トップページ短行程蒸留 ― 短行程蒸留

短行程蒸留

短行程蒸留とは

1943年にドイツのG.E.Utzingerが分子蒸留の問題点を指摘して、高真空でなくても中真空領域で同等の真空蒸留を行えることを発表し、その新しい真空蒸留技術をKurzwegdestillation (Short Path Distillation、短行程蒸留)と呼ぶことを提唱したことが短行程蒸留の始まりである。

即ち、分子蒸留の高真空における蒸気分子の平均自由行程は短いが、蒸発速度が遥かに高い中真空領域における真空蒸留技術である。

その短行程蒸留技術は1950年代に、ドイツのライボルト社により確立され、分離性能も分子蒸留よりも高い実用的生産装置として全世界に普及した。


短行程蒸留の定義

短行程蒸留とは中真空(100Pa〜0.1Pa)の遷移流の場で、分子蒸留とは逆に蒸発面と凝縮面間の距離が蒸気分子の平均自由行程よりも長く、凝縮器を缶内に内蔵して蒸気分子同士の衝突がなく且つ内部凝縮器により蒸気圧力は瞬時に消失する非平衡状態にて分子蒸留よりも高い蒸発速度と分離効率で高沸点感熱性物質を蒸留分離できる真空蒸留技術である。


短行程蒸留という名称

分子蒸留とは区別するために、分子蒸留のよりも短い平均自由行程を利用することを強調する名称であり、分子蒸留よりも蒸発速度が高く、シンプルな真空ポンプセットで済むことが利点であった。

短行程蒸留では分子蒸留よりも蒸留分離性能を向上できる技術が発明され、現在では全世界で生産用装置として使用されており、加熱面積でmax. 80m2の装置も製作された。

一方、分子蒸留は生産用としてスケールアップができず、1950年代以降には利用されていない過去の技術である。


短行程蒸留の原理

真空蒸留とは真空ポンプセットにより蒸発圧力を大気圧以下に下げ、低い沸点で軽揮発性成分を蒸発・凝縮させて、複数成分の混合液から分離する熱力学的分離技術である。

常圧蒸留では蒸気分子が極端に短い平均自由行程(MFP;λ)で互いに激しく衝突し合い、その蒸気圧力は常圧で平衡状態に達し、その蒸気分子の50%は蒸発面へ戻る現象が生じ、高沸点物質を蒸留分離することができなかった。

高沸点物質の蒸留に必要な要素とは、低い真空圧力、長い平均自由行程の蒸気、蒸気分子同士の不衝突、軽揮発分を熱劣化なしで希望する分離率に達し得る沸点、一定圧力の非平衡状態での蒸発等である。いずれも、圧力と温度に関係する要素であるが、それらを要約すれば、蒸気は蒸気分子同士の衝突がない一定距離のMFPにすることの必要性に集約できる。

このように、高沸点物質のための真空蒸留では短行程蒸留も含めて、一定距離以上のMFPを見出すことが必要であるが、そのような測定は容易ではない。

短行程蒸留の場合には、希望する製品品質に関する蒸留試験で得られた結果から、高沸点物質の蒸留に求められる製品物性が満たされていることから判断できるので、実際には設計のためにMFPを測定する必要性はない。

高沸点物質の真空蒸留に必要なMFPが高真空のみでなく中真空下でも得ることができ、蒸気分子同士の衝突を回避できることの発見は.G.E.Utzingerの功績である。それは理論的には中真空における遷移流(Knudsen Flow)の場で可能である。遷移流とは粘性流と分子流の中間域であり、下記のクヌーセン数の式から見出される。クヌーセン数とは流体力学で用いられる無次元数であるが、遷移流はクヌーセン数が1〜10の値の領域であるとされる。

代表長さLとは気流の通過を邪魔する構造を意味し、例えば、導管の直径である。例えば、MFPが導管直径Dと同じ値であれば、クヌーセン数は 1であり、導管を通過する際に、気体分子同士は衝突せず、管壁のみに衝突すると考えられる。

また、MFPと圧力(Pa)の積は一定であり、互いに反比例の関係にある(λp = 一定[cm x Pa])。因みに、常温(20℃)の空気の平均自由行程と真空圧力の積は約0.67(cm x 105 Pa)である。

短行程蒸留では蒸発圧力は100Paから0.1 Paの領域であり、この圧力領域での遷移流の場においては蒸気分子同士の衝突はないものとされる。短行程蒸留では薄膜の沸騰がなく、蒸発面から缶内に内蔵される凝縮面へ向かう蒸気流はその間の圧力勾配による一方向流で排気抵抗がなく、また蒸発全面が開放された設計でクヌーセン数の式の代表長さが存在しないので、蒸気分子同士の衝突がなく且つ瞬時に蒸気は凝縮面で消失するので、恰も蒸気圧は存在しない空間中へ蒸発が行われることを意味している。連続高速で発射される鉄砲の弾が弾同士で衝突しない状態が連想される。

このように、短行程蒸留では蒸気分子同士の衝突がなく、非平衡状態で一定値の中真空圧力を制御でき、処理能力が高く、高品質の製品が得られることが分子蒸留技術を凌駕した真空蒸留技術であり、分子蒸留とははっきりと区別される進歩した原理である。


