東大前から病院までは、静かな住宅地なのだが、この静寂は、このように建替え不可の家が多いから保たれているのかな〜なんて、思っていた。
こういう家を一軒一軒持ち主の都合が発生した時期に、買い上げてまとめて大きな土地にして、マンションを建てるなんて、途方もなく時間がかかり過ぎるから、誰もやらないだろうななんて、考えながら歩いていた。
勿論住宅街だから、商店はまばらだったが、所々に、文京区の向丘・根津界隈ではというお店を色々見つけて楽しかった。



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2002年06月04日(火)

K(ケイ)1/2


病院までの最短の近道沿いに、「K」という喫茶店風のお店を発見した。
場所は、本郷追分というバス停(東大側)があるのだがその前の不動産屋の横の路地を曲がったところにあった。
本当に、「路地裏の隠れ家風」であった。
見かけは喫茶店風だけれど、店の前に、「ビールと紅茶とコーヒー、パスタに力を入れていること」が表示されていて、そこはかとなく、「私向き」と思ったのだ。

二回目に通りかかったときに、お店の紹介の刷り物が店の前にあったので、もらってきた。

そのガイドによると、「喫茶店だが、店主が三愛みゆき店店長から脱サラし、パスタ専門店『壁の穴』、サンドイッチ・ハウス『グルメ』、欧風レストラン『ざ・みらくる』で6年間修行をつんだこともあり、意外と本格的な味。」とあった。
「ビールも60種類以上」とのこと。

このお店を見つけたのは、母の入院から2週間目のことだったと思う。

この頃、全く疲れが取れなくなっていた。
入院直後、夕食は作らないと決めていたのに、母に押し込まれるように、入院の日から夕飯を作ることになり、結構大変だったのだ。
土日に買物して準備ができているのなら良かったのだが、当人は、入院から1週間はご飯を作らないと決めていたので、まるで、買い置きがなかったのだ。
6時半前に病院を出て、上野広小路の松坂屋デパ地下でお惣菜を買って、家でそれを並べる、で、食べると美味しくない、あの値段でこれだけの味?食材も大したこともない、高い!なんていう感想が心の中に湧いて来る、これだけのことの繰り返しが、結構疲れとなって、身体に溜まっていった。

1日パートを休むと言う手段もあったのだが、パートで勤め出して、2か月めで、「母が一週間検査入院するので、入退院のとき、半休したい」と正直に言ってしまったのだ。
で、その一週間が病院を代わったことにより、1か月に伸びた。
そのことも話すと、私の勘ぐりかも知れないが、話した相手が、「パートで雇った途端、母親が1か月も入院なんて、入院する前まで重病だったのではないか、分け有りの人を雇ってしまった」と思ったような気がしたのだ。
ここらへんは、難しい。
私の母は、確かに病気持ちではあるけれど、日常生活は、夕食さえ私が作れば、問題ないし、いつ倒れるかなんていう感じもなかったから、パートに出ることにしたのに、思いもかけずに「入院」になってしまったのだ。
本当はどうだかわからないが、私の方では、確実に、相手の中に「私を雇って損した」みたいな気持ちがあることを感じてしまって、入退院以外の日に休みを取るなんて、怖くて言えなくなっていた。
で、弱みを見せないように平然と見えるように振舞うことを心掛けながら、決まった時間、働いていた。
(こんな安いパートの仕事でも、こういう気を遣わなくていけないなんて、世の中、やはり厳しいね〜とも、思った。→家族の入院なんて、本当は職場には隠しておいた方がいいかも知れないと思う。)

そして、時間的にゆとりがなかったこともあって、毎日飲んでいた日本酒1合も止めてしまった。
これも良くなかった。
この状況が1週間近く続いたら、本当に身体に疲れが溜まってしまった。
それで、まず、夕飯のときの晩酌は復活させたのだが、少しは疲れが取れたものの、やはり、身体に疲労感が残った。

そんな日に、「K」を見つけたので、ある日、病院に行く前に、「コーヒーだけでもいいですか?」と入ってみた。
お店は、壁も床もテーブルも椅子も全て木でできており、外に面している部分が全てガラスで開放的な感じなのだが、ガラスの向こうは、路地だから、通る人も少なく、落ち着く。

ここで、ただのブレンドコーヒーを飲んだのだ。
ふ〜、いい気持ち。
私に足りなかったのは、丁寧に作られた一杯のコーヒーを飲んで、落ち着いて、ひと心地ついてから、次の仕事に向うと言う余裕だったのかもしれないと思う。
でも、私が悪いのではない、高田馬場には、「落ち着く喫茶店」(もしかしたら、探したらあるのかも知れないが)がなかったし、東大前にだって、目に入って来なかったのだ。
コーヒーは何年物だったか、定かではないが、「熟成させた豆のコーヒー」とのこと。
確かに、「ウエスタン北山コーヒー」のような味が薄っすらした。

世の中、ドトールを初め、安くて気軽に飲めるコーヒー屋が増えていて、落ち着ける喫茶店というのは、案外少ないのかも知れない。



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2002年06月05日(水)

K(ケイ)2/2


コーヒーを飲みにKに寄ったのが、木曜日だった。
それで、「こりゃ、ビールを飲みに行った方がもっと疲れが取れるに違いない」と思い、次の日は金曜日であるからと、次の日には、病院に向う途中、「後、30分したら、来ますから」と席を一つ予約して、病院に向った。
今、私に確実に必要なことは、「一人でも、宴会して、疲れた自分を癒すこと」なのだということしか、頭になかった。

母を早々に見舞ってから、再び、駅に向かう道すがらにあるKに戻った。

今日は、気の利いたおつまみにビール飲んで、一人でも楽しんで、ひと時の解放感を味わうのだと思ったのだ。

ビールは、そのお店の女主人のお勧めの「もち米からできた地ビール」とし、おつまみのメニューには色々美味しそうなものが載っていたが、「にしんの燻製」にしてみた。
もち米からできたビールは、もっちりとした味で美味しかったし、ニシンの燻製も燻製の香りが本物で、美味しく、とても満足した。
こうなったら、スパゲティも食べてしまえとのことで、壁の穴風のメニューの中から、「たらことウニ」を頼んだ。
ちょっとこれはがっかり。
出来立ての割には、ちょっと冷めていたし、たらことウニを混ぜても、「あ、たらことウニを混ぜたものだな」という感想以上のものは出てこなかった。(相乗効果はないようだ。)
そして、ウニの味が、生の物ではなく、瓶詰のウニかなと思ったのだ。

タラコも良い味だが、全体としては、私のタラコのスパゲティの方が美味しいと思った。

このお店の女主人は、パンフレットによると、「荒家クニ子」さんという方で、そんなに背丈は大きくないけれど、身体中から、元気と人が好きという感じを発散させている女性であった。
このお店を、病院通いの途中で見つけたことを告げると、色々教えてくれた。

このお店は、よくマスコミから取材させてくれと言われるけれど、全部断っているとのこと。
ま、だいたいのお客さんが常連さんで、宣伝しないから、新しい客は中々増えないけれど、もう20年もやっているから、昔からの常連さんの子供が大きくなって、新たなお客さんになっているとのこと。
このお店のお客さんは、東大の関係者か、日本医大の先生たちが多いとのこと。

この話をする女主人のドスの利いた下町風の声が頼もしくて、疲れているときには、「ほっとする」感じがした。
また、手作りの出来立てで、それなりの工夫やこだわりのある人の作ってくれるお料理というのも、疲れを取ってくれる気がした。

このお店、この女主人と、パートの若い女性2人でやっているみたい。
女主人が、自ら調理して、お客さんと話をしながら、店を回すには、「スパゲティ」という料理が向いているような気がした。

K(ケイ)

住  所 : 文京区向丘2−8−4
電  話 : 03−3813−5234
営業時間 : 11:30〜20:00
      (でも、9時か、10時までやっているみたい)
定休日  : 日曜・祭日



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2002年06月06日(木)

ビール


ま、この日、とりあえず、このKで軽く一杯して、おなかも一杯で、結構気分が軽くなって、家に着いたのが8時頃だったが、そこから、皆が食べるであろう冷やし中華を作った。

その日の夜は、疲れが取れるように眠れた気がした。
それまでの眠り方とどこが違ったのだろうと考えた。
もしかしたら、ビールを飲むと、身体中の疲れが、身体の表面に浮き立って、そのまま眠ると、疲れるが取れるのだろうかと思った。
日本酒や何もアルコールを飲まないで眠ると、身体の芯にしがみついている疲れが取れない気がした。
「疲れが取れる」というけれど、疲れを取るには、まず、疲れを身体の内部から外側におびき出さないと取れないと思ったのだ。

このことに気付いて以来、私は、母の入院中は、必ず、ビールを飲むようになった。
最後の方は、テレビのグラハム・カーのように、ビールの缶を片手に、夕食を作ったりして、こうなれば、疲れの溜まり方が少なくなるような気がした。

