1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 地図を見ながら密林の生い茂るサイズの本道を慎重に進み、しばらくの間、順調に歩んでいくことができたが、また前方に人の気配を感じて、ケークは警戒して立ち止まった。道の脇にある狭い草地の上に茶色のローブを羽織った中背の男性が仰向けに倒れていた。しかし、今度の男には息があった。これも他人を引き付ける罠かもしれないので、不用意に近づかずに注意深く観察していると、男は誰か他の人間に斬られたのか、目を負傷していて、その傷口がすっかり倦んでしまい、前方が全く見えない様子だった。傷口にはウジが湧いて激しく痛むらしく、男は汗びっしょりになりながら顔や胸を掻きむしり、悶え苦しんでいた。その様子を見てホーチスは哀れだと思ったが、治療法が何もないこの場ではどうしてやることもできないので、二人は黙って通り過ぎようとしたのだが、足音を聞き付けたのか、目の見えないはずの男の方から話しかけてきた。それは、息も絶え絶えのかすれ声で聞き取りにくかった。
「そこを行かれる方、どうか、少しお待ち下さい。お話があるのです…」
「何か?」とケーク。
「あなたがたは旅人ですか? それとも南軍の兵士ですか? これからどちらへ向かわれるのですか? 差し支えなければ教えて下さい」
「これから西方のカスケットを通って、サウスヴィクスまで味方の応援で参ります」
ホーチスがそう返事をした。ただ、男の醜くただれた顔を凝視する勇気はなかった。
「そうでしたか、では、この森を何日間も走り続けて、ここまで進んで来られたのですね。さぞかし剣の腕の立つ方だと推察します。それにあなたがたは心も強いはず。並の人間ではこの森で三日も生活をすれば生を諦めるか、それとも発狂してしまうかに決まっています。いや、失礼しました。私にはそれほど時間がありません。余計な話はやめましょう。実は私はこの戦争で家族や財産も何もかもを失い、それは人間としての心も含めてですが、盗賊に成り果ててしまった者です。しかし、不思議なことです。このように目を負傷して暗闇の世界に落とされ、生きていくことをすっかり諦めてしまいますと、自然とまた家族と笑い合いながら平和に暮らしていたときのような、穏やかな心が蘇ってきたのです。どうせ、それも道徳心のない盗賊の最後の戯言だろうと笑って下さい。しかし、私のここ数ヶ月の歩みを誰かに聞いてもらうまでは死んでも死に切れないのです。どんな悪人であれ、死を間近にした者がこの世に自分の体験を残していきたいと思うことは不条理なことでしょうか? どうか、私の最後の話を聞いていっていただけませんか?」
「残念だが、あなたの話を聞いていく時間がない。この旅は急ぐのです。グリパニア軍はもうアイムールの目と鼻の先まで迫っているのだ。申し訳ない」
ホーチスはそう言って丁寧に頭を下げた。
「お待ち下さい! そうおっしゃらずにどうか話を聞いていって下さい。もしかすると、私の話すことの中には、あなたがたのこれからの人生の道標になることも含まれているかもしれません。あなたがたがカスケットに向かうと聞いて、私には嫌な予感がします。あの湿地帯も今や心を失った人であふれ、人間性を失わせる場所になりつつあります。私はあなたがたに私と同じような人生を歩んで欲しくないのです。ああ、まったくもって、私の人生は失敗だらけでした。いつの間にか、道から外れ、おかしくなってしまったのです」
男はすでに身を起こすこともできない身体で、天を仰ぎながらそう訴え続けた。
「わかった、話してみろ。聞いてやる」
ケークはそう答えて近くにあった大きめの石に腰をかけた。すべてを失って生を諦めたという男の言葉から、今の自分と重なりあうものを感じたのかもしれなかった。
「ありがとうございます。では、大変失礼ながらこのままの姿勢で話をさせていただきます。私はマーテローと申します。峡谷のさらに北、グリパニア国境付近のアジュダという小さな町に住んでいました。体力には自信がありますがそれ以外に取り柄はなく、他人に誇れるのは、人を欺いたことがない性格くらいです。数年前に測量をやっている友人の妹を嫁にもらいました。ええ、それはもう可愛らしい娘で、私は彼女を大事にして、すぐに子供も一人できました。私は兵士としての週交代の勤務を早く終えて、自宅に戻れることを毎日楽しみにしておりました。南軍の一員としてグリパニア国境沿いの基地に勤務し、かの国の動向を見張る毎日でした。緊張の絶えない辛い毎日でしたが、家で待つ家族のことを思えば、疲れも吹き飛ぶ思いでした。
