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(16.04.30) T・S・エリオット 「荒地」 (1922年作品) 難解でよくわからないながら、もう40年もずっと心を寄せている詩、 それがT・S・エリオットの「荒地」です。 何度も何度も読んでいるうちにこの長い詩をほとんど暗記した時期もありました。 なぜこの詩に惹かれるのでしょうか? |
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若き日のT・S・エリオット(Eliot)
「4月は残酷極まる月だ」 ’APRIL is the cruellest month,’ 極めて印象的なフレーズを冒頭に持つこの詩に私が出会ったのはまだteenの時です。 シュルレアリスムの詩で知られる西脇順三郎氏の翻訳でした。 言葉の洪水が織りなすのパッチワークのような多くのイメージの快感、 その中に時折現れる忘れがたい特定の言葉のきらめき、 理解しがたい未知の世界との梯がここにあるのではというときめき、 「荒地」に対する私の姿勢は今も当時とそんなに変わりません。 「リラ(ライラック)の花を死んだ土から生み出し」 ’breeding Lilacs out of the dead land,’ を知らなければ、私は庭にライラックを植えなかったでしょう。 ライラックのほのかに甘い香りを楽しむ春の日、 「荒地」の冒頭から2行目を思い出さずにいられません。 「地面を雪で忘却の中に被い」 ’covering Earth in forgetful snow,’ は雪国で暮らしたことがなければ理解できないイメージではないかと思います。 雪は昨年と今年の記憶を分断し、 雪が融ける春は新しい記憶の始まりなのです。 それが「残酷」とは逆説のようにも思えます。 (本来の意味は、第一次世界大戦の忘却ですが…) 「シュタルンベルガ・ゼーの向こうから 夏が夕立ちをつれて急に襲ってきた」 ’Summer surprised us, coming over the Starnbergersee With a shower of rain;’ このシンプルさは完璧です。 何も言うことはありません。 ところで「シュタルンベルガ・ゼー(湖)」と言えば、ヨーロッパの人々は あのバイエルン国王ルードヴィヒ2世が変死した湖であることを思い出すでしょう。 「ヒロシマ」と言えば日本人はすぐに「原爆」をイメージするのと同じです。 (最近は牡蠣やカープ、マツダを思い出す人も多いと思いますが) 詩は言葉のイメージの積み重ねですから、 特定の言葉、センテンスに自分なりのイメージが湧かないとさっぱり感じることが出来ません。 「荒地」は全編にわたってダンテの「神曲」と聖書など多くの古典からの引用がちりばめられています。 しかし、私には「神曲」と聖書からのインスピレーションがないので、 おそらくこの詩全体のの真意は永遠に分からないでしょう。 ところが「荒地」にはよく知っている引用もいくつかあります。例えば、 さわやかに吹く風は ふるさとへ わが愛欄(あいらん)の子よ 君は何処をさまようや。 ’Frisch weht der Wind Der Heimat zu, Mein Irisch Kind, Wo weilest du? ’ これはワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」の1幕からの引用です。 アイルランドの王女イゾルデを船でアイルランドのコーンウォールに連れて行く途中で水夫たちが歌います。 この引用によって、「荒地」の中にワーグナーの「愛と死」のインスピレーションが組み込まれています。 ※ ’Mein Irisch Kind’は直訳すれば「私のアイルランドの子」という意味ですが、 西脇順三郎氏は「わが愛欄(あいらん)の子よ」と翻訳しています。 日本人だけに分かるシャレなのですね。 以下「荒地」の冒頭です。全編はこの20倍ぐらい長いです。 I. THE BURIAL OF THE DEAD 埋葬 APRIL is the cruellest month, breeding 四月は残酷極まる月だ Lilacs out of the dead land, mixing リラの花を死んだ土から生み出し Memory and desire, stirring 追憶に欲情をかきまぜたり Dull roots with spring rain. 春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。 