ビールを毎日飲み出して、アル中とか、キッチンドリンカーになる人の気持ちがわかるような気がした。
きっと、そういう風になる人って、自分の身体は休みを欲しているのに、休めないで、ビールなぞに依存して疲れを取ろうとしてしまうのかも知れないと思った。
人間、大人になると、休んだり、気晴らしした方がいいと思うときでも、そうはできずに、毎日ベルトコンベヤーに乗らなくてならない時があるのだ。
私の場合、そうは言っても、3食ビールに手が伸びないで、夕飯時だけだったから、ま、良しとするかと思う。

因みに、以前習ったのだが、女性の更年期障害にもビールが利くのだそうである。
ビールには、何か、他のアルコールにはない薬効があるのだと思う。

ま〜、どちらにしろ、大人になる過程で、「どうしたら、自分を癒せるか」という手段を自分なりに考えておくという作業はとても大切なのかも知れないと思った。
日頃、自分は、日常の中で、何をすると疲れが取れるのか、何を食べたり、飲んだりすると、気分がはれるのか(それらはなるべくお金と時間がかからないで、仲間を必要としないものの方がより望ましい←それぞれ自分の生活を持ってしまうと、中々人に会うのは大変になるから)、ここらへんをチェックして発見しておくか、おかないかで、いざ、ベルトコンベヤー生活が始まるときに、対応できないかも知れないと思った。



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2002年06月07日(金)

タバコの自販機


私が疲れた原因は、会社→病院→家でご飯を作るのベルトコンベヤー生活以外に、タバコの自動販売機があった。
我が家には、自動販売機が沢山あって、品物さえ詰めておけば、母が入院中でも稼いでくれるので、お店は休むとしても、自動販売機は皆で手分けして、詰めて、稼いでもらおうということになった。(このことに反対する者は誰もいなかった。←当たり前か)

でも、たかが自動販売機なのだけれど、色々周囲に気を使ったりすると、詰める時間が限定されるのだ。
ビールと飲料水は、上から落としながら詰めるのだが、ガラガラ缶が転がる音がうるさく、朝早くとか夜遅くは近所迷惑で詰められない、ということは勤めを持っている者には無理ということになり、ビールは専業主婦で昼間家にいる甥のお母さんが担当、飲料水は、その飲料水の会社の外交員に頼むことにした。

私は、日本酒担当、日本酒の自販機は、一本一本、差し込むタイプなので、朝早く詰めても、近所迷惑にならないし、2種類なので、負担が軽かったからだ。

で、タバコは、我が家の近所に、何でもお手伝いをすることを商売にしている人がいて、その人に頼むことにした。(煙草は、種類が多いから、結構大変なのだ。)
その人は元は小さなスーパーの経営者だったから、商品を仕入れたり並べたりは得意のはずだということで、その人に白羽の矢が立ち、その人も、気軽に引き受けてくれた。
ただ、その人は平日だけで、休日は私が詰めることになった。

一度母がその人に教えた後、「もう1回明日教えましょうか?」と母が提案したら、「大丈夫です、わかりました」と言ったらしいのだが、いざ、母が入院した後、一人でやってみたら、やはり、難しくてできないようで、我が家の自販機に、売り切れが沢山ついている状態が続いてしまった。

タバコの自販機を舐めてはいけない、あれは、あれで、相当な熟練が必要な作業なのである。
私は、以前、母の手伝いで幾度となく詰めたことがことがあるので、ある程度詰めるポイントがわかっているので、その人が慣れるまでの間、細かい物は私が会社に行く前に詰め、その人には、セブンスターとか、マイルドセブンとか、大量に詰める部分だけをお願いすることにした。

タバコの自販機というのは、タバコの害ということで反対する人もいるけれど、老人の生活費稼ぎという点では軽いから何歳になってもできて、とても良いものである。
ただ、日本のタバコなのに、名前が全て英語で、英語で書かれている点、そして、そこにまたまた英語オンリーの外国タバコも入ってきて、しかも、ボックスタイプ、ソフトパックタイプ、なんとかマイルド、ソフト、ウルトラライト、ワンだ、メンソールだ、メンソールライトだとか、1つの銘柄からの派生銘柄が凄くて、皆パッケージが似ているところが、詰める人泣かせなのである。
よくま〜、日本の老人たち(タバコ屋さんは老人が多い)は、良くそのことに耐えて、間違えずに、自販機に詰めるものだな〜と感心してしまう。

その近所のお手伝いを引き受けてくれた人は、母がいない状態で、初めて一人で詰めて、思ったより手強いことを実感したらしい、そして、一番参ったのは、暗くなると、似たようなパッケージの区別がはっきりできなくなってしまうので、夕方、他の仕事が終わった後に詰めようと思っていたのに、夕方ちょっと詰めるということができなかったことらしい。

そんなことで、毎朝でもないけれど、朝早く起きて、自販機をチェックして、売り切れになりそうなものを詰めるのが私の日課となった。
でも、一週間も経たないうちに、在庫が切れる物が増えてくる。
母は入院前に一ヶ月分仕入れたはずだけれど、相当、見込みがずれているので、私が、切れそうなものを棚卸して、一覧表にして、病院に持って行き、母が注文表にだいたいこんなものという数量を記入して、私が家に帰ってから、JTにファックスすることになった。
(タバコが我が家に着く日には、母が半日病院を抜けてきて、家で受け取ることになった。)

それで、二週目だったか、土曜日の午前中は、2時間くらいかかって自販機にタバコを詰め、午後から母の病院に見舞いに行ったり、夕飯を作りで、次の日曜日は、午前中、棚卸をして、切れそうなタバコを洗い出したら、これも結構半日仕事になってしまった。
そんなこんなで、二週目の土日は、全く休めなかったのだ、そのことも疲れが溜まった一因ではあった。

でも、どのくらい経ってからであろうか、頼んだ人も大分慣れたようで、売り切れも目立たなくなるようになって、私の負担が減った。

皆さん、近所のタバコ屋の老人が、自販機にタバコを詰めていたら、「その仕事、結構大変なんですってね、どうして、日本のタバコなのに、皆、英語なんでしょうね。」な〜んて、話し掛けると、喜ばれるのではないかと思う。(笑)



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2002年06月08日(土)

不忍池


今回母が千駄木の病院に入院で良かったと思う点は、家から自転車で25分くらいで行けること、それも不忍池を通るので、緑や水辺を走るのが気持ちが良かったこと、そして、谷根千と言われる地域を探検できたことだ。

不忍池は、戦後すぐ野球場にするという計画が持ち上がったが、地元の反対で消えたと聞いているが、あの水が汚い池でも、ずっと残ってくれて嬉しいと思う。
(特に、母の入院中は、まだ、蓮の葉が成長しておらず、影も形もなかったので、お水の汚いのが良くわかった。)

やはり、都会のオアシス、新緑の桜の葉、柳なぞの下を自転車で通り抜けるのは気持ちが良い。
ちょっと大袈裟過ぎるかも知れないが、ニューヨークのセントラルパークのように、東京も都会の真中に緑の安らげる場所があるのだ。(後は、日比谷公園とか、新宿だったら、新宿御苑とか)

入院して3週間目に、母に対する治療が行われたので、その前後1週間程度は、朝、不忍池を通って病院に行き、母の顔を見て少し話をしてから、自転車を病院に置き、会社に通った。
土日にフラフラ不忍池を通るのも楽しいが、朝・夕の不忍池あたりというのも、中々良いものだと発見した。

朝は、老人達がラジオ体操で集まっていた、そして、池の周りにいる人の絶対的人数が少なく、まだボート乗り場も閉まっているので、波静かな池の感じが味わえた。
そして、動物園との境を走ると、動物園側に、鴨とか、アヒルが遊んでいた。(私から見ると、「遊んでいる」ように見えるけれど、本人達は、生活のために、餌を探していたのかも知れず、一概に、「遊んでいた」というと、鳥さんたちに失礼なような気がしないでもない。)。
鴨は野生の空を飛ぶ鳥だから、上野動物園の鳥ではないと思うが、アヒルは飛べないから、上野動物園で飼われているのかしら? 

