1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 ドアを開け、再び森の中に出てみても、やはり雨は止んでくれていなかった。ずっと降り続けているのだ。晴れ間を忘れたようだった。深い森林の中にずっといて、日の入りの時間がわかりにくいが、辺りはすでに薄暗くなってきていた。ホーチスは仕方がないと一言呟いてから、ゆっくりと走り出した。
「ケークさん、こっちです。我々はカスケットに向かいましょう」
彼は北西の方を指し示し、ケークに付いて来るよう促した。しばらく、バシャバシャと草の上の水を蹴る音だけが響いた。出会ってから間もない二人には、話す言葉がなかった。この地方には、まだグリパニアは進軍してきていない。峡谷やサイズ北部の侵略に時間を取られているからだ。薄暗くなり、足元にも注意して進まねばならなかった。布切れや鉄片が道の上に散乱していて汚く、荒れ果てて見えるのは、世捨て人やならず者や盗賊たちの仕業である。敵軍の進攻を免れているという意味では、戦地の中では安全な部類に入る場所であろうが、それでも腹をすかせた盗賊や野獣が襲ってくる可能性がある。その緊張感からか、しばらくの間はなにも話すことはできなかった。
「やはり、剣を持たないと身が軽いな」
 不意にケークが後ろからそう言った。
「私の剣を貸そうか。敵に襲われたときのことを考えれば、あなたが武器を持っていたほうがいいに決まっている…」
 それに対する答えはなかった。あるいは剣を持っていない方が身が軽くていい、という文字通りの意味だったのだろうか? こちらの話を聞いているのかいないのか、よくわからず、とにかく不思議な男だ。この男に関する噂話は、まだ、さほど多くを聞いたわけではないが、あいまいで不可思議なものばかりだ。本当に人殺しなのだろうか? それはともかく、独りでなく、仲間がいるというのはいいものだ。後ろをついてくるその確かな足音が、この未知の森を進んできた、先ほどまでの孤独感と恐怖をかなりの部分消し飛ばしてくれていると、ホーチスは実感していた。少なくとも、後方に不安はないわけだ。一人でこの森を進むのは自殺行為にも等しいが、二人でなら、大抵のことはできるような、そんな気さえするのだった。
 やがて、森に完全な夜が来た。二人はさらに警戒を強めながらも、一度も休むことなく歩みを進めた。身に当たる水量で判断すれば、雨は少しずつ小降りになっているように感じられた。明日には止んでいるだろうか? そのくらいの期待はしてもいいだろう。どのくらい進んでも、道には遠慮のない蔦がはびこっていて、それを剣で掻き分けなければうまく進むことはできなかった。 
 二人があの薄汚いバンガローから、十数キロほど歩いたときだった。ふと暗がりの中、右方の老木の根元にもたれかかった人影が見えた。上半身は暗がりで見えなかったが、下半身に鎧を着ているように見えた。この雨であるから、松明を持つことができず、したがってその男が装備を盗んだだけの、ただの乞食なのか、まっとうな兵士なのかさえわからない。
 だが、近づくにつれ、月明かりでその姿がぼんやりと見えてきた。老兵と思ったのは顔の老け方からだが、この暗がりであるから、本当はもっと若いのかもしれない。右手は真横にぶら下がり、両足は地面に投げ出され、まったく身動きはしないので、死んでるのか、それともただ寝ているだけなのかもわからなかった。敗残兵が多く流れ込んでくるこの地域では、元兵士や住民などの行き倒れが多く、このような寂しい情景は珍しいものではなかった。ただ、一定の歩幅で走っていたケークはその兵士を見てなぜか足を止めた。自分の後ろでケークが止まったのがわかったので、それにあわせてホーチスも足を止め、それ以上兵士に近づくのをやめた。あの小屋から、もうかなり走ったかもしれないが、仲間を得た安堵感からか、まだ、さほどの疲れは感じず、ここで彼が突然足を止めた理由も思い浮かばなかった。本心としては早く歩を進めたいところではあるのだが、それにしても急なことなので、もしかすると、ケークの方から自分に何か話したいことでもあるのではないかと少しの期待をしていた。ホーチスは彼が話し出すのを待っていた。