 事態は突然悪化しました。このことで誰を恨めばいいのか、今ではもう判断することができないのですが、今年の春になっても、我々兵士にはグリパニアと我が国の関係がそこまで緊張していることは全く伝えられませんでした。後から考えてみますと、もし、グリパニアが近日押し寄せてくる可能性があることを我々兵士に伝えてしまえば、当然のことながら故郷に帰りたいだとか、家族に会いたいだとか言いだして、基地から逃げ去る兵士が出てくることを上官が恐れたためではないでしょうか。私もあの国には内心恐れを抱いておりましたから、そういう危機的な話があれば、一目散に家族の元に逃げ帰っていたかもしれません。ここで申し上げておきたいのは、我々国境の砦を守っていた一般の兵士には、かの国と戦えるほどの準備がまったくできていなかったということなのです。あの開戦の夜、グリパニア軍が突然来襲し、砦を一瞬にして突き破ったとき、戦える準備をできた者は一人もいませんでした。多くの者は混乱に陥り、そのまま捕虜となった者、何も出来ぬ間に捕まって首を跳ねられた者、潔く戦って死んだ者など、同僚の末路は様々でしたが、私のように現地から逃げることができた者は少なかったと記憶しております。私は一直線に家族の待つ町に帰りました。しかし、時はすでに遅く、私の町もグリパニアの襲来を受けた後でした。私の嫁は敵兵士に乱暴されたあげくに胸を槍で突かれて殺されていました。2歳になる娘は何もできずにその傍らで泣いておりました。寝込みを襲われた住民はほぼ全滅していて、村の保管庫から武具や食料などもすべて持ち去られていました。私は失った妻を思って涙を流す余裕も、周囲の家の様子を確認する余裕もなく、ただ一人娘を抱きしめて逃げ出しました。このままここにいては、やがて襲来するグリパニアの中軍以降の部隊に踏み潰されることになるからです。ここで普通に考えて、南部のアイムール要塞に向かってしまうと、戦闘に巻き込まれる可能性が高いと感じられたので、私は幼い娘を連れて峡谷を越えて東のカスケットに向かうことにしました。しかし、近くの村々から逃げてきたと思われる多くの避難民も同じことを考えたようで、峡谷へとつながる細い岩場の道はひどく混雑していました。
 夜が明けると気温が上昇し、乾いた空気が体内の水分を奪っていき、娘はみるみる弱っていきました。周りの人間に食料か水をわけてもらえるように頼んでみたのですが、ほとんどの人間が我々と同じ境遇にあり、何も持ってくることができなかったか、あるいは持っている人間も自分が生きるためだと私の娘には飲ませてはくれませんでした。娘を背負いながらの登山でしたので、私の歩みも遅く、遅々として進みませんでした。二日目の午後になってようやく山頂付近の小さな部族の村にたどり着きましたが、言葉も通じない部族であったためそこは休憩所にはならず、食料を手に入れることもできませんでした。部族の衛兵たちはすでに戦争が起こったことを知っていて、相当警戒心を募らせており、近づく者はすべて敵だと言わんばかりで、鋭い目付きで手に持った石槍を振り回し、我々に早く立ち去るように指示しました。仕方なく、何も手に入れられないまま、そこを離れることになりました。私は娘に声をかけ、もう少しがんばれ、生きろと励ましながら山をカスケットに向かって下りました。夜になって気がついたのですが、夕方から一言も言葉を発せず、眠っているのかと思っていた娘は、すでに衰弱して死んでいました。私は戦争という突然の動乱に心を揺さぶられて、いまだに妻の死も娘の死も、本当の悲しみとして受け入れられないまま、ただ自分の哀れな家族たちに同情の涙を流しました。まるで、一夜にして世界がひっくり返ってしまったように感じました。国が滅びるとはこんなにあっけないものなのかと、混乱した頭でそう納得するしかなかったのです。娘を埋葬して木の枝で墓に目印をつけ、私は悲しみにむせび泣きながら山を下りました。途中で一人の僧が岩に腰をついて休んでいました。