1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 光射す未来への足跡は、常にこれからの人生を肯定するためにあった。例えを一つあげれば、広大な森林の中を、泥を浴び、世話しなく走り回る、ちっぽけな鼠たちの持ち物が、己の足跡一つしかなかったとしても、それは立派に彼らの存在を主張していて、そのはかない生命を支えているのである。自分の後に残されている、いくつもの足跡があるために、その鼠が、次の瞬間に獰猛な獣に襲われてしまい、無情にも、命を落としたとしても、それまでの道のりが決して無駄な歩みであったとは言えないのである。
 これから、この長大な文章を読まれる読者に、まず最初に言っておかなければならないのは、生命の歴史を見るにあたって、個々の命の価値に違いはないという当たり前のことである。この常識を持ち合わせていないために、古代でも現代でも多くの学者は間違った眼鏡で歴史を見て、間違った推論や結論を次々と発表している。正しい人生観を持っていれば、絶対に起こさないような過ちを、大家と崇められている教授でもするものである。
 私に言わせれば、一代で国家を造りあげた英雄の生涯も、寝る間を惜しみ、数十年の時間を使って働き続けても財を築くことができなかった、貧民街で店を開く一商人の生涯も、同じ重さで語られる必要があるのだ。無名の商人でも職人でも、長年懸命に生きてきた人間の歩みや、熱く語られるその言葉には、それだけ含蓄がある。
 報われぬ人生などない、長くても短くても、有名でも無名でも、命はそれぞれに価値があると、そう思いたいのは我ら人間だけではない。だが、その人生が豊潤であったかどうかの判断は足跡を残せるかどうかであると言ってよい。
 人生にはそれこそさまざまな道があり、それは例えば、さながら迷路のように曲がりくねった道であり、都会の裏を通る人影のまばらな静寂な道であり、戦場を走る血のしたたる荒んだ道であり、貴族が住む閑静な住宅街に見られるような、可憐な花の咲き乱れる優雅な道であるわけだが、姿かたちは違えど、この道の一つ一つは過去にも未来にも、この大陸のどこかに整然と存在していて、この道を自身の未来のためにどう扱うか、どう生かすかは、今現在、命を持つものだけに委ねられているはずである。また、この道と同じ数だけ生命には可能性があると仮定することもできるだろう。また、そういうことであれば、人類の歴史や生命の重大さを語るのに、我々は何も、万民の上に立つ王侯貴族や、膨大な資産を築き上げた富豪、栄誉ある勲章を授かった将軍や総督ばかりに注目する必要はない。幸せな人生でも、美しい人生でもなかったが、富や名誉を残すことなど考えず、ただ、後世の人々のために小さな足跡を残そうと、懸命にこの国中を駆け巡った幾人かのはかない人間たちの物語。天下を握った輝く英雄たちの人生にのみ憧れる、後世の凡庸な人間たちの眼には決して映らず、多くの史書には書かれることもないのだろうが、そんな、真摯にひたむきに生きた人間たちの人生をこそ、私はこの伝記の中に多く取り上げたいと思う。
 現在、私がこの記録を書いているのはセグロン暦にして201年の春のことである。ここは帝都の市街地の中心部にあるサンデクスマ大通りから少し脇に外れた、閑静な住宅街の一角に位置する蔵書館である。私はここの二階にある書斎を一つ借りきって、二年に渡ってここに篭り、この膨大な記録を書いた。この長い仕事を終えて、筆を置き、深い息を吐き出し、過ぎ去った年月を顧みると、心は圧倒的な開放感に満たされる。この仕事に取り組んだ二年は、勉学に費やしたそれまでの半生全てに上回るほど、充実した期間だった。窓の外では野鳥が平和に鳴き、まだ心の汚れを知らぬ子供達の笑い声や歓声が聞こえてくる。市場で売れ残った野菜や果物をなんとか売りさばこうとする商人がラッパを吹いて人集めをしている。
 一人の英雄の活躍によって、グリパニアとの大きな戦争は一年前に終結し、一時は存亡の危機にあったこのエメリアに再び平和の時が訪れた。領民の中に、安息の時を楽しむ声が大きくなるのはわかるが、私はそれが長くは続かないことも知っている。もう間もなく、この国は次の大いなる悲劇に見舞われるだろう。天地がひっくり返るような大きな政変が起き、それを契機に、我々はまたこの目で繰り返し起こる戦争の惨禍、取りも直さず、それは戦火と略奪に苦しみ、悪鬼のような兵士たちから逃げ惑う民衆の姿であるが、それをまた見なければならないのだ。人類史において、この戦乱と平和の繰り返しは、そこに人間が生き続ける限り必定といっていい。数年に及ぶ戦乱の後、この帝都の権力も大きく様変わりすることになる。次に権力の座につく、平民生まれの寡黙な英雄に人々がどう反応するか、興味深いところである。
