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(19.07.13) アインシュタインの生涯 C・ゼーリッヒ著 東京図書 1978年8月30日 第6刷 ハイゼンベルクの思想と生涯 A・ヘルマン著 講談社 1980年1月25日 第2刷 |
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若い頃読んで感銘を受けた本の多くが古くなって、ページが茶色に変色してきました。
私はまだ老眼にはなっていませんが、しかしさすがに細字に長時間付き合っていくのはつらくなってきました。 このような本たちはもう誰にも二度と目を通されることもないだろうと思います。 BOOKOFFや古本屋でも引き取らないでしょうから。 私がいなくなった後にそのような本たちが多量にあれば処分にも困るだろうと思い、 これから少しづつ捨ててしまおうかと思っています。
アルベルト・アインシュタインは10代後半から数年間、私のアイドルでした。 崇拝するアイドルを持った人と同じように、私も彼のように考え、彼のようにふるまおうとしました。 真実や美を最も愛するようにしました。 物理学や数学、芸術の中に究極の美を見出そうとしました。 モーツァルトを好きになったのもアインシュタインの影響が一番大きかったのでしょう。 しかし、普通の人はモーツァルトやアインシュタインには決してなれないのです。 私は非難関大学にやっとのことで受かり、そこで理論物理学を専攻し、大学院に行って挫折を味わいました。 そこでは理論物理は天才のみに許される学問だということを嫌というほど思い知らされ、メシを食うために民間企業に入り込みました。 さて、「アインシュタインの生涯」の冒頭には、 アインシュタインのスイスとの係りは敗北によって始まった… と書かれています。 彼は南ドイツに生まれましたが、その国の厳しい教育についていくことができず、高校の途中でやむなく自由なスイスに移ったのでした。 また、彼は「空気を読む」のが特に苦手であり、周囲と付和雷同するのを生涯嫌いました。 スイスの大学でもそれは変わりませんでした。 彼は好きなことだけに極端に熱中し、やるべき課題を忘れたりするのもしばしばでした。 後に「相対性理論における四次元連続体」の研究で著名になったH・ミンコフスキーは、この理論を作ったのが自分が教えたかつての学生だったことに驚き、 さらに、「え! 怠け者のあのアインシュタイン?」 と言ったそうです。 さて、相対性理論には「特殊相対性理論(1905年)」とそれからほぼ10年後に完成した「一般相対性理論」からなります。 特殊相対性理論はアインシュタインがスイスの特許庁で審査官をしていた26歳の時に完成しました。 その後、一時プラハに移り、そして再度スイスに戻って一般相対性理論を完成しました。 特殊相対性理論は、以下の2つの原理を仮定した上で理論が構築されています。 @光速度不変の原理(光速は常に一定で、かつ宇宙における最高速度である) A相対性原理(すべての物理量は相対的である) ここから、時間や空間が伸び縮みする(時間が速く進んだり遅く進んだりする、長さや重さが変わったりする)ことや、 質量とエネルギーは同等(原爆や原発の基礎理論)であることなど導かれます。 ここで@とAは仮定であって、今でも証明されているわけではありません。 「光より速く動くものが見つかった」「相対性理論は否定された」と、たまに空騒ぎになりますが、 今のところこれらの仮定を否定する決定的な事実は見つかっていません。 もし見つけることができたらノーベル賞は確実でしょう。 特殊相対性理論はその結論だけならば中学生でも理解できる数式で表すことが出来ます。 しかし、一般相対性理論は難解なテンソル算によって表現されます。 この理論は@Aに加え次の仮定の上に成り立っています。 B重力と慣性力は同等(地球などの重力と加速度運動することによって生じる慣性力は同じである) この理論からは、重力や慣性力によっても時間や空間が伸び縮みすること、 あるいはブラックホールだとか重力波などの存在が導かれます。 しかしこの理論は、その成否を確かめる実験や観測が不可能でしたので、ずっと不遇をかこっていました。 理論が出てから100年、やっとブラックホールの写真が撮られ、また重力波を観測することができるようになり注目度が増しています。 一般的には上記の相対性理論までを「古典物理」と称します。 それに対してそれ以後が「現代物理」です。 現代物理は第一次世界大戦前後の量子力学を嚆矢(こうし)とします。 ヴェルナー・ハイゼンベルクはその量子力学で決定的な役割をします。 