１章　激闘の森

　

１節　消え失せた足跡





命が消えかかっているのか、話している男の声が次第に小さくなっていった。
「俺たちに言いたいことはそれだけか？」
ケークは何も意に介さず、冷めた声で呼びかけた。
「いえ、もう少しお待ち下さい…。わ、私は、すでに見えぬその男の背中に感謝しました。なぜかと言えば、あの男に負けて斬られた瞬間に、私の心に真っ当な考え、娘を抱いてなんとか生き延びようと山道を登り、滝のような汗を流しながら懸命に歩いていた時のような純粋な人間の心が再び蘇ってきたからです。私はようやく自分のこれまでの道を後悔することができました。散々悪行を尽くした後では、もう取り返しのつかないことなのですが、私の愚かな行為によって命を落とすことになった人々のために悔し涙を落として謝罪しながら、両目を失ってからの日々を送ってきました。日に日に腐れていく目の痛みよりも、絶対的な空腹感よりも、自分のどす黒い罪の意識に悩まされ、苦しめられ、太陽を失ったように辛い日々でした。こんなにも人間の道から外れてしまった私ですが、このまま朽ち果てた後、あの世では妻も娘も出迎えてくれるのでしょうか？　ああ、なぜ、娘を失ったとき、潔く自分の命も断ってしまわなかったのだろう。そうすれば、親子三人、この世での何の罪状もなく、あの世で楽しく暮らしていけたというのに。なぜ、他人から生を奪ってまで、見苦しく生きることを選択してしまったのだろう…。道徳を無視した悪を続ければ、自分もいつか常軌を逸した魔物に襲われ、すべてを失うことになると、なぜ、あの時にわからなかったのだろう。いいですか、ここで申し上げておきますが、あなたがたは、決して私のような愚かな人生を歩まないで下さい。私はほんの数歩だけ道を踏み外したために、地上の人間が誰も背負ったことのない、膨大な数の重苦しい罪の意識を背負うことになってしまいました…。今は、少しでいい…、光をください…。こんなことになってしまった今は…、誰に祈ればいいのか…」
それを最後に男の言葉は聞こえなくなった。ケークはその男の最期を確認すると、一度あくびをしてから立ち上がった。ホーチスは男の話したことがまるで我がことでもあるかのように動揺してしまい、身動きが取れない有様だった。
「なに、なかなか真に迫った話だったが、この森の中ではよくある人生さ。気にする必要はない」
ケークはホーチスを励ますようにそう言って気持ち良さそうに背伸びをした。
「戦争中とは言え、自分の事情だけで人を殺していけば、いずれ取り返しのつかないことになるのは事実だ…」
ホーチスはそう呟いて考え深げに立ち上がると、男の遺骸に持っていた毛布をかけてやった。
「神様だか司教だかに叱られたとしても、自己中心的な民衆どもに、どんなに責められたとしても、殺される側にまわるよりいいだろう…。その男だって、逃げそこなって、娘と一緒にグリパニア兵に殺されていたとしたら、その時はその時で別の後悔があったはずさ。要は自分の人生が最後にうまくいかなかったのを、選択を誤ったことにしているだけさ。自分の目を斬った男、俺はその男を斬った覚えは全くないが、そいつに出会わなかったら、この男は人殺しを続けて、今でも奪い合いの人生を謳歌していたはずさ。誓ってもいい」
「でも、結果的に君がこの人の人生を終わらせた。この次にこの暗い罪を背負って生きるのは君だ」
ケークはそれを聞いて大笑いした。この人が人で無くなるような状況の中で、道徳だの罪の意識だの言われるのが可笑しくて仕方のない様子だった。
「何を真面目な顔をしているんだ。こいつの人生を終わらせた人間にも罪があると言っているのか？　いいか、この戦時下に生まれてきたのは君も一緒だぜ。君だって他人の不幸を嘆いている場合じゃない。自分の不幸を存分に呪ってもいい。それから、俺は別に牧師じゃないぜ。倒れているこの男のように、これから、自分の不幸を他人に話して売る商売を始める気もない。この男がかつてやったように、出会って気に喰わない人間は全員殺すつもりでいるが、こんな自分になってしまった過去を恨む気持ちもない。逆に神に感謝しているくらいさ。ハノンでの不条理な命令によって多くの仲間を失ったせいで、俺の人生は手錠が外れたようにわかりやすくなった。山頂から眺める青空のようにかえって見通しが効くようになったんだ」
