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分子蒸留(Molecular Distillation)

分子蒸留とは

20世紀初頭に発明された工業用高真空ポンプはその応用の1つとして真空蒸留に用いられ、従来の常圧蒸留では不可能であった高沸点物質の蒸留が可能になった。

その原理は気体分子運動論の平均自由行程(Mean Free Path)に基づくもので、蒸気分子の平均自由行程よりも蒸発面と凝縮面間の間隔を短くすれば、蒸気分子同士が衝突することなく、理想的に全ての蒸気を凝縮・分離でき、非平衡状態で真空蒸留を行えると考えられた。それが分子蒸留で、最初の真空蒸留技術であった。



分子蒸留の定義

分子蒸留とは高真空(10-1〜10-5 Pa)の分子流の場で、蒸発面と凝縮面間の間隔を蒸気分子の平均自由行程よりも短くして、蒸気分子同士の衝突がなく、全ての蒸気を凝縮・分離できる真空蒸留技術である。

“分子蒸留”という名称

分子蒸留という名称は高真空の分子流の場で行う蒸留という意味であり、20世紀前半の高真空ポンプの発明後に生まれた名称である。蒸気は気体であり、常圧蒸留を含めて蒸留や蒸発はすべて蒸気分子を凝縮・分離する技術である。

従って、分子蒸留のみが分子レベルの分離を行えるという理解は間違っている。分子蒸留の定義通りでないにも拘わらず、現在でも分子蒸留が行われているかの如きに現在の真空蒸留技術(短行程蒸留)に分子蒸留という名称や表現を用いることも正しくなく、原理が異なるので、それは時代錯誤の解釈或いは用語の混同に過ぎない

分子蒸留の問題点

分子蒸留の問題点の根元はその理想とした蒸留原理である「高真空の分子流」にある。

  • 真空下の蒸発式Langmuir-Knudsen Equationによれば、蒸発速度[kg m-2 h-1]は蒸発圧力に比例する。従って、高真空ではその圧力の桁数だけ蒸発速度が低くなることになる。スケールアップで同じ蒸発速度を得ようとすれば、蒸発面積は圧力の桁数倍だけ広くすることが必要となり、膨大な設備額の投資を伴う
  • 分子流では蒸気分子の平均自由行程が長く、その自由流の領域では蒸気分子同士の衝突がないので圧力の上昇はなく、その流体の密度は小さく、質量流束密度[kg m-2s-1] は少ない。高真空では蒸発速度が桁違いに低く、非経済的で、生産用途には使用できない。
  • 分子蒸留と云えども、熱量および移動の駆動力の不足によりフィード液中の最後の揮発性分子1個まで、即ち100%を蒸発・分離させることはできない。真空蒸留では沸騰や圧力損失がなく且つ低い蒸発圧力を一定に保持するためにはフィード液を薄膜にすることが必須である。蒸発は沸騰がない状態でその薄膜の表面から行われるが、厚さ10μの薄膜とは言え、最後の揮発性分子まで薄膜表面へ移動させて蒸発することはできず、幾分かの揮発性分子が薄膜中に残留したまま蒸留プロセスが終了する。
  • 現在では、薄膜中の残留揮発性分子をできるだけ少なくして、分離効率を高める方法として薄膜自身を撹拌できる薄膜形成システム(ワイパー)が短行程蒸留(Short Path Distillation)に用いられている。そのような品質向上のための技術は分子蒸留を改良した短行程蒸留の発明を待たざるを得なかった。即ち、分離性能は分子蒸留よりも短行程蒸留の方が高いのである。また、分子蒸留のように平均自由行程が2-3cm程度の間隔の中にワイパー駆動システムを配置させることは不可能であった。

このように分子蒸留とはその蒸留原理が故に処理速度が圧力の桁数だけ低くなり、実用性がない真空蒸留技術であったので、既に1940年代には廃れ去られた真空蒸留技術である。分子蒸留とは最初の古典的真空蒸留技術であり、長い平均自由行程に基づく不完全な理論であって、更なる開発の余地があったのである。

分子蒸留から短行程蒸留への改良と発展

上記のような問題点のため、分子蒸留は小型実験装置の規模から脱することができなかった。その欠点を補うことができたのは蒸気の平均自由行程が分子蒸留よりも短いが、蒸気分子同士の衝突がない短行程蒸留(Short Path Distillation)によるものであり、それが実用化されたのは1950年代に入ってからのことである。

短行程蒸留技術を確立させたのは高真空ポンプを発明し、真空技術の専門家で、短行程蒸留のパイオニアであるドイツのライボルト社であった。

ライボルト社は専門的な真空技術に特化した産学協同の会社で、20世紀初頭以降、各種真空技術の技術者が大学から参加し、真空技術の解明、パイロットプラントの試作研究およびスケールアップを行うようになった真空技術の専門グループであった。各種分野の真空技術の解明と応用が全て社内で賄うことができたので、短行程蒸留も徹底した理論と技術の解明が進み、真空工学および理想的な設計技術を確立し且つその技術の証として性能保証を行うに至ったことは短行程蒸留のパイオニアたる所以である。