(11.08.11)


音楽の聴き方  岡田 暁生 著  中公新書  2009年12月発行(第19回吉田秀和賞) 



 久々に読み応えのある本に出合えました。意味を考えながら何度も読める本に出合えました。 著者は京大の准教授です。







 よいものはなかなか分からないものです。 すぐに分かるもの、「分かりやすい」と感じるものは、底が浅くて、 実はそんなによいものではないと思います。また、本質的に難しいものを無理に分かりやすく表現すると、 核心が欠落した浅はかな理解にとどまるおそれがある上に、 本質を理解していないことに気がつかないかもしれません。

 学問でも芸術でも、それがよいと分かるまで、美しいと分かるまでは、 大変な時間がかかるものです。たとえば、とてもシンプルなオイラーの方程式を、 とても単純なパウリの原理を美しいと感じるには、数学や物理学に関する 基本的な素養が必要で、それを学ぶには相当の時間と労力がかかります。

 ピカソのキュビズム、ブルックナーのシンフォニーがなぜ美しいかを、 分かりやすく説明をするのはとても難しいと思います。難しい学問や芸術だけではなく、 政治や経済、あるいは社会や人間そのものも同じで、 分かりやすい解説を聞くとなんだかわかったつもりになっていても、 実は何も分かっていないことも多いと思います。

 株でもうけるためには、「安く買って高く売る」あるいは「高く売って安く買い戻す」以外に ないのです。とても分かりやすいです。しかし、一度でも株式投資に手を染めた人なら、 それがいかに難しいをよく知っています。この分かりやすい言葉の背後に、勝つための 多くの技術や知識やノウハウがあることをよく知っています。

 したがって、何でも分かりやすく表現する昨今の風潮に対しては警戒しなくてならないと思います。 たとえば、分かりやすい解説やプレゼンテーションは、視聴者に気づかせたくない 面を隠すために意図的に行われることもあるでしょう。「悪質なわかりやすさ」とも 言うべきでしょうか?

 政治家も、ニュースキャスターも、お笑い芸人も、オレオレ詐欺師も、 皆が「悪質な分かりやすさ」を求め横行させている昨今、分かりやすさには大きなリスクが 伴うかもしれません。



 この「音楽の聴き方」( 岡田 暁生 著)は、そのシンプルで分かりやすいタイトルによって、 内容を誤解されるか軽視されそうに思えます。 同書は、タイトルのような音楽の入門書でもないし、音楽の聞き方をやさしく指南する本でも ありません。

 この本は、人が音楽を聞くとき、いかに多くの前提条件がその受容のしかたに 関係しているのか、音楽に国境はないとか、自由に音楽を聴くとか、心を白紙にして音楽を聞く、 などというのは誤解・欺瞞・幻想に過ぎないことを喝破しています。

 また、この本は短時間では読めないようにできています。著者の意図することを的確に理解するには、 本書で引用されているセロニアス・モンク、ポリーニなどの演奏を聞かなくてなりませんし、 シューベルトの歌曲やソナタなども知らなくてはなりません。

 その他にも、いろいろなことを調べながら、いきつ戻りつ、繰り返し読まなければ その良さ、著者の意図が分からないかもしれません。 はやり?のスローリーディングでしょうか。

 かつて、小林秀雄氏はその公演の中で、 文章を速く書くことに対して、
「そんなに速く書いたら、だいいち、恥ずかしいじゃないか」
と言いました。この本を読んで、その言葉がふと頭をよぎりました。
「そんなに速く読まれたら、だいいち、情けないじゃないか」





(11.02.11)


苦役列車  西村賢太 著  新潮社  2011年1月発行(第144回芥川賞受賞) 

鬼宴(おにのうたげ)竹森一男 著  牧野出版 1971年発行 初版本 



 西村賢太著「苦役列車」は先の芥川賞を受賞したばかりで、今話題の本です。一方の竹森一男著「鬼宴 おにのうたげ)」は今から40年前に出版され、一部で少しだけ話題になった本です。 この2冊の共通点は、私の心にある種の動揺を与えてきわめて 不安定にすることです。







 「苦役列車」の著者は、中卒、犯罪歴ありをむしろ積極的に前に押し出しています。 そしてこの「苦役列車」を、今はもう稀かもしれない私小説だとしています。 小説の主人公「貫太(かんた)」は、中学を卒業後その日ぐらしの日雇いでかろうじて生計を立てています。 そして、世を恨み、人をバカにして孤立し、なんとか生命だけは支えている最底辺の若者 です。