「ところで…、あんたは剣を振ったことがあるのか? どうも新米のように見えるんだが…」
久しぶりに口を開いたケークの言葉はそれだった。兵士とはいえ実戦の経験が少ないホーチスには痛いところであり、もちろんその質問には戸惑い、返答に迷ったが、なんとかすぐに答えを見つけ出した。
「ああ、少しは訓練をね、ただ戦場でとなると、あまり自信は…」
「なら、剣を貸せ!」
 そう言うと、素早い動きでケークはホーチスの腰の剣を奪い取った。その刹那――木にもたれかかっていた兵士が、素早く起き上がり、剣を引き抜いて襲いかかってきた。ホーチスは不意をつかれ、驚く暇さえなく、なすすべもなく「ああ」と叫んで、その勢いのままに押し倒された。
 心臓の鼓動が喉の奥のほうでドクンドクンと激しく鳴った。三十数秒はそのまま何もせずに地面に倒れていたと思う。彼が正気に戻った時には、襲ってきた兵士はなぜか彼の上に倒れ掛かかったままでいて、そして、もう息耐えていた。男の首筋から流れる血が自分の顔にかかり、それがやたらと温かく、気分悪く感じた。襲ってきたこの男がすでに死んでいた理由と、自分がこのとおり無事なわけは、すぐに理解できるわけはなかった。だが、周りの様子を見るに連れて徐々に理解できてきた。正面からホーチスに向かって猛然と襲いかかってきたこの男を、ケークが後ろから素早い動作で切り捨てたようだった。だが、その瞬間はよく見えなかった。なぜなら、彼は今までそのような剣技を見たことがなかったし、その剣の振りざまは人間のものとは思えなかった。自分以外の生物が近づくことを拒否する虎のような素早い動きだった。
 ケークはなぜか自分に背を向けたまま立っていた。誇っているのか、怒っているのか、どんな感情を持っているのかわからなかった。ホーチスはやたらと重い兵士の死体をなんとか自力で押しのけ、ようやく立ち上がることができた。助けてくれた仲間に対して、ありがとうと告げたかったが、あまりの動揺で、なかなか言葉にならず、結局しばらくして「すまなかった」という言葉が口から出て来た。ケークはそれに反応して、無表情のまま、一言も発せずに剣を返してくれた。だが、武器は彼がそのまま持っていたほうがよさそうな気がしてならなかった。自分では次にこのような事態が起こったときに、きちんと反応できるのかが不安になったからだ。暗い森の中を、この非常時に移動していくことの怖さを思い知らされた気がした。
 それにしても、なぜ、あの男が襲ってくるとわかったのだろう? ホーチスにはあの兵士の生死すら見分けることができなかった。彼はそのことが理解できず、またケークに素直に尋ねる勇気もなかった。まだ身体の筋肉が強張っていて、手足が思うように動いてくれなかった。動揺がなかなか消えないのだ。
 彼が次に考えたことは、あの男が襲ってくると事前に察知できていたとしても、自分にはあのように簡単には人は斬れなかったということだった。光のない暗い森の中で、一瞬の内に、人間が人間を斬ったのだ。しかし、あの瞬間、ケークが兵士を切り裂いた瞬間、ホーチスは別のものを想像した。豚や鹿を何の感情もなく次々と射殺していく狩人だ。ケークの冷酷な斬り方はあれに似ていた。今まで戦場でも、あんなに残酷な場面を見たことがなかった。同じ人間同士が戦うのではなくて、一方の人間が相手を斬り殺すことがすでに決まっていたようだった。そんなことがあるのだろうか?
