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「美味しい!」が好き

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2002年05月01日(水)

母の入院 その1


4月の中旬だったろうか、元々病気を抱えている母が、お医者さんに「入院」と言われてしまった。

病気の症状は、本人のプライバシーに関わるし、その時々の検査で言われることが違うので伏せる。
どうも、手術はしなくて済みそうだけれど、「1週間の入院」と言われた。
その言い方に、「どうも、誠意がない、人の気持ちも考えずに、学校で習ってきたとおりに理屈を並べるだけだ」と、母は気に入らなかった。

というのは、2,3か月前に、母は、もう遠くまで通うのは大変だし、入院した場合、見舞いに来る家族のことを考えると、近所の病院の方が便利だと、転院を決めたのだ。
だから、その先生とは、まだ、2,3回の診断でしか接触していなかったから、冷たく感じるのかなと私は思った。

もし、これが、半年間でも、二週間に一度でも診てもらい続けたお医者さんからの言葉だったら事態が違っていたのかもと思うが、殆ど、信頼関係がない時点で、今まで考えてもみなかった「入院」を、患者側から聞くと冷たく事務的な言葉で、大学を出たばかりという感じの先生に告げられたから、母はショックのようだった。

その後、色々話しているうちに、やはり、今まで10年診てもらっていた以前のお医者さんにかかりたい、その先生が同じ診断をするなら、素直に治療を受けると言い出した。
こうなると、母一人で医者との交渉を任せるわけには行かないので、以前のお医者さんのところ、家の近所の病院と、母とともに、話に行った。
で、結局、以前の信頼しているお医者さんにかかった方が良いと、関係者全員が考えていることがわかった。
近所の病院の若いお医者さんも、協力的に、この2,3か月に行った検査の結果を、以前の病院に貸し出してくれるとのこと。
それで、その検査結果を持って、昔からの病院に行ったのだが、その場で、昔からの病院に入院することに決まってしまった。

新しい病院では、「入院1週間」と言われたが、昔からの病院では、「1か月」と言われた。
入院生活の殆どは、日常生活から離れて、病院で、静かにして、薬と食事療法を行うとのことであった。

母の入院で思ったのは、病院は、組織と言えども、結局は、人間対人間の関係の場所なのだということだ。
病気になったら、お医者さんの言葉に従うしかないのだが、患者がそのお医者さんや病院の態度に信頼感を持っているかどうかも、大変重要なことなのだと思った。
(腕は良いこととか、最新の治療設備が整っているだけではなく、「医者の人間性」とか、「医者と患者の相性」というのも、重要なのだ。)
そして、母に関して言えば、母がこの10年真面目に通ったお医者さんとの人間関係、その通っていた病院への信頼心が、財産だと思った。

病気の細かいことはわからない、ただ、わかっているのは、母が信頼しているお医者さんに母を預けるしかないということだけだった。



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2002年05月02日(木)

母の入院 その2


入院する母のことを考えると、不憫でならない。
母は、不摂生をしたわけでもなく、ちょっとしたアクシデントで、現時点では、完治の可能性が低い病気に感染してしまったのだ。
本人が悪いなら、わかるけれど、私の母は、真面目で、猪突猛進の気はあるのだが、とにかく、生真面目に自分が「良い」と思い込んだことをコツコツとこなすタイプである。
昔の人だから、我が家に嫁に来て、我が家の事情で、色々ごたごたもあったけれど、とにかく、真面目にお店と家が大事と、仕事をこなしてきたのだ。
でも、そんな真面目な人がちょっとしたことで、病気にかかるなんて、本当に、事故と同じだ。

ま〜、手術がない点は救われるが、一人家庭を離れて、病院で暮らすなんて、何とさびしいことなのだろう。
あの食べ物にうるさく、好き嫌いが多くて、しかも「生臭いもの」なぞ食べられない人が、万人向けに栄養を第一に考えた病院の給食を食べなくてはいけないのだ。
おまけに、減塩生活だから、もう、お漬物も、当分食べられないのだ。
入院って、何て、自由が利かないものなのだろう。

また、入院というのは、緊急でなければ、そんなに簡単にできないこともわかった。
「入院の申し込み」をした後、ベッドが空くまで、待たねばならなかった。
その間、10日間だったろうか、「入院の手引き」をもらった母が、そのしおりを見て、足りない物を買いに行くのに付き合ってくれと言う。
2,3回、つきあっただろうか?
母は、どこの病院に入院するかでごたごたしたし、入院の日が決まるまでも時間があったので、段々、心の中を整理していったように見えた。
また、日常生活は行えるくらいの元気さはあるので、自分で入院の支度をし、不在の間のお店や残った家族の日常生活の算段を考えた。
入院中は、コインランドリーがあるから、自分で自分の衣服は洗濯するからねと、とても、手のかからない入院患者候補生であった。
その間、母の入院準備を手伝いながら、中々ベッドが空かなくて、入院が遅くなればいいねなんて、話しながら、のんびり暮らした。
でも、やはり、母が不憫という思いは募るばかりであった。

