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「美味しい!」が好き

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1999年08月01日(日)

隅田川の花火 1/2


今年は、7/31の土曜日が花火だった。
花火のときは、まず、花火の見える方角に高い建物が建たなかったことを、心の中で、神様・仏様に感謝することから、始まる。

隅田川の近くに住んでいても、花火が見えるとは限らない。
また、今まで見えていても、花火の見える方角に高い建物ができたら、もう、そのビルが壊れるまで、見ることはできなくなるのだ。

ここ10年くらい、近所もビルへの立替が進んだので、相当多くの家で花火が見えなくなったのではないかと思う。

「去年まで見えていたのに」という話しは良く聞く。
日照権問題は、官庁に気を遣ってもらえるが、花火に関しては、見えなくなっても何も言えないのだ。

そう言えば、今年、築地に行って、「花火」の話しをしたら、お店の人が、「うちは、家が箱崎だから、両国のときにはよく見えたのだけれどね」と懐かしそうに話していた。

花火が隅田川花火大会になってから、もう20年が過ぎようとしている。
江戸時代から続いた花火は、両国で、ずっと昔に、交通渋滞を理由になくなってしまった。
なんで、両国だったのか、築地のおじさんと話していて理解できた。
江戸の中心日本橋・神田の人たちから、見えるように、両国であったのだろうと思う。
そう考えると、東京が膨張して、本当に日本橋・神田に住んでいる人が少なくなった今、花火大会が、北の方に移ったのは、自然の成り行きということができる。
ということは、東京がもっと膨張したら、花火の打ち上げの場所がもっと北に移動し、我が家からは見えなくなるかも知れない。

隅田川の花火大会は打ち上げ会場が2つある。
もしかしてであるが、日本橋や両国に近い第二会場というのは、やはり、昔両国の花火が見えていた地域に気を遣って、少しでも、日本橋に近いところに、もう一つ会場を設定したのかも知れないと思う。



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1999年08月02日(月)

隅田川の花火 2/2


我が家も家を高く建て直すまでは、まるで、花火が見えなかった。
昔は、クーラーもなく、夏の夜、窓を閉めることがなかったので、花火大会のときは最悪であった。
うるさい花火を打ち上げる音、取材のヘリコプターの音、おまけに、煙が部屋に入ってくるのだ。
テレビをつけて音を消しておけば、ま、臨場感はあるが、でも、つまらなかった。

家を建て直してビルにしたら、花火が見えるようになった。
しかし、初めの年は、第一会場も第二会場も両方見えていたのに、第一会場の方は、翌年に大きなビルができたため、見えなくなってしまった。
現在では、我が家も花火が見えると言っても、第二会場の3/4から1/2程度が見えるだけの話しだ。
(どういうわけか、見える量は、年によって微妙に違う。)

花火が家から見えるか見えないかなんて、本当に、偶然でしかないのだ。

それを皆知っているから、近所の人と、家から花火が見えるかどうかなんて、話すことは絶対にない。
皆、そのことに触れないで、見えない家の人もひっそりしているし、見える家の人も静かに花火を見るのだ。

花火が終わっても、花火の話しを近所の人と話すこともない。



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1999年08月03日(火)

家族全員での食事


隅田川花火のときに、家から花火が見えるといっても、一番てっぺんの部屋だけであり、人を呼ぶ程の広さがないので、家族だけで、適当なごちそうを食べながら、花火を見る。

甥たちは、甥たち一家とおばあちゃん・おばちゃんと一緒のごちそうを心から楽しみにしている。

甥1は、生まれたとき、おじいさんが生きており、3才まで可愛がられて育った。
おじいさんは、皆でごちそうを食べるのが好きで、何かというと、集まって、ごちそうを食べていた。
甥1の頭の中には、どうもそういう記憶がちゃんと残っているらしい。

おじいさんが死んで数年経って、久々家族全員揃ってお墓参りに行った帰りのバスの中で、「帰りに皆でごはん食べて帰るのでしょう?」と聞く。
おじいさんが生きていた頃、そんなことをよくしたし、亡くなった直後もよく皆でお墓参りの帰りに途中下車して昼食を食べていたのだ。
そういう経験が積み重なって、甥1の頭の中には、『皆ででかけたら、皆でごはんを食べるものだ』と、インプットされているらしい。

また、甥1は、幼稚園のときに、小さな病気で1,2週間入院したことがあった。
退院の日、病院まで迎えに行った親の自転車の後ろに乗って帰ってくる甥1を、家の前に迎えに行ったら、甥1が、満面に笑みを浮かべながら、一番最初に口から発した言葉は「ただいま〜、今日は、皆で、おばあちゃんちで、夕飯食べるの?」というものだった。
そして、ルンルンと、自転車を降りた姿を覚えている。
自分が家に戻れた喜びとともに、『良いことがあったら、皆で夕飯だ!それが僕が好きなことだし、みんなも僕が帰ってきて嬉しいから、当然、皆でご飯なんだよね』と言いたかったのだと思う。
こういう態度が、甥1が、赤ちゃんのときに、知らず知らずにおじいさんから、洗脳されたことだと思う。
甥1の皆でご飯を食べるのが好きなところは、天からの父の声だと考えたほうがいいかも知れないと思うときがある。

かくして、我が家は、甥たちが家でご飯を食べるより、友人と遊ぶほうが面白くなるまで、何かと言えば、皆でご飯が続くのである。
それは、私にとっては、とても、嬉しいことである。



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1999年08月04日(水)

夏のマグロ


花火の時は、お寿司の場合が多いのだが、去年から、築地でマグロを買って来て、マグロ中心の手巻き寿司にになった。
家族だけの宴会だから、甥たちの好きなマグロにしておけば、無難なのだ。
(花火の時は、季節がめちゃくちゃ暑いし、考えるのが面倒)

私の生半可な知識は、「本マグロは、冬が旬で、夏はまずい。その時期に本マグロに代わるものは、○○」という食材の本の文句そのものものだった。
だったら、何を買えばいいのか、わからない。
MLで聞いてみることにした。
返ってきた答えは、「本マグロは、旬のとき、高くて、庶民では手が出ない。庶民が生のマグロの美味しさを味わうには、夏の本マグロを買うしかないとのことだった。」

言われてみれば、そのとおり。
去年の夏もブツだったけれど、築地のマグロは美味しいと評判だったことを思い出した。

で。花火の日の朝、築地に行った。
お店の人が、色々声をかけてくる。
「マグロは冷凍の方が上だよ」とか、「生だよ」とか、誰を信じていいかわからないところがある。
昨年も花火のときに、築地でマグロを買ったら、ブツだったけれど、「生で新鮮だから美味しい」のを味わった経験があり、今回は何が何でも、生を買うつもりであった。

シロウト向けに小分けしているお店に向かったら、その前の店から、「生だよ、美味しいよ」という声がかかった。
で、中々良さそうなので、色々な部位の端を集めた詰め合わせを買った。(いわゆるブツの上等そうなもの、どこが上等かというと、ほんのちょっと大トロっぽいところが入っていたからそう思っただけ。)

包んでもらっている間に、本マグロか、バチか、聞くのを忘れたことを思い出した。
築地でマグロを買うことがたまなので、まだ、買い方が身についていない。
お金を払う時に、聞いたら、「本マグロ!」と言っていた。

家に帰って、リードクッキングペーパーに巻いて、ビニール袋に入れて、冷蔵しておいた。
夕方出してみても、全くドリップが落ちていず、気持ちが良い。

こういうブツに近いところは、筋っぽいところが多い。(当たり前ですね、サクにはできなかったところだから)

筋っぽいところは、叩いて、手巻き用にする。
お刺し身に切れるところは、お刺し身に切って、皿に並べた。
皆、量は多いし、美味しいしで、大満足であった。
食べている間も、全然身が崩れないし、水っぽくならない。

高いお金で、目利きの魚屋さんで買うトロも美味しいが、夏場のさっぱりした赤身の生の活きの良い刺し身も同じくらい美味しいと思う。





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1999年08月05日(木)

車海老


急に車海老が食べたくなった。
我が家で車海老を買うことなど、殆ど皆無である。
いつもは、ブラックタイガーとか、大正海老を、お財布と相談しながら、スーパーで買うか、築地で購入する。

味で考えれば、そりゃ車海老の方が美味しいけれど、高いし、普通の店ではたまにしか扱っていない。
(先日、珍しく、行き付けの魚屋に小さくて安くて活きの良さそうな車海老があったので、買ってきて、あぶって食べたが、美味しかった。)
やっぱり、味の濃くて、冷凍していない車海老は、美味しいのだ。

素麺の食べ方で、冷たい素麺を深皿に敷いて、胡瓜の薄切り、海老、卵豆腐を置いて、御汁をかけて食べたかったのだ。
いつもなら、安い海老で我慢するのだが、今年は、「やっぱり、こういう料理には、車海老だ」と思った。
なぜだろう、やっぱり、シンプルなお料理の場合、車海老でなくては、美味しくないのだ、今まで我慢したのだ、と思う。

昆布・厚削りのかつお節・煮干しで取る出汁で食べるうどんすきのときは、別に車海老を入れようが入れまいが、そんなに気にならない。

築地に買いに行って、海老を売っているお店を観察する。
皆、お店の中の方に、お水に酸素を入れているのか、水をぶくぶくさせている籠に車海老を入れておき、活きが悪くなったものを、通路に近い籠に移す。
「売って!」と言えば、活きていて、跳ねている車海老を買うことができるのだろうが、持って買えるのが大変だから、普通は買えないのではないかと思う。

値段を聞くと、ある店で5500円だった、う〜ん、とてもでないけれど、手が出ない。

ある店で、1800円の表示があり、聞いてみると、売りきれとのこと。
そりゃあそうだろう、私だってそういうものを買いたかったのだから。
その隣に、もうお皿に少なくなった海老を発見、中々、品質も良さそうで、しっぽが七色に光っている。
どう見ても、これは1KGない。
シロウトが築地で買い物をするときには、こういうのは、チャンスなのだ。
もうこれを売ってしまえば、全ておしまいというときには、少量でも売ってくれるのだ。
「残り、全部ください!」と言って計ってもらったら、600Gであった。
しめ、しめ、1KG買わなくてよくなったので、嬉しい。
(1kg4000円の品であったことも嬉しい。)

体長10CM程度の海老で、家で数えたら、27匹であった。
一本100円弱、高いか、安いかどうだろう。
取り敢えず、もったいないから、洗った後、頭と身と離してそれぞれを凍らせた。
うち3匹ほど、頭が取れやすいものがあった、これは、少し悪くなりかけているのだろう。
花火のお寿司の具に何匹か使ったので、頭が残り、それをビニール袋に入れておいた。
24時間経って、その袋を見ると、新鮮だった頭から、黒い汁が出ていた。
脳みそが腐ってしまったのだ、海老の味噌は腐りやすいと聞いていたが、冷蔵庫に入れておいてもこんなに早いのかとびっくりする。

冷凍するまでもないときは、煮ておいた方がまだ日持ちするかも知れない。(日持ちというより、時間持ちですね)

食材の本によると、車海老も養殖が進んでいるとか。
やっぱり、養殖物より、天然ものの方が美味しいだろうが、きっと、良い値段だろうと思う。

今度の休みに、素麺の具にするのと、アボガドと和えてサラダにしようと思う、楽しみ、楽しみ。



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1999年08月06日(金)