 もう一方の「鬼宴」も私小説に近いだろうと推測できます。 この小説の主人公「梶啓介(かじけいすけ)」とおなじく、著者も貸本向けの大衆娯楽小説の ライターです。こちらの主人公は、後世に残る純文学の小説家という夢に憧れながらそれをを諦め、 平凡な読者の一時的な慰みとしての文章を多量に書いて、家族の生計をささえています。そうやって、 気が付くと老年直前の58才になってしまいました。

 貫太は父親が性犯罪者であることなどによって、どうせ努力してもムダと中学にして人生を 諦め、必然的に最底辺の自堕落な生活に甘んじています。一方の梶啓介は、純文学に取り付かれても売れずに 底辺に沈んでいく友人たちを見るにつれ、とりあえず売文で生計を立てるのを優先させて きました。どちらの小説にも、生活に困って苦悶している人々や落伍者が、リアルに描写されている ところが、私小説であるということと並んでその共通点です。



 実は私は20才の頃から、自分が将来 生活に困るのではないか、落伍者になって生きていけなくなるのではないか、 という脅迫観念が付きまとって、時には精神が不安定に なったりすることが幾度となくありました。それは、零落への本能的な恐怖感とでも言いましょうか。 そして、そんな人たちを実際に見たりすると、こころが動揺して どうしようもなくなることもあります。

 例えば、早朝の新宿の裏通りで、汚い格好をした中年の浮浪者が古いギターをかき鳴らしながら 歌っているのを見た時、早く安全圏に戻ら思いながらも足が震えて動けなくなったり、 道で日雇いを求めて「立ちんぼう」をしているのを見て、悲しくて泣きそうになったこと もあります。

 また、CDを買おうとしてレジに並んでいると、もう二度と買えなくなるのではないか、という恐怖感 に襲われたり、一人で湯船に浸かっていて、いつかこんな贅沢はできなくなるのではないか、 と不安になったりもします。昔よりは頻度は少なくなっていますが、そんなことは今でも あります。



 さて、小説「鬼宴」を最初に読んだのは30才前後のことで、 この時もやはり大きな恐怖感を覚えたものです。そして、小説の主人公梶啓介のように、 見果てぬ夢は諦めてとにかく普通に生きていくことが正しい人生の選択だろう、と 思ったものです。私に25年以上もサラリーマン稼業を続けさせたは、背後にある本能的な 恐怖感かも知れません。

 「苦役列車」はつい今週読んだばかりですが、 この小説が芥川賞に値するかは別の論者にゆずるとして、 自分がこうでなくてよかった、自分の家族がこうならないようにしなければ、 と強く思いました。投資をしているのも、そのような恐怖から出来るだけ遠くに行きたい、 という思いが背後にあるのかも知れません。

 そのうちなんとかなるさ、と気楽に構えるのも1つの考え方でしょうが、どうも私には 出来そうにありません。なんとかするのも、なんとかしないのも、ほとんどは自分しだい、 そしてほんの少しの運しだいだと思っているからです。





(10.03.20)


ずるい? なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか?  高木高夫 著  潟fィスカバー21 2009年初版本 



 子供の頃から現在までずっと、こざらし2はルールを守ることがどちらかと いうと苦手な方です。 といっても犯罪に走るなどということではありません。たとえ 破っても誰にも迷惑がかからないし、意味がなく面倒くさく窮屈なだけのルールには従いたく ない、という思いを未だに持っています。

 また、日本人はルールの意味をあまり考えず、意味はどうあれそのルールを守ること自体が、 その共同体への帰属心の発露と考えられているようです。一方、欧米では、その事情は まったく異なるようです。この本にはそんなことが書かれています。







 著者は現在も本田技研工業鰍ノ勤務しています。法務関連の部署に勤務し、 たまには社外で講演活動も行っています。また、海外生活がながく、 翻訳も多数あるようです。





 古い話からはじめます。アントニオ猪木(プロレス)VS.モハメド・アリ(ボクシング) をきっかけとして、 1970年代に「異種格闘技」がはやったことがありました。 猪木は極真空手のウイリー・ウイリアムズなどとも一戦を交えました。

 それらの試合そのものは凡戦で、高揚していた気持ちをはぐらかされた思いでした。 どっちが勝ったのか分からなかったのです。 そんな試合になってしまったのは理由があります。それは、双方が相手の一撃必殺の 得意技を禁じるようなルールをつくってしまったので、 お互いに決め手がなくなったからです。 どちらも勝てないルールの下で戦ったので、どちらも勝てなかったのです。