 幾つかの戦争の結果によって、もう間もなく古代から延々と続いてきた王政が終わり、この大陸にもようやく市民平等をうたった議会制民主政治の足音が聞こえるようになる。これまで優雅な暮らしを楽しんできた貴族たちの中には、共和政治に不安感を持つ者も多いだろうが、多くの口の軽い噂好きな大衆にとっては、今度の大きな変革は、王族たちによって作られた、帝都の今の退屈な日常を払拭することになり、案外喜ばれるのかもしれない。現在から見て、数年後に起きるこの革命的な出来事も、当然、今派手にめかし込んで、今日明日のことしか考えずに通りを歩く人間たちは知るよしもない。未来の真実はただ、私の胸中にあるばかりである。
 話を戻そう。私は自分の人生を終える日を数日後に控えている。病気を持っているわけでも、誰かに恨まれて殺されるわけでもないが、私にははっきりと自分のあと少ない未来と、その結末が見えるのである。神の存在を信じるわけではないが、運命によって示された残り少ない我が道を、それがどんなものであれ、一切の後悔なく、素直に受け入れようと思っている。ただ、残された時間が少ないことを自覚している故に、読者が今手に取ったこの分厚い記録書の内容が、どのようなものであるかを綴った、この最後の文章の書き上げを急がねばならないのだ。
 さて、とりあえず目次を眺めた読者の中には、疑念を持つ方が多くおられよう。この記録には、少なくとも現在から、エメリア帝国崩壊に至る235年までの、約三十年の間に起こった歴史上の事象が、こと細かく記載されているからだ。そこには国家権力が後世のために作製して保存している公式の史書には全く描かれていない事件や、そこに登場しない人物も多く記されているだろう。私は客観的事実の覚書を羅列したような、学徒向けの歴史書を書いたつもりはない。この記録を手に取ったどんな種類の人間にも喜ばれるように、可能な限りその時代の背景や領民たちの生活の様子、また数々の紛争当事者の内面の変化も取り入れようと気を配った。
 例えば、長い歴史を振り返れば、各時代には反乱や政変を企て、自分より身分の上の者を謀略によって殺害したり、あるいはその企てが事前に露見して、厳しく処罰された者が多く登場するが、これまでに書かれた多くの歴史書では、それらの人間を一様に犯罪者としか記していないのだ。これが、私がこの記録書を書こうと思い立った最も大きな要因である。それがなぜかと言えば、その時代の政権にとって反乱の企画者の詳しい行動や心理面を描くということは、そのまま自分たち権力者の不都合の露見に繋がりかねないからだが、私はそれでは後世の人間に正しい事実を伝えたことにはならないと考えている。大抵の場合、重大な犯罪者には事件を起こすに至る、それ相応の理由や外部要因があり、それを詳細に記載していない史書は、何らかの事実を湾曲していると見なすべきであろう。私は戦争を単純な殺し合いとは思っていないし、犯罪で処刑された人間がすべて極悪人とは考えていない。人間はすべて後世の人間の正しい物差しによって評価されるべきである。
 先程も述べたように、私は過去の世界から、未来を見通してこの記録を書いていることになる。そのことに、読者諸兄が当惑されるのはもっともである。だが、憶測になってしまうが、私より遥か未来に生きる読者の目から見て判断しても、この記録に書かれている出来事は、ほぼすべて、諸兄の住む時間の中で歴史上の事実として起こったことであろうと推測する。そして、私の言葉が、セグロン暦201年という過去の世界でこれを書いているという、私の言葉がもし事実であるとあなたがたに信じていただければだが、あなたはこの本が全て正当な史実を描いていることに驚かれることであろう。酔狂で言っているのではない。知性高い有能な読者を騙そうとして、戯言を書いているわけでもない。だが、自分が主張していることに少しでも真実味を持たせるべく、少し私自身の説明も加えたほうが良いだろう。
   私は幼少の頃から、他人のうわべだけの言葉の中に、すぐにその人の心の薄汚さを見出だしてしまう性質の人間であった。それは自分の肉親や親戚に対しても同様であったし、親兄弟などは俗物の代表と言えるもので、物心がついてすぐに信用ができなくなった。そのため、両親に薦められて入った高等学校にも、凡庸な教師や同僚に囲まれているのが嫌になって次第に通わなくなり、他人との付き合いを極力避けて自宅の書庫に篭ることが多くなった。帝都で官吏に就いていた父のおかげで、我が家には仕舞いきれぬほどの書物があった。それは友人のいなかった私には良き遊び道具となり、誰とも触れ合えず寂しかった私の心を慰め、現在の私の想像力を産出する源にもなった。私は知人が恵んでくれる菓子や両親の買ってきたパズルや玩具などには何の興味も示さず、各国の様々な歴史書を読み漁ったり、膨大な歴史上の人物の自伝や、彼らが起こした事件の詳細や、その背景を興味を持って調べるのが好きだった。