Winter kept us warm, covering 冬は人をあたたかくかくまってくれた。 Earth in forgetful snow, feeding 地面を雪で忘却の中に被い A little life with dried tubers. ひからびた球根で短い声明を養い。 Summer surprised us, coming over the Starnbergersee シュタルベルガ・ゼー湖の向こうから With a shower of rain; we stopped in the colonnade, 夏が夕立を連れて急に襲って来た。僕たちは廻廊で雨宿りをして And went on in sunlight, into the Hofgarten, 日が出てから公園(Hofgarten)に行って And drank coffee, and talked for an hour. コーヒーを飲んで一時間ほど話した。 Bin gar keine Russin, stamm' aus Litauen, echt deutsch. 「私はロシア人ではありません、リトアニア出の立派なドイツ人です」 And when we were children, staying at the archduke's, 子供の時、いとこになる大公の家に滞在っていた頃 My cousin's, he took me out on a sled, 大公はあたしを橇に遊びに出かけたが And I was frightened. He said, Marie, 怖かった。マリーア、 Marie, hold on tight. And down we went. マリーア、しっかりつかまってと彼は言った。そして滑っておりた。 In the mountains, there you feel free. あの山の中にいるとのんびりした気分になれます、 I read, much of the night, and go south in the winter. 夜は大がい本を読み冬になると南へ行きます。 |
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(16.01.30) 三島あるいは優雅なる復讐 高橋英朗(ひでお) 著 2010年8月26日 第一刷発行 飛鳥新社 本の帯には、 「三島由紀夫 その秘められた恋、不可能な恋」 「大胆な仮説、緻密な推論で解き明かす、『豊饒の海』最大の謎。」 と書かれています。 長編小説「豊饒の海」には実在のモデルがあったのです。特に第一巻「春の雪」の「清顕」は三島自身、 そしてヒロイン「綾倉聡子」は、 今日フィリッピンの公式訪問から帰られた、あの佳人。 |
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好き勝手なことばかりしていた印象が強い三島由紀夫は晩年(といっても40才代前半)、 人生で叶わなかったことがふたつあると言っていたそうです。 ひとつは、ノーベル文学賞が取れなかったこと、 もうひとつは当時の「本命の人」と結婚できなかったこと、だそうです。 ノーベル賞は文学界の先輩、川端康成にいったので日本人で似た傾向を持った自分にはもう来ないだろう、と 三島は思っていたようです。もっともな話かもしれません。 そして、他のトラブルもあり晩年の三島は川端と距離を置くようになります。 そして「本命の人」とは、当時の正田美智子さんです。 三島が正田さんと会っていた頃、すでに水面下では当時の皇太子のお妃選びが佳境にあり、 三島と言えどもその恋は憧れで終わる以外ありませんでした。 そこで、小説家三島由紀夫は「春の雪」を書き、その物語の中にかなわなかった恋を昇華させようとしたと、 著者は主張します。 現実の世界での三島は、後に皇太子后となった恋の相手を諦めましたが、 「春の雪」の清顕は、皇族と婚約をしたことによってかえって聡子との恋を燃え上がらたのです。 「春の雪」では、小説「潮騒」のようなストレートな恋はなく、 本来の三島らしく激しく歪がんだ命を懸けた真剣なちぎりがあります。 もし、アメリカから輸入された(三島が嫌った)言論の自由が日本になかったとしたら、 三島は間違いなく不敬罪で逮捕、おそらく死刑になるような物語です。 三島もほんとうはそうしたかったのでしょうか。 なお、物語には川端をモデルとした本多も登場、こちらには豊饒の海の後半で復讐しています。 ----------------------------------------- さて、私はこの著者の高橋先生にちょっとした縁があります。 あれは1985年ごろです。 あるコンサートの休憩時間、ふと横をみたら高橋先生(当時は明治学院文学部の教授)がおられるではありませんか。 私は学生の頃に、「人間の歌 モーツァルト」(白水社)や、「モーツァルト」(講談社現代新書)など を数冊読んで高橋先生に憧れていました。その本人がそこに居るので私はたいへん驚きました。 見ず知らずの人にいきなり声をかけられるのは失礼なのは重々承知していましたが、 こんなチャンスはないと思い高橋先生に話しかけました。若気の至りですね。 それはたぶん、「先生の『人間の歌モーツァルト』を読んで、◎○に感動しました!」といったようなことだった、 と思います。 高橋先生と話していたのは数分間だけですが、最後に、「モーツァルトが好きなら、定期的に開いている会があるから遊びに来なさい」 と誘ってくれました。 それは「モーツァルティアン・フェライン」というアマチュアの愛好会で、その会長が高橋先生でした。 それから数年間、私は月1回日曜の午後に行われる「モーツァルティアン・フェライン」の例会にかかさず通うことになります。 場所は原宿、ギャルやコギャル(古い?)、クロギャルにもまれながら竹下通りを抜け、 明治通りにぶつかる直前にある「カーサ・モーツァルト」です。 その1Fは喫茶店、2Fは資料室、3Fはホールでした。 カーサ・モーツァルトの当時のオーナーは中村先生で、モーツァルト好きのお医者さんでした。 ホールにはアウグスト・ボルクマンの「シカネーダーに招かれたモーツァルト」の大きな油絵(本物!) が展示されていました。 趣味のためにこんなことができるなんて優雅だなあ、 羨ましいな、将来そうなりたいなあ、と思いました。 例会は高橋先生をはじめ博識・碩学の皆さんのモーツァルトに関する「研究成果」の発表と、 それにかかわるレコード演奏でした。オーディオも、タンノイのスピーカ、 マッキントッシュのパワーアンプなど、総額1.000万円は下らない装置でした。 またザルツブルグへの旅行、 ウィーンフィルのモーツァルトを本場で聞いたことなど、諸先輩方はその体験を嬉しそうに話すのでした。 会でほぼ最年少の私は、先輩方の話をただただ感心して拝聴しているだけでした。 例会の途中、1Fから運ばれてくるコーヒーの香りも覚えています。 例会では年に1〜2度、ミニコンサートも行われました。 弦楽四重奏やピアノ演奏などの室内楽です。 私は会場作り、受付など体を使うことをしました。 1回だけですが、コンサートの司会進行もしました。 演奏するのは準プロ級の人たち、あるいは若手のプロです。 コンサートが終わった後の打ち上げで、その日チェロを演奏したNHK交響楽団に入ったばかりだという若手と 話したことがあります。話の内容はもう忘れましたが、彼のチェロケースにはたくさんのステッカーがベタベタと貼ってあり、 普通の若者と変わらないんだなあ、と思ったことだけは覚えています。 ミニコンサートには、ピアニストの遠山慶子さんが来ていた(ピアノは弾きませんでしたが)ことも覚えています。 その他にも、その後各界で活躍される方々、演出家や音楽家、お医者さん、板前、翻訳家、有閑階級の奥様方やその令嬢など、 多くの個性的な方々が居られました。 そのような方々と、例会の後で夕事を共にするのも楽しかったです。 普通のサラリーマンとはやや違う世界でした。 私は数年後、仕事の関係で首都圏を離れてしまい、 あの楽しかった日々は思い出の1ページになってしまいました。 高橋先生は今から2年前、モーツァルトのいる天国に旅立たれました。 |
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(16.01.23) 豊饒の海 三島由紀夫 著 三島由紀夫全集 第18・19巻 1975年2月25日発刊 新潮社 この何年も読もうと思いながら、なかなか決心がつかなくて果たせないでいた「豊饒の海」、 ついにこの年末年始で読もうと決めました。 全集で二巻、計1.500ページに及ぶ長編小説は年末年始では読了できず、 最後のページをめくったのは1月21日でした。 その間、壮麗でデープな三島の世界を心ゆくまで堪能しました。 |
