1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 凄惨な事件のあった森の一角から教会まで戻ってくると、その途中にあったはずの惨殺死体たちはすべてきれいに片付けられていた。おそらく、神父が彼を追いかけて来る前に埋葬したのだろうとケークは判断した。疲労の蓄積した足を引きずって教会の入り口までたどり着くと、ホーチスが彼を見つけ駆け寄ってきた。
「終わったのかい? あんな恐ろしい男によく勝てたね」
彼は相変わらず凡庸な顔と声で、こんな時でも重みのないありきたりの言葉を並べた。ホーチスは同じ部隊の仲間を探しているらしく、ケークの隣まで来ても辺りをきょろきょろと見回していた。
「おかしいな…。集合場所はすぐそこなんだが、まだ誰も来ていないんだ」
「俺を呼んだ連中はまだ来てないのか? それなら突っ立って待っていても仕方ないな。もう、真っ暗だし、今日はあきらめて寝ようか」
ケークは教会の隣に草地を見つけると、すぐにゴロンとねっころがってしまった。しかし、ホーチスは気が進まないという様子で座ろうともしなかった。
「どうした? 仲間はまだ来てないんだろ? もう遅いんだ。寝ておいたほうがいいぞ」
「あれだけたくさんの人のむごい死に方を見せられて、外気に晒されながら眠れるわけないだろ? この近くでバラバラになった死体を見せられたのは、ついさっきなんだぞ」
ホーチスはこれから戦場へ向かう男とは思えぬような女々しさで、そんなことを言い出した。自分が戦ったわけでもないのにずいぶん子供っぽいことを言う奴だと、ケークは困惑しながら、「殺されたのはあんたの家族じゃないだろ?」と冷たくあしらった。戦場で死んでいく人間たちをいちいち気にかけるような、弱い人間の話し相手をする気力はすでになかった。その会話を横で聞いていた神父は、「それならば、どうぞこちらへ」と、教会の扉を開き、にこやかに二人を中へ導いた。
 礼拝堂の中は、身動きのできない負傷者や、仲間や家族を失い、どこへも行く当てのない難民がひしめき合っており、まだ寝ずに起きていた幾つかの瞳が、新たに入ってきた侵入者に強い非難と怨みを込めた視線を向けた。
「狭いですが、外で眠るよりはずっと安心できるでしょう?」
この時間に野外を動き回る人間に、顔を見られずに眠れるのは良いことだ。ケークも神父のその言葉に同意してうなづいた。
「こんな狭いところで…、しかも壁にもたれて眠るのか…、眠れるものかな?」
情けない表情で、力無くそう呟いたホーチスは、疲れのためだろうか半時も経たないうちに寝息をたてていた。ケークも疲れはあったが、不思議と目が冴えてしまい、なかなか寝付けなかった。人を斬り殺したくらいで眠れなくなるほどナイーブではないが、場に漂っている今夜の陰気な空気は特別だった。グリパニア兵との戦闘や、難民同士の争いで身体に重傷を負った者達も、まともな治療を受けられぬまま、この教会内に雑然と寝かされていた。彼らの抑え切れぬうめき声が、細々とだが闇の中に漂っていた。それに連れて親兄弟を失った子供たちの啜り泣く声が聞こえてくるようになった。誰かがそれをなぐさめているのか、部屋の中央でランプの明かりがチラチラと揺らめいているのが見えた。そのあと、その明かりはゆっくりとこちらへ近づいてきた。全員が寝静まっているかどうか、確認しているようだった。声をかけられるのが嫌だったので、一度眼を閉じて、寝ている振りをした。しかし、ランプの持ち主はさらに近づいてきて、彼の前で足を止めてこう囁いた。
「眠れませんか?」
「あなたこそ」
熱でうなされる病人や、痛みで眠れぬ負傷者たちのため、神父が見回りをしているのだろうとわかっていた。ケークは目を開け、彼の顔を一応確認してからそう返事をした。ケークの右横の壁を手でまさぐって、そこに座れる隙間があることを確認すると、神父はゆっくりと腰を降ろした。
「あんな戦いをした後ですからね。気分が高ぶってしまうでしょう?」
「そんなことはないです。森でも多くの人間を斬りましたが、よく眠れていました。」
「あの男も哀れな人でしたね…。」
「私が斬った戦士のことですか? それなら、あの男に殺された人々の方がもっと悲惨ですよ。なぜ死ななければならないのか、わからないままあの世へ行ったんです。」