江戸前なにぎりたち 1/2


余所の地方でもそうかも知れないが、東京において、にぎり寿司というのは、特別人気がある。
やはり、握り寿司発祥の地だから、「お寿司」といえば、「にぎり」が当たり前である。(と、私は思っている)

我が家なぞも、ちょっとお客さんが来た時、ちょっといいことがあった時、ちょっと疲れたときなど、「じゃ、今日は、お寿司の出前を取ろう」ということが多かった。
また、江戸っ子の父は、飲みに行った帰り、寿司折りを1つ握ってもらい、おみやげに持って帰ってくることも多かった。
寿司の折りで、子供たちが一番最初に好きなものを取っていいのだ。
こういう食べ方も楽しい。
(私も甥たちに、ノリエットの18個入りのプチガトーを買ってきて、選ばせるのが好きである。
本当に、子供たちの楽しそうな顔をして、色とりどりのケーキに目を奪われて、夢中で「どれにしようか」迷う姿が可愛い。)

そんな環境で育っているから、お寿司は大好きであるが、話しが「江戸前」ということになると、自分のお寿司歴を振り返って「あ〜、参加する資格がないな」と思う。

我が父は、24才で、戦争で、家が焼かれ、祖父も過労で死んでしまった家の長男なのだ。
一生懸命働いても、養うべき人の数が多かったから、高いものをごちそうしてくれることは、少なかった。
取引の関係で、だいたい、出前を頼む寿司屋は決まっていた。
なぜか注文は父が直々寿司屋に電話していた。
家族に注文させるときは、「いつものをお願いします、と言え」と言っていた。

いつも、お客さんに、「ここらへんは、いい寿司屋がなくて」と言い訳しながら、出前を出していた。
私たちにごちそうしてくれるときも、「今日は、あの寿司屋にしては、ましだ」とか、言っていた。

子供たちも大きくなり、余所で美味しい寿司屋で食べる機会も多くなり、一言で、「にぎり寿司」と言っても、世の中には、ピンからキリまであることがわかってきた。
確かに、家で取ってもらう出前は、下の方だった。
なるほどね、我が家の方には、良い寿司屋がないのだと心から信じていた。

で、父は死んだ。
その後、2、3か月は、葬式の疲れもあったのだろうが、出前をとることが多かった。
ある日、いつもの寿司屋に、「いつもの」と言わずに、「上を」と言ったら、なんと、ちゃんと世間並みに良いお寿司が届いたのだ。

皆、その寿司を見てびっくり、今まで、余り良くない寿司しかできない寿司屋だと思っていたら、父が「上」があることを内緒にしていたことが、わかったのだ。
(そりゃそうです、もし、私たちに、「上」と「並」どちらにする?なんて聞いたら、絶対、「上」というに決まっているから)
我が父は、家族皆になるべく回数多く奢るために、「ここいらへんには、いい寿司屋がなくて」と言いながら、並をずっと取っていたのだ。
確かに、寿司を7人前くらい取るとお金はかかるものね、ただで食べられるなら、並だって十分美味しかった、と、お寿司をおごってくれる人がいなくなった現在、しみじみそう思う。
父の変な苦労というか、嘘というか、芝居が死んだ後にわかって、皆、父の生前を思い出して、苦笑いをした。
(本当に、心から苦い笑いだったのだ。)
確かに、しょっちゅう家族にお寿司を奢るのは、お金がかかるものね。

以上が、私が、江戸前のお寿司を語れないかの理由です。
環境が悪かったのだ。(笑)
でも、やっぱり、お寿司というのは、家計を圧迫しないで、気楽につまむのが、正しいお寿司の食べ方だと思う。



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1999年08月07日(土)

江戸前なにぎりたち 2/2


江戸前を定義するのは、私にとっては、とても難しい。
この話題を書くにあたって、「江戸前の鮨」(浅草弁天山美家古 内田栄一著)という本を読んだが、やはり、よくわからない。
ものの名前なんて、そのとき、大衆に受けたものが定着しただけの話しで、その名前ができてから、時が経てば、経つほど、何故、その名前がついたのか、わからなくなるものだから。
にぎり寿司が考案されて、今までのお寿司との違いを明確にするために、それから、使っていたネタが江戸城の前の海で取れたものだから、こういう名前になったのではないか。

今の時代、江戸前の名店というと、グ〜ンと、値段が高くなって、一人前7千円から1万円は当たり前のようである。
当然そういうお店、すなわち、数寄屋橋次郎、銀座の小笹寿司、浅草弁天山美家古などには行ったことはない。
浅草弁天山美家古については、先代が書いた本を2冊読んだ。
それによると、お寿司のネタは、新鮮であるばかりでなく、下ごしらえが大切なようだ。
江戸時代、冷蔵庫のない時代に、買ってきた魚をなるべく長い間、美味しい状態に保つために、酢でしめる、蒸す、煮る、汁に漬け込むというような技術が発達したのだろう。
そういう昔乍らの技術を持っているお寿司屋さんが、「江戸前」と言われるようだ。
弁天山美家古の本によると、「今の時代、冷凍・冷蔵の技術が発達したので、決してネタの下ごしらえは、必要ではなくなったが、技術がなくなるのが嫌なので、続けている」と書いてあった。
これは、そういう点もあるかも知れないが、やはり、ちゃんと、昔乍らの下ごしらえをした方が、美味しいからなのであって、作者の照れが書かせた文章かなと思う。
江戸前といわれるネタは、穴子・煮た海老・煮イカ・コハダ・玉子焼き・マグロの赤身のヅケなどかしら。
確かに、飛びっきり新鮮のネタは、ごちそう的な美味しさがあり、これもやめられない、ただ、最近、築地の龍寿司に何回か行って、落ち着いたお寿司の美味しさがあるということに気づいたのだ。
その話しは、また、明日。



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1999年08月08日(日)

築地龍寿司 2/2


この前から、龍寿司に通っている。
昨日で3回目であった。

初めのときは、3千円の上を取ったが、2、3回目は、2千円の並にした。
結論から先に言うと、2千円の並を取ってから、好きなものを2,3個追加するのが、この店のお寿司にあった食べ方だと思う。
3千円の上の構成は、大和に似ていて、どうしても、大和と比べてどうかということが頭から離れず食べるのだが、2千円なら、大和を意識しなくて済む。

並は、一回目が、トロ・イカ・帆立・コハダ・ハマチと名前を忘れたが白身・穴子に、カッパ巻きと鉄火巻きを半々だった。
二回目が、トロ・イカ・鰯・帆立・カツオ・カンパチ・蝦蛄(シャコ)にカッパと鉄火であった。

(マグロ・イカ・貝・光物・シャコか穴子、それに刺し身系統が2つく程度の並びがこのくらいの並びが心地よいかも知れない。)
これに、何か好きなものを食べる食べ方がとても気に入ってしまった。
お気に入りは、ハマグリと新子、両方とも地味な美味しさだが、確実に美味しい。
ハマグリは、柔らかい、お吸い物ほどのハマグリの強烈な味や香りはしないのだが、そこはかとなく、ハマグリの味がする。
新子は、子供の魚の味だ、癖が少なく、身も皮も柔らかい。
酢の〆方も薄く、味も感触もフワフワしているうちに、終わってしまう。

大和のネタは、新鮮で豪華、なんていうのか、並んでも食べる価値があって、ごちそう的なのだ。

その点、龍寿司は、その派手さがなく、じんわり、しみじみ美味しいのだ。
第一、店が開いていればいつでも食べられるし、食べ飽きないし、なんていうか、落ち着くのだ。
大和の上だと、ネタの構成が驚きの連続というか、これでもかとこれでもかと「飛び切り」が続く。
龍寿司の並だと、なんとなく、ネタの構成に落ち着きがあり、一定のリズムで美味しさが連続するのだ。

この前、CEFANで、お寿司を食べたくなるときはどんなときですかという質問が投げられたが、一番多かったのは、「頑張った自分に対するご褒美」という答えだった。
私も忙しかった週が終わって築地に行くのは、疲れ回復のためかも知れない。
そのとき、私にとって、「癒し」を与えてくれるのは、龍寿司の方だ。



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1999年08月09日(月)

アイスクリーム 1/2


最近、図書館でお料理の本を借りるようになった。
今までむやみやたらに買い揃えていたけれど、もう、本箱がパンク寸前だし、経済的なこともあって、図書館で借りている。
その中で、山本麗子さんのお菓子とお料理の本を借りた。

お菓子の本に、電動ミキサーで作るアイスクリームが載っていた。
これによると、アイスクリームの作り方でタネを仕込んで、1時間冷凍庫で冷やし、固まり出した時に取り出して、電動ミキサーでかき混ぜる、それを3、4回続けると、アイスクリームが出来上がりとのこと。
フム、フムと感心する。

ただ、実用は難しいかなと思う。
スペースを取らないで、冷凍庫に入れることのできる、余り広がらない縦長のボウルを探すのが難しそうだと思う。(喩えて言うなら、ハーゲンダッツの大きな円筒形の箱のような形。そうだ、もしかしたら、ハーゲンダッツの円筒形の箱なら、1,2回は、アイスクリーム作りの道具になるかも知れない。)
その難点をクリアすれば、この方法は設備投資にお金をかけずに済むので、最高にいいのではないか。
料理の本には、山本麗子さんが使っているボウルの写真が載っているので、参考にして、捜し求めるのも面白いかも知れない。(101の幸福なお菓子 講談社 P44)
ただし、実際にかき混ぜているときのボウルは形は写真でははっきりわからない。
冷凍庫がガラガラの人はどんなに大きなボウルも使えるだろうが、普通は、縦長で、なるべく場所を取らないボウルでないと、冷凍庫に空きスペースを作ること自体が無理で、実用不可能かと思う。

私は、去年の夏、デロンギのアイスクリーマーを買い求めたので、その手の工夫をする必要はなかった。
去年の秋、きれいに洗ってしまったつもりだったのに、久々取り出してみたら、内側にぽっかり穴が空いて、使い物にならなってしまったのだ。
デロンギさんに連絡したら、親切で、取り替えてくれた。
そこまでは良かったけれど、新しいアイスクリーマーは、去年のものに比べて、冷えが良くないようで、時間がかかる。
前は、20分でそこそこのアイスができたが、現在は、20分ではねっとりまで行かない。
20分モータを動かしたら、3分休ませてくださいと説明書にあるので、山本麗子流を真似して、デロンギのアイスクリーマーの蓋やモータ部分を外して、電動ミキサーを入れてかき混ぜてみた。
中々、これは便利である。
電動ミキサーの方が、回転スピードが早く、ボウルさえ手に入れば、絶対にこの方法を研究すべきである。

お菓子を作る人は、たいてい電動ミキサーを持っているから、どこかの道具屋さんで、この電動ミキサーでアイスクリームを作るのに適したボウルを売り出したら売れるのではないか?
どん冷えという手動もあるが、疲れるし、デロンギは高い。
きっと、売れると思うのだけれど。



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1999年08月10日(火)