 子供の頃から考えていたことだが、私自身は過去に起こった人類史上の事件を詳細に研究することによって、そこから未来に起こるべき事象を詳しく予測することは可能であると考えていた。なぜなら、人類はいつの時代も、またどこの国においても、政治家も哲学者も夢想家も、皆同じことを考え、同じ轍を踏み、内乱にせよ、外交にせよ、すべて同じような思想的目的によって行われ、各国の首脳部の利害だけに通じる、つまらない地図上の線引きに起因するいがみ合いにより戦争を起こし、貴族も大衆も皆が同じような感情の変化によって恋愛をし、王族たちは何代の時を経ても、同じような政変を繰り返すからである。
 だが、知識だけではだめだ。いくら膨大な量をもってしても、知識に頼った力だけでは、未来の予想はひどく曖昧なものになる。未来を正確に予測するためには、圧倒的な知性の他にもう一つ必要なものがある。それこそ神秘極まった技術であり、これまでの人類が目にしたことも、手に入れたこともないものである。私は各国を渡り歩く旅人や商人の話に聞くだけで、目にしたこともないその力が、それを信じる優れた研究者たちの手によっていつか完成する日を夢見て長い間待っていた。そして、近年になって、遥か遠いグリパニアからもたらされたその秘術によって、期待していた通り、私の未来を予測する能力は完成を見ることになった。説明する必要はないと思うが、これを完成させた瞬間、私の心はかつてない高揚感で満たされた。この能力の完成により、未来に起こる事実をあらかじめ予測しながら、その日が来るまで周到に準備し、これまで勝ち目がなかった他国の敵を戦争で撃ち破ることも、一介の農民から王族まで上り詰めることも、私には簡単にできるようになったのだ。
 しかし、この時代の凡庸な人間たちは、老いも若きも、友人や親族たちも皆、私の正当な能力を決して認めようとしなかった。同じ研究施設で働く学者仲間に、私が書いたこの記録の断片を読ませてやっても、皆、あからさまな不快感や嘲笑を見せるばかりで、おまえは狂っていると、わかったように断じる者さえいたのだ。それは私が仕事においても私生活においても、普段から一般の人間と違う変わった行動や言動を取ることが多かったからだが、グリパニアから伝わった、人間の精神の根源に迫るこの素晴らしい秘術にしても、他人にいくら説明したところで、常人の脳には到底理解できるものではなく、考えてみれば、凡人である彼らに、これを素直に信じろと言うことの方が無謀であったのかもしれない。無能力者の彼らには、どんなに血を熱くたぎらせてみても、深い知性を掘り起こそうと努力しても、良書を読んで膨大な知識を得ても、決して未来を見ることはできないからだ。
 そこで、私の才能が完成されていることを証明するために、私は後世の人々のために、膨大なる記録書の冒頭に、今書いているこの記述を残そうと思ったのである。この行為が、決して自己満足のためではないことを、ここに付しておこう。なぜなら、私は人類の未来を余すところなく見通すという、これだけの能力を備えながら、富や名誉を一切受けることなく、一介の無名な学者の身分のままで、あの世に旅立つことを、この文章を目にするすべての読者に約束できるからである。今思えば、私は生まれながらにして、物欲や金欲を一切持たない人間であった。地位や勲章など最も無用なもので、他人の好意によって、それを譲られても頑なに固辞し、自分の研究のみに時間と財産とを費やした。しかし、不思議なことだ。周囲の愚かな人間たちから、私が露ほどの影響も受けなかったということが! 親兄弟も含め、私の身の回りには、金や権力に小煩い連中ばかりいたというのに。子供時代も学生時代もそして学者の身分となった今も、人生の道筋で出会った全ての人間が、日々金を1ペインでも多く他人からせしめるために、この薄汚い帝都の裏路地を目をぎらつかせながら、さまよい歩いていたというのに。
 あるいは、このような未来を素通しできる能力を得ることができたのも、そんな私の特異な性質を気に入った神の思し召しによるものなのかもしれない。