短行程蒸留の設計

化学工学で用いられる蒸発缶や熱交換器等の伝熱量Qは下記の式で表される。

その装置サイズ Aは総括伝熱係数と凾sに依存する。しかし、短行程蒸留では装置サイズAは質量流束密度に関する下記のLangmuir-Kunusen Eqationの通り主として蒸発圧力に依存する

このように短行程蒸留装置のサイズは一定供給熱量に基づく一定に制御される蒸発圧力に依存し、蒸気圧力は大気圧の1/103 〜 1/106の領域で一定の圧力制御を要する操作に必要な機能が設計される。


短行程蒸留を分子蒸留と誤解する理由

現在でも分子蒸留という名称を短行程蒸留と混同して使用される例が見られるが、これは分子蒸留に関する原理、定義、真空蒸留技術の開発史等に関する知識の欠如によるものであろう。

分子蒸留は分子流の平均自由行程を原理とし、分子同士の衝突がないことを蒸留分離の原理としている。一方、短行程蒸留は平均自由行程よりも凝縮面までの距離の方が長いが、分子同士の衝突がない遷移流の場で、蒸発速度の高い真空蒸留法の発明によるものである。高真空に変わる中真空、凝縮面までの距離がMFPより長いことが、分子蒸留とは明確に区別される。その区別を認識していないために、分子蒸留と混同する誤解が生ずる。

分子蒸留は分子レベルで分離が可能な精密な蒸留技術であるという誤解の先入観である。また、短行程蒸留を勝手に分子蒸留と呼んでいるケースも見られる。その理由として下記の事由が考えられる。

  • 分子蒸留は高真空ポンプの発明に伴う最初の真空蒸留技術の原理として、その当時理想的真空蒸留法であると評価され、その評価が過去の文献に残ったままになっている。しかし、それを否定する文献は見当たらない。
  • G..E..Utzingerの分子蒸留の否定に関する短行程蒸留の独文文献は第二次大戦中の1943年の発表であり、その情報は世界に行き渡らず、またその新しい技術は十分に理解されるに至らなかった。
  • その過渡的な10年後、分子蒸留は改良されて0.1Paを境とする中真空の短行程蒸留が開発され、その名称が使用されたが、原理の違いが十分に理解されないまま、短行程蒸留技術の工業化の時代に突入し、原理と理論の違いは明確には論じられなかった。一方、分子蒸留は小形装置規模を脱し得ず、その実験用装置は分子蒸留として販売し続けられており、分子蒸留は恰も有効な技術としては存在するかのような印象を与えている。
  • 現在の真空蒸留装置は高真空でなく、 0.1 P以上の中真空領域で使用されるように変わっている。それは最早、分子蒸留ではないことは明らかである。分子蒸留とは軽揮発分分子の半径およびその蒸気分子の高真空における平均自由行程を明らかにし、凝縮器までの間隔をその平均自由行程よりも短くする設計である。短行程蒸留ではその作業は不要であり、混合液の最適蒸発圧力と沸点を見出すことが主要作業である。分子蒸留を主張する行為は短行程蒸留の設計作業に相乗りし、0.1Paの蒸発圧力を分子蒸留と見ているに過ぎない。
  • 理化学辞典には、「分子蒸留」の用語で、平均自由行程の原理は説明されているが、化成品、ビタミン等が分子蒸留により製造されているような記述になっているが、これは間違いである。現在、カロチンやビタミンD、その他の化成品や油脂の製造は短行程蒸留装置で製造されており、分子蒸留装置ではない。また、現在、全世界に普及している真空蒸留法である「短行程蒸留」については理化学辞典にはその用語の記述もない。この短行程蒸留の技術情報ないことは半世紀以上の情報遅れを意味している。

上記は分子蒸留技術が今もまだ有効的であると誤解させる理由であろう。


短行程蒸留の特異性

分子蒸留もそうであるが、短行程蒸留にも設計の公式はなく、設計データは蒸留試験の最適結果からのみ得られる。希望する製品品質に適合する混合液の最適な蒸発圧力および沸点を見出すことが必須である。

真空下の有機物の蒸発式はIrving Langmuirの高真空下のタンクステン蒸発速度の式をベースとし、Langmuir-Knudsen Equation等の式で知られているが、その蒸発物質は純粋な不特定物質の沸点に基づくものであり、混合液のそれではなく、短行程蒸留の蒸発式には利用できない。

短行程蒸留に必要な沸点は純粋な蒸発物質のそれではなく、成分も含有量も異なる混合液からの蒸留に適した沸点を蒸留試験で実証して見出すしかない。実証科学として組成が異なる原液ごとに蒸留試験を行い、希望する製品品質が得られる運転条件および蒸留プロセスの開発を必要とし、設計された生産装置で同一の蒸留性能を再現できることが求められる。

短行程蒸留装置は設計された蒸留性能および真空性能が得られる真空工学に基づくノウハウの蓄積によるもので、最少の圧力損失の設計および全蒸留プロセスを通して設計された制御圧力を一定に保持できることが必要である。従って、蒸留性能の保証のためには真空の及ぶ全範囲の機器供給が必要である。