森から出れば、襲ってくる者はいないとわかっても心はなぜか落ち着かず、どうにもやりきれぬ気持ちのままだった。この暖かな季節になっても、花も咲こうとしない湿原をしばらく歩き続けると、その先にようやく目新しい白い石造りの建物が見えてきた。飾り気もない外見で、よく見ると周囲の壁は泥で薄汚れていて、近くに人の気配もなかった。民家ならば、法も秩序もないこの世界では、とっくに盗賊や浮浪者たちに占拠されてしまっているはずだが、この辺りには清廉された静かな気配が漂っていて、そういう粗野な感じは受けなかった。遠くを歩く汚い難民たちも、こちらにはなかなか近づいて来なかった。言うなれば、ここは当たり前のように無人だった。それなら、この建物は納骨堂だろうかと彼は考えた。さらに歩き、手が届くほどにその建物に近づいてみて驚いた。白い建物の周りの敷地には、何百という白塗りの十字の枝が、等間隔に地面に突き刺してあった。その光景は不気味でもあり、逆に整然として美しくもあった。周囲の潅木に守られて、ここだけ地面はぬかるんでおらず、建物の壁に触れるほど近づいても、人の気配はなかった。少しでも信仰心を備えている者なら、ここがどんな場所なのか、子供でもその理由はわかるはずだった。だが、まだこの時のケークには理解力が欠けていた。彼には、難民の近くにいるより、静かなこの土地の方がよほど安全に思えただけだった。この辺りになら座ってもかまわないだろう。そう考え、彼は十字木の中から、比較的大きめのものを選んで、それを背にして座り込んだ。 「あなた、それはすべてお墓ですよ」 その声にはっと驚き、振り返ると、先ほどの建物の影から、白いローブを身にまとった白髪の男性が歩み寄ってきた。その絹布のローブも、もう純白とは表現できず、ここ何日か降り続いた雨の影響か、所々に泥が跳ねてしまって、裾に茶色の模様を作っているのだった。服は汚れているが、胸には華やかな銀のロザリオが光り、腰の帯も刺繍のついた豪華なものだった。身なりはそう悪くない。何者だろうか。殺気だった他の難民たちとはどこか違う、温和で和やかな印象を受けた。その落ち着きはらった雰囲気は、彼が生まれ持ったもののように感じられた。 「そうかこれは全部墓か…」 彼はそうつぶやいて、もう一度周りを見渡してみた。もう何百か、あるいは霧の向こうにも、まだ並んでいるとすれば、何千とあるか知れなかった。 「驚かれたでしょう? もう…、その数は二千と百を超えました。遺体は毎日のように、いや毎時間のように運ばれてきますのでね…。教会の関係者だけでは、とても埋葬しきれないほどです」 ローブの男は寂しげにそう言った。例え、長期間教え込まれた神父でも、犯罪をも可能にしたこの空気の中で、正気を保っていることは容易ではない。そういう意味で、この男の持つ厳粛な雰囲気は、ケークに不思議な印象を与えた。この地方の殺伐とした空気に、まるで馴染んでいなかった。神父はにこやかに微笑んでいた。まるで、ケークとやっと出会えたことを喜んでいるかのようにさえ思えた。今の混沌とした状況では、決して、全ての宗教家がこうではないことを彼は知っていた。信者を置き去りにして、自分の財産だけを持って、他国に逃れていった司教や神父が何人もいることを彼は知っていた。そして、それが人間の真実の姿であるとも思っていた。 「森を抜けてきましたか?」 神父はそう尋ねてきた。ケークはその言葉を得に不思議に思わず、黙って頷いた。 「大変な思いをされたでしょうね」 神父は全てを見通しているような目でそう言った。しかし、その落ち着きすぎた態度がケークには気に入らなかった。この湿原に住む者は、誰しも先の見えない状況に混乱しているべきなのだ。彼は少し脅してやろうと思った。 「森は狂気の渦でしたよ。いや、しかし、かえってわかりやすくて良かった。誰もが自分のことしか考えていなかったのです。一握りの食料や金が、人間たちを殺し合いに駆り立てていたんです。あそこには、欲望より助け合いなどと言い出す人間は誰もいません。