「それは違いますよ。同じなのです。殺した側も殺された側も…。悲しみの度合いは同じです。」
「ふん、農民から日銭を集めて、のうのうと生きている片田舎の宣教師がよく言いそうなことですね」
暗闇の中、声を押し殺して話す二人は、いつの間にか譲れない主張をぶつけあっていた。
「神の使いとしてでなく、私個人の意見として心の底からそう思っています。あの哀れな男の墓も避難民の墓地に作ってやるつもりです。あの男も戦争の犠牲者ですしね。」
ケークはそれを聞いて意地悪くふんと鼻を鳴らした。
「では、私が森の中で殺してきた盗賊や兵士の成れの果ても、やはり墓が欲しかったのですかね? あなたに言わせるとそうなりそうですね? 経過はどうであれ常に殺した側が悪者で、殺された側はどんな悪人でも死んだその瞬間に善人としてあがめられ、墓まで作ってもらえるわけですね?」
「そうなりますね。どんなに平静であっても、生きるということは常に他人を害し、苦しめることです。逆に死ぬということは生前の行いの精算であり、どんな罪悪も神に赦され、その苦労が報われるのです」
「馬鹿なことを! 本当に神がいるなら、世に悪党など生まれないはずですよ! こんな汚い場所で眠らなくてはならない哀れな人間が生まれるわけがないでしょう!」
ケークは思わず声を荒らげた。
「神は善も悪も両方生み、育まれます。そして死の瞬間には双方を赦されるのです…。私はそう信じています。ですから、私は善人も悪人も双方に墓を作り、双方のために涙し、祈るのです。」
「あなたの行いは偽善の塊ですね。それは自分の美徳を後世に伝えたいがためにやっていることでしょう?」
「違います。墓というのは身も心も滅してしまった人が、確かに現世に居たことを証明するためのものです。」
「自分とは無関係に生き、無関係に死んだ人間の生きた証をわざわざ立てるのがあなたの仕事ですか? それはそれは! 無責任で世から隔絶された、実に安閑とした仕事ですね」
「あなたのような人から見れば司教の仕事はすべて偽善と映るでしょうね? しかし、私は自分の過去を償うためにやっています…。」
「それならば聞きますが、この戦争で敵を殺すことは善ですか? それとも悪ですか? 攻めこんできたのは宗教国ですが、それは許されることですか?」
神父がグリパニア出身者とわかっていて、ケークはわざと意地悪くそう尋ねた。だが、声の質を変えずに神父は落ち着いて返答した。
「攻める守るという概念はありません。理由はどうであれ、同じ人間が殺しあうことは愚かで哀れなことです。死が間近に迫れば、また自分の足で黄泉の入口に立てば、彼らも自分の愚かさに気づくでしょう…。」
「当事者同士が死ぬまで戦争に終わりはこないと?」
「ええ、ですから人間は哀れだとお答えしたのです…」
「グリパニア信教ならバルガス将軍の名を知っていますか? 彼がこの戦争の当事者ですが、あのような人でも死んだら救われるのですかね?」
「もちろんです…。私はあの男がグリパニア軍の師団長に任命された日のことを鮮明におぼえています。あの男こそ、地上で最も愚かで哀れな人間です。」
「しかし、グリパニアでは強ければ強いほど、人を殺せば殺すほど英雄でしょう? なぜそれを愚かと言うのですか?」
「国の仕組みがそうなってしまったのは、ほんの十数年前からです。それ以前は純粋に運命神を崇める宗教国だったのを覚えていますから…。優れた武人を多く輩出すれば、大陸に君臨できるという少数の人間が考え出した愚かな信仰に騙され、洗脳されてしまった殉教者たち…、バルガスもその一人です。」
神父の口調には、特別重要なことを話しているような緊張感や重々しさは感じられず、極めて平静だった。
「それを知っているなら、あなたはただの司教ではないでしょう? 何者ですか」
神父から返事がくるまで十数秒を待たなければならなかった。
「もう、休みましょう…。明日はサウスヴィクスに向かうのでしょう?」
「それはホーチスから聞いたんですか?」
ケークはちらりとホーチスの寝顔に目を移した。これだけ隣で騒がしく話していても彼は寝息をたてたままで、目を覚ます気配はなかった。