「さっき斬った男のことだが、彼は本当に敵だったのだろうか?」
ホーチスはまずこの質問を投げかけてみた。殺し合いに慣れているケークの恐ろしさを知った以上、こんなことを聞くのも彼にとっては冒険だった。
「ああ…」
ケークは相変わらず無感情にそう答えた後、しばらく間をあけて、「今のは南軍の元兵士だろうが、もう味方じゃない。この森は、敵か味方かを鎧の色では判断できないということだ…」
「ああ、追いはぎに成り下がった、元兵士だったということか…。それなら、斬ってよかったんだな…」
 彼は心臓を高鳴らせながらも、興味本位で次の質問をした。
「でも、なぜあの男が生きていて、しかも我々を襲うとわかったんだい? 彼は微動だにしなかったし、私には死体に見えたのだが」
 そう尋ねると、ケークはこれまでで一番不思議なことを聞かれたような表情を見せて、当たり前のようにこう答えた。
「なぜって、あの男は我々を見て笑っていたじゃないか」
その質問に対して、ケークが口にしたのはこの言葉だけだった。ホーチスは足元の死体をもう一度眼を落とした。白目を剥き、口からは血を吐いており、今度こそ完全に死んでいた。いくら悪党とはいえ、死体というのは無残なものだと痛切に感じ、また、それと同時に殺さなければ自分が殺されていたという現実も踏まえ複雑な思いだった。
「聞いてもいいかな? いったい君が何者で、この森でどうやって生き延びてきたのかを?」
「さあ? それを思い出したくて、あの臭いバンガローを飛び出して、あんたに着いてきたんだが…。もしかすると、歩いている間に何かを思い出すと思ってね。しかし、迷惑だったかな?」
 ホーチスは彼のすました態度から、嘘を言ってるようには見えなかった。しかし、彼が本当に味方の兵士となってくれるのであれば、動機はそれほど重要ではないとも考えた。
「君はここ数日間、森で何をしてたんだい? 何かさっきの汚い連中はなぜか君のことを知っていて…、君について、ずいぶんおかしなことを言っていたようだが。兵士を惨殺したとか、平民を襲ったとか…」
 だが、ケークはその話は聞いておらず、もう数歩前にいた。彼は戦地へ赴くという二人の目的のためではなく、自分の意志だけで動いているようだった。
「さっき、一度剣を振ったら、その反動でだいぶ思い出してきた…。もう一月はここにいるような気がする。常に他人から命を狙われていて、それを片付けて逆に食料を奪うというようなことを…。自分がまだ生きているということは、やってるいることはきっと毎日同じなんだと思う」
「さっきのように、襲ってくる兵士や盗賊たちを斬って、彼らの持ち物を盗んで生きてきたということかい?」
「詳しくは思い出せないが、もしそうでなかったら、食料も明かりないこの森で、俺は生き延びていないだろう」
ケークはそこで冷たく笑ってから話を続けた。その嘲笑は、この森ではそうして生きることが普通だと言わんばかりだった。
「この森は面白いところでね。食料と悪意を持った敵が自分からこちらを見つけて襲い掛かってきてくれる。俗世間のように、出会った人間に、形ばかりの挨拶や自己紹介などする必要はないんだ。相手はきっと昨日もそうやって誰かをなりふり構わず殺して生きてきたんだ。もちろん、俺もそうだ。お互いが、ここでばったりと出会った相手を殺さなければ、自分もこの先長生きは出来ないことを知っているんだ。こんなご時世だから、何もせずに歩いていて、自分の味方になる人間や、得になるような出来事には絶対に遭遇しないと、みんなが知っているんだ。道に金は落ちていない。落ちていたらそれは罠だ。みんながそれを知っている。この話の何が面白いかって? この森を歩いている全員が同じことを考えているんだぜ。みんながみんな、相手を殺して食料と装備を奪うことが、この地方での法だとわかっているんだ。盗賊や商人も関係ない。戦前は犯罪でしかなかった略奪という行為が、それまで善人だった人間たちによって繰り返されているうちに、いつの間にか正当化されたんだ。そして、それはそのまま生きることに繋がるんだ。なにしろ、人間は戦時下に置かれて、やっと自然な姿を取り戻したんだからな。人間は自分の生きる世界を、戦争によってこんなに無茶苦茶にされて、やっと獣と同じ、食うか食われるかの世界に戻って来たんだ」
ホーチスはそれを聞いてゾクッとした。自分がここ数日の間、そういった盗賊まがいの連中に襲われなかったのは、強い雨のせいで足跡と足音が消されていたためだと気づいたからだ。
「すまん…、こんな奥地まで来ておきながら、僕には覚悟が無さすぎたな。このサイズがそんなに恐ろしい場所だとは思わなかったんだ」
ケークはそれを聞いてまた吹き出すように笑った。