アイスクリーム 2/2


今年は、会社が忙しくて、アイスクリームを中々作れない。
それでも、毎週1種類ずつ、3回作った。
やっぱり、自家製のアイスクリームは絶対に美味しいからお勧めである。
どこが違うのか考えながら、作っている。
まず、自家製の方が粒子が粗いのではないか、だから、食べたときに、冷たい部分が大きく口に当たって、口の中の温かさで溶けて行く、それが、市販のアイスより、粒が大きいからダイナミックに感じられ、冷たさと甘さを多く感じることができるのではないか。
それに、どう考えても、市販のアイスは高い。
あの値段は、工場代と電気代(アイスクリームを作ってから売るまで凍らせておかなくてはならない)である。
自分で作れば、添加物の心配はないし、安い。(でも、デロンギを買ったら、償却まで、何年もかかってしまうが)

今年初めて作ったのが、凍らせておいた苺で作った苺アイス、二回目が、バニラアイス、この前がココナッツアイスクリームである。
今年初めての苺アイスを甥たちに小さなボウルに入れて渡したら、大人になぞ何も残さず、何の遠慮なく、無心に、「うめ〜」と雄たけびを上げながら、全部食べてしまった。(おばちゃんは、「私も食べたかったのに!」という気持ちより、「お腹は壊れないか」「おねしょして、おかあさんに怒られないか」それが心配であった。)
甥1は、誰に言われるでもなく、本当に、食べている途中で、立ち上がり、ゴリラのように、胸をこぶしで叩きながら、「うめ〜」と言った。
表現は下品だけれど、「そこまで反応してくれなくても...」と喜ぶ私であった。

アイスクリームのレシピは、また、後日。(なんて言っていると、あっという間に秋ですね。)



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1999年08月11日(水)

ありがとう


去年の8/12にスタートしたこのエッセイも、今日でまる1年、エッセイの数としては、364個目になる。(1日サボった日があるのだ)
明日はエッセイのお誕生日なのだ。
過ぎてしまえば、1年なんてあっという間だなと思う。

この1年間で、エッセイを始め、MLを立ち上げた。
なんていうか、ようやく1年を迎えられたという気もするけれど、正しい言い方は、「このエッセイとMLがあるおかげでどんなに助けられたか」ということだ。
朝早く会社に行って夜遅く帰ってくると、カウンターが20から40程度あがっている。
誰かが私のHPを見に来てくれているのだ。

私のHPに関して、この1年、色々な方からリンクを頼まれたが、そのとき、たいていは、「合羽橋情報が素晴らしいので」といわれることが多く、エッセイについての反応は殆どない。
否、一度、「素朴な文章が胸を打つ」と紹介しているHPを発見して、「誉め言葉かよ!」と、自分の文章のつたなさを棚に上げて、ブーたれたこともあった。
でも、殆ど反応がなくても、確実に毎日カウンターはあがり、誰かが私のつたないエッセイを楽しみに読みに来てくれているような気がして、とても、嬉しかった。

会社で多少嫌なことがあっても、HPを持っている、自分の思い通りを表現できるインターネットがあって、本当によかったと思う。

これから、どうしようか、考えている。
このまま、エッセイを続けていくか、もしくは、今までのエッセイを整理して、料理のページ、台東区の案内、築地の案内に仕上げていこうか、迷う。

まだ、構想は、固まっていないが、やっぱり、人が見に行きたい、ブックマークしたいと思うようなHPを作っていきたいと思う。
エッセイを続けられるか否かは、マンネリ化しない話題がまだ出るかどうかにかかっているけれど、どんなものだろう?

読みに来ていただいている皆様、心から感謝しております、今後とも宜しく。
取り敢えずは、お礼まで。



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1999年08月12日(木)

カレー


カレーは、今でこそ、インドカレー、タイカレーもあり、レトルトもカレールーもある。
現代では、固形のカレールーを入れるだけのカレーが当たり前とのこと。
でも、我が家は、カレー界のガラパゴス諸島、世の中のカレーの進化についていけず、昔ながらのカレーを作っている。
インドカレーを作ることはあるけれど、やっぱり、カレールーのカレーは美味しくないので、自然と買わない。

そもそもカレーを食べる回数がそんなに多くない家だから、このカレールーなしで、小麦粉を炒めるカレーをこなすことができるのかも知れない。
(小麦粉を炒めるのは面倒、カレールーは口に合わない、で、食べる回数が少ないのかも知れない。)

我が家のカレーは、我が家が商売で中華料理屋に商品を入れていたときに、配達に行った父親がそのお店で習ってきた作り方である。
カレー粉は、SBの赤い缶が定番だ。

今回は簡単に書くけれど、小麦粉をフライパンに油無しで、炒るのだ、炒った後、カレー粉も加える。
カレー粉の良い香りがしてきたら、新聞紙に広げて、冷ますのである。
同時に煮てあった野菜や肉のスープの中に冷めたこの小麦粉とカレー粉を入れて、かき混ぜ、塩味を調整して出来上がり。
スープは、鶏がらで取ることが多い。
忙しい時なぞ、野菜と一緒に鶏がらを入れて、出来上がる前に骨を取り出している。

私が作ると、この油無しのフライパンで小麦粉を炒ることが恐くて、つい油を入れて炒ってしまう。
それでも味はそんなに変らない。

甥たちは、カレーというだけで、嬉しいようである。
この初夏から、火曜日と土曜日に柔道を習い始めた。
場所は、バスで行かなくてはいけないところなので、まだ、小さい二人に親がついていくことになる。
当然、帰りは夕方になる。

ある日、甥2が、おばあちゃんにニコニコしながら言った。
「あのね、柔道習ったらいいことがあったんだよ。
柔道の日は、夕飯がカレーになったの。僕、嬉しくて嬉しくて。」

そんなにカレーは美味しいものなのだろうか。(因みに甥たちの家のカレーは、カレールーのカレーである。)

私の小さい頃、我が家は、決して子供用のカレーなぞ作ることはなかったので、そんなにカレーは好きではなかった。
もう、インスタントカレールーなぞ売られていたが、我が父は絶対にその手のものを使うことなく、頑なに自分が美味しいと思うカレーだけを作って食べていた。
子供にも、「水を飲んでもいいし、カレーをちょっとにして、ご飯をたくさんにしたら食べられるだろう」と、決して、子供に迎合することはなかった。
子供の多い親戚でたまに食べるインスタントカレールーのカレーが美味しくもあり、羨ましかった。
子供に合わせた料理が出てくるなんて、それだけでその家の子供は愛されているような感じがした。

ただ、大きくなると自然に辛いカレーが普通に食べられるようになるのだから、我が父の教育方針(食べ物方針?)も間違っていなかったような気がする。
フランスで育った友人の家でも、絶対に子供用のおかずや子供用に甘い料理を作ることはないと言っていた。
「大人が美味しいものは、子供にも絶対に美味しい筈だという信念があるんだ」とその人は言っていた。
自分が大人になってみて、その方がいいかなと思う。
因みに、私が甥たちのために料理を作る時は、食べやすくて、彼らが好みそうなものを作ることはあるけれど、特別味を変えたり、お子様用のものを作ることは全くない。
(やはり、人間、親に習ったことを真似て生きるものである。)



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1999年08月13日(金)

映画


妹が甥たちを、夏休みプレゼントとして、「スターウォーズ」に連れて行ってあげた。
招待券でも持っているのかと思ったら、自腹を切って連れて行ってあげたそうで、心から、「エライナ」と思っていた。
大人に映画に連れていってもらうのは、何となく楽しかった思い出がある。

帰ってから聞いたところによると、映画館で、まず、「パンフレットを買って」というので、パンフレットを買ってあげたそうだ。
映画を見終わったら、出入り口のところに、魅力的なグッズの売店があったそうで、当然ながら、甥たちは、それも買ってくれとのこと。
妹は、その後、お昼をごちそうしようと思っていたので、断ったら、甥2が、「まりだったら、買ってくれるのにな!」と言ったそうである。
この一言が妹の胸に、グサーっと突き刺さり、思わず、血と涙を流しながら(笑)、欲しがる物を買ってあげたそうだ。
「私は私!」と甥たちには言い切れないところを見ると、やはり、妹も相当甥たちが可愛いようだ。
また、その後は、予定どおり、銀座の不二家でペコちゃんランチとビーフカレーを奢ったらしい。

帰ってきて、その話しを聞いて、私はニヤニヤ。
どうしてもそのグッズが欲しくて、子供なりの知恵で、咄嗟に出た言葉かも知れないが、私の方が気前がいいと彼らに思われていることがわかった。
確かに、私の方が、お菓子を買ってきたり、料理を作ったりして、彼らに度々「食べなさい」と言うことが多いから、気前が良い印象を受けているのかも知れない。
(妹は土日何時間か自室で甥たちを遊ばせてあげるから、時間的貢献度は私より上)

私の料理やおみやげのお菓子より、「甥御一行様映画鑑賞半日ご招待」の方が余程お金がかかるのにと思う。
映画に連れて行けば、軽い食事、パンフレットもきっと買わされるということは想像がつくが、グッズまでと聞いたら、今までだって、映画に連れて行く気がなかったのが、更になくなってしまった。

妹に、「私だって、そんなグッズ、買ってあげないわよ」と答え、「映画に、あの子達を連れて行くなんて、本当に偉い!」と誉めた。
私が、甥たちを映画に連れていって、「グッズはだめ」と言ったら、彼らは、「みんみん(妹の呼び名)なら、買ってくれるのにな!」とか、「おばあちゃんだったら、買ってくれるのにな!」と言うと思う。

自分が小さい時のことを思い出してみたら、私が「この人は良い人だ」と思った人は、だいたい、ニコニコしながら、つまらない交渉なしに、「何か買ってくれた人」「美味しい食べ物をくれた人」ばかりだ。
やっぱり、たまには、甥たちに何か買ってあげようと思う。
(でも、甥たちも可愛いが、自分のお財布も同じくらい可愛いのです。)







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1999年08月14日(土)

お盆 その1


私は、ときどき、本当に自分が、ただ、ただ、美味しいものを口に入れようという行動しかできない人間ではないかと思うときがある。

今年のお盆は、実家が田舎にある母が日帰りで山梨に行くことになった。
お盆は、本当に東京から人がいなくなって、空はきれいだわ、空気はきれいだわ、「東京って落ち着いた都市だったのね」と思える貴重なときである。
ま、お盆に旅行に行けなくても、家で、近所でのんびりした東京を味わいたいと思う。

それなのに、私は、今年の夏は、会社がやたらに忙しくて全く休みが取れない。
でも、この「母が不在」「会社が日曜出勤」をちゃんと楽しみに変えている自分を発見した。

知らず知らずのうちに、母が田舎に帰る土曜日のお昼は、母が嫌いなアイオリオ・ペペロンチーニを、夕飯は、グラタンを作ろうか、なんて考えている。
アイオリオペペロンチーニは、生のパルメザンチーズがなくては、数段味が落ちるので、土曜日の午前中には、上野の松坂屋まで行ってこなくては。
(実は、母が山梨に帰る話しは数週間前から分かっていたので、バージンオリーブオイルは、もう既に合羽橋で入手済み。)
赤ワインに美味しいパンというのもいいわよね。