「いえ、あなたが今日この日にこの地を通り、サウスヴィクス山へ向かうことを知っていたのです。こう言っても信じてもらえないでしょうけどね…。しかし、まさか当人と出会えるとは思っていませんでしたよ。」
「いったい何を…」
ケークはその言葉の意味がわからず、しばらく考え込んだが、やがて、ふんと鼻を鳴らすと、神父に背を向けて毛布を頭から被り、目を閉じた。
「おやすみなさい」
その声の後、神父の遠ざかっていく足音が聞こえてきた。

 その夜見たのは、人生という山道から引きずり落とされ、深淵な闇に包まれた谷底に突き落とされた夢であり、そこは地獄のはずだったが、目に映ったものは黒い空間と黒い地面の間に浮き漂っている自分の身体一つだった。ただ、彼を遥か頭上から高笑う声が響き、その声は冷酷な口調で彼に問うた。
「望みはあるか? 人生という虹布を清らかに織り成すための望みはあるか? 我にそれを伝えれば必ず叶えよう」
これは夢だと感ずいていたため、彼はそれを誰かの冗談とは思わず、懸命に答えを考え、「人に恥じないような光ある未来を」と静かに答えた。
「では、光ある未来のためには何が必要か?」
その声にははるか昔に聞き覚えがあり、はたして誰の声だったか頭に思い浮かべようとしたが、暗闇の中でいくら念じてもそれはうまくいかなかった。
「記憶を、過去の記憶を呼び覚まして下さい」
ケークは仕方なく、自然に浮かんだ言葉をそのまま声に出して言った。しかし、頭上の人間からの返事はなかなかこなかった。かなりの時間を開けたあげく、その声は、「そなたが本当に欲しているものは記憶ではあるまい」と断じた。
「記憶がなければ人間とは呼べません。毎日同じ動作を続ける動植物と同じです。どうか、我に少年の頃の記憶を返して下さい」
「ろくな感情も持たぬそなたに過去の記憶は与えられぬ。代わりにこれから進む道の上に印を付けて歩くことを許そう。そなたが無惨に殺した人々の想いを、恨みの言葉を、滅することのない記憶として刻み付けてやろう。それでよいな?」
「待ってください! そんなものはいらない! 待ってくれ!」
手を上空に向けて伸ばし、何度叫び続けても、もうその声は返事をしてくれなかった。その無気味な夢もそこで途切れた。

 地上が悪徳と犯罪に支配されたように思える、こんな状況の下でも太陽は昇った。窓から注ぎ込むまばゆい光に顔を照らされ、ケークは粗末な教会の床で目を覚ました。寝床にホーチスの姿はなかった。他の難民もすでに起きていて、皆、朝の光を浴びるために教会の外へ出ていた。昨夜は寝床だった教会の広間は元のようにきちんと片付けられていた。彼とともに残っているのは、重傷で身動きができない数人の人間だけだった。祭壇には銀箔の大きな十字架が飾られていて光を放っていた。彼は自分のこれからすることを考えた結果、何も祈る必要はないと判断した。
 ケークが外へ出てみると、難民たちは支給されたパンをほうばりながら日光浴をしていて、口々に、「今日の太陽は素晴らしい」とか、「ここへ座っていると気持ちがいい」などと言っていた。昨晩は泣いていた子供たちも元気を取り戻していて、南軍の兵士に届けてもらったパンや牛乳に夢中になっていた。わずかだが、食料を分け合う姿も見られた。人々の心にあった邪悪は薄れたのだろうか? ケークは冷たい目でそうした光景を見ていた。皆の心が戦争という最悪の状況に慣れてきただけなのかもしれない。少なくとも、初期の大混乱という事態は脱しつつあった。そんな健気な姿を見て、「どんなに平静を装っても、状況は何も変わっていませんよ」とは言えなかった。
 213年春の現在は、まだ開戦したばかりだ。グリパニアの総攻撃が始まれば、ハノンや他の都市を巻き込んだ総力戦になれば、民衆の悲しみは倍加する。今と比べものにならないほどの悲劇が、この先に待っていた。それでも、身を隠すものを何も持たぬ避難民は、生きていかねばならない。多くの人間がこんな地獄の中でも何かを探して生きようとしていた。昨日だったら、彼はそれを笑っていただろう。だが、今日は落ち着いた気持ちだった。森を抜けて悪の気が自分の体内で薄れていったような気がした。例え、自分が生き残るために他人の不幸を招くことがやむを得ないとしても、全ての人に不幸を押し付けることはできないと考えるようになっていた。峡谷の戦いで、自分がバルガスに傷一つでも負わせることができれば、グリパニアの士気も下がり、戦況も少しは変わるだろうか? 難民たちの苦しみを和らげることに繋がるのだろうか? たまには、ホーチスの正義感漂う話を、眉間にしわを寄せずに聞いてみるのもいいかもしれない。彼はそんなことを考えながら歩き出した。