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「豊饒の海」が完成したのは作者が自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決する当日、1970年11月25日でした。 この小説は作者最長の作品でもあり、以下の4巻からなります。 主な登場人物も簡単に併記しました。 第一巻:「春の雪」 …清顕(きよあき)、聡子、本多 第二巻:「奔馬」 …勲、本多 第三巻:「暁の寺」 …ジン・ジャン、本多 第四巻:「天人五衰」 …透、聡子、本多 「春の雪」 …時は大正(1910年代)。 華族の娘聡子がある皇族と婚約した。清顕は聡子への恋心が猛烈に芽生え、 ついには性的な関係に及んでしまう。 聡子は清顕の子を堕胎したあと、一方的に婚約を破棄し尼僧になってしまう。 清顕は友人の本多とともに、聡子に会おうとするが果たせなかった。 清顕は20才で病死する。 「奔馬」 …時は昭和初期(1930年代)。 裁判所の判事となった本多は、剣道の大会で勲と知り合う。 本多は勲の体に清顕と同じ三ツ星の黒子があることを知り、勲は清顕の生まれ変わりだと確信する。 勲が政府要人の暗殺未遂で逮捕された時、本多は判事をやめ弁護士となって勲を救う。 しかし、勲は20才で割腹死する。 「暁の寺」 …時は終戦後(1950年代)。 思わぬ偶然で大金持ちとなった本多は仕事を止め、タイやインドに旅し、生まれ変わりの秘密を知る。 ある時タイの王女ジン・ジャンが本多の別荘に泊まった。 その裸身を覗き見て楽しんでいた本多は、そこに三ツ星の黒子があることが分かり、 ジン・ジャンは勲の生まれ変わりだと確信する。 しかし、ジン・ジャンは帰国後20才で毒蛇にかまれ死んでしまう。 「天人五衰」 …時は高度成長期(1970年代)。 子供がいない本多は、天涯孤独の少年透を養子に迎える。 透の体には三ツ星の黒子があることはあらかじめ承知していた。 透はジン・ジャンの生まれ変わりではないかもしれないという疑念をいだき、 自害するが果たせず、それによって盲目となって20歳過ぎまで生きながらえる。 一方、本多は60年ぶりに尼僧聡子に会う。 聡子は清顕のことを忘れていた。 「豊饒の海」には10も20も切り口があり、その全部を書くことはとてもできません。 以下では、三島がなぜ45才で割腹死したのかだけに焦点を絞りたいと思います。 これについては、世の中には非常に多くの説・考察があります。 ・「完全主義者の悲惨な結末」説 ・「人生のシナリオ」説 ・「作家としての行き詰まり」説 ・「日本国への憂い」説 ・「クーデター失敗」説 など。 私は上記説はいずれも採りません。 以下では、「豊饒の海」を踏まえて、割腹死に対する私なりの考えを書きます。 @「老」への徹底的な嫌悪感 「春の雪」の清顕、「奔馬」の勲、「暁の寺」のジン・ジアン、いずれも20才前の若者です。 三島はこれらの若者の美しさを称えて惜しみません。 三島の関心は、彼らの「心」にはなく、彼らの「肉体」に限ります。 しつこいほどの修飾と比喩と暗喩で、三島はその肉体の美しさを称えます。 その一方、40才、60才、80才と残酷にも衰え行く本多の肉体の醜さを三島は描写します。 他に登場する老人達をも容赦しません。 三島は、醜くなってゆく老人には何の同情もなく尊敬も抱いていないようです。 醜いものは嫌悪されて当然、醜い老人はさっさと滅びてしまえ!、 これが三島の確信でありまた核心です。 三島は、衰退するの自分の肉体を許すことができなかったと思います。 醜い老人になって生きながらえる三島由紀夫を否定せざるを得なかったと思います。 許せるギリギリの年齢が、三島にとって45才だったのでしょう。 A「割腹死」そのものへの憧れ 「奔馬」は、割腹死に憧れる勲を中心とする小説です。 割腹死の美しさを称えることを三島は隠しません。 三島はこの他にも割腹死に憧れる小説を描いています。 中でも「憂国」は割腹死そのものを扱う小説です。 三島は、人生でただ一度しか経験できない割腹死に憧れ、 実際に行動に移したのでしょう。 B自分が未来永劫忘れがたい存在になるため これは「人生のシナリオ説」に近い考え方です。 三島は、自分を未来永劫忘れがたい存在にするために、 若いうちに壮烈な死を世の中に示すことを計画していたと考えられます。 しかし、「天人五衰」の最後では、聡子(痴呆になったわけではないのに)は清顕の存在を忘れているのです。 清顕は聡子の心と体に、生涯消すに消せない決定的な跡を残したはずにも拘わらずです。 その意味のこのB説には疑問が残ります。 三島がなぜ45才で割腹死したか? B説はかなり否定していいとか思います。 A説だけならば、もっとずっと後に割腹死してもよかったでしょう。 また@説だけなら、手間のかかる割腹死でなくてもよかったでしょう。 結論は@+A説が有力、少しだけB説もあるか?です。 |