夕は、薄っすら暮れかかるときに、池に沿って走ったら、どうしてなのだろう、日が暮れて、遠くに高いビルのネオンは見えるものの、木々がシルエットだけ、水も湖面が光に反射するだけの存在となるからなのか、全体の雰囲気から、現代風の雰囲気が抜けて、何か、小さいときに写した不忍池あたりの写真と似ていた。
これが田舎の中の池なら、真っ暗で何も見えないのだろうけれど、不忍池は繁華街の隣にあるので、繁華街からのこぼれて来る光と、弁天堂をライトアップしている光で、結構色々な物がうっすら見えて素敵だった。

朝夕病院に通うことは、ちらっと面倒だと思うこともあったが、不忍池の魅力のおかげで、続けることができた。



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2002年06月09日(日)

千駄木界隈


日本医大の前の「夢境庵」というおそば屋さんに入ったときに、無料の「谷中・根津・千駄木界隈の地図」が置いてあったので、もらってきた。
この地図は、名所旧跡の場所も表示されていて、山手線の日暮里から御徒町から本郷通りあたりまでをうまくまとめてあり、とても使い良いものだった。
地図の後ろには、商店の名前と宣伝が載っており、谷根千あたりの商店の有志がサービスで作って、無料で配布しているもののようである。
谷根千あたりを散策したいのなら、この地図があると良いと思う。

さて、この地図を頼りに、自転車で色々走り回った。

一番すごい発見は、鞍下通りという住宅街の中の通りに面した家で、日本医大の間から入って千駄木の方に向った左側の家の前の門の横に、「生け花」を飾っている家を発見したことだ。
その家は、角の家で、高い石垣の上にあるようだった。
家自体は、古いし、そんな大きな感じはなかったのだが、正面に、石段があって、そこを上ると、お茶室に似合いそうな門があり、その横に、季節の花々を生けた生け花があるのだ。
私としては、家の外に、通行人や訪問してくる人のために生けた生け花というものを初めて見て、大変驚いた。
何と言うか、とても風流でお行儀の良い家のように感じた。

2,3度その家の前を通ってみたが、素敵な生け花は、花がだめになると、ちゃんと新しいものに代えられていたし、あるときは、細長い花器で、あるときは、木の桶であった。
今の時代、こんな風流な家があるのも驚きであったが、この風流な習慣を未だに続けている暮らし振りがとても羨ましいと思った。
(こういう門の前に生け花を飾るという習慣は、以前の日本だったらあった習慣なのか、それとも、お茶をたしなむお家の習慣なのか、それすら、わからないような、もう本当に忘れられた昔の習慣を見た感じであった。)
きっと、こういう家の前にきれいな生け花を飾る習慣は、一朝一夕につくものではなく、このお家の代々に渡る風雅な生活習慣に、敬意を表したい気持ちが湧いた。

自分がこの家にお嫁に行ったり、お手伝いさんに行ったことを想像すると、2,3日で、逃げ帰るような気がする。
お茶を愛し、草花を愛し、風流に生け花をするなんて、私のように怠惰に育った人間には、憧れているからこそ、遠くから見て、「素敵!」と思うからこそ、良いものなのだとも思った。

もし、千駄木界隈を散策するならば、このお家を見る価値は十分あると思う。

その他、初め、森鴎外が住んで、その後、夏目漱石が住んだという家の跡に行ってみた。
そこには、ただ、説明書きが書いてあるだけで、その本物の家は、明治村にあるそうだ。
だから、ただ、その場所で、夏目漱石が「我輩は猫である」を書いたのかと思うだけなのだ。
ただ、それだけという感じ。



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2002年06月10日(月)

ビール以外に役に立ったもの


★ヴァーム

緊急に忙しくなったとき、前に書いたように、「疲れを取る」のにビールが役に立った。
それならと色々考えたら、ヴァームが沢山残っていたので、これを氷水で溶いて、会社に持って行って仕事の合間に飲むという習慣を復活させた。(それまで、面倒になって、一時休んでいたのだ。)
私が疲れるということは、血中に乳酸が溜まるということなのだから、この血中に乳酸を発生させないように、ヴァームを飲んで、体脂肪を燃やしながら、働いたら、疲れないのではと考えたのだ。
ヴァームを飲むと、暑かったし、結構、効いたのではないかと思っている。

★バナナ

忙しくなると、食事がどうしても簡単になる。
例えば、野菜サラダが面倒臭さのせいで、トマトサラダになったり、野菜が少なくなって、蛋白質系統でとにかくご飯が食べられればいいというような献立になってしまう。
そうなると、すぐに影響があるのが、お通じ。
でも、だからと言って、繊維質のあるものを料理する時間もないので、バナナを買って来て、朝な夕なに食べていたら、結構、効いた。
食生活が乱れたときに、そこを簡単に補ってくれる食物を知っていることも重要なことだと思う。

★甥たち

夕食のとき、バタバタと私が用意している間くらいから、甥たちがおばあちゃんちに出現し、勝手に自分たちの見たいテレビなぞを見て、何か欲しくなると、「お菓子な〜い?」「何か、美味しい物な〜い?」というような態度であったが、このノホホンとした落ち着いた子供達は、結構気分転換に役に立った。

我が母は入院の前の日までお店を開いて働いていて、別に寝込んでいたわけでもないから、子供達はそんなに心配ではなかったようだ。
いつものおばあちゃんの部屋で、夕食後食休みをする習慣は、入院しても変わらず、甥たちの態度も全く変わらず、安心し切って、おばあちゃんの家でくつろぎ、色々世間話やら学校の話、テレビの話なぞを私とするので、私の良い気分転換の相手になった。

(テレビで今、昔のポップスなどがコマーシャルの音楽として使われているが、シルビーバルタンの「恋のとりこ」という唄が流れたら、甥1が「まり、このCD買って!」と言う。
買ってあげるかどうかは別として、私が若い頃好きだったシルビーバルタンの唄を、ずっと年が離れている甥が思いもかけず「いい歌だ!」と思ったところなど、とても新鮮で嬉しくて、疲れが取れるような出来事だった。)

甥たちは、おばあちゃんには早く退院して欲しかったようだ。
いないよりいた方が良い他、どうも、学校や柔道や塾から家に帰って来たとき、お店が開いていて、自分の本当の家に入る前に、お店の端っこのテレビの前の椅子に座って、飲料水を飲んだり、小腹が空いたら何かを買ってもらって、テレビなぞを見ながら、一旦、外から帰って来た疲れをここで取り、気分転換及び呼吸を整えてから、家に帰りたいらしい。
(家に帰ると、宿題や明日の用意だ、とか、色々仕事が待っているのかも知れない。)
今、我が家の周りには駄菓子屋なぞ全然なくなって、子供がたむろするような店はないのだけれど、我が母の酒屋は、甥たちにとって、どうも、駄菓子屋代わりの存在のようだとわかった。



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2002年06月11日(火)

千駄木4丁目の神名備(かむなび)


母が入院したばかりの連休のとき、お昼に千駄木あたりのお店を探してみようと考えた。
千駄木では、天外天という四川料理のお店が有名であるが、ジーパンにT−シャツ、自転車という姿で店の前を通ると、どうも、給仕する人が、タキシードに黒の蝶ネクタイだったので、止めた。
そのまま、不忍通りを駒込の方に走らせ、右側にある「神名備」というラーメン屋が開いていて、並んでいるのが、8人くらいだったし、並ぶのに椅子が用意されていたので、入ってみることにした。

文庫本を読んでいたら、30分くらいで、席が空き、無事、カウンターに座ることができた。

お店自体はモダンな作りで、きれい。
カウンターの中には、若い男性、その他にもう一人、若い女性がいて、この人が給仕をする2人体制のようであった。
カウンター10席と、4人席2つ、その他、壁に向ったカウンター席が2つ、そのくらいの規模だから、並ぶのかと納得。

私の前に並んでいた人はどうも常連らしく、お店の人に、「坦々麺、まだある?」と聞いていた。
お店の人が最後の一人分が残っていると返事をしているのが聞こえ、前の人がとても嬉しそうな反応をしたので、私も食べてみたかったが、諦めざるを得ない。
メニューを見ると、ここは、坦々麺のほか、「神名備麺」という塩ラーメンと、真っ白な豚骨ラーメン、普通の澄んだ醤油ラーメンがあるようで、メニューに、「ここのお店では特にこれが美味しいというものはありません」と書いてあったので、お店の名前の付いている神名備麺にしてみた。
で、出てきたら、一番がっかりしたのが、麺が、卵麺であったことだ。
ラーメンのような中華麺の美味しいのが出てくると期待していたのだが、全然伸びないで、食べていると、プツンプツン切れるような食感の卵麺だったことだ。
ここの卵麺は、卵麺を好きな人には美味しいかも知れないけれど、私のように、かん水がつなぎとなっている普通の伸びがある中華麺が食べたい人にはちょっとがっかりだと思った。
私は、中華そばを食べるとき、麺が手打ちだったりして、しこしこして、伸びがあってという麺に当たると、すごく嬉しいタイプなのだ。

汁は、本当に透明感のあるきれいなスープで、これだけ澄ませるには、アク取りが大変だったろうと思った。
そのスープは、どこかの有名な塩で味付けされており、それなりに美味しかった。(しかし、麺に対するがっかりを打ち消す程ではなかった。)

後で、地元の人に教えてもらったら、このお店で一番美味しいのは、醤油、次が坦々麺なのだそうだ。
そして、ラーメン類より、杏仁豆腐が美味しく、価値があるとのことであった。
また、機会があったら、是非行ってみたい。