 湿地の中央にまで足を伸ばしてみると、ホーチスが見知らぬ数人の男と話しているのが見えてきた。どうやら仲間と出会えたようだ。彼の表情も昨日と比べて輝いていた。
「あの人がケークだよ。僕らの部隊に入ってくれる新しい仲間だ。凄腕だぜ」
ホーチスはそう言って仲間にケークを紹介した。すぐに五人くらいの男たちが集まってきた。雑軍だというから期待はしていなかったのだが、背の高い者、体つきのしっかりした者、どこで手に入れたのか、高級そうな装備を付けた者もいた。ケークは少し照れながら挨拶をして、その輪に加わった。ふと、自分にも何かできることがあるのかと考えていた。
「グリパニアは昨日の雷雨で少し足止めを喰ったらしい。進軍はさらに遅れています。今から山を登って追いかけてもまだ間に合いますよ。これから峡谷へ向かいましょう」
ケークはそれを了解した。自分でも驚くほど覚悟が出来ていた。兵士として、右も左もわからなかったあの時とは、大きな違いだ。昨日まではいなかった新たな仲間を連れて、あの小さな教会の前を通ると、入り口に神父が待っていた。彼はケークの充実した顔を見て、にこやかに何度か頷いた。
「戦いの準備はできましたか?」
彼はそう話しかけてきた。
「あなたにはすっかり世話になってしまいましたね。昨日は余計なことを口走ってしまってすいませんでした」
「とんでもない」
そう言って、神父は両手を広げた。その顔は昨日よりもさらに温和で余裕を感じられた。
「心を広く持って下さい。何も戦いだけではない。これから先の人生で、大きな仕事が待っていますよ」
「もう大して話す時間もないが、私について、あなたの知っていることを全て話してくれればよかったのに」
ケークは残念そうにそう言った。
「一年後、ここでまた会いましょう。その時には、あなたの生きる目的、果たすべき使命も変わっているはずです」
「本当に? 私は自分がすぐに死ぬとばかり思って生きてきた。だから、他人の命にも無頓着だったんです…」
「大きく腕を振って行きなさい。ここにいる難民たちの未来も、あるいはあなたが背負っています」
「懸命に働いてきます。あなたもご無事で…」
ケークはそれを言ってから駆け出した。
「山越えになりますが、装備は大丈夫ですか?」
仲間の一人がそう尋ねてきた。
「ええ、どんな目にあっても、峡谷まで行きますよ。やっと、私にも生きる目的ができました」
「みんなで力を合わせて一泡吹かせてやりましょう」
情報集めや所用で他の場所に行っていた仲間も集まってきた。全部で二十人ほどの部隊になった。
「あと一人、馬を持ってる奴がいるんだが、そいつはサウスヴィクスで合流するから」
部隊長がそう説明した。ケークや他の傭兵が新たな仲間として加わったことで、部隊の士気も上がった。みんなで歩調を合わせて山脈の入り口に向かった。ところが、数日前まではなかったはずの大きなさくが築かれていて、山への道は塞がれていた。
「くそ! ハノンの兵士たちめ、これ以上、難民が入って来ないようにこんなものを作りやがった!」
部隊長が悔しそうにそう言った。
「こんなもん、乗り越えてしまおう」
誰かがそう言ったのを合図に、全員がまるで山猿のようにさくに飛びついた。ケークは無器用なホーチスを押してやり、全員がそれを乗り越えたのを確認してから、さくによじ登った。さくの頂上に手をかけてよじ登り、そこから後ろを振り返ると、カスケットが一望にできた。今日になっても、食料を求めてさまよう者、行方知れずになった肉親を探すものたちが足元をふらつかせながら歩いていた。争う人間たちの怒号の混じった叫び声が聞こえてきた。彼らに希望は一切ない。人生を壊された人間はどのくらいいるんだ? 彼の心はざわついた。思えば、記憶を失ってから、彼の心を最も大きく揺さぶったのは、このカスケットの光景だった。
(第1節 完)

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