余談であるが、この前、母にはたらこのスパゲティを作った上に、アイオリオペペロンチーニを作ったのだ。
作ろうと思った途端、オリーブオイルがないことに気づき、太白胡麻油で作ってしまった。
取りたてて美味しいわけではないが、太白胡麻油でペペロンチーニを作っても何ら味の上で問題がないような気がする。

そして、次の日は、あいにく私は、出社なのだ。
しかし、そこは、自然と頭が、食べる楽しみを見つけている。
日曜日に会社に出社したときは、残業はしないであろう、それなら、もう8月も中旬だから、会社が終わったら、すぐさま会社を出て、近くの道路に出ている直販所へ行って、採れたての梨とぶどうを買おう。
その帰りに、下高井戸で途中下車して、ノリエットで、ケーキを買って帰れば、完璧幸せ!なんて、知らず知らずに計画が頭でできている。

何が起きても、どうして、美味しい食べ物のことしか、考えつかないのだろうと、我ながら感心する。
一生、私は、どんなことが起きようと、美味しい食べ物のある方向に向かって、行動するような気がする。
ま、幸せな性格に生まれて幸せだと思うしかない。



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1999年08月15日(日)

お盆 その2


大学生の頃か、勤め始めたばかりの頃、女性の友人と不忍池の弁天様のところを昼下がりぶらぶらしていたことがある。
そのとき、突然、中学生という感じの幼さの残る男の子に話しかけられた。
頭は丸刈りで、顔も丸く、背も小さく、ほっぺたも赤く、いかにも田舎の男の子という感じだった。

その子と、どんな話しをしたのか、詳しいことは忘れてしまった。
覚えているのは、その子は、もう中学校を卒業していて、現在は、田舎から出てきて東京の飲食店に住み込みで働いていること、お休みをもらっても、東京には、家族も友達も親戚もいないので、どこも行くところがなくて、上野に来ることなどだ。
その子は、たまのお休みでもおしゃべりをする人すらいなくて、人恋しくて、ノホホンと楽しそうに歩いている私たちに、つい、声をかけてしまったのかも知れない。
たまたま、話しかけられた子にそういう打ち明け話しをされても、私はどうすることもできなかった。
少し話しをして、「頑張ってね」と別れたと思う。

私は、東京生まれの東京育ちだから、中学校を卒業して上の学校に行かないで就職する子は、身近で見たことはあったが、そんなに幼くして親元を離れて遠くへ働きに来ている子と接したのは、初めてだった。

というより、大人になってから、初めてであった。
小さい時には我が家にも若いお手伝いの人が何人かいた。
考えてみれば、その人たちもその男の子と同じ境遇だったのだと、気が付いた。
幼い私にとっては、社会で働いている人は、一律皆「大人」であって、「淋しい大人」なのか、「淋しくない大人」なのかまでは、見分けがつかなかった。

昔、父親から、「戦前は、お盆と正月になると、奉公人は、故郷へ帰ることができたから、それを楽しみに働いていたものだ」という話しは聞いたことがあった。
戦前は、長いお休みは、「故郷への帰省」で、ちょっとしたお休みのときには、「浅草にレビューを見に行って何か美味しいものを食べる」のが、東京に働きに来ていた人たちの楽しみだったそうだ。
父からそのようなことを聞いた記憶はあったが、その男の子と接してから、「他人の飯を食べる」辛さの中には、「お休みになっても、自分をかまってくれたり、心を許しておしゃべりをする人のいない」辛さも含まれていることを実感した。

なぜか、毎年、お盆の頃になると、「不忍池で会ったあの男の子は今頃どうしているだろう」と思い出す。
あの頃、あの子は行くところがないと上野に遊びに来ても、否応なく目に入る家族連れの姿に、「なんで、世の中にはずっと家族と楽しく暮らせる人と、僕のように家族と離れていなくてはならない人がいるのだろうか」と、きっと、思った違いない。
昔、集団就職の子の集まりであった「若い根っこの会」とかに入って、無事、都会での淋しさを乗り切って、今頃、東京にお店を開いていたらいいなと思う。

そう言えば、先週、築地に行ったら、どこの店にも「帰省みやげ最適品」と張り紙がされた商品が並んでいたっけ。
きっと、東京には今でもあのような淋しい少年が沢山いるに違いない。
私は何もしてあげられないけれど、是非、友達を作って、頑張って欲しいと思う。



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1999年08月16日(月)

寅さん


私は大阪に3年暮らした経験がある。
会社の中の女性はほぼ関西の女性であった。
何人かとおしゃべりしていて、「東京の人は、大阪人というと、テレビの影響で、漫才師のようなイメージを持っているでしょう?でもそれは間違いよ。漫才師は芸人で、普通の大阪人は漫才師とは全然違う」というようなことを、関西弁で教えてくれた。
その他、「大阪弁と一口に言っても、世代によって使う言葉が違う」ということも教えてくれた。(そりゃそうですね)

関西の人も声を大にしてまで言わないけれど、何かのときには、「関西人は、漫才師とは違う」と言いたくなるのだろう。
私もそれと同じ思いを、フーテンの寅さんに持っている。

2,3か月前に、テレビで東京下町の人気投票を見た。
一位が浅草、二位が柴又、三位が上野であった。
「男はつらいよ」という映画ができる前だったら、上野が二位だったろうと思う。

この映画はとても国民的といおうか、本当に人気があるし、けちをつける気もないけれど、割と下町の人間にとって、迷惑なところがある。(と私は思っているし、インターネットで知り合った台東区出身者と話したときに、やはり、「寅さんと下町は別物なのよね」「そうなのよね」と話したこともある。)
私からすると、寅さんは下町を代表していないし、あの映画に出てくる雰囲気は、下町とは違うと違和感を持ってしまうのだ。
それなのに、「下町出身」というと、「あ、寅さんが住んでいるようなところで育ったの?」というイメージをもたれてしまうことが、当たり前のように起こる。
寅さんの映画の中に描かれている、諸中、揉め事があったり、隣のタコ社長とつかみ合いのけんかをしそうになったり、近所の人が色々心配したりという雰囲気は、私の持っている「下町」というイメージと全然合わないのだ。

我が家の方の下町に長く住むコツの第一は、よそのことには干渉しないことなのだ。
長く同じところに住むのだから、人様は人様、うちはうちという割り切りがないと、難しい。
色々、心を打ち明けて仲良くなっても、何か意見が食い違って仲違いすることだって考えられる。
そんなこんなで、住みにくくなるより、よそ様には、よそ様の事情がありというところで、徹頭徹尾、お互いの家庭のことには口出ししないことが当然の礼儀である世界だと思う。

昨日、図書館で、矢島せい子という方の「日本の食べ物よもやま話し」という本を借りてきた。
推薦の辞を読むと、どうも、この人は、故沢村貞子さんのお姉さんなのだ。
(ということは、生まれも育ちも浅草の方らしいのです。)
甥の津川雅彦さんのところに、「よく下町情緒や下町の近所づきあいの良さを『いいね』という人がいるけれど、伯母なんか、下町の人情の濃さに辟易している感じがあったね。
間違っても、よその家のことをとやかく言うことはなかった。
その点は、もう一人の叔母、沢村貞子も同じだった。」と書いてあり、それを読んだら、つい、いつも心の中に思っている寅さんへの不満を思い出してしまった。
下町は人情が濃いというが、それは、やはり、よそ様のことをとやかく言わない範囲 であるとしか、言いようがないと思う。



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1999年08月17日(火)

グラタンの思い出


お盆の土曜日に母が不在だったので、久々、海老グラタンを作ってみた。
私の母は、牛乳系のおかずがだめなので、最近は海老グラタンが作れないでいるが、実は、私の得意料理なのだ。
(だいたい、グラタンでご飯を食べようと思うほうが間違っており、グラタンはグラタンで食べて、足りなかったら、タラコでご飯を食べてくれと私は言いたいのだが、どうも通じないのである。)
昔、ガスオーブンが出回った頃、海老グラタンを家で作りたくて、オーブンを買った人も多いのではないかと思う。(その一人が私です)

小学生のとき、不二家かなにかで、海老グラタンを食べて、やたらに感激した覚えがある。
「世の中にこんなに美味しいものがあろうか、是非自分で作れるようになって、思う存分食べてみたい」という感じであった。

その後、自分で作るのに、色々研究をしていた。
それなりに美味しくできるようにはなったが、でも、得心が行かないうちに、家人の好みで、余り作れなくなってしまった。

よそで食べる海老グラタンでは、やはり、上野松坂屋の銀サロンの海老グラタンが自己最高で、長年、トップの座に君臨している。
(銀サロンは、お好み食堂より、1ランク上の洋食専門店)
銀サロンの海老グラタンは、どうやって作るのだろうといつも不思議である。
同じように作れたことがないのだ。
特徴の第一は、ホワイトソースが緩いことだ。
洋食屋で海老グラタンを注文すると、ホワイトソースが糊のようだったりすることもあるが、銀サロンのホワイトソースは、一度たりとも、そのようなことがなかった。
緩やかなおかつクリーミーである。
銀の薄い楕円形のお皿で出てくる。
適度に焦げ目がついていて、チーズの味もちゃんときいていて、美味しい。

今、流行のザガットサーベイ東京レストランガイドにも、上野松坂屋銀サロンが、「正統派の洋食の味」と紹介されいて、嬉しい。

過去二回ほど、色々なMLで、「上野広小路に来たら、食べるべきもの」として、銀サロンの海老グラタンを挙げたが、二回とも、地元から、「私も好き!」という声が上がった。
地元では、グラタンといえば、松坂屋なのである。

ずっと長らく同じ味ではあるが、2つ、昔と違っていることがある。
昔は、本当に長いマカロニだったのが、最近は短くなってしまったのだ。
私も一度でいいから、あの長いマカロニでグラタンを作ってみたいと思っていたが、明治屋等で、最近は長いマカロニは、売っていないようである。

もう一つは、海老が小さく美味しくなくなったことだ。
むかしは、こ〜んなに大きい海老が乗ってきた。(と言っても、見えませんね)
でも、日本全体の海老の質が落ちるのに、ちゃんと比例してしまったようである。

その他は昔と変わらない味で、お勧めです。
上野広小路のほうに来られることがあったら、「上野松坂屋の銀サロンの海老グラタン」を一度ご賞味くださいね。



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1999年08月18日(水)

読書


甥1の夏休みの宿題は、後、読書感想文を一つ残すだけとなったそうだ。
なんでも、夏休みに3冊本を読まなくてはいけないそうで、私がお正月に買ってあげた「ガリバー旅行記」と、なんだか知らないが「サッカー物語」は読んだそうだ。

「もう一冊何か本はない?」とのことで、妹が、「私、『ノンちゃん、雲に乗る』を持っている」と答えた。
甥1の反応は、ただ、一言、「その本って、短い?」だった。

この甥1の率直かつ素直な答えに、おばちゃん二人は、ズリッとのけぞったが、すぐ気を取り直し、「そうか、そうか、甥1ちゃんの読書は、宿題のための読書で義務だものね、好きで読むわけではないのだから、面白いより何より、簡単に読めた方がいいんだよね。」と答えた。
甥1は、「当たり前」とばかりに真面目な顔で大きくうなずく。
妹は、甥1に、「そんな面白いこと言ったら、まりに、インターネットの作文に書かれちゃうよ」と言いながら、部屋までわざわざ『ノンちゃん雲に乗る』を取りに行ってきた。