「いや、君もそのうちわかるようになるさ。人を殺した意識というのは決して消えない。殺害してから何年経ってもさ。例え、この戦争がいい方に終わったとしても、君は生涯消えない罪の意識にさい悩まされて生きていくことになるだろう」
「おお、それは結構なことだ。望むところさ。だが、そうなるとグリパニア軍の諸公も大変だな。彼らは命令一つで、一日数千人の命を消し去っている。たった十数人を殺した、俺やこの男に罪があるんだったら、戦争の当事者にはどれだけの罪があるんだろうな？」
「そうだ、当事者には最も重い罪がある。だから、これ以上の加害者も被害者も出さないために、僕は正義の側に加担し、なるべく良い方向でこの戦争を終わらせたいんだ」
ホーチスは力拳を作って、強くそう言った。ケークはそれを聞いても、牧師の話を退屈そうに聞いている子供のような顔をしていて、まったく納得のいかない様子だった。
「君の言う正義という言葉がそもそもあやふやでね。この戦争で人殺しをしているのは、何もグリパニアだけじゃない。まだ、戦時下でのおつむが完成していない君に、真実に迫るこんな話をするのが無駄なのを承知で言うが、ハノンの中枢も驚くほど腐っているのさ。わかってるよ、俺がどんなにこの国をおとしめても、君が自分の生まれ故郷を悪く言えない人間であることはわかっている。でも、戦争というのはどんな戦端があったとしても、必ず双方に罪があるのさ。お互いに何らかの利益を見越しているから戦いを続けているんだ。善良な大衆から見ればハノンは攻められている被害都市だろうが、ところがどっこい、ハノンの方も考えているのさ。この戦争の先にあるものを。あるいは、グリパニアよりもっと怖いことをね」
「君は親も兄弟もない傭兵のような男だな。金さえもらえればどちらの側にでもつきそうだ。思想的には、さっきのバンガローにいた男たちとたいして変わりがないようだな」
ホーチスは呆れたようにそう言った。ケークをただ剣に強いだけの中身のない人間だと思ったようだった。
「まあ、それでもいいさ。俺は君にどう思われたって構わない。とにかく今は先を急ごうぜ。カスケットはもうすぐだ。そうだな、さっきの男の話にも少し出てきたが、カスケットに到着すれば、俺が言っていることも少しは理解できるようになると思うぜ。俺はただ、人間はちょっとでも断崖に追い詰められれば、自分のことしか考えられない生物に成り果てると言いたいだけだ。人間は国の命令に従って生きているんじゃない。平和な時期にはそう見えるだけで、実際は個人の考えで生きているんだ。そのことを一番手っ取り早くわからせてくれるのが、この戦争という出来事なんだ」
「わかったよ、僕もカスケットには少しの期待をしているんだ。久しぶりに、多くの真っ当な人間たちと出会える予感がしてね。どうも、この森は僕に言わせると食に飢えた狼のような人間が多いようだから、どうしても考えが殺伐としてしまうんだね。カスケットに着いてまともな人間を多く見れば、君のひねた考えも少しは矯正されると思うよ」
ケークはどのように罵られても、軽く笑い飛ばすだけだった。二人はひとまず争いの矛をおさめて、再び森の中を走り出した。
　今日は快晴だった。サイズの森の空を覆う木の葉の屋根を突き抜けて、幾千もの光の矢が地表に舞い降りた。地図を見ると、カスケットへの道は主要な大通りと小道の二つに分岐していて、どちらを通ってもさほどの時間差はなく到着出来そうだった。問題はどちらの道が安全かということだった。ここはケークの指示で小道の方を選んだ。
「盗賊たちも大きな道を張っているかもしれないが、それより怖いのは兵士の一団だ。南軍の寄せ集めどもに道を塞がれていたら厄介なことになるからな」