でも、このお店、日本テレビの日本のラーメンベスト100にも、確かランクインしていたが、交通の便が悪くて、地元の人以外、気軽に行ける場所にないのが残念。

お店のカードをもらってきたのに、なくしてしまったみたいで、はっきりしたことは住所くらいしかわからない。

東京都文京区千駄木4-21-3
電話:忘れてしまったし、インターネットタウンページで引いてみたが、出てこなかった。
営業:12:00〜22:00
休日:確か月曜日だったと思う。


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2002年06月12日(水)

向丘 バゲニ 1/2


不忍通りを根津神社の先で左に曲がって、根津神社と日本医大の間の上り坂を本郷通りの方に歩いて行くと、本郷通りに出た角に、なにやら、清潔そうなファーストフードのお店があった。(混んでいるのはみたことがなかった)
どうも、トルコ料理のファーストフードのお店という変わったお店で、不味かったら嫌だったので、初めの内、寄り付かなかった。

が、あるとき、病院の帰り道、献立に窮していた私の目に「テイクアウトできます」という文字が飛び込んでいて、500円くらいのピザの写真が見えたのだ。
どうも、モッツァレーラチーズだけの単純なピザだけれど、500円なら、安いし、これなら、私の酒の肴になるからと、買ってみることにした。

お店に入ってみると、店員さんは、全員日本語のできるトルコ人の男性のようであった。
ファーストフードと言っても、工場を持っているわけでもなく、そのお店で予め調理しておいたものを温め直したりするらしく、5分くらい待たされた。
br 家に帰って、オーブントースターで温め直して食べてみたら、美味しい!
皮の小麦粉の味と、チーズの味がマッチしていた。
そして、500円という値段に比して、とても大きくコストパフォーマンスも良いので、この味なら、お店でも食べてみる価値はあるかも知れないと思った。



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2002年06月13日(金)

向丘 バゲニ 1/2


二度目は、母の退院の日、午前中から母の退院を準備しに病院に行ったお昼に行ってみた。

12時頃行ったのだが、満員ではないものの、まあまあ席は埋まっていた。
お客の中には、文京区の住宅地という場所柄か、結構きれいに着飾った教育熱心な母親の集団と見える5,6人の人たちも見かけた。
この人たちは、コーヒーだけを飲んでおり、トルコ料理を楽しみに来るというより、塾や学校の相談にこのお店を利用しているという感じに見えた。

また、壁には、トルコ人留学生と日本人の交流の会のお知らせが貼ってあり、ここは、ただ、商売目的だけではなく、トルコと日本の文化交流にも力を入れているお店であることがわかった。

お昼のランチが800円程度で、2,3種類あったのだが、ドネルケバブ(鶏肉を焼いたもの)とサラダとピデ(パン)と、飲み物(アイランというヨーグルトドリンク)にしてみた。
1200円くらい出せば、肉団子やチキンのトマト煮込みが食べられるので、そちらにも惹かれたが、とりあえずは、800円台で味見してみた。

お料理は、普通に美味しいという感じで、ピデというピザパイを食べたとき程の感激はなかった。
しかし、お肉が柔かいし、焼いてもこんなに柔かいお肉なんて、きっとヨーグルトに漬けておいたものかしら?また、香辛料も効いていて、どちらにしろ、トルコとインドというのは地理的に近いのだな〜なんて、思った。
また、ピデというパンも、ピタパンというパンを思い出させるし、アイランというヨーグルトドリンクは、塩味だったので、確か、ブルガリアでは、ヨーグルトに塩を入れて食べるとテレビで言っていたのを思い出し、本当に、トルコというのは、東西融合の地なのだと実感できた。

ファーストフードと言っても、工場で下ごしらえしたものの温め直しのお店ではなく、トルコだったら、そして日本でも昔だったら、屋台で食べるものを、現代風に「ファーストフード」と言っているだけのお店だと思う。

気軽に、トルコ料理を食べるには、とても良いお店だと思う。

バゲニ
東京都文京区向丘2−12−3
пF03−3824−9151
営業時間:8:00〜22:00



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2002年06月14日(土)

大切なことはすべて食卓で学んだ 1/2


1か月程度前から、浅草の本屋の料理の本コーナーで「大切なことはすべて食卓で学んだ」という題名を見てから、ずっと気になっていた。
何か、私が放ってはおけないような題名ではないか?

で、母が退院してから、ようやく本を読む時間ができそうだったので、買ってみたら、とても面白かった。

筆者は、帯に「1960年代に、母から逃れ、自立を目指す娘」と書いてあるから、現在、50歳代の人だと思う。
何でも、NYタイムスに、レストランの評価を執筆している人で、NYでは有名な人のようだ。

余り、筋書きを書いてしまうと、読んでもつまらないだろうから、書けないのだけれど、読んでいると、とても羨ましいところが沢山出てくる。

この筆者は、干渉的で、躁鬱病的母の下で苦労することは苦労するのだけれど、その母によって、12才のときに、フランス語を身につけるために、モントリオールのフランス系カソリックの女子高の寄宿舎に入れられ、そこで友達になったフランス人の家庭に土日に招かれたりする。
そして、その家で、グルメのお父さんに気に入られ、毎週、土日には、お抱えシェフの見事な、今となってはレストランでも食べられないような贅沢なフランス料理を食べて過ごすくだりなんか、本当に美味しそうだし、羨ましい。
え〜、私もそんな経験がしたかった....なんて、心から思ってしまった。

他に、また、このお母さんによって、フランスで子供たちのキャンプの監督官をするアルバイトをすることになるのだが、そのときも、偶然、そのキャンプのある島に来たグルメのフランス人夫婦と一緒に、「パリでは手に入らない美味しい食べ物」を買い付けに同行したりするのだ。

本筋とは関係ない話なのだが、ここらへんが本当に美味しそうで、羨ましい。



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2002年06月15日(日)

大切なことはすべて食卓で学んだ 2/2


この本は、本当に面白い。
作者のルース・ライクルの自叙伝なのだが、本人も一番最初に書いているように、「面白い話が好き」ということで、相当面白く脚色されているとは思う。
(例えば、ルース・ライクルさんは、本を読んでいると、ちゃんとお料理を習ったこともないのに、レストランの厨房に入ったら、その日から相当活躍できたように書いてあるが、本当かしらね?やはり、それは脚色というか、習った歴史を飛ばしているのかなと思わないでもない。)

でも、人生に大切なことが何かを適確に面白おかしく描かれているので、良いと思う。
この本の原題は、tender at the bone(Growing up at the table)というものらしい。
tender at the boneは、妹によると、「骨のところまで柔かくとか、優しく」という意味だとのこと。
きっと、人生の基本を学校や書斎における作業ではなく、食卓や台所を中心にして育ったので、身体の髄まで、硬直することなく、「柔かく、優しく」育ったという意味だと思う。

読んでいると、食べ物に関心をもって、食べ物にまつわった色々な人間関係を学びながら、育つということは、人間が、精神的におかしくならないで一生を過ごすことに重要な意味があるのだなと思った。

とても、面白い本で、お勧め。

大切なことはすべて食卓で学んだ

ルース・ライクル著
ティビーエス・ブリタニカ刊行
1800円(税別)



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2002年06月16日(日)

ホームページを持っていると言うこと


ホームページを持っている人に、実生活の知り合いがいない。
だから、皆、どうしているのか、良くわからない。

だけれど、この数年、実感したことは、ホームページを持っていて、結構アクセス数が多いし、楽しみにしてくださる方が多いということは、知り合ったばかりの友人になりそうな人に話すのは、難しいということだ。

調理師学校に行っていたときに、同世代の女性の友人になら、そのことを話しても大丈夫だろうと思い、メモに、私のHPのURLを書いていたら、それを28歳程度の若い女性が気がつき、「それ、何?」と聞くので、止せば良かったのに、「私のHP」と話したのだ。
そうしたら、その女性が「もらっていもいい?」と言いながら、そのメモを持って行ってしまったのだ。
でも、それは止めた方が本当に良かったのだ。

私のHPを見たその若い女性は、その後、態度がガラっと変わってしまった。
それまでは、親しげに話し掛けてくれたのに、その後は、つんつんするようになった、わけもなく、子供っぽい意地悪をしてくることが多くなった。
そして、その若い女性の友人たちにも、私のHPについて何やかやと言ったのか、他の若い子たちも、挨拶しても知らん顔するような子が増えてしまったのだ。

原因は全然思い当たらない。
ただ、私は何となく、「私が全然有名でも何でもなく、シロウトの癖に、お料理のことをしたり顔でHPに書いている」ことを生意気と思ったと思ったのだ。
高校卒業したばかりではない女性で、調理師学校に来る人は、私だけではなく、結構、密やかに料理の腕や知識に自信があるというか、普通よりは、詳しい人が多いのだ。
その28歳の女性も、どこか私立の女子大の食物科を卒業して、その後、食品会社で働いていたらしい。(すなわち、食物に関するキャリアという意味では私より数段上)