最初はどうせこの男も自分を欺こうとしているのだろうと思いましたが、彼が言うには、自分は相当に体力を失っていて、弱りきっていて、もうカスケットまでたどり着くことはできないから、この食料をあなたに差し上げるから、自分の代わりに生きてくれということでした。娘が生きている間なら狂喜したのでしょうが、今はすでに一人の身です。生きることにそれほどの意味を見出だせませんでした。感情をやっと抑えながら、言い難い気持ちのままで、私はその食料を受け取りました。山を下る途中で多くの領民の遺体を見つけました。飢えで死んだ者、仲間割れで殺された者、病気になったため置いていかれた者、その理由は様々でした。その光景に何の希望も見いだせないまま、カスケット近くの林まで下ってくると、一つの家族が私に声をかけてきました。娘が弱ってしまって死にそうだから食料を分けてくれと言うのです。なるほど、丸二日ほど水も食料も得られていないというその娘は、すでに何も話せないほどに衰弱していて、今にも命の炎が消えかかっていました。私は複雑な思いに悩まされましたが、自分の意志で、食料を分け与えることを拒絶しました。両親は最後には土の上に手をついてまで懇願しましたが、私はそれでも食料を与えませんでした。そこを去る前に、私の口から突然、『どうせ、誰もがこうなる運命だ』という強い口調の言葉が出てきました。それを聞いてその家族は大変驚きましたが、私も自分が何を言っているのかわからず混乱してしまいました。それまで思ってもいなかったことが、考えたこともない道理が、嫁と娘とを失ったことでむくむくと頭をもたげてきたのです。それは、ここに至っては、最後まで生き残った者が偉いのだ。道徳心よりも自分が生き残ることを最優先にしろという卑屈な考え方でした。私は家族を失いながらも、自分が生き残ったことを運命と考え、どんな卑劣なことをしてでも最後まで生き残るという精神力を得たのです。いや、後から考えれば、これは戦時下とはいえ、犬畜生にも劣る考え方でしたが、あの時、あの家族を平然と見捨てるためには、己の内にそういう考えを見出ださねばならなかったのです。言うまでもなく、自分の娘も誰からも助けられずに死んだというのに、余所の子供だけ生き残る道理があるのかという、ひねた考えから生まれたものですが、当時はそれで良いことにして前に進みました。
 恩義と罰を受けて、複雑な思いを抱いたまま、生きた心地もなくたどり着いてみますと、カスケットはすでに地獄と化していました。生き残った人間たちによる食料や金の奪い合いがあちこちで起こっていました。人々は自分の持ち物を守るために必死の形相で逃げ惑うばかりで、盗みや殺人を目にしても、その行為を止める者も戒める者もいませんでした。家や家族や仲間、そのすべてを失ったことで、人間たちはまるで理性を失ってしまったようでした。私は自分が先ほどの僧から恵んでもらった食料は誰にも渡せない宝なのだと念じて湿地を進みました。この期に及んでは、この最後の食料を奪う者は、私に害を成す人間だと考えて、全員切り殺すつもりでいました。不思議なものです。数日前までは家族と愛を語り、平和に暮らしていた私が、この一度の戦争によって、他人を害しても一向に構わないと思えるほどの、動物にも劣る心を持つ人間にまで成り下がっていたのです。浮浪者や追いはぎの多くが暗い目を光らせて私を睨みつけていました。私は自分に近づく者たちを逆に睨みつけて、威嚇しながら進みました。そのうち、私の食料に目をつけた数人の男たちが私に擦り寄ってきました。『子供が苦しんでいるんだ。その食料を分けてもらえないか』と、私の服をつかんで、みんなで同じようなことを言い出しました。私は何も聞こえない振りをして前に進みました。良心が勝って、一人二人の命を助けたとて、どうせここにいる数千人の命をすべて救うことは出来ないのです。しかし、このまま湿地帯にいると、私の食料をあざとく狙っている多くの人間の目が気になって、眠ることもできないので、私は人間が立ち入っていないと思われるサイズの森に入ることにしました。結果的にはこの選択が私の命を縮める結果となったのですが、今ではそれも運命と受け入れています。