森に住んでいた全員が、自分の生を要求していましてね、奪い合いや殺し合いの日常をすっかり受け入れていました。私はそういう人間たちを相手にして来たんです」 「あの森で起こっていることだけで、人間を低く評価してはいけませんよ。この戦争が人間にそういう行いをさせているのです。ここまで極限の状態に置かれてしまっては、欲望を優先させた人、他人の命を見捨てた人を咎めることはできません」 神父は落ち着いた声でそう答えた。ケークにはそういう答えを言い慣れているように聞こえた。最近になって、きっと難民からの相談も多いのだ。自分は罪を犯してしまったが、これでも神に救われるだろうかと、今になって尋ねてくる、図々しい人間も相当いるに違いないと彼は思った。そして、戦場で軽犯罪を犯したくらいで胸を痛めるくらいなら、生きる気さえ無くして、森で倒れていたあの男のように、一時は開き直ってしまえばいいのにと思った。見方を変えれば自分の世界はすっかり変わるのだ。法など自分を縛るものでしかない。 この時期のケークの考え方では、戦時中の強盗や殺人は決して罪ではなかった。この世界を作った人間、それは戦争を起こした当事者かもしれないが、そういう人間に罪があるとしても、そういう人間が作り出した世界の中で従来の法を破ってしまった人間には、きっと罪はない。問題はその時々の世界に順応することだ。宗教では神が世界を造ったと教えているが、それならば、平和の延長線上に実際にあった今の世界も、必然的に神の造ったものである。殺し合いを認めた人間の悪法に従って進み、悪鬼に囲まれてしまっても、のうのうと生きれば良いのだ。教会に教えをこう必要などない。他人の助けなどまっぴらだ。 「私は森の中で数十人と戦う羽目になりましたが、この通り、生きていますよ。あなたには理解できないでしょうが、神は善良な盗賊(全ての追いはぎが命を奪おうとするわけではないですからね)よりも、人殺しを重ねた、この私を生かしたんです。私は法を恐れません。神も恐れません。不運に足を取られて、命を奪われることも恐れません。狂気の世界に全てを捨て去りました。それでも、私の精神は人間として正常です。この私の姿こそが、この世界で生きるための手本です。なぜなら、こんな私に、神は罰を下すことができなかったのですからね」 ケークは神父の心理を追い詰めてやろうと思い、意地悪くそんなことを言った。それを聞いて、神父は悲しそうな顔をした。 「では、森の中で戦いに敗れて死んでいった人たちのためにも、私はさらに祈らねばなりません。あなたが祈れなかった分まで私が祈ります」 「祈りなど、構いませんよ。どうせ、これからも、戦場で、このカスケットで、際限なく死体は増え続ける。誰がそれを止めます? 誰も止められません。この世界はすでに腐り果ててしまった。言うまでもなく、死体は無限に増えるでしょうよ。それをいちいち悲しいなどと言って祈っていたら身が持ちませんよ。この世界に神はもう必要ありません。神父も司祭もいらない。法も道徳も無くなった世界に、もはや神職なぞ通用しません。あなたこそ、少し休んだらどうです?」 ケークは道理を知らない子供のように、笑いながらそう言った。だが、神父はケークのそういった挑発的な言葉をまったく意に介さないようだった。神父はこんな腐れたことを言っても、この男が実は心底疲れていることを知っていた。森の中での食料を賭けた殺し合いが、彼が人間として持っていたはずの、当たり前の炎を、すでに吹き消してしまったことを知っていた。心が怨霊と混沌の空気に掻き混ぜられ、平静を保てなくなっていると見抜いていた。近い将来には、この男は自分が犯した罪の何十倍もの苦労を持って、この国を立て直すために尽力することになるはずだ。神父は忌まわしい遠い記憶の中に、今日この日、この悪魔のような男が、死の森を抜けて自分の元に来ることを知っていた。 「私はこの戦争が早く終わるように祈っております。しかし、願いは通じないかもしれませんね」 「アイムールでも、大戦闘の準備をしているようですよ。