「でも、今はわかっただろ? 君はさっきの兵士に感謝しなければな。あの兵士は知っていたんだよ。あの場所でああやって死んだふりをしているのが、愚かなる旅人から食料を奪う最善の策だってことがね」
ホーチスはその言葉には否定の意味で一度首を振ってから答えた。
「なあ、どんなに落ちぶれても、僕はあんなふうにはなりたくない。一片の食料を奪うために他人を騙して殺すなんて…。なあ、聞いてくれ、僕らが頑張って、グリパニアをこの国から追い払って、戦争が無事に終わって、この国にもまた平和が戻ってきたら、時間はかかるかもしれないが、いずれ、この森もまた平和な世界になるのかな?」
「さあ、それはこの事態を少し良い方に考え過ぎているかもな。もう、人々が微笑みながらパンを分け合っていた、平和な時代のことなんて考える必要はないんだぜ。それは過ぎ去ったんだ。すでに世の中の基準は平和な時代ではないんだ。本当に大事なことは、今はもうこんな世界になったということを、心の奥底から信じることさ。こんな世界に突き落とされてしまったからには、生き残るために、この世界に上手く順応しなければいけないということさ。何が悪で何が正義かは、そのうちお偉いさん方が決めてくれる。それは事によるとグリパニアの人間かもしれないけどな。魚は自分がこれまで住んでいた水から追い出されたら、カラカラに乾いて半時も持たずに死ぬだろう。でも、俺達傭兵はそうはなりたくない。例え、世界や法律が変わってもね。大事なことはその新しい国の法律や体制が出来るまでに自分が生きていることさ。どんなに偽善ぶっても死んだら食料や財産の分け前は貰えない。さっきの自分を恥だと思うのなら、自分を騙そうとした相手から学んで、次は同じことをやって生き延びることさ」
「君は本当にそう思っているのかい? 国家の大事よりも自己の利害を優先させようというのか? 戦争に負けて、自分の領土を明け渡し、他国の作った法律や宗教に慣らされるくらいなら死んだ方がましだとは思わないのかい?」
ホーチスに真剣な顔で問われても、ケークは余裕の表情だった。
「なあ、取り合えず、自分の国のすべてが正義だという考えを捨てた方がいいぞ。他人に対して、表面上だけでそう言ったとしても、心では別なことを考えた方が利口だ。一国団結とか叫んで喜んで戦っているのは君達のような底辺の人間だけで、ハノンの上官のほとんどは今度の戦争を、ドレスを着た女を脇にはべらせて、高い酒を飲みながら高見の見物だぜ。誓ってもいいが、君らが千人戦死しても、ハノンの貴族は涙の一つも流さないばかりか、万人の死体が積み上がれば、そろそろグリパリアに擦り寄って和平を語りだし、我が身の安全を考え出すような連中なんだぞ。そんなに命を懸けて平和を勝ち取ることに意味はあるのかね?」
「君は南軍の味方ではないのか? どこの出身者なんだ? 戦争で勝つのはどちらでも良いような言い草はやめてくれ。道理を破って攻め込んで来たのはグリパニアの方だ。僕は自分の国を守るために剣をとり、命を懸けているんだ。百歩譲ってハノンの上官がそんな人間だったとしても、僕らはこの正義のための戦争をやめたりはしないだろう!」
ケークはその言葉を聞いて呆れたようにしばらくの間ポカンと口を開けたが、やがて語りだした。
「俺は南軍の兵士さ。ただ、奴らにうまく利用されて殺されそうになったがね。まあ、戦争自体に意味がないと言ったのは言い過ぎだったな、謝るよ。ただ、味方の中にも敵と同じくらいの割合で悪意を持った人間が潜んでいるから、その点だけは注意しておいた方がいい」
「ああ…、あのバンガローの連中のような奴らだな。少し形勢が悪くなると、尻尾を見せて逃げ出すような連中は確かに信用できないな。ああいう連中が、自分の手持ちの食料が尽きて数日もすれば盗賊になるのかもしれない。奴らはきっと戦争を自分が出世するための道具としてしか考えていないんだ。国が失われるということを真剣に考えられないんだ。だから、僕は金で雇われた連中は信用できないんだ」
「わかった、その話は理解できたから、今夜のところはもう少し先へ進もう。カスケットに集合しなきゃならんのだろう? この速度では間に合わないぞ」
「それは、その通りだ」ホーチスもそれに同意した。
二人は話を止めて再び歩きだした。ホーチスはこれまでの話を聞いて、ケークの素性をこれ以上知るのが恐ろしくなってきたが、一度助けられた恩も感じており、とにかく、彼を戦場まで案内しようと思っていた。ここで君の性格が気持ち悪いからと言って彼と別れても、一人で森を抜けてカスケットまで無事に辿り着けるかは未知数だった。
 暗闇の中、どちらが順路かまるでわからない複雑な森の道を進んだ。途中にいくつか立て札があったが、ならず者の悪ふざけか、文字は泥をかけられて消されてしまっていて、役には立たなかった。しかし、このサイズの森で立て札がある道は、取り合えずは人が通える道であるという甚だ頼りない推測に従うしかなかった。高い木から絶え間無く滴り落ちてくる水滴でわかりにくくなっていたが、いつの間にか雨は止んでいた。前方に苔むした大きな岩が二つ重なっているのが見えた。その脇に小さな水筒が落ちていた。ケークはそれを睨みつけると、手を差し延べて注意深く拾い上げた。