ここらへんは、本当に難しい。
個人のHPの良いところは、有名だろうが無名だろうが、キャリアがあろうがなかろうが、その人の知識がどの程度のものだろうが、公序良俗に反しない限り、自分が勝手に自分のために、楽しみで作って良いことだと思うのだ。
でも、素直にそう受け取らない人も世の中にはいるのだなと思った。
(私にしてみれば、別に、HPを持って、好き勝手することに後ろめたさもないし、第一、そんな若い子たちに、「生意気」と思われたり、挨拶しても返して来ないような失礼な子たちは、無視するしかないと思ったのだ。)

で、今度は、3月にパートに出始めたら、ここはまた女性ばかりの世界なのだ。
調理師学校のときの経験があるので、自分がHPを持っていること自体、内緒にした方が良いと判断して、周囲の人、誰にもまだ話していない。
でも、そうなると、今度は、周囲の人に話してはいけないことを持っている人になってしまうようで、結構、こちらからも、向うからも打ち解けなくなることも事実である。(また、私は、今回のことは、「9−5時の勤務で、お金が稼げればいい」と割り切っている気持ちが強いことも大きいのだろうが)

パート仲間や正社員の女性と、時折、色々話すが、総じて、皆、食べること大好き、お料理にも自信がある人も数人いるようである。
その中で、新参者の私は、やはり、料理やお店のこと、余り話さない方がいいような気がしている。

私は、独身で母たちの食事を作っているが、あるとき、料理の話をしていたら、本物の主婦から、意地悪そうに「私たちは主婦のプロなのよ、あなたなんて、中途半端じゃない?」と言われたこともある。
本当は言い返したかったけれど、相手の実力を知らないし、自分の実力もわからないしで、そのまま無視をすることにした。

私は私のHPの中で私が一番でいられるけれど、そういう主婦の人というのは、お昼休み仲間の中で、「私が料理では一番」というボスの座を奪われまいと思ってしまうのだろう、彼女にとっては、小さな世界で「私が料理では一番」ということがとても大切なことなのだろうと思った。
食べ物のことと言うのは、主婦だったら、否応なく365日×3食こなしていることであり、誰でも詳しいことでもある。
そういう人から見れば、たかが、数年、一週間21食のうち、9食しか作っていない人のいうことなんか、聞きたくないわと言われれば、ま、それもわかるような気がする。
(でも、料理なんて、本当は色々な人と話した方が、より知識と腕は上がるとは思う。)

HPを持っていて、自分の好き勝手を書き続け、それを沢山の人が読みに来てくれるということはとても私の人生の励みにもなるけれど、実生活では中々うまく行かない面もあるのだと、ここ数年、実感している。



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2002年06月17日(月)

高田馬場のトラットリア ボッテガ 1/2


現在、原則お弁当を持って、パートに出ているが、週に一二度は、どうしても、外食してしまう。
それが4か月近く経ったので、高田馬場のランチ事情にも相当詳しくなった。
(しかし、高田馬場に長く住んだ人が言うには、私の通っている豊島区高田という地区は、地元からすると、高田馬場というより、目白の範疇に入るということ。う〜ん、ここらへんの感覚はまだ私にはわからない。)

で、押しなべてであるが、高田馬場というのは、「リーズナブル」という言葉に堪えられるお店が多いのだ。
「美味しい!」「凝っている」とか、「こだわりがある」お店が余りなく、どこに入っても、値段にしては量が多い、味もまあまあ程度のお店が多いような気がする。
だから、続けて通おうと思う店が中々見つからなかった。
(有名なラミティエというフレンチのお店は、お昼でも予約客で一杯でふらっとは入れない、「もり」というお蕎麦屋さんは、ご店主が怪我したとのことで休業が多いので、この2つはまだ、行っていないけれど)

一番安くてリーズナブルなのは、回転寿司屋のランチ、握り7巻に巻物少々と、お味噌汁に薄く切ったメロンのデザートで、450円。
結構抵抗なく食べられて、「とってもリーズナブル」と満足するが、三度目の足が中々伸びないのはやはりそれなりだということか?

そんな中で、一店、お気に入りになりそうな店をみつけた。
イタリアンのお店で、ランチは、スパゲティだけ。
結構ムードのあるお店なのだけれど、ランチのときは、前金制で、メニューからスパゲティとドリンクをチョイスする。
2,3のメニューが+100円なのだが、他は確か720円だったと思う。

店の奥の方はオープンキッチンで、T−シャツ姿のすらっとした女性と男性がフライパンを振ってスパゲティを調理しているのが見えるので、それを見物しながら、席でできるのを待っている。

程なく、順番になると、茹で立て調理し立てのスパゲティが運ばれてくる。
熱々、アルデンテという感じで、美味しかった。
おろしチーズなぞ、出来上がりに、ちょっとかけられた状態で出てきて、テーブルには置いてないので、もっとかけたいなというわがままは許されない。
でも、食べながら、結構良い材料を使っているから美味しいのかななんて、思う味である。
特別美味しいというわけではないけれど、真っ当に美味しく、素直に食べられる味。

最初のときに、「トマトソースとナスのスパゲティ」を食べたが、トマトソースが美味しかった。(今のところ、これが一番のお気に入り)

次が、「生のトマトとバジルのオリーブオイルスパゲティ」、これを食べたら、やはり、トマトを料理に使うときは、生に近い状態より、煮詰めてソースにした方が合うと思った。
(但し、向丘Kで、「ソーセージと野菜のスパゲティ」を頼んだら、塩味で、スナップえんどう、丸ごとの小さな新じゃがや玉ねぎの他に、2,3切れ、生のトマトを軽く炒めたものが入ってきた。
これは美味しかった。
結局生のトマトの炒めたものは、ちょっとだったら美味しいけれど、多いと美味しいとは思わないということかも知れない。)

三度目は、「カルボナーラ」、これはこれで美味しかったけれど、「カルボナーラ」の料理の特性か、スパゲティがほんのちょっとアルデンテよりは柔かい感じだった。



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2002年06月18日(火)

高田馬場のトラットリア ラ・ボッテガ 2/2


そのお店の出来立てのスパゲティを食べると、何ていうのか、熱々で美味しいところをお客さんに食べてもらいたいというこだわりがとっても感じられて、私は気に入った。

そして、このお店は、外れにあるので、行列ができる程混まず、12時半には席が一杯になる程度の混み方なので、いつ行っても、すんなり食べられるところも良い。

最初と2度目に行ったときは、二人の人が調理していて、一人は確か男性だったように覚えているが、三度目に行ったときは、女性一人がフライパンを振っていた。
その日は、女性一人が調理なんて、いつもの戦力の半分だから、遅くなるかしらなんて思っていたが、テキパキこなしているようで、いつもに比べて出てくるのが遅いということもなかった。

このお店のことを取り上げた雑誌の一覧がお店の前に貼ってあったが、それによると、どうも、女性が経営して、女性が調理するお店のようだ。
ランチのスパゲティしか食べていないけれど、30分間に、30程度のスパゲティ(席数が30程度だから)を、すんなり、テキパキと仕上げていく腕は大したものだと思う。

住宅街の裏通りにあり、目立たないから、ランチ時に混んでいないところも気に入った。
表通りの有名なイタリア料理のチェーン店にも入ってみたが、食べていると飽きる味であったが、ここのスパゲティは、最後まで飽きずに食べられる。

ラ・ボッテガ

東京都新宿区高田馬場2−6−6
電話:03−3208−0598
定休日:日祭日
営業時間:12:00〜14:00
     18:00〜10:30(L/O)

わざわざ行くという程ではないけれど、高田馬場でランチする必要があるときには、推薦できる店という評価。



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2002年06月19日(水)

茹で大豆のトマト煮


我が家の近所の豆腐屋さんで、国産大豆の茹でたものを売っている。
お弁当の常備菜に、その内、五目豆にでもしようと買ったものが、ずっと、冷凍してあった。

別に五目豆が好きなわけではなく、ただ、お弁当向きということで考えついた五目豆だったので、長い間、そのままの状態で置かれていた。

で、高田馬場のラ・ボッテガというトラットリアで、煮込んだトマトソースと、あっさり生のトマトを炒めたソースを食べ比べたことで、俄然、「煮込んだトマトソースで大豆を煮たら、美味しいのでは」という気になった。

材料
にんにく           小1かけ
玉ねぎ            1/8個
オリーブオイル        少々
ベーコン           2枚
茹でた大豆(できれば国産)  150g程度
トマトの水煮の缶(400g) 1/2缶
チキンブイヨンストック    少々
塩・胡椒           少々

作り方
1.にんにくと玉ねぎはみじん切り。
  ベーコンは、食べ良い大きさに切る。

2.フライパンか、小鍋にオリーブオイルを入れて熱し、にんにくと玉ねぎを焦げないように、ちょっとしんなりするくらいに炒めて、ベーコンを加えて、更に軽く炒める。

3.トマトの水煮缶を入れて、時々かき混ぜながら、グツグツ煮詰める。
4.味を見て、チキンブイヨンストックを少々(包丁で刻むなり、おろしがねでおろすなりして)と塩・胡椒で味を整える。