『ノンちゃん雲に乗る』を甥1に声を出して読ませてみると、初めの一行めの「東京都」にフリガナがふっていないところでひっかかり、この本は小学校3年生にはまだ早いということになった。

『ノンちゃん、雲に乗る』は、どんな内容か殆ど忘れてしまったが、確か、「休みの日の朝、布団の中で目が覚めると、「トントン」とお母さんが、大根を刻む音がして、今朝の味噌汁は、ノンちゃんの好きな大根のお味噌汁だとわかる」というような描写があり、ここの部分が大好きである。

おかあさんが大根をトントンと刻む音を聞きながら、寝床でウトウトするのって、幸せだわよね、と思う。

古き日本の温かい家庭を描いた名作です。



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1999年08月19日(木)

グラタンの作り方感想


今、割と仕事が忙しいので、作り方を書いている時間がとりにくい。
詳しいことは、後日、涼しい季節になってからにする。

先日、久々、グラタンを作って、「やっぱり、私はグラタンを作るのに、馴れている」と思った。
昔、昔、グラタンを手際良く作る人を見ると、「すごい!」と思って憧れたが、馴れてしまえば、それだけのことだなと思う。

出来立てのグラタンというのは、どうして、こうも美味しそうなのだろう。
グツグツ言って、白い表面の所々にチーズの焦げたところがあり、そこを食べる時の美味しさをつい想像してしまう。
また、所々、熱でフツフツと盛り上がっては平面に戻るホワイトソースも食欲を沸かせる。

私たちがほぼ食べ終わった頃に、食事を済ませて遊びに来た甥2にグラタンの残りを少し食べさせてあげたら、「美味しい!」「もっと!」と、やたらに受けていた。
「いつものより美味しい!」と言うので、「甥2ちゃんは、どこでグラタンを食べたことがあるの?」と聞いたところ、「給食!」との答えで、がっかりしてしまった。

給食と比べて美味しいと言われると、それは、「あなたの方が材料が高級なのだ」と言われたような気がする。

別に取りたてた材料を使ったわけではないけれど、わざわざ浅草まで、牛乳は「乳脂肪4.3%生乳使用」を、チーズもちゃんとパルメザンの生を買ってきた。
(グラタンには粉チーズでも良かったのだが、スパゲティ用の生が残っていたのだ。)
惜しむらくは、カルピスバターが切れていたので、普通のバターにしたところだが、生クリームの冷凍があったので、ちょっと足したし、乳脂肪の品質ということでは、中々良い線を行ったのではないかと思う。

私が思うには、グラタンを作る時のコツは2つあると思う。

1.ホワイトソースにちゃんと味をつけること
  例えば海老をたっぷり使うなら、それで味は補えるかも知れないが、海老を少し
  しか入れない(入れられない)場合、コンソメスープの素をすりおろして入れ
  たり、ベーコンを少し入れた方がいいと思う。
  しかし、濃すぎるとこれはこれで美味しくないのだが、牛乳とバターと小麦粉だ
  けのホワイトソースでは物足りない。
  また、海老を炒めたら、ジュッーと、白ワインなぞをふりかけ、その汁もちゃん
  とホワイトソースに入れるのだ。

2.ホワイトソースの2/3でマカロニを和える
  1はすべてのレシピに書いてあるわけではないが、2は、どこにも書いてあります   ね。
  やっぱり、グラタンは、ホワイトソースの美味しさで食べるものだから、マカロニ
  と和える以外に残しておき、最後表面をホワイトソースだけで覆った方が美味
しい。
  ときどき、街でただホワイトソースと和えただけを焼いたグラタンを食べること
  があるが、これは、とてもがっかりする。
  取り敢えず、ホワイトソースでたっぷり表面を覆い、粉のチーズとパン粉を振っ
  て、所々にバターを置いて、オーブンのグリル機能で、10分程度焼いて様子を
  見る、こんがり、焼けて、グツグツ行っていたら、出来上がり。
  グツグツ言わないようだったら、時間延長。

私が良く作っていた頃の最後は、このホワイトソースの上に茹で卵の輪切りを置き、パブリカをかけていた。
これも中々美味しい。

しかし、作りながら、グラタンは、なんと、乳脂肪たっぷりの料理だろうと作りながら、食べながら、飽きれる。
容器に塗るバター、物を炒めるバター、ホワイトソースの中には、バターと牛乳。
おまけにグリルに入れる前に、また、バターだ。
その上、チーズをかけるのだ。
毎日こんなものを食べたら、太ってしまう、我が家にグラタン嫌いがいるというのは、私の健康のために良いかなと思った。

ホワイトソースの作り方はまた後日。
また、ホワイトソースにスープを入れてゆるめて、グラタンを作った方がいいかも知れないので、今度、実験してみる予定。





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1999年08月20日(金)

アーリオ・オリオ・ペペロンチーニ


この変な名前のスパゲティを食べ出したのは、いつだったか、覚えていない。
日本名でもできればいいのに、なぜか、「ペペロンチーニ」と略しているようだ。

このスパゲティをよく食べるようになったのは、大阪にいた頃だった。
会社のある淀屋橋に高島屋が経営しているテナントビル(昔は、サンローゼ高島屋だったけれど、途中で名前が変ったような憶えがある。)の2階に、スパゲティのお店があって、そこでよく食べていた。

どこのお店でもそうだけれど、自分たちの出している料理の美味しさに自信を持っていて、且つ親切な人がいるお店がいい。
そのお店のお姉さんは、まさしくそういう人だった。
私が初めてペペロンチーニを頼むと、おろしたパルメザンチーズの入った容器を持ってきてくれた。
「ペペロンチーニは、生のパルメザンのすったものをかけると、美味しいわよ」のことである。
試してみる、チーズは大好きなので、たっぷりかけて、熱々のスパゲティとオリーブオイルと和える。
「美味しい!」というしか言いようがなかった。
チーズをかけないペペロンチーニは、お蕎麦で言ったら、海苔のかかっていないもりそば、チーズをかけたペペロンチーニは、海苔のかかっているざるそば、そんな感じだ。
スパゲティ・赤唐辛子・オリーブオイル・にんにくだけの料理なので、素朴なのだが、大変美味しい。
そこにパルメザンのすりおろしをかけて混ぜると、チーズもにんにくと赤唐辛子の香りの移ったオリーブオイルが見事にスパゲティに絡まり、益々美味しくなってやめられなくなる。

そこのお姉さんは、本当にいい人で、いつもペペロンチーニばかり頼み、しかも、チーズは、容器の半分以上はかけてしまう、余り上客でない(否、まるで、上客でない)私に、毎回、嫌な顔をしないで、たっぷりのチーズを持ってきてくれて、毎回、「チーズをかけると、本当に美味しいでしょう!」と言った。

このお姉さんの優しさと気前の良さは、大阪で一人淋しかった私に、潤いを与えてくれた。
料理って、料理本来の美味しさもあるけれど、それをサーブしてくれる人の気持ちが加わってこそ、美味しいのだと思う。
「大阪で一人で頑張って大変でしょう」と10回心配してくれるより、気持ち良く美味しいペペロンチーニを提供しようとするお姉さんの行動一回の方が、私には、価値があった。

東京に帰ってから、余りイタリア料理やスパゲティを外で食べることもなくなってしまった。
たまに、スパゲティ専門店に入ることもあるのだが、ペペロンチーニに関しては、当たりはずれがあるようなだ。
単純な料理だから、自分で作るようになったこともあるが、東京に帰ってから、「ペペロンチーニはここ」というお店を見つけていない。(上野・浅草方面は、スパゲティはいいお店がないような気がする。)



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1999年08月21日(土)

オシャレ


年を取ったせいか、街でみかける女性が花に見える。
あるタイミングで、一斉に女性の着ている洋服の色が変るからだ。
「花」というより、「花屋さんの花」という方が正しいかも知れない。
どの子がきれいで、どの子が普通なんていうことは関係ないのだ。
黒が流行ったときは、若い女性は、皆、一斉に黒い洋服になり、グレーが流行れば、皆、一斉グレーになる。

若い女性は、流行によって色が変るのだ。
自分が若い頃は、そんなことを全然思わなかった。
若い時は、自分と同じ世代しか見ておらず、自分が、若い同世代と同じ色かどうかだけを確認しながら、生きていたのかも知れない。

私はだいたいにおいて根っからのオシャレではないのだ。
もし、お金持ちで、広い家を持ち、大きな衣装部屋を持ち、コーディネーターも雇って、しかも洗濯をしたり、洗濯屋にこまめに衣服を持って行ってくれるお手伝いさんがいたら、私もオシャレになれるのに、と思う。
オシャレでない、というより、生活が忙しいから、面倒なのだ。
しかし、本当にオシャレな人はどんなときでもオシャレだから、私の場合、根っからのオシャレではないのだろう。
若いときは、暇だったから、それでも、オシャレであった。

昔、我が家は商売の関係で、歌舞伎座とか、明治座への観劇ご招待の切符が手に入ることがあった。
平日が多かったので、殆どは、余所に回されていたが、ある春休みの平日、私がお休みだということで、私に切符が回ってきた。
一緒に行ったのは、目黒の伯母さん(父の姉)であった。
歌舞伎座の前で待ち合わせると、伯母さんは、会うなり、嬉しそうでしかも恥ずかしそうに、「今日は、まりちゃんに恥をかかせちゃ悪いと思ってオシャレしてきたわよ」と言った。
「それはどうも有難う、おばちゃん、その洋服素敵ね」と言ったものの、どうして、私がオシャレでない人と一緒に劇を見ると、恥になるのか不思議であった。
(オシャレな人が少ない地域に生まれ育ったせいでそう考えるかも知れない。)

それから時はずっと過ぎて、自分が年を取ってから、相当年の離れた、若い従姉妹と待ち合わせることがあったが、その時の私は、歌舞伎座で見た伯母のような反応をしてしまった。
その若い従姉妹と歩くのだから、オシャレとまで行かなくてもきちんとしなくてはと、思ってしまったのだ。
仮に、私がむさ苦しい格好をして、若くて年頃の従姉妹と、銀座を一緒に歩いたとしても、「若い女性が変なオバサンと歩いている」と誰も思わないとは思う。

「自分が若くなくなる」ということの中には、若い女性と一緒に歩く時、「負けたくない」という競争心ではなく、自然ときらびやかに輝く女性の輝きを汚さないように、少しでもふさわしいような格好をしないと、悪いような気になることが含まれていることがわかった。
こういうことを若くない女性に思わせてしまうところが、若い女性が自然と持っている力なのかも知れない。



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1999年08月22日(日)

私の夏休み その1


今年は忙しくて、日曜日すらろくに休めないので、夏休みなぞ、夢の夢だ。
そんな中、妹は香港へ、弟一家は、沖縄へそれぞれ出かけてしまった。
(なんと、東シナ海の方面が好きな家族だろう、きっと、祖先は、南の島から来たに違いない)

いざ、母と二人の土日を過ごすと思うと、割とつまらない。
この前から、インターネットで、名古屋の美味しい話しを読んでおり、「日帰りで名古屋に行こうかな」との案を会社の行き帰りの電車の中で練ってみた。

