1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 カスケットと呼ばれるその湿原地帯には、グリパニア軍に襲撃された北部の山間の村々から、膨大な数の難民が押し寄せて来ており、この地にさらなる地獄絵図を作り出していたのだ。
 そこには、数え切れぬほどの難民が、自分だけの生を求めていた。涙に濡れながら戦場ではぐれてしまった家族を必死に探す者、自分の幼い子供のために食料を求める者などが、何か大声で叫びながら、あてもなく徘徊していた。この場所が安全だという保障は全くないのだが、とりあえずの安息の地を得た避難民たちが考えているのは、差し当たっての食料と寝床であり、それらを求めて、今度は敵軍とではなく、同じ立場の難民同士で生き抜くための戦いが起こっていた。金や食料を奪い合って、ぼろ布をまとった男たちが狂ったように殴り合っていても、誰も止める者はなかった。ここでは奪い合いや盗みは日常であり、最近まで違反であった行為も、戦時下では誰も咎めることはできなかった。道徳と法を守って聖人のように美しい心で暮らしていても、数日持たずに飢え死にしてしまうことを、誰もが知っていたのだ。子供達はこの戦争で失った何かを求めて泣き叫ぶが、それを取り戻す術は誰にもわからないし、他人がそれを知ったところで、どうしてやることもできなかった。大木の下になんとか自分の居場所を見つけた老婆は、食事の時以外、曇り空に向かって一心不乱に祈っていたが、何十日祈り続けようとも、神が助けをよこす気配は見られなかった。その老婆に共鳴したのか、時折、通り過ぎる者がパンの一切れを彼女の足元に置いていくのだが、次に通る者がそれを盗んで自分の口に入れた。上空には無数の黒鳥が輪を描くように飛び交い、せめてもの食料にありつこうと、弱り切った人間たちの死を願っていた。他の人間たちの醜い争いを横目に見ながらも、木にもたれてじっとしている者は、何か動きをとれば食料が得られるかもしれないという、淡い希望すら捨ててしまったようで、それならば、身動き一つしないで助けを待っていた方が、体力を消耗せずに済むのだろうが、それがここで長く生き抜くための正しい行いなのかどうかも、すでに誰にもわからなかった。もちろん、行動を起こす者も、悟りきって何もしない者も、結局のところ、食料を得ることは叶わなかったのだ。
 何人かの難民たちが森から出てきた二人をみつけ、余力がありそうだと感じたのか、食料を譲ってくれと見苦しくすがりついて来たが、ケークはそういう人間に視線も合わせず、乱暴に振り払った。それでも、何人かの浮浪者がしばらくの間二人の後ろを付けてきた。だが、力を持たぬ彼らは武器を持っている二人に対して何をするわけでもなかった。
 やがて、立ち上る煙の筋を見つけ、ほのかな期待から二人はその方向を目指した。近づいてみると、幾人かの軽装の兵士が、大きな蒔きを組み上げて何かを燃やしていた。燃えているものが何であるのか、わかる程の距離まで近づくと、鼻が曲がるような異臭がして、ホーチスは顔をしかめた。熱い黒煙と立ち上る蒸気が情景を歪めて辺りのすべてが亡霊のようだった。人間が焼かれているところを見るのは初めてだった。ケークは何も動揺せず、当たり前のことのようにそれを見つめた。周りで自分の家族が焼かれている様を見て涙する人もいたが、ほとんどの者は何の感情も表さず、炎の熱さで自分の身体から流れ出る汗を拭うだけで、言葉もなく立ち尽くしていた。彼らにも、近い将来、自分が炎の中に放り込まれる時が来ることがわかっていた。二人にも何も話すことはなかった。焼却場のすぐ横で、兵士たちが集まって、なるべく堅い土地を選んで地面にスコップを差し込み、土を掘り出してそれを運び出し、荷車に載せているのが見えた。後で聞いたところによると、カスケットが避難場所となった当初は、死体が一つ発生する度に個別の穴を掘って丁寧に埋めていたらしいが、被災者が増えるにつれてその作業に手間取るようになり、次第に身寄りなく放置された死体が腐っていってしまい、同じ穴に複数の人間を入れるようになったのだが、穴を掘る道具も人数も足りないため、それでも次第に死体の処理が追いつかなくなり、今のように、穴の完成を待てない遺体は燃やされるようになったのだという。