「まだ、それほど汚れていないし、濡れてもいない。ついさっき、誰かがここに落としていったのだろう」
「どうする? 先で待ち伏せがあるだろうか?」
「今夜はここで泊まろう。きっと、進むと良くないことが起こる」
ケークは直感からそう答えた。二人は小さな革の敷物をおいてそこで休むことにした。
「なあ、さっき、誰かに利用されて死にかけたと言っていたが、君がこの森に居着くまでに、いったい、何があったんだ? 教えてくれないか」
ホーチスは隣に座って目を閉じているケークに尋ねた。
「俺もあんたと同じ南軍の一員だ。戦前はエスポーサの基地に配属されていた。ある日、これはグリパニアの進攻が始まる前の話だが、俺達の部隊は、ハノンに突然呼び出されて、グリパニアの敵将を暗殺するように指令を受けたんだ。報酬に目が眩んで安請け合いした俺達も悪かったが、少人数の出来合いの部隊で大陸最強ともいわれるあのバルガスを暗殺せよという、それは純粋な宝石を素手で壊すくらい無謀な作戦だった。俺たちに指示を出した人間のことは、聞かないほうが良いことだから詳しくは話さないが、俺達は上官に騙されていたんだ。ハノンの上官が望んでいたことは、敵将バルガスの死などではなくて、もっと他にあったんだ。俺達は無謀な作戦を続ける道の途中でそれに気がついた。だが、もう遅かった。後戻りできないところまで来ていたんだ。俺たちはいつしか敵軍の兵士にも追われるようになっていた。もちろん、失敗してハノンに戻っても命はなかったろう。秘密作戦のはずが、俺たちの行動は敵にも味方にも筒抜けだった。双方とも俺たちを笑っていたのかもしれない。そして、敵将暗殺の作戦は実行された…。もちろん、上官の目論み通り作戦は失敗した。仲間は全員死んだがね」
「それでも、君は生き残ることが出来たんだね?」
「これ以上、話すつもりはない。君も自分の身の危険を考えた方がいい。この世には知らない方がいいことが多すぎる…」
ケークはそう呟くと、毛布に包まってそっぽを向いてしまった。
「いや…、詮索しようとか、そういうつもりじゃない…、ただ、あなたが強すぎて不思議に思っただけだよ。そうだろ? それだけ強いのに、一介の兵士のように無謀な指令を受けているわけだからね」
しばらく間を開けて、ケークは、「俺の人生は失敗だった」と静かな声で言った。
「そうか…、わかった。じゃあ、ハノンでバルガス暗殺の指令を受ける以前のことは忘れてしまったということでいいね? 僕の仲間に君の事を紹介するとき、その辺はなるべく詳しく伝えた方がいいからね」 
「ああ、昔のことも、思い出したら、なるべく話すようにする」
二人の会話はそこで途切れた。ケークはこのホーチスという男を完全に信用したわけではなかったが、兵士であるのに死の森に迷い込み、それでいて、このおどおどとした態度は自分を騙そうとする人間には見えなかった。本当に善人なんだろう。そう思うことにした。なんにせよ、他人とこれだけ多くのことを語ったのは久しぶりだった。以前にちゃんとした会話をしたのはいつだったろうか? リディッツの部隊の連中には親切にしてもらった。俺を剣士として覚醒させたのは彼らだったのかもしれない。でも、彼らのことはもう思い出したくない…。
 しばらく経って、彼はふと考えた。この広大な森の中で、間抜けな獲物を探してうろつき回る敵が、朝までに自分を見つけ出し、すっかり寝込んでいるその喉元に剣を突き刺す可能性はどのくらいあるだろうかと。一対一の戦いで不覚を取って負けて死ぬより寝込みを襲われるほうが悔いは残らないような気もした。実力で負けたとなると、どうしても、なぜ、あそこでああしなかったのかという後悔の念にさい悩まされるからだ。寝ている間の突然の死というのも、生をあきらめた自分には、かえってちょうどいい死に方なのかもしれない。そんなことを考えていたら、梟の鳴き声も野犬の遠吠えも、草を踏み越える他の動物の足音もさして気にならなくなってきた。
 自然の中で眠れる安堵感からか、ケークはその夜久しぶりに深い眠りについた。そして、彼の意識は四ヶ月前の過去へと遡り、心の奥深くに眠っていた記憶を見せてくれた。思えば仲間を失ってからまだ四ヶ月だった。記憶に残る仲間たちの顔は今やぼやけてきているというのに。まだ、自分が思っているほどの時間は経っていないはずだが、その夢はなぜか懐かしい香りがした。

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