さてアインシュタインは「天才」ではあったけれど「秀才」ではありませんでした。 これに対してハイゼンベルクは「天才」であると同時に「秀才」でもありました。 アインシュタインと同じドイツ生まれのハイゼンベルクは、 学校秀才でもあり、頼りになるリーダーでもあり、そして多くの人にとって親しい友だったのです。 さらにはスポーツにも秀でていて容姿も立派で、「まさに輝くような若者だった」と書かれています。 ハイゼンベルクは20才過ぎに「不確定性原理」を発見し、量子力学の輝かしい発展のド真ん中に進み出ました。 そして26才で最年少の大学教授になり、30才過ぎにはノーベル賞が与えられました。 これ以上順風満帆な人生はないように思いますが、彼の苦悩はここから始まります。 アインシュタインがアメリカに亡命する原因になった同じ相手との闘いが始まったのです。 政治・軍事の天才、A・ヒトラーです。 ハイゼンベルクはドイツのために働きたいが、ヒットラーは危険過ぎる矛盾に悩みます。 アメリカに先駆けて原子爆弾を作る計画にも、ドイツ随一の物理学者として参加します。 ドイツにはこの戦争を勝ってほしいがヒトラーには勝たせたくない、 そのために出来ることは何か、極限の状況にあって苦悩するハイゼンベルクがこの本には書かれています。 量子力学はその後のエレクトロニクスの発展にダイレクトに結びつきます。 半導体、光通信、超電導、など量子力学の塊のようなものです。 それなくして、コンピュータ、テレビ、インターネット、スマホ、ゲーム機、太陽光発電、自動車、飛行機など、我々の周りにあるものは何一つ実現出来ません。 さて「不確定性原理」は、物理量(例えば「位置」や「運動量」)は「正確に知ることは原理的にできない」ことを主張します。 人類のテクノロジーがまだそこまで進歩していないから「正確に知ることができない」のではなく、 どんなに知ろうとしても「正確に知ることができない」のです。 量子力学における物理量は正確に知ることができないので「確率」でのみ表されます。 あえて荒っぽく例えれば、 「殺人犯Aが12時現在いる場所は、秋葉原20%、御茶ノ水60%、水道橋20%」 という具合です。 しかも常識と異なって理解しにくいと思いますが、 「秋葉原、or 御茶ノ水、or 水道橋」ではなく、 「秋葉原、and 御茶ノ水、and 水道橋」なのです。 警察官が一番確率の高い御茶ノ水で12時に逮捕したとしたら、その瞬間殺人犯Aは御茶ノ水100%になります。 「それならば、殺人犯Aは御茶ノ水だけにいたんだろう」というかもしれませんが、それは違います。 警察官は秋葉原か水道橋のどちらか一方で12時に殺人犯Aを逮捕可能だったのです。 我々の日常では上記のようなことはまず起こりません。 しかし、殺人犯Aを1個の電子、秋葉原、御茶ノ水、水道橋を原子の異なる電子軌道とする微視的な世界ではこのような不確定性が常識なのです。 これは数多くの実験で検証されています。 ハイゼンベルクは提唱したこのような一見非常識な考え方「不確定性原理」をアインシュタインは決して納得しませんでした。 何度も反証を試みましたが、その度に量子力学陣営に論破されてしまいました。しかし、それでも曰く、 「神は決してサイコロ(確率)遊びをしない」 「不確定性原理」を基礎とした量子力学はその後さらに発展して、今日のエレクトロニクスにダイレクトに結びついていることは先に書いた通りです。 私は企業で半導体集積回路(LSI)の設計をしましたが量子力学の知識はほぼ必要とされませんでした。 大きな会社で基礎研究をするには当然必要でしょう。 「量子力学」や「相対性理論」は私にとってかなり苦い青春の味です。 |
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(19.04.06) 物語 イタリアの歴史 藤沢道朗著 中央新書 1991年10月25日 初版 (参考) 夢遊病者たち1・2 C・クラーク著 みすず書房 2017年1月25日 初版 |
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人類の長い歴史の中で、イタリアは二度世界の中心になったことがあります。
最初は紀元0年をまたぐローマ帝国の時代、