ハノンが抵抗を続ければ、この戦争は泥沼ですな」 ケークはつまらなさそうに南西の方角を眺めて、無責任な態度でそう言った。 「これも運命ですよ。神が涙を流しながら、選んで描いた運命です」 「さっきからどうも難しい話をしていると思ったら、あなたはグリパニア神教ですか。そうなると、ことはもっと複雑ですな。自分の祖国が始めた戦争によって傷つけられた者たちを懸命に治療しようと言うのですか? あなたは殊勝な方だ!」 神父はケークの言葉に大きく一つ頷いてから答えた。 「その通りですよ。ただ、私は遥か昔に祖国を捨てていますのでね。ここでグリパニアを崇めよ、恩を感じよと布教するつもりはないのです。ここに教会を構えたのは、今日、この日に、作られた地獄のただ中にいる、苦しむ人々を救うためです。そして、遥か昔に垣間見た運命に出会うためです。この国を正す決意を持った人が、今日、この時間に、この地を通るという予言に従ったまでです」 「あなたはさすが運命神を信仰するだけありますね。その穏やかな目で未来まで見通せると言うのですか! ここで、このカスケットに教会があって良かった! なにせ、こんなにたくさんの追い詰められた人々が、神を必要として頼って来るのですからな。ハノンにある痩せた教会では足りません。後々、この連中からおふせを集めれば、大繁盛と言うやつです」 ケークは高笑いした。この国を滅ぼそうとしているのもグリパニア人なら、兵士に追われ逃げてきた民衆を助けようと奔走しているグリパニア人もいたのだ。 「この戦争では、グリパニアが間違ったことをしているのは確かです。彼らは権力と武力に目が眩み、道を誤りました。私は祖国の過ちを少しでも償うために来ました。しかし、それでも、この多くの哀れな民衆の数には驚きました…」 「なに、各々に勝手なことを言っているだけです。戦争が起これば、普段の生活が奪われるのは当然です。順応できない、哀れな生き物ですよ。まるで、動物以下です」 ケークの態度を神父はじっと見つめていた。ケークは神父が何も言わずに自分を見つめているので、たじろいでしまった。 「あなたに出来るなら、その力で一人でも多く助けて頂けませんか?」 「私は知りませんね。この戦争のことも。これからのことも」 「いや、あなたは知っている。これから自分が何をするべきかを」 神父は嘆願するような顔をしてケークを見つめた。ケークはこの神父がなぜこんな自分に興味を持つのかわからなかった。他にもここを訪ねてくる流浪の民は多いはずだ。自分は偶然に通り掛かった一介の傭兵で、決して特別な人間ではない。 「聞き忘れていましたが、あなたには、仲間はおられないのですか?」 ケークは思わぬことを聞かれたように驚いた顔を見せたが、やがて、思い出したように辺りを見回した。 「そういえば…、仲間と言えるかどうかわかりませんがね、私には連れがいるんですよ。人間が一人生きるの死ぬのに、いちいち、ぎゃあぎゃあと騒いで喚き、混乱する、うるさい男です。でも、正義とか道徳とかいう言葉が大好きでしてね、あなたの小賢しい説教に向いているかもしれませんな。さて、どこへ行ったのかな?」 ケークは辺りを見回した。まだ、ホーチスは戻って来ないようだった。彼はすぐに探すのを諦めた。ホーチスが今行っていることに、それほどの興味はないのだ。 「では、そのお方とこれからの旅を続けるのですか」 神父は少し安心したようにそう言った。 「他の仲間と合流できたら、峡谷へ向かう予定です。ご存知ですか? いよいよ、バルガスの本隊が来るそうですよ。最強の軍団を間近で見られるのです。この大陸に生まれた人間として、こんな光栄なことはありません」 ケークはさらに意地悪くなって、ふてぶてしくそう言った。 「では、仲間を引き連れて、この長い戦争に参加されるのですね?」 「長いかどうかなんてわかりませんよ。ハノンにそれほどの戦力はありませんからね。私はアイムールの内情を知っていますが、明らかに準備不足でした。