ホーチスは南軍の兵士は味方だろうと言いたかったが、ここは今まで森で生き延びてきたケークの考えに従って、黙って彼の後に続いた。倒木や小川をうまく避けながら道を真っ直ぐに進むと、やがて小さな建物が見えた。その周りを幾重にもぼろをまとった民衆が取り囲んでいるのが見えた。これだけ離れた位置からでも、彼らのつんざくような叫び声が届いてきて、よほど多くの人が集まっていることがわかった。二人が近づくと、そこには小さな礼拝堂であった。入口の石畳の上で、小太りの神父が一人で右手に持ったロザリオを振り回し、空に向かって熱心に祈りを捧げていて、その周りを汚い恰好をした難民たちが取り囲んで、口々に何か神への要求を口走っていた。
「神父様、この子に聖水をかけてやって下さい！　かわいそうに…、すっかりやせ細ってしまって…、神のご加護がなければこのまま死んでしまいます、どうか…」
一人の女がそう叫んで神父にしがみついたが、それを見て他の多くの難民も神父の法衣を掴んで、我先に願望を叶えようと身勝手に自分の願い事を口走った。食料を求める者、少しの金銭の恵みを要求する者、この地方からの安全な逃げ道を聞き出そうとする者、あの世での安閑を求めようとする者と要求は様々だった。神父はあっという間に十数人の難民に纏わり付かれてしまい、とてもじゃないが全員の話を聞くことはできない様子で、本人もかなりの混乱があるのか、ただ瞑想したままロザリオを振り回し、「間もなく、神が降臨されます。皆様に約束しましょう。必ずです。それまで皆で祈りましょう。神が無法な戦いを終わらせ、地上に再びの平和を下さいます」と汗びっしょりになって叫び続けながら、市民たちの混乱をなんとか収めようとしていたが、カスケットで盗賊や気が狂った兵士の暴行などを見てきて、それから必死に逃げてきた難民たちはすっかり取り乱していて、法衣を破くような勢いで神父の裾にしがみつき、彼の言葉をまともに聞いている者はいなかった。もはや、この神父に誰の願いも叶える力はなかった。難民は各々が数十日前の平和だった自分の生活を返してくれと、ただせがむだけで、全ての人が全てのものを失った、この戦乱の中では、それはすでに叶えられない願いになっていたのだが、土地や財産、家族の命など、自分が失ったものを諦めきれない人間たちは、普段は露ほども信じていない神へ頼みにくる他はなかったのだ。
「ほら見ろよ、神様も大変なんだよ。無茶な願いを聞かないといけないからな」
ケークは礼拝堂前の異様な様子を見て、笑い出すのをなんとかこらえながら、無責任にそんなことを言った。
「平和な世では、一生懸命説教をしても、信仰の薄い民衆がなかなか立ち寄ってくれないのに、ひとたび戦乱が起きると、物を恵んでくれってあんなに大勢で押し寄せてくるんだから、神父も楽な商売じゃないよ。自分たちが何もできない、ただの人間であることを早く証明して見せないと、難民どもに身ぐるみ剥がされてしまうぞ」
「笑うのは誰だ！」
その声を聞いて、神父を取り囲んでいた数人が一斉に振り返った。
「俺達の姿を見て笑ってる奴がいるのか？　なんて不謹慎な野郎だ！」
「笑ってる人は誰？　今はみんなで大粒の涙をこぼして、神様に降臨を願い、祈る時ですよ。自分の立場を履き違えては駄目です」
ついに群集の中からそんな声が聞こえて出して、多くの興味の目がケークたちにそそがれた。それでもケークは平然としていた。ここまで追い詰められてから、ようやく神に祈りだす人間たちの姿がおかしくて仕方がない様子だった。民衆は彼のそんな不遜な態度を見て、自分たちに何の利益ももたらさない、通りすがりの人間だとわかると、すぐに目を背けた。この頃のケークやホーチスの格好は名の知れた剣士とはとても思えないような、大衆のそれとさほど変わらないものであったから、二人に警戒する者はいなかったのだ。
「すいません、僕らはただの旅人です。カスケットへ向かう途中で通り掛かっただけなのです」
ホーチスはこの場の雑然とした空気に飲まれてしまい、申し訳なさそうにそう言った。本当は頭を下げる必要などなかったのだが、彼は困っている人間には精一杯の配慮をしなければいけないという常時の発想にここでも囚われていたのだ。