5.水分が程々に蒸発したら、出来上がり。

6.ただし、食べるまで、蓋をして、保温状態にしておいた方が、トマトの味が大豆に染み込んで美味しい。

結構、評判が良かった。
上の量だと、4人分の箸休め程度。
メインディッシュにするとしたら、この2,3倍の量が必要かも。

この料理、ポークビーンズのようなものだから、ご飯より、パンのおかずになると思う。

ご飯のおかずなら、やはり、箸休めに向いていると思う。
今度、また、茹で大豆を買ってきたら、冷凍させずに、トマトで調理して、冷凍させ、お弁当のおかずの端に入れるようにしよう。



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2002年06月20日(金)

MDHの社長


甥たちが良く見る「世界まるごと」のようなテレビ番組は、結構面白い。
いつだったか、見ていたら、私がアメ横で買うMDHというインドのカレーパウダーの会社の社長が紹介されていた。

年の頃、70歳くらいのおじいさんで、頭には赤いターバンを巻いた痩せぎすの人であった。

「成功の秘訣は、能力でも努力でもない。そんなものは、全体の20%程度で、80%は運じゃよ」と語るそのおじいさんの言葉で、ドキュメンタリーは始まった。
何でも、パキスタン地方に住んでいたが、印パ戦争で、インドに引き上げてきて、そこで、香辛料の商売を始めたとのこと。
そのおじいさんの運は、ホールの香辛料を家で引くのが当たり前だったことを、粉にして売り出したこと、それで大当たりした後、更に、ブレンドして売り出して、またまた、大当たり、インドで一番の香辛料会社に成長、そのおじいさんは大富豪になったそうだ。
(私も、インドに行ったら、皆、家でホールを粉にしているものだと思っていたら、そのMDHという会社は、インド全体の香辛料のシェア60%というから、半分以上の家庭は、自分の家で粉にするのは止めているようだ。)

この社長が、香辛料の粉やブレンドを売り出したおかげで、インドの女性は社会進出ができたと紹介していた。

この社長は、インドでとても尊敬されているそうだ。
大富豪なのに、所謂マハラジャのような貴族のような豪勢な生活はしないで、大富豪としては質素な生活をし、毎朝、ヨガをして体調を整え、会社や社会に貢献できるように、70を過ぎても頑張っているとのこと。
そして、カレー会社以外にも、何でも、死んだ奥さんや息子の名前を付けた病院を2つと、学校を4つ作った(インドの将来のために、英語で教育する小学校のようだ)とのこと。
その病院は、お金のない人は無料で診察・治療してくれるらしい。

そういう態度が評価されて、この社長が外を歩けば、社員なぞが、しゃがんでその社長のすねを触るという挨拶をする。
この挨拶は、昔は、王様に対する挨拶だったそうだ。

何か、自分が何気なく買っていたカレーパウダーの会社の素性や社長の謙虚な生き方なぞがわかって、何となく親しみが湧いた。



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2002年06月21日(土)

すきやきもんじゃ


我が家の甥たちは、おばあさんちのすき焼きに目がない。
きっと、子供だから、身体が肉を欲していることもあるのだろうが、どうも、卓上コンロで煮ながら食べるすき焼きに魅力を感じているらしい。

甥の家では、すき焼きは、ガス台で煮てしまって、テーブルに置いて食べるものらしい。
そして、うどんが入っていないとのこと。

我が家のすき焼きも以前はうどんなぞを入れることはなかった。
だが、ひとたび、すき焼きの終わりにうどんを入れると美味しいとわかったら、必ずうどんが入ることになっただけではなく、最初から、すき焼きにうどんが入るようになってしまった。(笑)
実は、私はやはり、最後ならいいけれど、最初からすき焼きにうどんが入るのが気に入らない。
やはり、最後に入れるのが正常な姿だと思っていた。

でも、甥2が、どうしてすき焼きに入ったうどんが美味しいか教えてくれて、それに納得して、確かに、なるべく早めに入れておいた方が美味しいかなと思わないでもなくなった。(でも、やはり、せめて、後半からにして欲しいが)

甥2曰く、うどんがすき焼き鍋の中でうっすら焦げたところが美味しいというのだ。
な〜る程、もんじゃと同じで、小麦粉の澱粉が薄っすら焼けたところが美味しいのだと納得。
すき焼きの味を含んだうどんの焼ける音で水気がなくなったと思う頃、お好み焼き用のへらを差し込んでうどんをひっくり返したら、美味しそうなきつね色から薄い茶色の焦げが出来ていた。
私も、それを少しもらって食べたら、確かに美味しい。
牛脂の味、醤油・砂糖の味がま〜るく澱粉の中でまとまっていて、それが熱々で、美味しいのだよね。
安いもんじゃより、美味しい牛脂の味が濃い分、上等で、良い味なのだ。
確かに、牛脂のもんじゃは、最高!

で、焦げがついたうどんは食べるとして、焦げの部分をこそげ取った後、次なるもんじゃ候補のすき焼きの汁をたっぷり含んだうどんが鍋底に接するようになったら、少しお水を入れて、ちょっとかき混ぜるのだ。
そうすると、柔かくなったうどんの表面の澱粉が色々な味と一緒に鍋底に落ちて、そこが膜になって、香ばしく焼けていくのだ。
ただ、うどんを置いておいても、美味しいもんじゃのような焦げた膜にはならない。
こつは、ちょっとお水を全体に振ることだと思う。



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2002年06月22日(日)

鯖の西京焼き


母が入院している間に、チャンスを見つけては、根津あたりをふらふらしていた。
根津あたりは、本当に、裏路地の目立たないところに、隠れ家的な店があって、本当に面白い。

その中の、一軒に「ふく田」という割烹屋さんがある。

場所は、根津神社の裏で、日本医大と根津神社の間の坂を上っていき、根津神社が終わり、消防署があって、その先の路地を曲がってちょっと入った左側。(路地のちょっと入ったところに、「虎薬局」というのがあって、それが目印になる)

古いけれどこざっぱりした、小さな日本家屋で、見た感じ、やはり、割烹のお店で女性一人で夜行くのはちょっと気が引ける感じだったのだが、お昼にランチがあり、1000円程度だったので、あるとき行ってみた。

カウンター10席に、4人用のテーブルが2つ程度で、ご夫婦がやっているお店のようであった。
土曜日のお昼に行ったのだが、お客は、日本医大のお医者さんと思われる若い男性と私だけであった。

メニューの中から、鯖の西京焼きを選んで、カウンターの中のご主人のやることを見ていた。
ご主人は、リンナイの業務用の魚焼き器と、ガス台のフライパンで何かを作っている。
どうも、お医者さんが、鮭のマヨネーズ焼きを頼んだらしく、鮭をフライパンで焼いた後、マヨネーズをかけて、業務用の魚焼き器をオーブンに見立てて、焼く準備をしているようだった。
そのうち、私の鯖も、業務用の魚焼き器に仕込まれていった。

当然、先客のお医者さんの鮭のマヨネーズ焼きが出来上がって、私の隣で、奥さんが、ランチにすべく、お盆の上で、小鉢なぞと一緒にセットされていった。
これが、じゅくじゅく沸騰していて、焦げ目がすごく美味しそうで、次に食べるなら、これと思ったが、その後、残念ながら、母が退院してしまい(笑)、食べていない。

私の鯖も焼き上がり、小鉢や味噌汁とともに運ばれてきた。
鯖の西京焼きは、一切れではなく、二切れであった。
最初の一切れ、脂が乗っていて、しかも、西京味噌の甘味とうまくあって本当に美味しかった。
二切れめになったのだが、一枚目程美味しくない。
あ、そうか、この二切れは、鯖の半身を、腹の方と尻尾の方に二等分したものなのだ。
うわ〜、それにしても、腹と尻尾の方では、こんなに脂の乗り方が違うのか、尻尾の方は脂がないから、結構パサパサしている。
この違いがわかっていたなら、まず、パサパサの方を先に食べるのだったと思う。
魚というのは、本当に部位が違うだけで、こんな別物の味になることに驚いた。
今度から、魚の切り身を買うときは、絶対に、腹の方を買おうと心に誓う私であった。(笑)

このふく田さんは、小鉢の中に、何だかは忘れたが、3種類くらいのお惣菜がちょこちょこっと入っていて、これが全て手作りらしく、美味しかった。
やはり、「割烹」を名乗る小さな隠れ家的なお店のお昼は、価値があると思った。



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2002年06月23日(日)