そして紀元1.500年をまたぐルネッサンスの時代です。 「物語 イタリアの歴史」は、ローマ帝国から分裂した西ローマ帝国が5世紀に崩壊した直後から、 19世紀の統一「イタリア王国」建国までを扱っています。 この本はイタリアの歴史を順番に解説した歴史書ではなく、10人のイタリア人を主人公とした10の物語で構成されています。 その10人とは、 @皇女 ガラ・プラキディア A女伯 マティルデ B聖者 フランチェスコ C皇帝 フェデリーコ D作家 ボカッチオ E銀行家 コジモ・デ・メディッチ F彫刻家 ミケランジェロ G国王 ヴィットリオ・アメーディオ H司書 カサノーヴァ I作曲家 ヴェルディ この10人、全員がその時代を動かした最も主要な人物ではありません。 忘れ去られたような人物も含まれています。 しかし「物語イタリアの歴史」では、歴史の流れを追いつつこの10人それぞれの個性が浮き立つように書かれています。 とても興味深く面白かったです。
強大だったローマ帝国の最盛期、@皇女ガラ・プラキディアの頃、 ローマの人口は推定200万人でした。全世界の当時の人口が今の数%だったことを考えれば、 この数字は空前絶後と言えます。 ローマ帝国滅んだ後、これを上回ったのは19世紀のロンドンを待たなければなりませんでした。 1.500年も破られない記録を持つローマ、これだけでもこの都市がいかに偉大だったかが理解できます。 その偉大なローマ、A女伯マティルデの頃には人口2万人の地方都市に陥落してしまいます。 人口が100分の1に縮むすさまじい文明崩壊が起こったのです。 「全ての道はローマに通じる」と言われた道路網は寸断、 巨大なコロッシアムは草ぼうぼう、ローマ人があれほど愛した沐浴場はそこで何をした場所なのかさえ分からなくなったといわれています。 イタリア全土(19世紀まではイタリアという地域はあっても国はなかった)は戦乱に明け暮れていました。 B聖者フランチェスコやC皇帝フェデリーコの頃です。 主な戦いは国内のカトリックの教皇と現在のドイツ・オーストリア付近に本拠地がある神聖ローマ帝国の皇帝との戦いでした。 神の代理人である教会と世俗の権力との争いでした。 D作家ボカッチオやE銀行家コジモ・デ・メディッチの時代、 教皇の力がしだいに衰え、一方ハプスブルグ家が皇帝を独占するようになります。 すると今度はイタリア国内の都市国家との闘いが始まります。それらの都市国家にフランスやスペイン、 あるいはオスマン帝国などが絡んで複雑な様相を示します。 しかし一方では、フィレンツェやミラノ、ヴェネツィアなど各都市国家はルネッサンスに入ります。 F彫刻家ミケランジェロをはじめ、 レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロなどが活躍し、イタリアの薫り高い文化は世界の憧れとなります。 ルネッサンスも終わりイタリアは地中海をイスラム勢力に奪われ衰退の道をたどります。 代わって新世界の大部分を支配したスペインが最強国になります。 G国王ヴィットリオ・アメーディオの頃のイタリアは国土をスペインの支配され押しまくられていました。 H司書カサノーヴァの頃に、スペインはハプスブルグ家からブルボン家の支配に移ります。 今度はイタリアはフランスに押しまくられ、衰えたスペインに代わって最強国となったイギリスまでが干渉します。 イタリア統一は夢のまた夢です。 19世紀をまたぐ頃、ナポレオンがユーロっパを席巻しました。 弱小イタリアはもちろん簡単にその支配下にはいりました。 ナポレオン没落後、イタリアはフランス、スペイン、オーストリアによって国土を分断されました。 そのような中、I作曲家ヴェルディはオペラ「ナブッコ」を作曲しました。 その中の「行け!思いよ! 黄金の翼に乗って!」はイタリア統一のシンボル曲になりました。 このような壮大で複雑、激しい流れを持つイタリアの歴史の中で、各10人がどのような思いでそれに立ち向かい戦い、悩み、喜び、あるいは諦めたのか、 この「物語イタリアの歴史」では生き生きと描かれています。 字がびっしり書かれた350ページの新書ですが、氾濫するように見える情報が有機的に結合されていて一気に読める本です。 さて私にとって残念だった本を簡単に紹介します。 それは、「夢遊病者たち1・2」です。これは2冊で1万円以上、私がこの数年間で買った最も高価な本です。 この本は第一次世界大戦がいかにして起きたか、各国の指導層がいかに無能だったかをテーマにしています。 まず、登場人物がとても多くて誰が誰だかよくわかりません。 そこで私はノートに各人物の相関表を作って読むことにしました。 たった1回しか出てこない人物も多数あります。 さらには記述の仕方が短いエピソードの連続で、雑多なエピソードの相互関係がよく理解できません。 次第に苦痛になった私は、1巻の後半で読書をあきらめました。 テーマには十分興味があるのに、相性が悪かったのですね。 このまま終わるのも悔しいので、数年を置いてまた挑戦すると思います。 最後に、歴史と天才の国イタリアにぜひ行きたいと思いました。 |