私たちが簡単に蹴散らされ、グリパニアが勢いに乗って要塞を越えれば、あっという間にけりがつくかもしれません」 ケークはそこで一度言葉を止めて周囲を見回した。二人が話している間も、全てを失った、哀れな難民たちの食料を求めるための行進は続いていた。 「しかし…、私はこの国の人間ではないからわかりませんが、国家が滅びる時などあっけないものですね。ここより、北部に住んでいた人々は皆、家も仲間も失って、ここへ逃げ延びてきたわけです。民間人は要塞には入れてもらえないと判断した人間は全てここへ来た。だから、ここに不幸で弱い力が全て集まっている。こんな私だって、家や仲間を失って正気を保てなくなった人間たちに同情はあるんですよ。ただ、一人二人だけを助けるという行為に、躊躇しているだけでね。今は戦争という過渡期でいろんな混乱がありますが、ハノンが落ちてしまえば、案外ここもグリパニアの一地方として、落ち着きを取り戻すのかもしれない。無責任な言葉を許して頂きたい。どうせ、私はその時は生きていないのですから…」 神父は興味深そうにその話を聞いていたが、首を一度横に振って答えた。 「いいえ、神はそうは思っていないようですよ。あなたがこの世を去るまでには、まだまだ時間がかかりそうです」 「私が数日後、グリパニア軍に特攻すると決めていてもですか?」 「ええ、運命の神があなたを見捨てない限り、あなたは絶対に死にません。その時間が訪れるまでは、どんなに強い人間もあなたを殺せません。私の見立てでは、あなたは苦難を乗り越えて、ちょうど一年後に再びこのカスケットに戻って来るでしょう。戦いの中で出会った、多くの仲間を従えて…」 「何をいい加減なことを…」 ケークはそんな慰めを聞いて、すっかり気分を害したようだった。自分の判断と技量で死地を切り抜けて来たサイズでの戦いも含めて、これまでの人生で神に救われたことなど一度も無いと思っていた。ここへ来るまでは、自分のことを考えるだけで精一杯の毎日だった。ハノンの民衆のことなど助けようと思ったことはなかった。 「あなたを中で休ませて差し上げたいのですが、あの教会の中も、すべて負傷した兵士や難民で埋まってしまっています。私もこのとおり、外へ放り出される始末です」 神父は戦場の中の気苦労など微塵も見せず、微笑しながらそう言った。彼は戦争が始まってからずっと、遺体の供養と、負傷した難民の手当に追われているのだろう。それを聞いて、彼の衣服の汚れている理由も、それを洗濯する余裕のないこともわかった。 「いえ、私はどこでも、どういう体勢でも休めるので、ここで大丈夫です。あなたの話はもう十分です。私に構わないで下さい。私を難民たちと同じに扱ってくれなくてよいです。私は誰からも施しを受けたくないのです」 「せっかくここを訪れて頂いたのに、休憩場所を提供できなくて、申し訳ありません。その代わりといってはなんですが、お茶を差し上げます。少し喉を潤してから旅立ちなさい」 神父はそう言ってから教会のドアに手をかけた。ケークは神父のその態度に、気になったことがあったので、後ろから声をかけた。 「あなたはカスケットにいる、全ての負傷者の手当てをするつもりらしいが、戦争はまだまだ進んでいきます。時間が進むに連れて、現実はどんどん悪くなっていくでしょう。カスケットも戦場になるかもしれない。いざという時、あなた自身は負傷者が多くて逃げられないのでは? もし、敵軍がここまで来たら、そのときはどうするつもりなんです?」 神父はその声を聞くと、ゆっくり振り返って、無感情でそんな質問をしたケークの顔を興味深く見つめ、また優しく笑い、一度頷いた。何千という悲しみを見てきたその眼には哀愁が浮かんでいた。そのときの覚悟は、もうとっくにできているようだった。ケークは地獄の惨禍の中で、せめて死体の供養だけはと尽力してきた人間を、無惨に刺し殺した瞬間の、グリパニア兵たちの表情を思い浮かべ、さすがに気分が悪くなった。自分が近日死のうが死ぬまいが、この惨禍は続いていくわけだが、早く死にたいと願う、無責任な自分は、運悪くもうすでに死んでしまった人間たちに対して、ほんの少しの罪悪感を感じていることだけは確かだった。 