 湿地から森に入ってすぐの小道で新たな出会いがありました。旅の商人と思われる恰好の男が、派手な紋様の敷物を敷いて座り込み、一人で食事を取っていたのです。それは、生を奪い合うカスケット付近にあって、ひときわ世を離れた光景に見えました。彼は汚れた恰好をした私を見つけると、穏やかに笑いかけてきて、一緒に食事を取らないかと誘ってきました。私はありがたくその申し出を受けて食料を分けてもらいました。カスケットにこのような聖人のような笑い方ができる人間はおらず、彼が、戦争のただ中という、今の状況を知らない人間であることは明白でした。彼は私の口からグリパニアとの戦争が始まったことを初めて聞き、大変驚いていました。私は彼に自分の家族を失うことになったいきさつをすっかり話しました。その商人はまだ若いのに根がしっかりとした、人間ができた男でした。彼はすっかり私の人生に同情してくれ、財布の中から銅貨を一枚取り出して私に渡しました。そして、この金でしばらくの間生き延びてくれと言ったのです。その時、本来ならば涙を流して感謝をしなければいけないはずの私の心に、不思議な考えが浮かんできたのです。それは、その男を殺してしまえ、そうすれば奴が持っている食料と金はすべて自分のものになるぞ、という悪魔の囁きでした。確かに、彼の財布の中には十数枚の貨幣が入っているのが見えました。このご時世なら、あれだけの金があれば一月は食べていけると直感的に思いました。信じて頂きたいのですが、家族を失う前の私でしたら、他人を殺してまで物を奪うという、残忍な行為に及ぶことは絶対になかったと思います。例えどんなに自分の命が追い詰められていてもです。しかし、私がその時悪魔の囁きに身を委ねてしまった理由は、すでに嫁も娘もこの世にはいないという事実です。もっと付け加えても良いのなら、私の半生を知っているアジュダの町の住人も、一緒に働いていた基地の兵士たちも、誰も生き残ってはいない今の世界です。自分がこの時点から盗賊に成り果てたとて、咎める者は誰もいないのです。私は家族と仲間を失って一人になりましたが、別の言い方をすれば、再び生まれ落ちた時と同じ自由の身になったということでもありました。私は意を決して、立ち去る振りをして男の後ろに回り込み、気づかれないように剣を引き抜いて振りかぶり、一刀のもとに男の背中を切り裂きました。その時、私はどのような顔をしていたのでしょう? 生涯に渡って家族を守り通すつもりでいた、正義感に溢れる兵士の顔から、殺人を犯してでも生き残るという、おぞましい悪霊の顔に変わっていたことでしょう。その哀れな商人は悲鳴をあげることもなく一瞬で事切れました。彼には、なぜ、ここで殺されねばならないのかすら、わからなかったことでしょう。私には罪悪感など一片もなく、男の持ち物すべてが自分の物になったことに快感を覚えました。考えてみれば戦時中ですから、この地方では警察も憲兵も機能していないのです。私の罪を咎めて追ってくる者はいないはずでした。私は元兵士です。剣技には多少の自信があります。例え、この先の道で私を恨む者や、食料を狙う敵が現れたとしても、それを切り殺すことは造作もないことだと思うようになっていました。道徳心さえ持ち合わせなければ、こうやって他人を切り殺して食料と金を奪ってもいい法の下で生きることができるのであれば、人生はなんて簡単なものだとまで思うようになりました。一人の人間を殺めたことで、私はもう後には戻れない、これまでとは異なる漆黒の道を進むことになりました。聖書の言葉を用いて私を罰する神父や、天使のような人間はついに現れませんでしたが、私は自分の心の内で自分を鉄の檻の中に入れて縛ったのです。自分の心を完全に俗世間から切り離したのです。森の中には、まだ戦争のことを知らぬ者、あるいは自分の食料を他人に奪われまいと逃げ込んでくる人間が大勢いました。私は二人目以降は何の迷いもなく、それら善人たちを斬り殺していきました。物影から強襲することも、彼らが休んでいるところを善人ぶって近づき、隙を見て突然切り掛かるということも平気でやりました。兵士であった頃は、人を殺すことは悪と知っており、いくら敵という概念があっても、戦うことに罪悪感さえ抱いていましたが、こうやって、他人の物を奪って生きていく身になると、殺すことは罪の重さどころか、少しの心の重みにもならないことを知りました。娘を失ったのも、運が悪かったからではなく、私が他人を襲って食料を奪うことができない臆病な人間であったからだと妙な解釈をするようにさえなりました。私はそうやって、道の上に自分に騙されて死んだ人間たちの血糊のこびりついた足跡を残しながら生き延びていきました。