 ここ数日の間に、南部の他の拠点から、急を聞いて応援の兵士が駆け付け、現地の兵士と協力してこの作業にあたった。そのため、この地にあふれる遺体を入れ込むための、いくつもの穴がすでに完成していた。二人はその中を覗き込んで見た。この作業を見ていると、慣れない死という概念が、自分のすぐそばにまで来ていることを感じた。そうか、今は間違いなく戦時中なのだ。
 地獄への入口を思わせるような、その巨大な穴の横には、これから放り込まれる予定の十数体の遺体が白い布を被せられた状態で並列に並べられていた。それらが虫や少々動物の死骸と違うのは、なぜ死んだのかという疑念とともに、どうしても、その無残な有様を凝視せざるを得ない点である。ケークも倒れた人々に特別同情の念があったわけでもないが、視線を足元に向け、彼らの表情を眺めながら歩いた。そうすると、いくつか自然にわかったことがあった。放置してある死体は、どれも苦悶の表情を浮かべ、なぜ死ななければならないのかという当惑と、底知れぬ恐怖を併せ持ったものが多いということだ。口は醜く歪んでいるのに、閉じられた目の周辺だけが不思議と穏やかで、死んだ後、無理に目をつぶらされたように感じられた。
 各地の村や町、あるいは軍事拠点から、かき集められてきた死体は膨大な量で、戦争が激しさを増すに連れて、必然的にその数は増えていくわけであるから、ここで処理にあたっている少人数の兵士たちにとっては、誰が誰かを判別しながら、深い悲しみを表現し、神父を連れてきて丁寧に祈りを捧げている暇などすでになく、放っておくと置く場所さえ無くなってしまうわけなので、遺留品を除かれたものから順に、次々と穴に放り込まれ、神父による弔いの祈りすらないままに、乱暴に土を被せられて手早く埋められていった。
「どうせ、焼くか、埋めるだけの遺体なのに、なぜ丁寧に整列させておく必要があるんだろう?」
焼却作業に従事している周りの人間たちにあえて聞こえるようにそうつぶやいてから、ケークは並べられた死体達の横を無表情のまま通り抜けた。
 戦場から、次々と運ばれてくる死体。子供も若者も老人も、死体になれば扱いは同じだった。辺りを見渡すと、兵士の死体より、その何倍も民間人の死体の数が多かった。驚いたのは、死体を運んでくる馬車馬や、その荷台の車輪にも血がこびりついていて、荷馬車全体が血にまみれて真っ赤だったことだ。馬車は数十台が列になり、このカスケットにやってきた。運んでいるものはどれも同じである。その馬車馬たちの眼は一様に、「なんで、俺達がこんな汚いものを運ばなければならないのだろう」と、言っているように感じられた。ホーチスはその馬たちの鋭い視線が恐ろしくなって眼を逸らした。
 馬車が運んできた大量の死体を、兵士たちが面倒そうに地面へ引きずり落として、二人がかりで持ち上げて、穴の中に放り込む。ただ、それだけの単純作業であったが、その光景に足を縛られてしまい、ホーチスは顎が痙攣して声も出せなくなっていた。グリパニアの襲撃によってこの戦争が始まってから、ここにいる兵士たちは毎日のように、この作業を繰り返しており、いつの間にか、敵軍への恨みや恐怖、被害者への同情といった人間らしい感情が消え失せてしまったかのようだ。今はもう、屠殺場で牛や豚を切り刻む作業員のように、無表情のままで遺体を淡々と始末するだけの、この不名誉な作業を続けていた。このまま戦争が続く限り、この仕事がこれからも延々と続くことだけは、この地にいる誰もが知っていた。ホーチスは頭の中でこの非現実的な現象を整理して、なんとか理解しようと立ち尽くしていたが、そんなとき、ケークが後ろから、「ここは臭いから、さっさといこうぜ」と声をかけてきたので、彼はようやく呪縛から解かれたようで、歩きだすことができた。
 二人は湿地帯をさらに奥へと進んだ。眼前に拡がる山脈は一歩ずつ歩くたびに次第に大きくなっていた。戦場は近づいているのだ。しかし、湿地帯を進んだ先にも、再び同じような光景が拡がり、何も希望に繋がりそうなものはなかった。そればかりか、今度現れた穴は、先ほどよりもずいぶん大きかったので、余計に二人の眼を引いた。その中には、すでに十数体の遺体がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。ホーチスが見たのは、一人のたくましい兵士が、小さな老婆を脇に抱えて、穴に落とそうとしているところだった。その老婆の遺体は右腕を肩の辺りから失っていた。