玉ねぎドレッシング


知り合いの人が教えてくれて、玉ねぎやにんにくをビネガーや油と一緒にミキサーがガーっとして作るドレッシングを教えてくれて、作ってみた。

一言で言って、おろしがねで玉ねぎをおろして作るドレッシングと全然味が違った。

どちらが美味しいかというと、ガリガリと、指を削りそうになるのに気をつけて、削り難い玉ねぎをおろして作るドレッシングの方が断然美味しい。
玉ねぎの味がちゃんとするのだ。
ミキサーがガーっとして作る玉ねぎドレッシングは、簡単だけれど、玉ねぎの味がしない。

また、サラダなぞを作っていて、使った玉ねぎが余ったときに、それをみじん切りして、ドレッシングの中に混ぜ込んでしまうのも美味しい。

美味しさから言ったら、私の好みでは、1.すりおろしドレッシング 2、みじん切りドレッシング 3.ミキサードレッシング。

それにしても、玉ねぎすりおろしドレッシングは、母の入院中の夕食を大変助けてくれた。
その頃、忙しかったので、サラダと言っても、トマトくらいになってしまったけれど、玉ねぎをみじん切りにしたり、さらしたりするのも面倒臭く、ドレッシングにおろしただけで混ぜ込んでしまったのだが、簡単で美味しいで、評判も良く、大変助かった。

(作り方は、玉ねぎをおろして、そこに塩・胡椒・ビネガーを入れて、混ぜたところに、酸っぱさを見ながら、サラダオイルを入れて、混ぜていく。)



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2002年06月24日(月)

蕎麦サラダ


外で食べるとき、蕎麦サラダなぞ、美味しいと思うのだ。
でも、持っている料理本を見ると、結構やたらに和風で、みょうが、しそ、うど、三つ葉なぞを使うみたいで、材料を揃えるのが面倒なので、真似して作ることもなかった。

が、窮すれば何でもやっちゃう私のこと、献立に窮したある日(窮するのは毎日のことなのだが)、蕎麦のサラダを適当に作ってみたら、美味しく評判が良かった。

何ていうと大袈裟だが、家にあるずっと昔にもらったおそばの乾麺を一袋の半分量、半分に折って、袋に書いてある時間通り茹でた後、冷水にかけ、水気を切っておくのだ。
その冷水は、水道水ではなくて、ちゃんと冷えているお水か、氷水であることが重要。(生ぬるいとお蕎麦は美味しくない)

順序は逆になってしまったが、まず、野菜は、レタスはちぎる、胡瓜は食べよく切り、冷水で冷やした後、水気を切っておく。
トマトは、皮を湯剥きして、ダイス型に切る。ざるに入れておいて、自然に、タネを落としながら、冷蔵庫で冷やしておく。

特別なものとしては、お蕎麦用に、茗荷は、縦に二つに切ってから、斜めに細切りにして、氷水にさらしておく。
紫蘇(大葉)も洗って水を絞ってから、細切りにしておく。

仕上げは、大皿の回りに、レタスを一番外にぐるっと置き、その中側に蕎麦を丸く置く。
蕎麦の上には、茗荷と紫蘇を置く。
中心がトマト。
肉気が欲しかったら、ハムを1cm×3cm程度に切ったものを散らすといい。
生ハムも使ってみたが、中々合った。

ドレッシングは、にんにく醤油:酢:サラダオイル=1:1:1を混ぜて冷やしたもの。

これで、和風かどうかわからないが、このドレッシングで、蕎麦やレタスを和えながら食べると美味しい。(余っていた乾麺も減るし)
茗荷や大葉は元々お蕎麦と合うし、サラダに入ると新鮮なようだ。
蕎麦サラダは、最近、我が家の定番になった。



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2002年06月25日(火)

母の退院の日 喫茶店


母の退院の日は、運良く土曜日であった。
何でも、退院の前に、お医者さんが家族に退院後の注意をしてくれるとのこと。
お医者さんから、兄弟3名いるのなら、全員揃うようにとの指示があった。
私もお医者さんからの注意は、全員が直に聞いた方がいいと思う。
その話の調子のニュアンスというものがあって、一人代表が聞いて、それを他の人に話しているうちに、本当はもっと深刻な話だったのに、代表が家族を心配させないように加減して話しているのかなんて、思ったりする可能性があるからだ。

そんなこんなで、兄弟3名が、おばあさんの退院を迎えに行くことになった。
家で、弟や妹に「3人でお医者さんの話を聞くように、先生から言われている」と話していると、横から、甥1が、真面目な顔で、「ね〜?子供は聞かなくていいの?」と聞いてきた。
う〜ん、聞いた方がいいかも知れないけれど、今回は人数多いから、またねと言う。
(甥1は、一番上の子だから、こういうときに、大人に混じって自分も参加すべきかどうか、とても良く気にしてくれて、「さすが、長男」と思える面がある。)

でも、おばあさんが、タクシーで帰ってくるとき、孫を乗せてあげたいと思うだろうから、病院まで、一緒に迎えに行こうねと話して、結局総勢5名でおばあさんを迎えに行った。

大人たちがお医者さんの話を聞いている間、彼らは、病院の1階にある喫茶店で、子供だけで、お気に入りになった苺ミルクを飲んでたらと、いうことになった。
でも、たかが病院の喫茶店と言えども、小学生二人で、喫茶店に入って、知らない大人たちの間に混じって、そこにいるということは、結構恥ずかしかったりすることだったらしい。
二人は、喫茶店に入って、苺ミルクという飲み物を注文すると、すぐに飲み干して、「とにかく苺ミルクは飲みたい」という要望を満たした後、すぐに喫茶店を出てしまい、喫茶店の隣の待合のソファに座っていた。
どうせお金払って喫茶店に入ったのだから、喫茶店の中で持って来たまんがでも読んでいたらと思うが、どうも、喫茶店に子供同士でいるのは、居心地が悪いらしかった。

自分が、いくつのときから喫茶店に平気で出入りできるようになったかと考えると、やはり高校生のときだったような気がする。
甥1が高校生になるまで、後3年ちょっとだ、その間に、急成長するのだろうな。



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2002年06月26日(水)

相撲


母の退院の日、母は、同室だったおばさんたちに、孫達を紹介していた。
甥1は恥ずかしそうに直ぐに隠れてしまったけれど、甥2はずっとおばあさんたちの相手となっていた。

甥2は、本当に病院に似つかわしくない、丸々、つやつやとしている。
その時、ちょうど甥2は、前の週に、台東区の小学生の学年別相撲大会で優勝して、もうすぐ、両国の国技館で行われる都大会に出場することが決まっていた。

同室のおばあさんの中に、相撲好きなおばあさんがいて、今度国技館の土俵に上がると紹介された甥2を「絶対、この子は相撲取りになるに違いない」と決め付けて、「坊や、最近は、横綱になると、お金を沢山もらえるらしいわよ。でも、坊やが横綱になるときは、決して、お金目当てで頑張るのではなくて、立派な横綱になりたいからという理由で相撲を続けて頑張ってね。そしてね、横綱になっても、病院で会った私のこと、忘れないでね。おばさんは、いつでも、坊やを応援しているから」と言った。(笑)

甥2は、お相撲さんより、野球選手になりたいと思っているが、全然そのことはおくびにも出さずに、うん、うん、頷いて、おばあさんの相手をしていた。

甥2は、その後、私なぞからも、「あんたは、体格がいいから、国技館に行ったら、相撲部屋から、スカウトされるかも知れないね。テレビで見たことあるけれど、好きなものを何でもご馳走してあげると言われるらしいよ」と言うと、甥2は、しょぼしょぼっという感じで、「僕はついていかないから、大丈夫」と言っていた。

妹は妹で、いざ、国技館の大会の前の日、「甥2ちゃん、明日はいいね、国技館に行ったら、皆、太った子ばかりで」とからかっていた。(甥2は、嬉しそうに、「うん」と頷いていた。)

私は見に行かなかったのだが、どうも甥2は、一回戦は、体重が物を言って、シードされた後、2回勝って、3回戦目でで負けたそうだ。
帰って来た甥2に「あなたより大きい子に負けたの?」と聞くと、「うん」とのこと。
(甥2より、大きな小学校4年生というのは、どういう子なのか、見てみたい気がした。)
何か、小学生の相撲大会というのは、体重の多さ比べみたいなものだと思う。

残念ながら、甥2に、相撲部屋のスカウトは寄って来なかったそうだ。
でも、甥2は、きっと、5,6年になっても、常に身体の大きい方だろうから、いつも台東区代表で、まだ、まだ、相撲部屋から目をつけられるチャンスがあるかも知れない。
(おばちゃんは、決して、甥2を相撲取りにしたいわけではなく、好奇心で、相撲部屋のスカウトのやり方に興味があるのだ。)

5,6年の大会は、是非見に行こうと思っている。



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2002年06月27日(木)

イカ


スーパーに行ったとき、たまに、お金がないときに、何を食べて暮せば安上がりかという観点で、品物を見ることがある。

私が思うには、一番、安上がりで、少ないおお金でご飯を沢山食べられるのは、イカではないかと思うのだ。

イカを買って来て、付け焼きにすれば、その汁だけでご飯は食べられるし、第一イカは、噛むのに時間がかかるから、結構食べたときの満足感が大きいような気がする。
イカ一杯あれば、家族4,5人の最低のおかずになると思う。