朝早く東京駅を発ち、名古屋駅に着く、まず、食べたいのは、名古屋の喫茶店のモーニングセットだ、なんでも、名古屋の喫茶店のモーニングセットは豪勢だそうで、一度食べてみたい。
まずは、インターネットでモーニングセット情報を集めなくてはと思う。
お昼には、名古屋名物ひつまぶしを味わなくては名古屋にわざわざ行った甲斐がないではないか。
それと、名古屋の穴子は、東京のふにゃふにゃの穴子と違って、バリバリしていてそれはそれなりに美味しいそうだ。

と三食決まったら、名古屋の味噌煮込みが入る余地がないではないか。
私は、味噌煮込みは、大阪の梅田の天野というお店のものが一番美味しいと思うけれど、世評はやっぱり、名古屋の山本屋である、う〜ん、もう一度、食べてみなくては。

後、夏は、松坂屋の中の赤福で、「赤福氷」が食べられるとか、これも外せない。

なんて、考えているうちに、日帰りでは足りないことになった。
(遊ぶ予定は全く考慮していない、ただ、ただ、食べ物だけ)
が、現在、色々な事情で一泊は難しいし、新幹線代+旅館代までして食べると思うと、やっぱり、お金がかかり過ぎる。

それならと、近場で母に親孝行でもしてあげようと、「連続2日、浅草のいつも行かないような高いお店に行って、鰻とお寿司を食べよう」と誘うと、嬉しそうにokした。
そうだわよね、皆がバカンスでいない家で一人お留守番なんて、淋しいのだろう。
(母は、沖縄に出かけようとする弟一家にこれを自慢したそうである、私と同じ環境で育っている弟がとても羨ましそうな顔をしたとか。)

エヘン!土日のどちらかのお昼に、弁天山美家古に行くのだ、それから、どちらかの夕食は浅草で鰻を食べよう。
鰻はまだ店を決めていない。
これからガイドブックを色々見て探すのだ、これも休日が始まる楽しみの一つである。
これで、相手が和食オンリーの母でなければ、もっと、洋物・中華物が食べられるのにと思うが、我慢することとする。



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1999年08月23日(月)

私の夏休み その2 鰻 前段


2,3か月前、「アド街ック天国」の「雷門特集」を見た。
ベスト3に、「鰻屋」が入っていて、初小川と色川という鰻屋さんが紹介されていた。
テレビで見た印象では、初小川のおかみさんは、見るからに、皆が思い描く「下町の粋で美人な女性で芸事も達者」であり、色川のご主人は、「三社の花棒は渡せね〜」と言うのが似合う絵に描いたようなチャキチャキ江戸っ子という感じであった。
この二人の映像を見ていて、「そうだ、鰻屋さんというのも、『粋』が大切な商売だった」ということを思い出した。
我が家の近くの、もう既に亡くなったが、鰻屋のご主人も確か、チャキチャキ江戸っ子で見るからに、そして口を開いても、「粋でいなせな人」であった。

聞きかじりであるが、「江戸前」という言葉は、そもそもは、鰻屋をあらわす言葉だったそうだ。

鰻は全国どこでも愛されているが、東京下町というのは、大変鰻が好きな街である。
(我が家の回りでもまだ、3軒ある、「台東区」「うなぎ屋」で引いたら、33軒出てきた。)
上野広小路と末広町の間に、鰻問屋(川魚の問屋)がある。
飯田橋から江戸橋に向かったところにも、鰻問屋を見た覚えがある。
江戸時代、深川で養殖を始めたそうだから、深川の鰻が、江戸中を張り巡らしていた水路で運ばれていたのかなと思う。

小さいときは、よく出前で鰻を取っていた。
いつの頃か、きっと、鰻が高くなってからだと思う、出前で鰻を取ることが少なくなってしまった。
それに、今は、鰻の蒲焼きだけ、売っているから、それを買ってくれば、手軽に鰻が食べられるようになったからかも知れない。
ただ、母によると、やはり、「鰻屋の鰻」と「持ち帰り用の店で買う鰻」では、味が違うそうだ。
私はと言うと、家では出されるがままに鰻を食べ、自分で食べるのは、お昼、勤務先の方のお気に入りの鰻屋で食べることが多いので、よくわからない。
我が家の場合、今鰻嫌いがいるので、余り食べることはない、その鰻の嫌いな人が不在のとき、鰻を食べるときは、鰻屋さんで蒲焼きだけを買ってくることが多い。
行きつけの魚屋で「蒲焼き」を買ったことがあるが、やっぱり、美味しくなかったことを覚えている。
今の勤務先である調布の各駅停車の駅の近辺には、鰻屋が全くなく、お昼に食べることは不可能であるのが残念である。
(鰻屋が近くにない人たちは、本当の鰻屋の美味しさをわからないかも知れないと思う。)

また、よく言われるように、鰻の蒲焼きには、関東風と関西風がある。
大阪勤務のときに、関西風を何度か食べたが、やはり、私の口には、関東風の柔らかい鰻がおいしい。

小さいとき、鰻が大好きであったが、幼稚園の頃のある日、鰻の裏をひっくり返して、皮を見てしまい、「こんなに見た目気持ちの悪いものを食べていたのか」とショックを受けて、それ以来、うん十年鰻を口に入れなかったのだ。
ある日、何かのきっかけで鰻をまた食べるようになった。
でも、やはり、今でも皮は好きではない、見ないように食べている。
口の中に入れてしまえば、関東風の作り方では、「これが皮」と意識しないで済む。
「蒸し」を除いた関西風の蒲焼きは、箸でちぎるときも、食べるときも、この皮の存在を意識せざるを得なくて、どうも、苦手である。



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1999年08月24日(火)

私の夏休み その2 鰻 前川 うな重


浅草の行ったことのない鰻屋に行ってみようということになったが、やはり、「前川」を選んでしまった。
ここのお店は、池波正太郎ご推薦で、池波正太郎が小さいとき、おじいさんに連れられてよく通ったお店だそうだ。
その文章を本で読んでいたので、下町の職人さんが仕事を終えてちょっと一杯という雰囲気のお店を思い描いていたが、本物は、そんなイメージとは程遠く、とてもきれいな大きなビルである。
きっと、池波正太郎が子供の頃からずいぶん変わってしまったのかしらとも思うし、もともとが大きな鰻屋で、昔から接待や法事に使われていたのかなとも思うが、わからない。
間違いないことは、江戸時代からの鰻屋さんであることだ。
(さっき、本屋で「下町散歩」的なガイドブックを2冊読んだら、「利根川で鰻の養殖を行っていた初代が、今の場所で鰻屋を始めた」と書いてあった。
歴史は、200年弱といったところか。)

場所を簡単に言うと、隅田川にかかる駒形橋のたもとである。
都営浅草線の浅草駅で降りて、駒形橋のほうの出口から出て直ぐにあるが、割と大きい道に面していないので、わかりにくいかも知れない。

場所は前々から知っていたが、入ったことがない。
何故かというと、余りにきれいなので、ジーパンにつっかけ、自転車で乗りつけるのは、ちょっと違うかなという感じであるからだ。
(最近、浅草方面にちゃんとした格好で行くことは全くないのだ。)

この日は、連日の超残業がたたって、お昼前に母親から「今日のお昼は、鰻?お寿司?」という電話をもらうまで、眠っていたのだ。
う〜ん、今起きないと母親との約束を破ることになると、無理矢理目を開けさせたが、やはり、ボケっとした精神状態だった。

たまの仮想夏休みだから、オシャレまでは行かないが、ワンピースを着て行った。
家からバス停で3つめで降り、5分程歩くと、前川がある。
お店に入ると、和服姿の仲居さんが迎えてくれ、靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、エレベータで2階へ案内される。
(そんなにオシャレしなくてもいいけれど、やっぱり、ちゃんとした格好で行った方がいい店かなとも思うが、そこはそれ、下町だから、服装にはきっとうるさくないとは思う。)

2階は、大きな広間で小さな4人用のテーブルと座布団が並べられている。
高さのある窓からは、隅田川と高速道路が見える。

メニューを見ると、コースが8千円から1万7千円まである。
こういうのは、接待か法事用でしょうと割り切り、鰻に目をやる。
このとき、細かくメニューが目に入らず、取り敢えず、細かい違いまで、仲居さんに質問することなく、普通の「うな重」の一番小さいのを頼んだ。
(前川では、ランチのうな重と、ランチでないうな重があった。なんとなく、ランチの方はお徳用な感じがして、今日は、大盤振る舞いだからと、ランチでないほうにしてみた)

蒲焼きのセットもあったが、私としては、蒲焼きが熱々のご飯に乗って来て、タレで一体化しているうな重の方が好みである。
しかし、うな重と蒲焼きでは、値段が違う。
これはどうしてか聞くのを忘れた。

うな重のセットは、お新香と肝吸いと、オレンジが2切れついている。

うな重が出て来て、山椒の粉を振って、食べてみる。
タレがすごいのだ。
甘みが皆無である、だったら、辛いのしょっぱいのかというと、それも全然ない。
程好いお醤油の味で、きつさも醤油臭さもない。
今まで鰻を色々(と言ってもそんなに高級店は行ったことなく、で、不味い鰻屋は段々行かなくなるから、中程度ですね)食べたけれど、こんなに見事に甘さがない店は初めてであった。
タレがお砂糖の味をまるで感じさせないと言っても、きっと、隠し味にお砂糖は使われていて、醤油臭さを抑えているとは思うけれど、やっぱり、その加減が絶妙と思った。
この前の築地龍寿司の寿司飯といい、「江戸前の味」は、甘さが全然ないか、殆ど感じさせない味なのかも知れない、しかし、甘くないからと言って、しょっぱくないところが技術なのだ。

不思議と、鰻の身が舌に乗った記憶がないのだが、とてもおいしかった。
鰻の油がくどくなく、甘みのないタレと、上質のご飯がうまく絡み合って、最後まで飽きずに美味しく食べられた。

食べている最中に、私の舌が、「鰻は川魚なんだな」と思える味を発見していた。
私が食べる川魚は、鮎が一番多いが、鮎と同じような感じがあったのだと思う。
私が鰻を食べて、「鰻は川魚なんだな」と感じることは、もしかして、初めてのことかも知れない。
(ということは、今まで本当に養殖ものしか食べていないのですね。
でも、日本で食べられる鰻の95%は、養殖ものとのことだから、それも無理はない。)

ここの鰻とタレは、この店でしか食べられない味なので、絶対のお勧め。

注意すべきは、飲み物についてメニューがなく値段がわからないこと、肝焼きも取ったのだが、メニューに値段がなかった。(きっと、聞けば教えてくれると思う。)
それと、冷酒を頼んだら、2合瓶が来てしまって、母は飲めないので、一人で飲んでしまった。

会計の方は、うな重3300円が2つと、肝焼き1人前、冷酒2合で、9240円であった。

家に帰ってから、インターネットでウナギ専門店を一言で紹介してあるページを発見、「前川」を見たら、「江戸時代からの秘伝のタレ」とあった。
これは決して誇張ではないと思う。
しかし、醤油や味醂の味が江戸時代と大きく変わっていると思われる現代において、どうやって、タレの味を守っているのだろう。
ここの跡継ぎの方の役割の第一は、昔ながらのタレの味を覚えており、常にその味を保つ技術を身につけることかなと思う。
(ここのところも、先程、「下町散歩」的なガイドブックに、「直系六代目の役割は、一子相伝のこのタレの味を守り抜くこと」とあった。
ま、誰でも、考え付くことは同じかなと思う。)