だが、死体にしては肌の色が生き生きとしていたのが気になって、ホーチスは老婆の顔を凝視した。すると、老婆の虚ろな眼が一瞬こちらを向いた。まだ、生きているのだ。しかしながら、もうすでに日常の正義感や倫理感はどこかに吹き飛んでしまっていて、彼は怖くて声を出すこともできなかった。この地獄の中で、今更一人の命を助けてもどうにもならないことが、痛いほどわかっていたからだ。その数秒後、この老婆が生きていようと、死んでようと、そんなことはどうでもいいとばかりに、兵士はその小さな身体を平然と死体穴に放り込んだ。ホーチスはそれを見て、胸に氷の刃を突き刺されたような気分になって、目を背けた。穴の中に入ってしまうと、どれが先ほどの老婆なのか、あっという間に見分けがつかなくなってしまった。その大きな穴に一定の数の人間が収まると、兵士たちは上から面倒臭さそうに土を浴びせかけた。周りで多くの民間人がその様子を見ていたが、誰も呆然と立ち尽くすだけで、手を合わせて祈る者さえいなかった。こんな無造作に人間を埋めてしまったら、後々の世まで、地面の下から無念の叫び声が聞こえてきそうだった。
 ケークはそんな光景に飽きてしまい、今まさにグリパニアが攻め込んで来ているであろう、北西部の方向を眺めていた。サウスヴィクス連峰方面から、林を抜けて細い道がこの地まで通っていたが、その道を伝って、まだ、このカスケットに向かってくる人々の姿が見えた。この湿地帯も、その先に広がるサイズの森林もすでに地獄だが、今まさに攻められて略奪を受けている、北西地域に住む人からすれば、『ここよりは、まだマシだ』と思えるのだろう。彼らは細長い列を作っていて、ゆったりとした歩みだった。家具をまとめる暇さえなかったのか、大きな荷物を持っている人は意外に少なかった。歩き疲れたからか、それとも老いのためか、杖を使っている人が多く目についた。退屈してしまったのだろうか、一休みしながら本を読んでいる子供もいた。
 これ以上、多くの死体の側にいると何か悪いことに巻き込まれそうな気がして、二人は意識せず早足になり、焼却場を抜け出した。
 カスケットの広大な湿地帯のちょうど中央付近で、今度は避難民たちの大群に出会った。その場にいる者は皆、着ているものこそ貧相だったが、見たところ、怪我もなく、まだ十分に動けそうな人間が多かった。人が人で無くなるようなこの無法地帯で、なぜか、ここにいる者たちだけは喧嘩することも、身体をぶつけ合って見苦しく居場所を争うこともせず、抜け駆けなどされないように、隣にいる人間の様子を注意深く伺いながらも、おとなしく整然と列を作っていた。まるで獰猛な兵士たちが戦場に行く前に作り出す隊列のように見えたが、ここに並んでいる人間は武器も持たない民間人であり、これから戦場に向かうほどの覇気は感じなかった。
「ここは何かを待っているようだね」
その難民の列は、もうとっくに一列では収まりきれなくなっていて、列の後ろに並べなくなった者は、誰に言われるまでもなく先頭の列の隣にまた同じような列を作り、その列も並べなくなれば、また隣に同じような列ができるわけだから、これはもう遠くから見れば、ただの一塊の群衆である。
「すごいな…、いったい、何百人いるのだろう?」
ホーチスは彼らに声をかける前に表情や動作を観察することで、目的を知ろうとしたが、ここに集まっている群衆の目はどれも、殺気立っていて、もうこれ以上一人の人間も寄せ付けたくないような、そんな雰囲気を漂わせていた。二人が近づいていこうとすると、その群衆の中の何人かの目が鋭くこちらを見据えた。
「来るな。これから並んだとしても、おまえらには何も分けてやらんぞ」
そういう怨念のこもった声が聞こえてくるようだった。ケークなどは、これ以上近づけば、そこにいる全員が自分たちに襲いかかって来るようにさえ思えたものだった。
「何のために並んでいるのか、それだけ尋ねてくるから、少し待っていてくれ」
 一人として清潔な服装をしているものもなく、何日も身体を洗っていないような異臭が、そこらじゅうに遠慮なくたちこめていた。ケークはすっかり失望して時々地面の泥を蹴り上げながら待っていた。彼の眼から見ると、その集団は醜く、汚く、そして、どんな施しを待っているにしても、意地汚い豚の群れのように思えた。そして、他人からどんなに素晴らしい施しが受けられるとしても、自分があの列に、あの群れに加わりたいなどとは夢にも思わなかった。なにより、ここにとどまることによって、その場に立ち込める敗者の雰囲気を共にしてしまうことが、彼にはとても耐え切れない苦痛となっていた。バシャバシャと水溜まりを蹴る音がして、ホーチスが戻ってきた。目が輝いていた。何か有益な情報を得たに違いない。