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(18.05.05) 黄金のプラハ 幻想と現実の錬金術 石川達夫著 平凡社 2000年5月24日 初版 |
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今月私は3年ぶりにプラハ再訪をします。
前回は滞在時間が短かったうえに天気が悪くてプラハを十分堪能できませんでしたので、
今回には期待しています。 私が最初にプラハに関心を持ったのは、20代のはじめにモーツァルトの交響曲38番ニ長調「プラハ」を知ってからです。 モーツァルトは、プラハで大ヒットした「フィガロの結婚」のお礼としてこの美しい交響曲を作曲したと言われています。 モーツァルトはこの街を気に入って5回も訪問しています。 モーツァルトが好きになった街はきっと私も気に入るだろうと思いました。 ぜひプラハに行ってみたいと思ったのは、 9年前にアメリカオバマ大統領が「核なき世界」の演説を見てからです。 演説ははプラハの宮廷が近いフラッチェニ広場で行われました。 ノーベル平和賞の理由となった演説以上に、私は陽光に映えるヴィート大聖堂の尖塔など、 プラハの美しい王宮が印象的に思えました。 プラハ(Praha)はチェコ共和国の首都、人口120万人。 中心部をヴルタヴァ(ドイツ語:モルダウ)川が流れ、 著名なカレル橋がかかっています。 歴史的に数々の戦乱、内乱、占領、混乱があったにも関わらずプラハには中世以来の町並が現存していて、 内外から多くの観光客が訪れています。 尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれています。
プラハの歴史は過度に複雑です。 いくつかの政治、民族、宗教、文化の隆盛や衰退が繰り返され複雑に入り乱れて今日のプラハを形成しています。 プラハの基礎を築いたのは14世紀のボヘミア王カレル(ドイツ語:カール、スペイン語:カルロス、フランス語:シャルル、英語:チャールズ) 4世です。 その後、プラハは神聖ローマ帝国の首都になった時期があるなど長く繁栄を極めました。 しかし17世紀前半、プロテスタント勃興に対するカトリックの奪還戦争である「三十年戦争」がおこり、 以来約300年もの長い間ボヘミアはハプスブルグ帝国の支配を強いられました。 1918年、第一次世界大戦で帝国が瓦解するとチェコはチェコスロバキアとして待望の独立を果たし、 プラハはその首都となりました。 しかしそれからわずか20年、プラハはヒットラーの軍靴によって踏みにじられて第三帝国に組み入れられ、 再び独立を失いました。 第二次世界大戦で当時のスターリンのソ連によってヒットラーから解放されましたが、 チェコはすぐに共産化されてしまいました。 プラハはソ連の支配下に入り「鉄のカーテン」の向こう側に行ってしまいました。 永遠に続くように思われた共産主義ですが、 アメリカなどからの外圧と内部矛盾により次々に瓦解していきました。 1989年、ビロード革命によってチェコスロバキアは共産主義から解放され、 またチェコとスロバキアに分かれて今日に至っています。 チェコは多数派のスラブ人、少数派のドイツ人、それにユダヤ人から成っています。 元々はスラブ人の国でしたが、長く続いたハプスブルグ時代はドイツ人が支配民族でした。 プラハではドイツ人とスラブ人は、食事をするレストラン、商店、 劇場が全く別で互いにほとんど交流しなかった時代もありました。 また、一時は世界最大のユダヤ人街があったプラハですが、 他の国に比べれば彼らに対する過度のな迫害が少なかったからでしょう。 しかし、マリア・テレジア時代のようにユダヤ人への迫害が極まったり、 その息子ヨーゼフ二世のように彼らに人権を認めたりで、 ユダヤ人の立場は流動的でした。 チェコは現在カトリックが多数ですが、プロテスタントが強い時代もありました。 14世紀から15世紀にかけて活躍したプロテスタントの先駆けヤン・フスが著名です。 プラハではそれらに加えてユダヤ教も大きな勢力でした。 これらにかかわる教会などの建物が複雑に入り組んで「百塔のプラハ」を形作っています。 石川達夫氏の「黄金のプラハ 幻想と現実の錬金術」では、 目くるめくほど美しいこの神秘の街の深い謎が明らかになります。 たくさんの伝説や物語、殉教した聖職者、それまで知らないことばかりだったのですが、 とても興味深く読みました。 快心の書です。 |