★ 前  川
 住  所 : 東京都台東区駒形2−1−29
 電  話 : 03−3841−6314
 営業時間 : 11:30〜21:00まで
 定休日  : 第一営業日を除く月曜日

尚、ランチサービスは、日曜・祭日はなしで、平日(土曜を含む)の11:30から13:30までとのこと。



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1999年08月25日(水)

私の夏休み その2 鰻 前川 うなぎあれこれ


うな重が出てきたときに、「これは、天然物ですか?」と仲居さんに聞いたら、「いえ、養殖です」とのことであった。
しかし、養殖にしては、川魚の味はするし、タレも美味しいので、下げに来た仲居さんに、「とても美味しかった」と言い、色々聞いてみた。

前川で出している鰻は、下記3種類。

1.利根川の天然物
2.利根川の養殖物(坂東太郎)
3.名無しの普通の養殖物

メニューを見ると、ちゃんと書いてあるので、私のように起きたばかりの注意力散漫のときでなければ、すぐわかるはずだ。

★天然物
5月から11月まで、利根川の天然物が入荷されるそうである。
しかし、先週は、大雨で鰻が採れずに入荷はなかったそうだ。
私が行った日は、久々入荷されていたそうだ。
お値段は、5500円からとのこと。
今回は、「名古屋へ電車賃を使って行ったつもり」の大盤振る舞いだったから、「5500円だからお勧めしなかったのですよ」という仲居さんに、格好良くも、「あら、気づいていたら食べたのに」なんて、言えた。(笑)
天然物はいつでもあるわけでないから、是非ご予約くださいとのことであった。

★坂東太郎
前川さんは、利根川で自分で養殖をやっているとのこと。
そこで、利根川の天然物に近い養殖ができないか研究しているらしい。(そこは、すごいですね、こういう鰻屋さんも世の中にあるのですね)
(と書いたが、ガイドブックに初代が鰻の養殖屋さんだったとかで、だったら、すごくはないですね)

利根川で、利根川の天然物に近い養殖鰻を目指しているので、「坂東太郎」(利根川の別称)を名乗らせていただいております、とのことであった。
私が自分で食べている最中に、「鰻って、川魚だったのだな」という感覚を舌で味わったから、相当良い養殖であると思う。
帰り際に、「坂東太郎」のパンフレットをもらったが、鰻の組織を40倍の顕微鏡で拡大した写真を見ると、確かに普通の養殖鰻より、天然に近いようだ。

その顕微鏡の写真では、天然物は、身の随所にさし(脂肪)がまんべんなく入っている、坂東太郎は、さしが天然ものに比べて少ないが、ちゃんと入っている。
普通の養殖物は、油と身がはっきり別れている。

それに、鰻が病気や薬物の心配のない環境で育っていると書いてあるところにも魅力を感じる。
うな重3300円から。
(坂東太郎のうな重・蒲焼きには、数段階の値段があるが、これは、グラム数によるとのこと。)

★普通の養殖もの
ランチと書いてあるものに使われているとのこと。
これでも十分美味しいと思う、何せ、タレが美味しいし、ここのお店なら、普通の養殖と言ってもちゃんと美味しいものを選んでいると思う。
ランチのうな重は、2200円。



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1999年08月26日(木)

私の夏休み その2 鰻 前川 隅田川花火大会


仲居さんに聞いたところ、花火のときは、大人気で大変だそうだ。
驚いたことに、花火のとき、前川では、「お一人様3万円」だとのこと。
ギョッ、ギョッ、ひとりさんまんえん!
我が家族全員ご招待で、21万円である、ちょっと、手が届かない。
普段よりは高いだろうとは予想していたが、ここまで、高いとは...(言葉を失う)
どこか商店街の大売り出しのときの抽選の商品にでもしてくれると嬉しいなと思う。

内容は、松花堂弁当に、飲み物なんでも飲み放題とのこと。

予約の仕方は、毎年、お正月明けから、申し込みを受け付け、花火が近くなったら、確認の往復はがきが、前川から申込者に送られるとのこと。
予定どおり、花火を見る人は、お金を前川に振り込み、前川から、前川の予約券かな、それと、通行券が送られる。
(花火の日は、交通規制があり、この通行券がないと、前川まで、辿りつけないらしい)
お一人様3万円でも、毎年、いっぱいで、空席は出たことがないという話しだった。

前川は、花火大会の第二会場の真ん前で、ちょっと遠くに第一会場の花火が見えるだろうから、これは、最高だと思う。
しかし、やっぱり、3万円は、う〜ん、死ぬまでに一度は行ってみようかな、やめようかなと迷うところである。
何せ私は、花火大会のときの我が家の料理担当だから、一人だけ前川に行くということは無理が大きい。
皆、引き連れていくしか手がないが、ちょっと、お値段がお値段だけに、考えてしまう。
(きっと、「おごってあげる」と言えば行くだろうが、「会費制」だったら、我が家で築地のマグロを食べるコースが圧倒的に支持されるとはっきり予想できる。)

当面、我が家から、ビルの影で全部は見えない花火で我慢するしかない。
当日近くにキャンセルがあった場合は、そのとき、たまたま問い合わせがあった人に割り振られるそうで、キャンセル待ち制度はないとのこと。
例えば、お金が余っている人か、夏休みが取れそうにもないけれど、どこかでストレス解消したい人なぞに、向くかなと思う。



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1999年08月27日(金)

私の夏休み その3 浅草・谷中をフラフラ


1日目の「前川」は大当たりだった。
2日目に行こうと思っていた「浅草弁天山美家古寿司」は、ものの見事に夏休みであった。(以前もこの時期に行こうと電話したらお休みだったことを思い出した、私と縁が薄いお寿司屋さんのようだ。)
で、代わりのお店を考えて行ってみたのだが、まあまあであり、まずくはないけれど、わざわざ行くほどではないわねと思った。
だいたい、商売をする気がないように感じる。
「特上と上は、どう違うのですか?」という問に、「大して違いませんよ」という答え。
もしかして、無駄なお金を使わせてはという気遣いから出た言葉かも知れないけれど、1千円以上違う握りを「大して違いませんよ」という答えはないと思う。
母が歯が悪く固いものは食べられないと言うと、「マグロ」系統ばかり出された。
常連の客には愛想はいい、インターネットでも「この店はいい」という評価を見たことがある。
私が思うには、酒飲みと常連が好きな握り手なのだと思う。
そういう人たちには調子を合わせることはできるけれど、お茶で、お寿司を食べたいという人にどう対処していいのかわからないのだろう。

インターナショナルは愚か、ナショナルというレベルにも達していない店であった。
あれでは、滅びてしまうのではないだろうかと、余計な心配をしてしまう。
やっぱり、飲食業は、どんな人だって、自分の店で食べたいと入ってきた人に、「楽しかった、この店に来て良かった」と思って出ていけるように、努力すべきである。

母も「寿司は築地に限る」と感想を述べていた。
築地のお寿司屋は、当たり前だが、「お酒を飲みたくて、寿司屋に行く」人向けではなく、「活きの良い寿司を食べて寿司屋に行く」向けの寿司屋なのだ。
築地の寿司屋だったら、もっと、まともな答えをしてくれたし、もっと親身になって、歯の悪い人が美味しいと思われるネタの順序を考えたり、「何がお好みですか?」とか、聞いてくれたのではないかと思う。
本日の夜、「この夏休みは鰻は大成功の、寿司は大失敗だった」と笑った。
(一週間延期してでも、美家古に行けば良かった。)

で、食べている最中、味はまあまあ(でも、ご飯がやたらに固かった。)、握り手が余り良くなかったということで、余り面白くないので、新仲見世から仲見世へ出て、観音様にお参りすることとした。
新仲見世も仲見世も上に天井があって、どうにか直接の暑さを感じなくて済むような工夫がされていて良かった。
(新仲見世は、完全に冷房が入っている)

仲見世に出ると、お上りさんになった気分ができて嬉しい。
仲見世で何を売っていようが、常盤堂がどんな新製品を出そうと、普段は、私の生活に全く関係ない世界なのだ。
おもちゃや土産物の種類は変わったけれど、売っている店や売っている商品の傾向は、私が小さいときから余り変わっていないような気がする。
仲見世は、お店の入れ替えも昔からないのではないかと思う。
我が家の近所のお嫁さんの実家が仲見世でお店を開いており、「仲見世に生まれると、正月も盆もないから、大変だ」という話しを聞いたことがある。

ざっと見た感じでは、食べ物のお土産屋さんは大繁盛、いわゆる飾り物等の物品はまあまあかしらという印象であった。
しかし、変なかつらや変な着物等、一体誰が買うのか、不思議なものも沢山売っているところである。(これも昔から変わらない)
かんざしを売っているお店もあり、小さい頃、お正月にかんざしをつけるのがとても嬉しかったことを思い出した。

観音様をお参りして、本堂の入口に立つと、次から次へ、本堂の方に人が歩いてくるのが見える。
「この人たちが皆お賽銭を入れるのだから、すごいな」と思う。
一体毎日いくらお賽銭が集まるのだろう。(余計なお世話ですね)

梅園であんみつでも食べようかと思ったが、暑いし、人は多いはで、わざわざゴミゴミしたところで物を食べるのも落ち着かないと思い、急に思い立って、「私の一番好きなところへ連れていってあげる」と、タクシーで谷中の朝倉彫塑館まで行ってしまった。

朝倉彫塑館でしばし知的な静寂にひたり、日暮里駅前(と言っても山側)の甘いもの屋さんで、冷たいものを食べて帰ってきた。
母は、美術や日本庭園に余り興味はなさそうだったが、娘にかまわれたのが嬉しかったらしく、「今年の夏休みは楽しかった」と言ってくれた。
この日暮里駅前の甘いものからラーメンまである軽食堂の氷あずきがおいしかったそうだ。
私は、疲れているので、氷あずきの氷の量を思い浮かべただけで、「私には無理」と思ってしまう、氷あずきって、少なくとも、疲れが軽いときの食べ物だと思った。

日暮里から電車で帰ると言ったら、「随分遠くまで来てしまったのね」と言うのだ。
我が母は、殆ど1年中一つの町で暮らし、週に一度くらい、バスで上野広小路の方へ行くくらいの生活だから、山の手線に乗ること自体が、「遠出」なのである。
いわば、池波正太郎の子供の頃の話しに出てくるような、町内で何でもこと足りる生活をしているのだ。(足りないものは、私が補給しているから)



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1999年08月28日(土)

残業の友


最近、残業が多くて、お菓子でごまかしたり、外に食べに行ったり、色々工夫している。
お菓子類は、いわゆるスナック菓子やポテトチップス類も試したが、一袋食べると、口の中が塩だらけになり、美味しくないし、健康にも悪いような気がする。
「買ってはいけない」を読んでから有害な物質も気をつけねばと思うが、スナック菓子の塩気の強さというのも、沢山食べてみると、確かにすごいものだと実感した。