「この森を旅しているだって？　この森の住民は心を犯された奴ばかりだ！　みんな、他人を殺してでも生き残ればいいと思い込んでいる。歩き回っているうちに、霊魔にとり憑かれてしまう人間までいるんだ！　今生き残っている人間で、一人だってまともな奴はいないんだ。おまえたちはすでに悪魔だ！」
「そうだ！　こいつらは悪魔だ！　すでに目が荒んでいる！」
再び難民の誰かがそう叫んで、その場に不穏な空気が流れた。神父の目線が一度こちらへ注がれたが、二人をかばうような余裕は全くなさそうで、事実、真っ青な顔をして数回頷いただけで、彼の口から助け舟になるような言葉は出て来なかった。まるで、一番窮地にいるのはこの神父のようにさえ思えた。数人の男たちが二人の周りを取り囲んで、行き先を塞ごうとしたが、ケークが腰の剣へと手をやると、すぐに二人の包囲を解いた。あわよくば、少しの煽り文句だけで食料を脅し取ってやろうと思っただけで、傭兵と本気で斬り合う気は最初からなかったのだ。ほとんどの群衆の視線はすでに二人から外れていた。
「あなたがたは何の用事があってこの道を通るのですか？」
その安っぽい神父は、難民に囲まれた態勢のままでそう尋ねてきた。教会が世間の人々に対していつも自慢している慈愛からではなく、自分の背中にしょい込んだ重い義務に後押しされて出てきた言葉らしかった。
「これからカスケットに入ろうと思うのですが、この道は通じていますか？」
「馬鹿なことを言うのはおやめなさい。カスケットに向かうですって？　あそこは悪魔の巣です。病んだ人間たちの住家です。ここから安全な地方まで引き換えした方が、どれだけあなたたちのためになるかわかりませんぞ」
牧師はいくぶん興奮したように声を張り上げ、ケークたちの行動を諌めようとした。しかし、彼らは行く道はすでに決まっているといったふうで、牧師の言葉をまともに受け止めることはなかった。
「もう一度いいます。引き換えしなさい。湿地では飢えた人間たちが、あなたたちのふところを狙って襲いくるでしょう。食料への欲求は人間の脳を狂わせる。生への欲望からは誰も逃げられないのです。ここにいる民衆たちのように、逃げ惑ううちに心を失い、悪鬼にとり憑かれても知りませんぞ！」
ケークはそれを聞いても、まだ薄笑いを浮かべていたが、木と木の隙間から微かに見える山脈を指差し、神父のそんなちんけな言葉を、真っ青な空の彼方に軽く吹き流すように呟いた。
「サウスヴィクスはずいぶん暑そうですな」
彼は死地に到着することを楽しみにしていた。どんな悲惨な結果であれ、彼の望み通りだったからだ。二人は狂乱する群集をその場に置き去りにして、森の出口へ、カスケットを目指してさらに歩みを進めた。ホーチスは群衆の中でケークの言葉に気を悪くした何人かが凶器を持って追いかけてくるのではないかとさえ思ったが、後ろからは誰も来なかった。それでも彼は何度も振り返った。この森の中では心に貯まった不安はなかなか消えなかった。一瞬黒い影が道を横切ったのが見えた気がしたが、次の瞬間には消えていた。今のはきっと幻覚だ。
「あと数時間もすれば、あの汚い群衆の混乱が頂点に達して、神父を殴り殺してしまうか、あるいは神父が先に発狂して、ロザリオを武器にして群衆に襲いかかるか、どっちかさ」
ケークは先ほどの出来事を、さらに嘲り笑うようにそう言った。
「だからこの森は嫌なんだよ。こんな見苦しい光景ばかり見せられてしまってさ。こういう困難な時こそ、どうしてみんなで協力できないのだろうか？　後方から戦いを支援するにしろ、食料を自給して分け合うにしろ、その方がずいぶん気持ちが救われるはずなのに。あんなふうに感情をぶつけ合ってどうするんだ？　苦しいのは誰もが一緒のはずなのに…」
ケークはそれに答えなかった。どんな正論を並べたところで、他の人間を助ける気がしないのは二人も一緒だったからだ。

＝８＝



第１節 １ ２ ３ ４ ５ ６ ７ ８ ９ １０
１１ １２ １３ １４ １５ １６ １７ １８ １９ ２０


アラブ系千葉文庫へ戻る