神父の姿が教会に戻り、見えなくなった後、辺りを見回してみると、教会に来て、祈りを捧げるために、入り口に多くの難民が集まっていた。負傷者で埋もれていて、中に入ることはできないため、皆外で祈りを始めた。信仰の違う者も声を合わせて一緒に祈っていた。やがて、悲痛な祈りの言葉は途切れた。生き残った者も地面にうずくまり、顔を手で覆い、亡くなった者への思いを捨てられず、あきらめられず、泣いている者がほとんどだった。口を大きく開けたまま天を仰ぎ、気がふれたように放心状態になっている者もいた。教会で祈り、戦争という混乱状態を少しでも忘れようとすれば、今度は亡くなった者への悲しみが心に蘇ってくるのだ。どんなに多く集まっても、人間とは弱いものだった。 「一人二人なら助けてやれるんだがね…。すごい量の現実だな…」 こうした、何千何万という悲しみの現実が、記憶を無くしたために、白い隙間が多くあった彼の心をまた一つ黒く染めていった。 やがて、後方から一つの足音が響いてきた。それが何を意味するのか、彼にはわかっていた。ホーチスがやっとのことで食料の配給から戻ってきたのだ。彼は手に小さな麻の袋を握っていた。それだけが収穫のようだった。 「いやはや、あれだけ長いこと並んで、たったこれだけだよ。でも、手に入ったのだから良かった」 ケークはすぐに顔を背けて、食料を受け取らなかった。この世の終わりのような惨禍を目の前にして、喜んでものを食べているような気分ではなかった。感情を押し殺して尋ねた。 「それはいいんだが、あんたの仲間はどこだ? ここへ来るはずだろう? まだ出会えないのか?」 「ああ、さっきから、あちこちを探しているんだがね、まだ、会えないんだ。他の仲間も各地で人を探しているだろうから、みんなが無事に合流できるまで、まだ少し時間があるかもしれない」 ケークにもそれは理解できた。すでに、避難民が数万人に膨れ上がっているこのカスケットで、こちらがいつ到着するかもわかっていない相手を探すのは、最初から難しいと思っていた。ホーチスがどうしてもと言うので、彼は小さなパンを一つ口に入れた。味付けは何もなく、小麦粉の淡泊な味しかしなかった。ケークは教会の壁にもたれて目を閉じた。この場所は安心できる。武術の心得のない難民は武器を持っている者には危害を加えないことを知っていた。二人が湿地に踏み込んでからすでに数時間が経過していた。すぐに夕闇がやってきた。彼の肩を揺り動かして眠りを覚ましたのはホーチスだった。 「東の林の方で何かあったらしい」 ホーチスは落ち着きのない顔をしていた。そのすぐ側を数人の難民が必死の形相をして、どたどたと走り過ぎて行った。その次に、負傷した人間が次々と教会の入り口に運び込まれてきた。混乱した人間が大声を張り上げて何か叫んでいた。その場は相当に混乱していた。林の中でテントを張って暮らしていた難民たちが、自分の住家を捨てて逃げて来ているのだ。何が起こったのか、その理由を説明してくれる者もいなかった。ただ、何者かが難民たちを襲っていることだけがわかった。林の奥から大きな声が聞こえた。誰かを呼べと叫んでいるようだった。そのうち、一段と大きな叫び声が聞こえて、狂ったように一人の男が走ってきた。その声を聞いて、先ほどの神父も教会の中から出て来た。 「何が起こりました?」 彼は出てくるなり心配そうに言った。ケークも何もわからず、黙って林の方を見つめていた。男は教会の入り口まで寄ってくると、真っ青な顔をしたまま叫んだ。 「でっかい斧を持った男が…! 頭がおかしくなった男が大暴れしてるんです! もう何人も殺されて…! 辺りは血だらけだ、助けてくれ!」 これまで、避難民同士の金や食料を巡るくだらない騒動には無関心だったケークも、さすがにこの報告には耳を傾けないわけにはいかなかった。ただ、『頭がおかしくなった男が暴れている』という状況が掴めず、一度首を傾げた。 「神父様、どうかあの男を止めてください!」 