 「本当はだれが一番強いのだ?」
異種格闘技を見たこざらし2の友人たちにはそういう疑問がわきあがりました。 プロレスが好きな友人は、
「それは□□プロレスの○○だ」
と言い、空手を習っている別の友人は、
「△△空手の××が最強に決まっている」
と言いました。

 「お前はどう思う」
と尋ねられ、こざらし2は、
「誰が一番強いかはどんなルールで戦うかによる」
「□□プロレスのルールで戦えば○○が勝つし、△△空手のルールだと××が勝つ」
「ルールしだいで誰でも勝つことが出来る」
などと答えました。それを聞いたプロレスファン、空手ファンは しらけた顔になりました。中には怒り出す人もいました。

 「それなら、お前はどんなルールならアントニオ猪木に勝てるんだ?」
「リングに上がる前に、微分方程式を解くルールにする。先に正解した方が リングに上がり、そこでゴングが鳴る。プロレスと同じようにカウント20までに リングに上がれなければ負けにする。それなら僕も猪木に勝てる」
「そんなバカなルールがあるか?」
「あるよ、小学校の運動会で計算競争があったじゃないか、走るのが一番遅い奴でも一等 になれた」
「…」



 別の例をあげましょう。たとえばボクシングの亀田と相撲の白鵬とでどっちが 強いか考えて見ましょう。まず、相撲のルールで戦えばこれは勝負になりません。 相撲ではこぶしを使うことが禁止されているので、これではボクサーは何もできません。 せいぜい軽いフットワークを使って土俵を逃げ回ることしかできません。 そしてその場合でも、 逃げ回っている亀田に、審判の親方が注意し、従わないと負けになってしまうでしょう。

 逆にボクシングのルールでこの2人が戦うとしたらどうでしょう。 白鵬と亀田、これだけの体力差があれば、ボクシングでも白鵬が亀田に勝ちそうです。 しかし、実はそうではありません。 ボクシングには相撲にはない体重制限のルールがあります。 そのルールでは、白鵬は100キロ近くも減量しなくてはリングに上がれないのです。 もし仮に無理に減量すれば白鵬はただのやせ男となり、 亀田の敵ではないでしょう。

 まだ例はあります。つい先日のオリンピック、浅田真央とキム・ヨナの 白熱したメダル争いがあったのですが、 これはトリプルアクセルの得点を大幅に高いルールならば、 メダルの結果は異なっていたかも知れません。男子フィギアも4回転ジャンプの得点の ルールしだいで、実際とは異なる結果になったに違いありません。



 スポーツは勝敗ははっきりするので例にしやすいのですが、実はビジネスや戦争など、 競争や戦いでは、その勝ち負けはルールしだいで決まるのではないか、 という考えを以前からこざらし2は強く持っていました。 言い換えれば、ルールを自分の都合よく作った方が勝つ確率が大きい、とも言えます。

 ルールを作る、というと違和感を覚えるかも知れません。 ルールははじめからあるものと思われているからです。 最も重要なルールである憲法さえもアメリカに与えられ、 それを一回も変えずにいる日本人は、ルールは外から与えられるもの、 という意識が強いと言われています。

 日本人は与えられたルールの中で真っ当に戦うことに美意識を持っています。 しかも、そのルールも出来るだけ狭く解釈することを潔し、 とする傾向になります。たとえば、高校野球では敬遠のフォアボールは卑怯だと みなされます。あのゴジラ松井が一試合で5つの敬遠された時、それを指示した監督には、 ルール違反をしたわけではないのに非難轟々でした。



 これに対して特に欧米では、戦いはルールを作るところから始まる、 ルールが確定して時点で戦いの勝敗はほとんど決まる、 と考えているようです。そういえば、経済でも思い当たることが沢山あります。 特にアメリカは、覇権国として自国に有利なルールを作る技術に長けています。

・1985年のプラザ合意 …アメリカが他国にドルに対するルールを強引に変えさせた。
・1985年ヤングリポート …アンチパテントからプロパテントへルールを変えることを提案した。
・1991年の日米半導体協定 …アメリカの半導体を20%使うルールを強引に認めさせた。
・2005年のパルサミーノ・リポート …ルールをイノベートすることがアメリカを強くするとした。

 これ以上はこの本を買ってお読みになってください。



 ルールを有利に決めた方が戦いに勝つと考えていると言いましたが、 同時にルールとは移ろいやすくて信用できないもの、 誰かが有利になるように巧に仕組まれたもの、とこざらし2は思っています。 破っても誰にも迷惑がかからない場合は従わなくてよいルールは、 この世の中にたくさんある、と考えています。