「あれは食料待ちの列だそうだ」
「ほう」
ケークは見ればわかるとでも言いたげで相当に不機嫌だった。
「なんでも、二日に一度、ハノンの正規軍がこの辺り一帯の難民に食料を配給しているそうなんだ。それで、前回配給を行ったのがあの場所だから、今日もあそこで南軍の配給部隊が来るのを待っているのだろう…」
「今は戦時中だぞ…。攻め込まれた側の国に備えなんてない。物が無いのはこの国のどこだって一緒なんだ。こういう時には、食べ物なんて…、自分の身体を使って稼いでくるものだろう…」
ここ一ヶ月、自分の命を賭けて、相手の命と引き換えに食料を得てきた彼からすれば、労もなく食料を恵んでもらおうと国にとって何の有益な行動も取らずに待ち構えるその群衆は、とても奇妙で不可思議で、そして、彼の価値観で言えば、格下で、しかも汚らしいものに見えたのだった。
「そんなことを言ってはいけないよ。すべての人に食べ物を得るために戦えと命じるのは理不尽だよ。食料が行き渡らなければ奪い合いが始まってしまうんだ。人間が争わず、平和に生きていくには多くの食料が必要だ。それに、彼らには妻子がいるんだぜ」
ホーチスは周りの木々の下に、元気なく座り込んでいる子供たちを指差して、ケークをたしなめた。ケークはホーチスの純朴な性格は嫌いではなかったが、この偽善に満ちた、平和な日常生活でのみ許される正義観には納得がいかなかった。
「それなら、俺は食べ物はいらない。もう少し、先へ進んでみるよ…」
ケークはもうこの集団の近くにいることが苦痛になり、そう切り出した。
「ちょっと待っててくれ。僕はこの列に並んで待ってみる」
「俺は恵んでもらった食い物なんていらないよ」
ケークは並んでいる難民たちに聞こえるように、わざとはっきりとした口調でそう言った。彼らが生物界の中でもはっきりと劣った存在であることを知ってもらうために。
「でも、まだ集合場所までには時間も距離もあるんだ。並んで食べ物を貰っておくよ。僕らだってこれからどうなるかわからないしね。前回も配られたのはほんの少量だったらしいから、あまり期待はしていないけどね」
 まだ、戦争のために何の役にもたっていないのに、食べ物を恵んでもらうなんて…、何か手柄をたて、報酬としてもらうのならともかく…。ケークはそう思い、納得いかない気持ちを表情であらわした。
「じゃあ、少し進んだところで休んでいるよ」
彼は濃い霧がかかっていて、何があるか知れぬ南西方面を指差して、そう言った。
「わかった、でも追いつける距離にいてくれよ。食料が届きそうになかったら、すぐにあきらめるつもりだから」
ホーチスのその言葉を聞き終えないうちに、ケークは走り出していた。自分はあの集団とは違うということを態度で示したかった。だが、どれだけ走っても、見えてくるのは無惨に放置された死体と、治療する術もなく、負傷した家族を抱えて呆然としているだけの難民の一家と、まだ元気があるのか、食料を求めて何か言い争いをしている浮浪者たちだった。
 凄惨な景色が続くこの湿地の中にも、何か新しい光景を彼は望んでいたが、その思いを裏切るように、霧の向こうにも同じような難民の集落が延々と続いていた。彼らは汚い布切れと枝を組み合わせてテントを作り、その中に集団で寝泊りしているようだった。外を歩く者は、水たまりの上でも、泥の上でも関係なく、ふらふらと食べ物を求めて彷徨っているのだ。家族のいる者たちは、かろうじてまだ正気を保っているが、独りで生き残り、怪我もなく動ける者は、他の人間が保存している食料や金を狙って、どうやってそれを奪おうかと目を光らせていた。例え、食料を得られても、今度はそれを守るために、自分に忍び寄ってくる人間を害することを考えなければならないのだ。灰色の空の下で食料を巡るこうした醜い争いは戦争が続いていく限り、これからもずっと、このカスケットの光景になってしまうだろう。
「希望がまったくない…。ここはまるで監獄だな」
ケークは失望してそうつぶやいた。

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