自動販売機で買ったポテトチップス類の塩気がすごくて、これなら食べないほうがいいかもと思うこともあった。
最近のお気に入りは、亀田製菓のソフトサラダと、アーモンドチョコの組み合わせだ。
亀田製菓のソフトサラダというのは、ソフトな感じで軽くサラダオイルであげた白いおせんべいであり、塩味には、沖縄の天然塩を使ってある。
ある日、日曜出勤のときに、誰からかの差し入れで、色々なおせんべいとアーモンドチョコが回ってきたのだが、このソフトサラダとアーモンドチョコの組み合わせが私の舌には、ぴったり来た。
食べた後、変な味も舌に残らず、私にとっては塩気が適量でとても良い。

これらのお菓子を食べるときに、自販機でジュースを買うのだが、私は絶対、紙コップに氷が浮かんでいるジュースやコーヒーしか飲まない。
飲まないと決めたわけではなく、自販機の前に立つと自然と缶入りを買わずに、氷入りを買っているのだ。
実は、このことに気づいて、「もしやして、私は本当に味にうるさいかも」と思った。

しかし、上には上がいるもので、会社の喫茶店で持ち帰り用に、喫茶店のアイスカフェオレ氷入りを作ってもらっている女性もいた。

やっぱり、飲んだり、食べたりするなら、美味しいものがいいですよね。
(でも、私はこれからも90円の自販機の氷入りアイスコーヒーを飲み続け、160円の喫茶店のアイスコーヒーは買わないと思う。<だって、余り美味しくないのだもの>)



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1999年08月29日(日)

思い出のBAK


私が自分のコンピュータを初めて買って、インターネットに接続して3年とちょっとが経った。
それまでは、PCは会社で十分と考えていたが、ボチボチその頃から流行り出したインターネットなるものでホームページが見たり、使いこなしてみたくなったのだ。
で、実際に買ってみると「電子メール」という機能があることがわかった。
その次に色々HPを回っていると、「メーリングリスト」というものが世の中にあることもわかった。
その頃、「メーリングリスト」の意味がわからず、プロバイダに「メーリングリストって、何ですか?」なんて、質問のメールを出したことも今は良い思い出である。

今でも人気がある大阪ガスの「BOB & ANGIE'S KITCHEN」(通称:BAK 読み方:バック)というHPを見たら、お料理の好きな人のメーリングリストがあったのだ。(今はなくなったらしい)
それに参加したら、とても楽しかったのだ、世の中にこんな楽しいものがあったのだと言うのが正直な感想であった。
お料理や食べ物好きと、お料理の話しやどこかで美味しいものを食べた話し、食材、買物の話しができて、私は夢中になって、メールを送った。
自分の空いている時間に、書き込んでおけば、また、次にメールをチェックするときまでに、何らかの反応が入っている。
自分のメールに返事だけが関心事ではなく、他の人たちのやり取りも楽しかった。

自分の生活リズムを狂わせることなく、好きな話しはできるは、知識は広がるし、色々な地域の色々な人と食べ物の話しができることは最高であった。
そして、そのBAKというメーリングリストに参加して、実感としてわかったのは、草の根的に、色々な地方の人が自分達の料理や好み・風土のことを、話し言葉で自分のペースでフランクに詳しく話せるようになったのは、このインターネットという仕組みができた今が、その始まりではないかということだった。
その中で何人もの仲良しはできるは、私が「合羽橋のHPを作りたい」と言ったら、丁寧にメールで指導してくださる方々も出てきたりして、「インターネットって、本当にしみじみ良いものだ」と思った。
そのメーリングリストが生きがいのようになっていた。

その頃、どういうわけか、何人かの方が「森さんのファンで、森さんのメールを楽しみにしています」と言ってくださって、とても、嬉しかった。
自分が何の欲もなく、ただ、自分の楽しみでメールを書いていることが人から誉められるなんて、なんて素敵なことなんだろうと思った。

自慢ではないが、私は文学少女のハシクレではあった(というか、小さいときに読書した量は多かったというだけの話し)が、私の書いた文章を人様が読んで、「ファンです」なんて言ってくださることが我が身に起きるとは、長い人生、一回も想像もしたことがなかった。
私の作文歴では、小学校1年生のときに、お祭りのときに「おみこしかつぎたい」と言ったら父親に怒られたけれど、店に来たお客さんがとりなしてくれて、担げたことを書いて、なんかの文集に載ったことがあるだけで、別段、学生の間に私の文章を誉められたことはなかった。
社会人になってから、自分のことを文章を書くことは殆どなかった。

そのBAKというメーリングリストには、1年半くらいお世話になったのだが、ひょんなことでそのMLをやめることになった。
辞めてみて、しみじみ、「私は、文章を考えて書くことが、実は好きだったのだ」と実感した。

本当に私にとっては、楽しくて大切なMLで在籍期間も長かったので、入れたメールの数も多く、私のメール数はやっぱり通算で参加者中一番多かったのではないかと思う。
全部そのMLに投稿したメールが残っていればいいのだが、最初の頃、しょっちゅう、PCを壊していたので、(なんと、ノートPCに水をかけてしまったり、ハードディスクを全てクリアしたり)1/3程度しか、残っていない。

先程色々探してみたが、「ま、これなら、エッセイ風でいいのでは」と思うのが、2点あったので、エッセイに載せます。
(今、会社が忙しくて、新しいネタを考えている時間がなく、苦肉の策です。
ごめんなさい。)



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1999年08月30日(月)

ケーキの数


BAKという今はなきMLに投稿したものをエッセイに載せようと思ったのだが、ちょうど、月代わりのときなので、2つばかり、甥ネタにします。
BAKへのメールは、9月になってから、開始したいと思います。

私は、ノリエットという下高井戸のケーキ屋さんのケーキが大好きでたまに家に買って帰る。
私は、「ノリエットのケーキ以外食べる気がしないわよね」と言うのだが、他の家人はそこまでは気に入っていないようだ。

私がケーキを買ってくると一番、可愛い反応をしてくれるのは甥1で、ケーキに目がなく、一つでも多く取ろうとする姿がとても可愛い。
ノリエットでは、1箱18個のプチガトーのセットを売っているのだが、これを買ってくると、テーブルに箱を出し、頬杖を突きながら甥1は、ため息を吐き、「どれにしようかな」とか、「あ、これ、今度初めてのだ」と言ったり、ケーキ選びを楽しんでいる。
(ケーキが目の前にあると、目が離せなくなるようだ。)

その姿が余りに可愛いので、つい、プチケーキを買ってくることが多いのだが、他の家族からは、「小さ過ぎて、味がわかったなと思った瞬間に食べ終わっているから、大きいのにして欲しい」との要望が出ている。
でも、私としては、多くのケーキから、どれを選べば自分が満足するか、一生懸命ため息を吐きながら悩んでいる甥の姿が見たくて、これからも、あれば、プチケーキを買ってきてしまうだろう。
(たまに、ため息を吐くときに、鼻がつまっていたりして、ため息が鼻息に聞こえることもあるところが可愛い。)

甥1は、ケーキが好きだから、「一人ひとつ」と言うことがなかなかできない。
大きいケーキのときは、自分だけは、2つにして欲しいという。
(プチケーキのときは、自分と弟は3つとなる。)
甥の父親も子供が可愛いのか、自分の分を甥1に譲ることが多い。

甥1は、自分の父親が甘いものが好きでないので自分に譲ってくれると信じている。

「本当? 甥1ちゃんのお父さん、ケーキ嫌いなの?」と私が弟に聞くと、弟は「うう〜ん、好き」と言う。(これは嘘ではない)
その言葉を聞いても、甥1は、「ほら、お父さんは、ケーキ嫌いと言っているでしょう?」と言うのだ。
「あら、お父さんは好きだと言ってるわよ」と真実を甥1にわからせようとする私(ちょっと意地悪)。
自分が食べたい気持ちが強いのと、お父さんはケーキが嫌いと思い込んでいるせいで、お父さんが「好き」と言っているのに、甥1の耳には「嫌い」としか聞こえないらしい。
「甥1も、大きくなってお父さんになって、甥1の子供が『お父さんのケーキもちょうだい』と言ったら、あげるようになるわよね?」とわざと聞いてしまった。
答えは、「うう〜ん、僕はあげないの。僕のお父さんはケーキが嫌いだから僕にケーキをくれるの。僕はケーキが好きだから、子供にあげないの」とのことであった。
これ以上、突っ込むと泣き出すかも知れないので、からかうのはここいらへんでやめておいた。
(甥1だって、ケーキを楽しい気持ちで食べたいに違いない。)

甥1にとって、今のところ、ケーキを大好きな自分が絶対なのだ。
ここまで、信念としてケーキを好きな子供がいるので、ケーキを買ってくる甲斐がある
やっぱり、おみやげを買ってきたときには、「嬉しくって、嬉しくって」という反応が一番である。



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1999年08月31日(火)

子供を盛り上げる


今年の11月で甥1が9才になるから、彼らとももう9年の付き合いになる。
彼らと付き合っていて、私が「これは世間でも通用するのではないか」と思う、子供の法則を。
私が思うには、「お寺の和尚さんがかぼちゃの種を捲きました」という歌は子供の身体を動かす力があると思う。
毎日やったら、飽きられるけれど、たまに、「お寺の和尚さんをやろう」と甥たちに声をかけると、10回に10回乗って来るのだ。

この前は、小学校1年生になった甥2から、「もう、僕は大きくなったからやらない」と言われてしまったが、ちょっと離れたところに寝転がっていた甥1が、「お寺の和尚さん」という言葉に反応して、起き上がってしまった。
ぐずぐず言う甥2を放っておいて、甥1と私でお寺の和尚さんを距離は離れたまま始めたら、案の定、甥2も乗って来て、結局は一緒にやってしまった。

この唄の良いところは、替え歌が色々できるところらしい。
「お寺の和尚さんがかぼちゃの種をまきました。
芽が出て、ふくらんで、花が咲いたら、ジャンケンポン」がもともとの歌詞であるが、もともとの通りに唄われたことはない。

以前は、「花が咲いたら、枯れちゃった、忍法使って、空飛んで、ぐるぐる回ってジャンケンポン」という替え歌であった。
最近は、「花が咲いたら、枯れちゃった、忍法使って空飛んで、ぐるぐる回ったら、割れちゃった、でも忍法使ってまた空飛んで、」という具合に延々、続けるのである。

子供を乗せると言っても、いつまでも付き合ってられないので、適当なところで、こちらが大きな声で私に都合のいいバージョンを唄って、終わらせてしまうこともある。

甥たちも最近は大きくなって、おばあちゃんの家に来ても、テレビを静かに見ていることが多くなった。
それはそれで良いのだが、私なぞ、最近、甥たちに会えるのが土日だけということが続いているので、たまに会ったのに、静かだと淋しいのだ。
テレビを見ている甥たちに会っても、甥たちに会ったという感じがしない。
こういうときは、「お寺の和尚さん」で子供たちを乗せて、賑やかにさせてしまう。

もし、沈んでいる子供がいたら、この手をつかって実験すると面白いと思う。
コツは、「実は私がやりたいんだ」という雰囲気で誘うことである。



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