(21.04.04)


ふしぎなキリスト教  橋爪大三郎・大澤真幸 著 講談社現代新書  2011年5月20日 初版

聖書 (聖書協会共同訳)革装  日本聖書協会 2018版 






 キリスト教へのアプローチは私の場合二つの流れがありました。 一つは大学院まで学んだ物理学です。 A・アインシュタインをはじめほとんどの物理学者は神の存在を前提としていました。 神が創造したこの世界の秩序を、 哲学と数学という道具を使って解明する学問が物理学だという認識なのです。 物理学を学ぶ学生の少なからぬ割合が同様に思っていました。

 社会人になって工学(テクノロジー)の世界に関係するようになりました。 工学は乾いている、とてもドライだと感じました。 やがて工学には神がいないからドライなのだと分かりました。 日本の典型的なエンジニアは、 今となっては当たり前に思いますが、 神を意識していないことも分かりました。



 もう一つのアプローチは芸術です。 特にバロックやルネッサンス以前の音楽や美術は、 そのほとんどが神を讃えるためにあるようなものです。 クラシックやロマン派の時代になると直接的な賛美ではなく間接的なそれに変化しましたが、 それはキリスト教を説明抜きに表現しているに過ぎません。

 音楽や美術に傾倒するにつれキリスト教に親しむことも多くなりました。 聖書を参照することも多くなってきました。 また、10代の半ばに聞いていたアメリカやイギリスのロックやポップスなどの多くにも、 キリスト教が色濃く影響していることが遡って理解できました。





                      


 「ふしぎなキリスト教」はこの宗教に関する素朴な疑問を解明してくれる本です。 特に印象に残ったのは、
・ユダヤ教とキリスト教の関係(旧約聖書と新約聖書の関係)
・預言者とは、救世主とは、神の国とは何か、
・神とイエス・キリストの関係、三位一体とは何か、
・ユダヤ教やイスラムでは禁じられている偶像崇拝がなぜ許されているのか、
・聖書と科学の関係
などです。

 二人の著者、橋爪大三郎氏と大澤真幸氏はいずれもキリスト教徒ではないので、 やや冒涜的とも思われる大胆な疑問も提示していてかなり面白いです。 私はこの本を今年になって4回読みました。

 この本に書いていないことでぜひ知りたいのは、
・キリスト教の名において数百〜数千万人もの殺人を犯したことをどう位置付ければいいのか、
・現代における種々のプロテスタント会派の違い
などです。






 今年になって新しい聖書を購入しました。 30年前に購入したものと同じ聖書協会共同の新しい訳です。 18.500円もしました。 前の聖書とは表現が微妙に異なっているので比べ読むみすると面白いです。 新しい訳の方がより明確な言葉を選んでいるように思えます。

 それでも日本語への翻訳には本質的な齟齬があります。 例えば”Father(父)”です。 この英単語には(おそらくヘブライ語、ギリシア語やラテン語にも)、@父親 A神 の二つの意味があります。 しかし、日本語には本来@の意味しかありません。

 多くの日本人は「父」という言葉に、 神ではなく自分の父親のことを思うでしょう。 これは直感的に聖書を理解する妨げになっています。 「父」に代わる適当な言葉を創造すべきだったのですが、 今となってはしかたがないことかも知れません。 他にも翻訳によって大切な概念が変えられているのではと危惧します。



 さて、 神を信じれば必ず幸福になると思っている方もいると思いますが、 それはとんでもない。 旧約聖書の「ヨブ記」を読んでください。 神は気まぐれにひどいことをするのです。 「ヨブ記」は短かいので聖書に慣れていなくても読むことができます。



 ・・・むかしむかしのことです。 「ヨブ」は恵まれた暮らしをしていました。 信仰にも厚く模範的な人だと思われていました。 そんなヨブは神のお気に入りでした。

 ある日、神にサタンが言います。
「ヨブは恵まれているから信仰に厚いのだ。 何もかも取り上げて御覧なさい、ヨブは神を呪いますよ」
神はサタンの言うとおりにさせました。

 やがてヨブの自慢の息子や娘はテロや事故、病気で次々と死にました。 飼っていたたくさんの羊やロバも逃げ出し、やがてヨブは無一文になりました。 ヨブはそれでも信仰を失いませんでした。

 サタンは神に言います。
「ヨブは無一文になっても健康なので信仰を失わないのですよ」
神はサタンに命じてヨブから命以外のすべてを取りあげました。

 重い皮膚病やらで見る影もなくなったホームレスのヨブに、 元友人たちはいいます。
「お前は悪いことをしたからこういう目に合うのだ、悔い改めなさい」
ヨブは言い返します。
「私は何も罪を犯していない、神はそれを御存じだ」・・・

 この後は神学論のような会話になり興味深いのですが、それはまたの機会に。 要は、神は敬虔な信徒に対しても上記のようなこともされるということです。 とても怖いですね。





 最後に、私の宗教的なスタンスですが、 神の存在は信じるがどの宗教にも属していない、です。 私は教会に限らず、お寺とかモスクとか、それにかかわる行事とか「人が作ったもの」は信じられないとのスタンスでした。

 しかし最近では聖書をもっと深く正しく読むためには神父、牧師から教わることが必要だとも考えるようになりました。 クリスチャンになるまでにはまだ相当距離がありそうですが、 将来は可能性ゼロというわけでもありません。





   







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