私の母は、確かに頑張り屋さんだし、しっかりしているけれど、でも、本質は、ただの幼い女の子なのだと思えた。
幼い女の子がそのまま年を取っただけが母のような気がして、「淋しい」のも、「痛い」のも、「孤独」も大嫌いなのだ、ということをひしひしと感じた。

何か、母と言う立派な人を病院に入れるのではなくて、小さな女の子で、しかも、大切な山梨からの預かり物を病院に送るような気分であった。
(母の後ろには、病気になったら心から心配してしまう仲の良い兄弟が沢山いるのだ。何ていうのか、やはり、父は、我が家の長男で大黒柱で、「我が家の人」なのだが、母は、「我が家の人」であると同時に、未だに半分「山梨からの実家」のものでもあるような気がした。)

父のときは、急な発病で急に病状が悪化し、私たちが病気とか入院というものに無知だったから、そして、父が男の人で自分の父で、我が家を背負ってきた人だから、「辛くても頑張って、良くなって欲しい」と思ったのだ。
でも、今回は、父のときの経験があるし、母はか弱い女性だし、他所からお嫁に来てくれた人だから、痛い治療に我慢して!と言えるかと思えば、やはり、母には、痛い思いや不自由な目にあわせたくないと思った。



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2002年05月03日(金)

入院前


入院の日は突然決まった。
中々、病院から入院の連絡がないので、大型連休の初日の土曜日に、母が聞きに行ったら、お医者さんから「ま、連休中はないでしょう」と言われてきたのに、その午後、病院から電話があって、「明後日から」と言われたのだ。

連休中の入院なしと言われて、さて、では、のんびり何をしようかなんて、相談し始めていたときだったから、調子が狂ってしまった。

そうなると、残り少ない家にいられる日に何をしよう。
そうだ、父の命日には、母は病院の中だから、皆でお墓参りをして、お母さんの無事をお願いしてこようということに決まった。
でも、それだけでは淋しい。
母は、当分、美味しい物を食べられないし、華やかなお店のようなところに行くこともできないのだ。(例えば、ファーストフードのお店と言えど、入院する人にしたら、「華やか」なのだと思った。)

で、急な話だけれど、母の好みと妹の好みを合わせると、ま、懐石くらいが妥当なところかと思った。
(私がいざ入院となったら、何食べたいだろう、何でもいい、美味しい物なら、全て乗る。)

そうだ、上野の山の花村は、美味しいし、お弁当なら、1800円だから、私でも皆に奢れると思って、前日電話したが、全然通じなかった。(誰も出ないのだ。)
次の日、お墓に向う道々、携帯から電話すると、通じたが、「今日のお昼は、一週間前から予約でいっぱい」という冷たい返事。
ここらへんの言い方があのお店の問題点というか、それでも良い人が通うお店だと思った。
とにかく、あの花村さんは、予約しないとだめということだけは良くわかった。

それで、某レストランサイトで評判の良い「かめや一睡亭」に電話したら、簡単に予約が取れたので、こちらにすることにした。

それにしても、元気で若い頃なぞ、「勿体無い」とか、「面倒くさい」というのが口癖で、外で高い食事をするなんて、大嫌いで、皆で出かけようというと、「私はいい、留守番しているから」と言っていた母が、「行く」と言った。

やっぱり、本人も、病院入るの嫌なんだなと、しみじみ感じた。

その上、食事が終わったら、新しくなった上野駅のアトレが見たいとのこと。
新しくなったことは聞いていたけれど、見そびれていたので、やはり、入院前に見ておきたいのだろうと、一緒にアトレにも行った。



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2002年05月04日(土)

池之端 かめや一睡亭


かめや一睡亭は、ABABの前のマクドナルドのところを不忍池に向かって、不 忍池の公園に入る手前のビルの1,2F。
新しくて、とてもきれいなお店で、お店に入った途端、上野界隈の雑踏と乱雑を忘れることができた。
1Fの普通のテーブル席で、ほんの少ない空間ではあったが、窓の外に竹を植えてあって、竹の緑の先に不忍池の木が見えて、借景がとてもきれいだった。
店員さんがとても感じが良かった。