 もちろん、読者諸兄は実際に起こった歴史上の事象と、この記録書の記事を見比べることができるわけである。その上で、やはり歴史が正しいのか、それとも、私の残した記述の方が詳しく事実を捉えているかは、あえて諸君の判断に任せたいと思うが、私は自分の生涯をかけたこの記録に絶対の自信を持っている。この時代では決して認められることのなかった私の才を、自分の肉体が滅失してしまった後に、後世の人々に認めてもらい、その評判を天空の彼方にまで高めてもらうことは、誰にも愛されず、つまらない学者の身分のままで人生を終えた私にとって、至上の幸福である。もちろん、読者がこの本を読了するとき、すでに過去の人間である私がそれを知ることはできないのだが、私は今から、未来に生きる人々が驚愕し、私を過去の隠れた偉人として敬い、賛辞を贈る様が見えるのである。私はそれを思うだけで満足なのだ。
 しかし、この作業を企画した当時は、数知れぬ人間が創りあげてきたこのセグロン史の、どの部分から描き出せばよいのか、また、誰を主人公とするかを決めることが、長年この記録と向き合い、これを書き上げた私自身にも難しいところであった。周知の通り、歴史には初めや終わりがなく、登場人物も大きな事件も戦争も、人類が生き続けていく限り、無限に発生するからだ。名にし負う英雄も商人も武人も、この記録書の中には数限りなく登場するのである。読者の大勢が主人公としてどの人物を望むかということを、まだ数々の戦乱が起こる以前の、この時点で判断することは、極めて困難なことだった。エメリアにもグリパニアにも、そして後に続く統治国家であるセグロムにも、取り上げるべき事件も人物も際限なくある。最初に、私が注目したのはエメリア統治が終わった直後に登場するJ・ライスという革命児だが、エメリアの栄光と衰退をこの記録の主軸に据えたいと思っていた私にとって、その滅亡後に登場し活躍するこの人物を主役にすることには抵抗があった。この物語全体の主役となるためには、もっと以前から歴史上に登場し、その上で、生涯に渡って、ある程度の活躍と名声が織り込まれる人物でなくてはならなかった。
 私は熟慮の末、この記録の比較的前半から登場するF・ケークという一人の人物に着目した。この記録全体から見れば、この男はそれほど目立つ存在ではない。英雄のまま、庶民の羨望を一身に浴びたままその生涯を終えた、グリパニアの武人バルガスや、エメリア最後の将軍でもあり、この国の悲劇の象徴でもあるベクトリアに比べて、このケークという人物は凡庸であり、貴族的な華やかさや、先天的な知性や才能、また決断力にも欠けるのだが、一般の人間の手に届かぬ能力者よりも、この男ように多少の人間味を持ち合わせた人間を中心に据えた方が、あるいは後世の読者の興味を引くのかもしれない。栄光から悲劇への転落を描いた脚本は多々あれど、ただ時流に乗って生き、他者の陰謀によって、いつの間にか権力の座に就けられ、結局のところ、生涯一粒足りとも幸福を得ることができなかったこの男の人生は、ありふれた英雄譚に飽き飽きした未来の読者に受け入れられる要素も多い。
 そういうことであれば、あえて、ケークが登場する場面から、この記録を始めるのが妥当であろう。時は、セグロム暦211年の春、場所はサイズ地方の南西に位置するカレイド近郊の森。ここから、この記録書の記述を始めることにしよう。いずれ帝都の大将軍となるケークも、この時代はただの一介の兵士である。後世のどの史書にも、彼の青年時代の記述やその当時の思惑などは残らないはずである。彼の見るもの出会うもの経験するもの全てが、出世したケーク像を知っている読者にとっても新しい記憶になるだろう。
 冒頭に登場する、アンドレア・ホーチスは、兵士としては武力にも知力にも欠けた人物で、この記録の中で特に重要な人物ではない。だが、ケークの人生を紹介する前に、まず、ハノンの一般兵の代表であるこの男を皆さんに紹介しなければならないだろう。
 存亡の危機にある祖国のために、南部の森で新兵を探して駆けずり回る、この男の足どりを辿っていくのが、東南テム戦争の混乱期にある時代背景を説明するのに都合がいいからだ。しばらく間、この男が読者の皆さんの道案内をするかもしれないが、長く記憶に留めていただく必要はない。
 最後になるが、この記録は歴史そのものであるから、この長い記録のどこかに、当然のことながら、私の姿も登場するわけだが、私は自分だけを特別扱いすることなく、その生も死も、他の人物と分け隔てなく、自分をありのままの姿で描くことにした。登場期間は短く、読者の記憶にも、さして残らないであろう。寂しいことであるが、それは正しいことでもある。歴史上において、必ずしも、最も才能に秀でた人間が一番大きな評価を得るわけではない。最大の評価を得るのは、いつの時代でも、大衆の願望に最も添った人物である。私は自分の人生のどこをどう修正したとしても、そういう人物にはなれなかったと思う。
                      アレフレッド=ミュラー

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