告げに来た男は両手を顔の前で合わせ、拝むような恰好でそう叫んだ。しかし、二人の眼から見ても、どうもこの華奢な身体の神父が懸命に説教したところで、大斧を振り回す狂人をどうにかできるとは思えなかった。 「それなら俺が行こうか」 そう言うと、ケークはゆっくりと立ち上がり、一度外した剣を拾い上げ、再び腰に備えた。 「本当に行くのかい? もう少し、状況がわかってから行ったほうが…」 ホーチスの発したその言葉と当惑した表情から、この件にあまり関わりたくない心境が強く伝わってきた。 「俺だって行きたくはないが、このまま放っておいたら、その狂人に寝込みを襲われるかもしれんからな…。さすがにそれはまずいだろ?」 神父は、右肩から血を流して仰向けに倒れている男の傷口にガーゼをあてながら、ケークの方へ顔を向けた。 「この人達の応急処置をしたら、私も向かいます。なるべく、その人を殺さぬように解決してください」 「それは無理だ。斧を振り回しているんだからな。手を抜けば、こっちがやられる…」 それを言い終わるとケークは神父に背を向けた。 「その暴れている男のところへ案内してくれ」 この不幸な情報を伝えにきた汚い恰好の男は、先導して湿原の西にある林の方へ向かって行った。草地をしばらく北西へ歩くと、さらに西のサウスヴィクスへ向かう小道があり、案内人はそこを指差した。 「そいつはこの先にいます。気をつけてくださいね」 毛がこびりついた肉辺や真っ赤な細い筋のようなものと血がこびりついた布きれが断続的に散らばっていて、それが紅い道を作っていた。これらが何であるかは、ケークやホーチスにも次第にわかってきた。何か鋭利な刃物で砕かれ、バラバラにされてはいたが、それらは見慣れた人間の身体の破片だった。何度、斧で叩かれれば人間がこうなるのかはわからなかったが、ようやく納得がいったケークはそれを見て嘆息して言った。 「これはもう…言われなければ人の死体とはわからんな…」 悪魔でさえ、目を背けそうな光景を見せられても、一向に動揺してくれない自分の心に軽く失望しながらケークは歩みつづけた。ホーチスは足が完全にすくんでしまい、一歩も前に進めなくなったが、顎が痙攣してしまって声も出ないので、その気持ちを伝えることもできなかった。 「おい、しっかりしろよ…。一週間ほど前に狼だか野犬だかに食いちぎられた旅人の死体を見たが、これより酷かったぞ…。俺達はまだ生きているんだから安心しろ」 ケークは励ましたつもりでそう言うと、今度は案内人の方を向いた。 「それで殺人鬼はどこかな?」 案内人は何歩か前に進み出て、小道の脇に生えそろった木々の間を指差してみせた。ケークがその方へ近づいて行く前に、巻き添えにされることを怖れたのだろうか、案内人は何を言うこともなく、元来た方へ走り去っていった。 その暗がりをランプで照らしてみると、切り株に腰掛けている大柄の人影がぼんやりと見えた。その鎧姿はかなり目立っていた。鋼鉄製の兜の下から見えるその思い詰めた暗い表情を見ていると、ケークでさえ寒気がするのだった。それは説得が通じるような相手ではないだろうなと心のどこかで感じていたからかもしれない。戦時中とは言え、これだけ多くの民間人を殺してしまっては、この男もすんなりと事が収まるとは思っていないだろう。自分の行動を咎める者を全て切り刻むつもりかもしれない。 「どうしよう? もう少し人手を集めたほうがよくないかな?」 男の姿に萎縮したのか、真っ青な顔をしてホーチスがそう囁いてきた。 「おまえはもう帰ってくれ。ついて来られると、かえって邪魔だよ」 ケークにそう言われても、これまであまりに凄惨な光景を見てしまったため、ホーチスは腰から下が震え、満足に歩けなかった。仕方なく、ケークが後ろから腰の辺りをがんと蹴ってやった。その反動で彼はのろのろと動きだし、よろめきながら教会のある方へ消えていった。 男はゆっくりと顔を上げ、ケークをその冷たい目で見た。 「おまえは何を? 何をしに来たんだ」 それは底の見えない深い闇の中から聴こえてきた声だった。 