他にも、イカフライも、嵩が大きくて食べ応えがある。
また、バター焼き(貧しかったら、マーガリン焼きかも知れない)でも良い。

この3つ、付け合せがあればあった方がいいかも知れないが、別に、付け焼きやイカフライだけでもご飯が食べられるし、イカを見ると、いつも私は、私が月給前にお金がない主婦だったら、絶対、イカを買うななんて、想像してしまう。

イカは、旬の時だったら、一杯100円くらいで、それで家族4名が美味しく食べられるのだから、こんな良い素材はないのになんて、考えている。

どうして、イカが貧しいときの良い素材として、有名ではないかと考えると、今の時代だったら、どの家にも冷凍庫があるから、冷凍して保存できるけれど、昔々、家に冷蔵庫のない時代のときは、保存できなかったし、冷蔵庫でも傷みやすい素材からかも知れないと思う。



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2002年06月28日(金)

鮭のフライ


時々、無性に美味しい魚のフライが食べたくなる。
私は、鯵フライも好きだし、鮭フライも好き。
でも、我が家では、母も妹も好きではないで、作れない。

高田馬場のジョナサンなぞにランチを食べに行ったときに、アジフライがおかずであったが、揚げ立てで案外、美味しかった。
(ジョナサンは、こういう単純な料理の方が良いかも知れない。)
でも、ジョナサンで、アジフライだというのに、上にソースも何もかかっていなかった。
そこはそれ、グルメの私のこと(笑)、ジョナサンのお姉さんに、「ソース借りられます?」と聞いたら、持ってきてくれた。

で、おかずに窮したある夕方、私は、今度は鮭フライが食べたくなり、母は、病院で魚のフライを食べていたことを思い出し、母は案外鮭のフライを食べてくれるかも知れないと思ったのだ。
(妹には、イカの付け焼き(この子はこれに目がない)を作ってしまえば、問題はない)

で、生鮭の切り身を2つ買って来て、ざるに置いて、塩を振りかけて、30分くらい置いてから浮き出た水気を布巾で拭いて、臭みを取った。
私は、鮭の皮は余り好きではないので、皮をはいで、これに、小麦粉、溶き卵、生パン粉をつけて、揚げたけれど、とてもうまく行って、私は美味しく食べた。

でもね、人間、病院と言う逃げられない空間にいたときと、自由が利く空間にいるときでは、やはり、違う物らしい。
やはり、自由が利く世界では、嫌いなものはやはり嫌いらしく、全然、手をつけてくれなかった。

しかし、同世代の弟が帰って来て、母の残した鮭フライを「美味しい!美味しい!」とご飯をお代わりしながら、食べてくれた。
こうなると、「美味しい」と食べてくれる弟が可愛くなる。
やはり、食べ物は、「美味しい」と言ってくれる人がいないと、作るのに張り合いがないではないか。



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2002年06月29日(土)

メリーのお中元キフトセット


母の快気内祝いのお菓子を買いに付き合った。
大まかに言って、「商品券にちょっとしたお菓子」と、「お菓子のみ」の二つのお菓子を選ばねばならかった。

お菓子のみの方は、どちらかというと、私の従姉妹たちに送るものになり。皆、2〜3人の小学生や育ち盛りの子供のお母さんが多い。
母が予め下見して決めていたお菓子は、果物のゼリーセットであった。
それでもいいけれど、地方に送ると650円も送料がかかってしまう。
それで、見直すと、メリーに、全国配送無料なので、初め考えていたものの送料込みよりちょっと高いだけの良いセットがあったのだ。

ゼリーのセットだと、6〜8個くらいなのだが、そのセットは、プリンやチーズケーキ(カップの)や果物のゼリーや冷凍庫に5時間入れておけばシャーベットになるものの取り合わせで、数えると、14個も入っていた。
随分数が多いと思ったが、良く見ると、大半がシャーベットであり、数が多いのも納得が行った。

でも、私が小学生だったら、色々な味のシャーベットセットをもらったら、絶対喜ぶと思った。
また、14個も入っているから、箱が大きい。(35cm×25cm程度)
家に、宅急便屋さんが、贈答品を持ってきて、それがお菓子で、しかも、箱が大きかったら、絶対、子供はそれだけで、幸福感を感じてくれるに違いない。

母には、ちょっと持ち出しになるけれど、「このセットにしたら、絶対、姪やその子供に喜ばれる」と押して、それを送ることになったのだ。

果たして、2,3日して、快気内祝いが着く頃になって、母に、姪たちから、次々とお礼の電話がかかってきて、皆異口同音に、嬉しそうに「子供達が喜んで....」と感謝の言葉を言ってくれたとのこと。

次の週、母は、そんなに子供達が喜ぶのなら、自分の孫たちで実験してみたいと、同じセットを買って来た。

おばちゃんやおばあちゃんは、甥たちの喜ぶ顔が見たくて、自分たちで開けずに、夜甥たちが来たときに、甥たちに開けさせてみたけれど、やっぱり、すごく喜んだ。
まず、箱が大きくて、それが全てお菓子だと聞いたときの期待感、上質の包装紙を剥いていくときの嬉しそうな顔。
(甥1と甥2は、「そこから、先は僕が開けるから」と、開ける順番を争っていた。)

開けてみて、そこに、沢山のお菓子が並んでいて、自分たちの好きな、プリンやシャーベットだったりするときの満足な顔。

甥2なぞ、上気しながら「おばあちゃん、これ、高かったでしょう?1万円するの?」と聞いていた。(笑)

もし、子供に喜ばれようとしたら、大きな立派な箱にお菓子が沢山という贈り物のパターンは、絶対外れないと思う。

凍ったメリーのオレンジシャーベットを食べてみたが、美味しかった。
確かに、シャーベットなんて、単価を考えると、大したものではないけれど、ギフトの中身の量が充実するし、お母さんにお小遣いもらわなくても、家に、色々な味のシャーベットがあって、順番に色々な味を食べられるのも、幸せなものである。
メリーさんは、良い商品開発をしたなと思う。



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2002年06月30日(日)

ワールドカップ


何を隠そう、実は、私は、前回のワールドカップドイツ大会のときに、ドイツを旅行していたのだ。(年がばれるな〜?)

そのとき、そのドイツで、初めて、ワールドカップという言葉を知ったのかも知れない。
ドイツやウィーンかどこかの安宿の一台しかないテレビで、他の外国人と一緒に、白黒テレビで、チェコ対ロシアを見た覚えがある。
(う〜ん、でも、私が旅行したのは3月だったのだ。でも、家人も私がワールドカップグッズをお土産に買って来たのを覚えているから、ワールドカップがドイツで行われた年にドイツに行って、見たのは、もしかしたら、アイスホッケーかも知れない。)

その話をすると、後28年したら、また、日本でも、ワールドカップになるかなということになったけれど、どうだろうか?

最後のコリア−ジャパン大会の決勝戦のとき、甥1は、「僕は、ロナウジーニョが好きだから、ブラジルを応援する」とのこと。
何でロナウジーニョが好きなの?と聞くと、「だって、あの子って、おちゃらけをするんだって、面白いらしいよ」とのこと。
どんなときでも、緊張するのが嫌いな甥1にとっては、眼光鋭い男が集まる戦いの場で、にこにこしながら、おちゃらけをしてくれるロナウジーニョに、「お友達」を感じたのだろう。

肉体派・理論派の甥2は、「僕はね、実はサッカー嫌いなの。早く終わってくれないかなと思っているよ。野球が注目されなくて、つまらない。だいたい、サッカーなんて、1回に1点しか点数が入らないところがつまらない」なんて、アメリカ人のようなことを言った後、「でも、強いて言えば、僕は、ドイツのカーンが一番好き!」と言うこと。

わかる、わかる、あなたと同じで、カーンは、足首、太もも!肉体派、男の世界の人だものね。

スマップで誰が好き?というときと同じで、結局、二人とも自分に近い人が好きだということがわかった。

私の妹は、トルコのイルハンという、前髪を女の子のように頭のてっぺんで結わいていた、ドイツ生まれのドイツ育ちの選手が一番好きとのこと。
これもわかる、甥1とは同系列で雄々しい男性に魅力を感じないらしい。(笑)

サッカー見ると、ルックスと闘争心があるかないかなど、全然関係ないことが良くわかった。
ま〜、自分の持ち味を生かしながら、戦っていかなくてはならないのは、サッカーも人生も同じなのだとも思った。

私は、やっぱり、明るかった稲本かな?う〜ん、でもカーンも素敵だったし、ロナウドも強いのに愛嬌があって可愛いと思ったし、その持ち味を生かしている人は皆素敵に見えた。

余談であるが、カーンのテーマソングのCDを買うことを約束させられてしまった。



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