 森に入って二ヶ月も経った頃、私は男女を問わず四十人をも切り殺しておきながら、それを誇りにすら思い、笑いながら暮らせる人間になっていました。ただ、不思議なことに、その頃になると、あれだけ愛していたはずの嫁や娘の顔などを、すでに思い出すことはできなくなっていました。それは、人生が変わったからだと良い方に受け止めました。私には名のある盗賊として、別の輝かしい未来が開けたと思っていました。事実、私はすでに殺し屋のマテーローとして、付近の町村に名を轟かすことになっていたのです。一般の人間はもちろん、兵士や同業の盗賊たちでさえ、私の名前を恐れ、うかつに森に入ってくることはなくなりました。カスケットから訪れる、愚かな流入者からの略奪を期待できなくなると、私はサイズの森をさらに奥深く進むようになりました。私はこの呪われた森を恐れませんでした。その理由は、人間を十数人も斬った頃からでしょうか、人を切り殺すことにすっかり慣れてしまい、兵士であった頃よりも数段上の剣術を手に入れた気になっていたからです。誰と出会っても、それは自分よりも装備のいい人間や、複数人で組んで歩いている人間と出会ってもですが、私は臆することはありませんでした。それは、心の一番深い所に、最初から失う物などないという気持ちが備わっていたからですが、それにしても、あの頃の私の自分の腕への過剰な自信はどこから生まれてきたものなのか不思議でした。今思えば、私には元より人殺し屋として生きる才覚も備わっていたのかもしれません。いや、むしろ、自分が以前は平和な家庭の主人であったことが腹立たしく思えてきたほどでした。ほんの少し人の道を外れてしまえば、殺戮の森というこんなにも居心地のいい場所があったというのに。数週間が経つと、森の中に潜んで数々の悪事を押し通す、私の噂を聞き付け、ハノンから名のある剣士が派遣されてきました。そのときも、私の心は少しも揺れませんでした。どうせ、相手は金で雇われた人間です。人間としての心すら投げ捨てて生きている自分の覚悟の前では怖くもない敵だと考えました。私は相手に名乗る間さえ与えずに突進し、一撃で切り倒しました。すでに、この森には自分を殺せる者などいないと思うまでに増長していたのです。その日からはハノンも私を倒すことを諦めたのか、憲兵を派遣してくることは無くなりました。
 私がそんなふうに身も心も堕落しきった魔物と化していたある日のことでした。ウヌル川をいつものように獲物を捜しながら南下していきますと、大木の上でのんきに昼寝をしている男がいました。なるほど、森の中でうかつに睡眠を取ってしまうと、野獣や盗賊に寝込みを襲われると考え、その男は木の上に陣取ったのでしょう。そこまで考えられるのであれば、相当な武術の達人だと考えることもできました。私はその頃には、出会った者をすべて殺さずにはいられない人間となっていましたので、その男に下から声をかけ、降りてくるように伝えました。男は少し笑いながらも、めんどくさそうに木から降りてきました。その男の持っている剣の柄にも血糊がべったりとついていました。自分と同じような人生を歩んできた者だとすぐにわかりました。私に目をつけられ、命の危機が迫っているはずなのに、余裕漂う顔つきを崩さない、その男の態度が気に食わなかったのです。私の心はすっかり熱くなっていました。その男は、浅黒い肌をして中背の痩せた身体つきでした。磨き抜いた刃物のような鋭い目をしていました。私はその男に自分達は戦う運命だったと告げ、剣を構えました。今思えば、その男の肩の力の抜けたような剣の構えから、自分よりも遥か上の存在だと気づいていれば良かったのですが、当時の私は表現すらできない悪の力に後押しされ、そんな懸命な考えは浮かばず、ただ男に向かって突進しました。しかし、男の俊敏な動きの方がさらに上をいっており、彼は一瞬で私の懐に潜り込むと、持っていた剣を一振りして、私の顔を切り付けました。私の両目は真一文字に切り裂かれ、視力は永遠に奪われました。男は私の食料を手に取ると悠然と立ち去りました。私は彼の背中から呼びかけ、名前を尋ねました。その男は最後に自分はケークだと名乗りました…」

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