ケークはその問いには答えず、じっと男の方を見ていた。 「もっとこっちへ寄れよ。話があって来たんだろ?」 警戒を怠らず、言われた通りに、ケークは男の方へ三歩ほど歩み寄った。 「なぜ、これほどの人を殺そうと?」 ホーチスの姿が完全に見えなくなってからケークはそう問いかけた。 「俺にもわからん…。説明しようのない衝動だ」 「朝になって、ハノンの憲兵が来るまでおとなしくしていられるか?」 「ふん、なんだ…、あの汚れた連中に見込まれて俺を説得しに来たのか? おまえ腕に自信がありそうだな…。あんな汚い死体を見ても、ちっとも足が震えていないもんな…」 男は視線もよこさず、こっちの話には興味なさそうにそう呟いた。 「なあ、人を殺すのに理由が必要か? ここは戦場なんだがな…。人殺しが当たり前の世界さ」 男は続けてそうも言い、少し笑った。ケークは一度辺りを見回した。どこへも行くあてのないぼろくずのような避難民たちが、テントから時々顔を覗かせて、一言も発さないで、じっとこちらの様子を伺っているだけで、この男以外に兵士らしき人影はなかった。 「見たところ死んでるのは皆民間人のようだがね。それはいいんだが、あんたは南軍の兵かい?」 「そうだ…。アイマール方面から戻ってきたところだ。まあ、正規じゃない志願兵だから比較的身は自由だがな。ついさっき、ここへ戻ってきたところだ…」 「森の中で食糧を奪おうとする盗賊を斬るのはもっともだし、戦場で襲いかかって来る敵を殺すのももっともだが、この周りで死んでいるのは皆武器を持ってない人間だからな。なぜ殺されたのかがわからない…。それで少し気になったのさ」 ケークは地面に転がっている無惨な遺体達を指差しながらそう言った。 「こいつらがさ、命を粗末にするようなことをしたからだよ…。だから、俺もこの斧を使って奴らの人生を滅多滅多にして終わらせてやったのさ」 吐き捨てるようにそう言った後、男は暗い瞳でケークを睨みつけた。自分の行動に絶対の自信を持っているようで、とても謝罪の弁など、でてきそうになかった。 「彼らが何をしたのか話してくれるか?」 「ふん、答える必要はないな。それとも、おまえもこの斧の餌食になりたいか?」 なるほど、あの巨大な斧で叩きつけられたら、人間の身体などひとたまりもないだろう。だが、ランプの薄明かりで鈍く光る白銀の刃を見せられても、なぜかケークの心は動かなかった。仲間を裏切って逃げたその日から、まったくの不感症になってしまったようだ。 「このカスケットには、俺以外にも、あんたに暴れられたままでは眠れなくて困る人がいるらしいからな…」 「ふん、おまえずいぶん偉いんだな。そのために自分が死んでも構わんとは…」 「その斧で潰されるのはまっぴらだね。まあ、このまま生きていても、それほど楽しいとは思わないがね」 「なあ…、少しは考えろよ…。そりゃあ人の命は大事さ。だが、俺がここまでするには何か理由があるとそう思わんか?」 意外な言葉に戸惑いつつ、ケークは言葉を選びながら話し続けた。 「だから、何があったのか聞いているんだ。周りの連中があんたの大事なものを奪ったのか?」 「ああ…、それで生きることをやめたくなってね…。生きていても仕方ないんだよ…。おまえなら俺に勝てるか? 俺を殺してくれるのか?」 男はそう言うと、隣の木に立てかけてあった両手斧を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。意思ではなく、死神に身体を操られているような動きだった。その男の持つ殺気に吸い寄せられるようにケークも自然と腰の剣を抜いた。 「これを見せられても、後ずさりもしないで…、すぐに剣を構えられるのか…。おまえもきっと、何人もの人間を殺してきたんだろうな…」 「生きることをやめたくなった理由を知りたいのだがね」 「おまえにだってわかるさ…。どうせ、これから先、各地の戦場で何百人という人間を殺すのだろ…? それと礼を言っておくよ…、俺を殺せる人間を待っていたんだ…」 この男と戦うことに迷いはあった。