某レストランガイドに、「両親を連れて行きたい店」と書いてあったけれど、納得できる。
何と言うか、上野の花村は美味しいけれど、ちょっと癖がある。
ご夫婦とお手伝いの人3人のお店なので、仕込み中や先方が忙しいときに電話すると、本当に忙しそうに応対されてしまうのだ。
行って、実際に話すと良い人たちだとわかるのだが、なんと言うか、所謂客商売の愛想の良さを与える体制がないお店なのだ。

その点、かめや一睡亭は、配膳のお姉さん達が皆サービスの良さや愛想の良さを鍛えられていて、感じが良いから、この点は、かめやさんの方が、不意に色々な人たちと行くのに向いているかなと思った。

食べたのが、2800円の懐石弁当なのだが、茶碗蒸しとお造りの後、お弁当が出て、4つに仕切られた中に、八寸各種・煮物(里芋・筍など)・揚げ物(しんじょの揚げ物に梅干しを裏ごしした物)・ご飯(筍ご飯)、そして、お吸い物だった。
見た目にもきれいで、皆、美味しいと食べてくれた。

しかし、先日、同じ値段程度で花むらで食べた私としては、味・コストパフォーマンスともに、花村の方が上だと思ってしまった。

なんと言うのか、花村は、やはり、洋服の世界で言うと、デザイナーズ・ブティックというのかな、その料理人の腕とセンスで食べさせる懐石なのだと思う。
一品・一品の量もあった。(そう書くと、本当に、花村さんの腕一本のお店なのだと納得する→お運びさんたちの人件費もないから)

かめや一睡亭は、美味しいけれども、ちょっと大量生産的な味。
誰それのセンスとか腕というより、ごく普通の教科書的懐石という感じかな?
でも、花村は、場所も上野の芸大の先という行き難い場所で、しかも予約の取り難いお店だから、中々いけそうにもない。

その点、かめやさんは、いつでも行けそうだし、場所が交通便利なところにあるし、ここも決して捨てられないお店だと思った。

他所の土地の人が上野に来るというのは、多分、上野の山の美術館だと思うのだが、その際、人混みを離れて、落ち着いて食事したいというときは、かめや一睡亭が、とてもお勧め。

かめや一睡亭
03-3831-0912
東京都台東区上野2-13-2パークサイドビル1F・2F
午前11時30分より午後10時まで
(9:20ラストオーダー)



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2002年05月05日(日)

私の料理の価値


さ、明日は入院だという前の日のお昼と夜ご飯は、どうしよう。
いざとなって、考えると、我が母には好物らしい好物がない。
そして、私の方にも、私ならではの一品というものがないことに気付いた。(笑)

昼ご飯は、妹がいなかったので、平日でもやっている浅草の葵丸進に行って、天ぷらを買って来て、温め直して、食べてもらった。
母曰く、「流石に、葵丸進、垢抜けた味がする」と喜んでくれた。(私には、どう垢抜けているのかは良くわからなかった。)

夜は、何を作ったっけ、何か、サラダとか、絹さやの卵とじとか、なるべく、彩りがきれいなものを並べたが、安物だらけであったが、品数が並んだので、母は、「今日はごちそうだ」と喜んでくれた。

いざ母が入院だと言うと、外に懐石を食べに行ったり、出来合いの天ぷら買ってきたり、本当に、私は、料理のプロではないとつくづく思ってしまった。
それに、入院前ということで、その準備だ、いない間のお店の段取りだ、そして、母の病状とか、色々考えることが多くて、落ち着いて料理ができない気がした。(本人の精神修養が足りないせいもあるが)
プロは、どんなときでも、料理できるのかしら?

色々考えるに、私の料理の価値は、出汁なのだと思ったのだ。
我が家の食卓の特徴は、お米が良いことと、ちゃんとした出汁で取った汁が美味しいことに尽きるのかも知れない。
で、お味噌汁は、念入りに出汁を取って作ったが、まあまあだ。
(出汁は、ほんのちょっとの昆布とかつおの割合、水との割合、出汁を取るときの温度で微妙に味が違う)

我が母は、食べ物はうるさい割には好物がなく、やり難い人ではあるが、お菓子大好きということだけははっきりしている。
それで、弟も私も、二人ともケーキなぞを買って帰ってきていたので、最後、皆で、お菓子を食べて、「おばあさん、頑張ってね」と激励した。