仲間を裏切って逃げたあの日から、生きることに嫌気がさしたのは自分も一緒だからだ。ただ、自分に向かって来る人間は全員斬り殺したいという剣士としての純粋な願望がそれに勝っていた。記憶を失ってからはつまらないことで立ち止まり、考えすぎて何もできなくなることが多かったが、こうして敵前に剣を構えてしまうと、漠としてつかみどころのない思考は立ち消え、人を殺せるという純然な喜びだけが残っていた。 「言っておくが、俺も腕に自信があるから南軍に入ったんだ。あんただって、手加減すると死ぬぜ」 男はその言葉を放つと同時に斧をゆっくりと頭の上まで持ち上げた。一瞬呼吸を止めると、男はその巨大な斧を一気に振り下ろした。轟音とともに斧はケークの耳の横をかすめ、地面に突き刺さった。刃先がかすめていった肩に冷たい風があたった。男が慌てて斧を地面から引き抜こうとした隙に、ケークは一歩だけ男の方へ間合いを詰めた。男は斧を引き抜くと、彼を叩き殺すべく、再び同じように身構えた。ケークは燃え上がる相手の闘志を嘲笑うように落ち着いた口調で話しはじめた。 「なあ、もうすぐグリパニア軍がサウスヴィクスに来ることを知っているか?」 「知っているさ、今頃アイムールではお偉いさんたちが大騒ぎしてるぜ…」 「俺はそのグリパニア軍の司令官に、明日独りで戦いを挑むつもりだ」 「正気で言ってるのか? 死ぬぜ?」 ケークは少し笑いながらうなずいた。 「だからな、両手斧を振り回す戦士なんてな、いまさら怖いとは思わないんだよ」 男はもう一度斧を持ち上げ、最後に淋しそうな目でケークを見た。 「あんたには、もう少し生きていてもらいたいがな…」 男が両手斧を振り下ろそうと力を込めた瞬間、ケークは間合いに飛び込んだ。右上に振り上げた刃先が男の左腕を簡単に斬り飛ばし、斧はごろんと地面に落ちた。次いで、そのままの勢いで左下へと振り下ろされた刃が男の胸を斬り裂いた。 「があ!」 断末魔の叫び声と共にその巨体は崩れ落ち、地面に身を横たえた。 「こ、殺されるのは…、わかっていたさ…」 確かに内臓を切り裂いた手応えを感じていたので、男が即死せず、まだ口をきけることにケークは驚いた。 「か、勘違いするなよ…。構えただけであんたの強さがわかっていたわけじゃないんだ…」 男は悲しそうな眼をケークの方へ向け、口から血を吐き続けながら話を続けた。 「罰が当たったんだよ…。あんたの言う通り、理不尽に多くの人を殺した罰がな…」 そう言うと、男は震える手で道端の切り株を指差した。 男の指した方へ歩み寄ると、切り株の向こう側に小さい男の子とその母親らしい女性の死体が並べられ、安置されていた。 「俺の家族だよ…。こ、ここへ戻ってきた時には飢え死にしてたんだ…。食うものもなくて…、苦しかったろうな…。くやしかったろうな…、子供だけは助けようとしただろうに…。ま、ま…、周りの奴らがな…、周りの奴らが、一つでもパンを分けてくれれば助かったはずなのに…」 男は憎しみのこもった声でそう訴えると、まもなく事切れた。 ケークは戦った意味を考え直し、これも戦争の一つだったか、と気が付いて額の汗をぬぐった。来た道を戻って行くと、向こうから神父が顔を真っ赤にして走ってくるのが見えた。 「やはり、殺してしまったのですか? そうなのですね?」 神父は開口一番、身勝手にそう叫んだ。ケークは何も言わず、彼の横をすり抜けた。神父は倒された男の死骸に駆け寄って、その死に顔を確認した。 「本当に殺さねばならなかったのですか?」 後ろからそういう言葉が聞こえると、悪魔のように唸る両手斧を振り回す狂人から自分が感じてきた緊張感と、戦いが終わった今の虚脱感を重ね合わせて考え、ずいぶん不思議なことを言う人だとケークは首を傾げた。 |
第1節 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
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