面白かったのは、甥1。
ケーキが並べられて、皆が、「おばあちゃん、頑張ってね」なんて言うと、本人、入院経験があるから、真顔で「僕の入院ときも、激励してくれたか?」と聞いたのだ。
あなたの入院の時なんか、皆、甥1ちゃん、頑張ってって、あれ程、応援してあげたのに、ケーキ作ってあげて、あなた、それ、全然覚えていないの?と聞いた。
本人、悪びれもせず、全然、覚えていないとのこと。

子供なんて、小さい時、色々手をかけてあげるけれど、実は何も記憶に残らないらしいことが判明。(笑)
小さい時、お金かけても何をしてあげても無駄かも知れない、全然、覚えていないのだもの。



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2002年05月06日(月)

母が入院中の夕食


さて、母が入院中、私は仕事が5時に終わるので、毎日、お見舞い兼連絡係りとして、母の病院に行くことにした。
当然、夕食の買物や支度の時間がなくなる。
だから、「最初の一週間は、不慣れだから、夕飯は作らないから、別々に外食しよう」と妹と決めていたのだ。

しかし、母の入院の一週間前から、妹が、お米だ、若布だと、自分の部屋に集め出した。
何でも、自分で自炊することもあるだろうから、食料を確保したいとのこと。
それを見ていた母が同情したのか、入院したその日の夕方に、母のところに行ったら、「実は、部屋の炊飯器をセットしてきてあるから、妹にご飯を作ってあげてくれ」とのこと。

うぇ〜、参った、参った。
そんな、入院で家を出てくる前までに、お米を溶いて、セットしてくるとは、想像もしなかった。
しかし、正直、いいわねと思ったのだ。
ご飯を作ることが好きでなく、余り作らない人が「お母さんの入院中は、自分でご飯を作る」というと、母親の同情を買い、不憫がられ、私のように、毎日夕方母のところに訪ねていく人は、全然同情されないのだ。(笑)

しょうがないので、6時半頃、病院を出て、慌てて、デパ地下に飛び込み、適当におかずを買って帰った。

でも、やはり、母が入院中でも、私が夕食を作る方が良いのかも知れないと思うようなことがあった。
妹は、自宅でご飯を食べることができる上、8時半になったら、いつものように、甥2人がおばあさんちに上がってきた。
「あら?おばあさんいなくても上に来るの?」と聞いたら、「うん、下(自分の家)にいると、あれをしなさい、これをしなさいと言われるから上にいるの」とのこと。
どうも、甥たちのお母さんが、どこのお母さんも同じだろうが、夕食後は、部屋や台所を片付けて、子供達をお風呂に入れて、寝かせれば、一日が終わると思うと、先を急ぐのかも知れない。
どうも、その避難先がおばあさんの家のようなのだ。
夕食後は、おばあさんちで、ウダウダ過ごすのが、赤ちゃんのときからの習慣だから、急には止められないのだ。

そういう家族の状況を見ると、やはり、私は、母の病院を早めに出て、どうにか、曲がりなりにも、ご飯を作った方が良さそうだなと思った。

そうは言っても、買い物はできないし、買い置きはないので、当分、デパ地下に飛び込むしかない。
ま、それも良い経験かな。



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2002年05月07日(火)

だし


甥2は、面白い。
この前、夕飯のときに、「お味噌汁の汁だけ、ちょっと飲ませて」というので、小皿に少し入れてあげた。

「美味しい?」と聞くと、「美味しいよ」と言う。
「でも、今日のは、お味噌が美味しいというのではなくて、お味噌と出汁がうまく合っている感じ。『お味噌が美味しい』というのは、あの黒いお味噌。
今日のは、お味噌自体は、そんなに美味しくない」とのことであった。

今日のお味噌は、おばちゃん手作りなんだけどな〜(できはよくないけれど)

我が家では、やはり、岡崎のまるや八丁ゴールドだけが、「お味噌」としての高い評価をもらえるようだ。(でも、今仕込んでいるのが成功すれば、来年は私のお味噌も高い評価をもらえるだろう)

この子に、「あんたんちのだし、給食のだし、色々飲むだろうけれど、まりのが一番美味しいでしょう?」というと、素直に、「うん」と言った。

甥1も、出汁には無関心なのだけれど、この前、汁がおいしくできたので、ちょっとだけ飲ませたのだが、甥1は、美味しいでも、不味いでもないのだけれど、独り言のように、「うん?これは何の味だ、かつお節だな」とか、言っていた。
甥1は、その味を楽しむと言うほどは、出汁に興味ないようだが、一応、本枯れ節の出汁を飲ませれば、それはかつお節だと言うようになったことは、すごい進歩だとと思った。(私の教育の評価)
お汁を飲んで、「これは、かつお節だな」と言う小学校6年生は少ないと思うが、どんなものだろう?


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