1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 その日は、朝から燦々と日が照って蒸し暑い一日になった。額から汗が滴ってきて、胴体から腿をつたって、そのまま地面に流れ落ちた。時折、森のどこかから、人間の叫び声のようなものが聞こえた。領民の誰かが盗賊に付け狙われ、ついには襲われて殺されているところかもしれないし、ただ動物の鳴き声を聞き違えたのかもしれなかった。人間の断末魔だとしても、もはや二人に助けようという気持ちはなかった。ケークにはもちろん、ホーチスにもそんな気持ちはなかった。ここまで体力が擦り減ってしまっては、仲間と落ち合える場所までたどり着くのが先決で、人道的なことはその後だと思うようになっていた。最初は移動するだけのはずだった森林の旅は、気温が上がるたびに状況が悪化し、今は生き残れるかどうかの瀬戸際まで来ているような気がした。油断すれば、死はすぐに迫りくる。これまで見てきた情景がそれを証明していた。そこから先で、道端に座り込んでほうけている、ぼろをまとった難民を何人も目にすることになった。通り過ぎる二人を見て、虚ろな目のままで何かつぶやく者もいたが、か細い声は聞き取れなかった。食べ物を求めたのかもしれないし、殺してくれと嘆願したのかもしれない。彼らはこれからどうしたいのだろうか? もし、体力が残っていたらどこへ行きたかったのだろうか? ホーチスは彼らにそのことを尋ねる気持ちも無くなっていた。
 午後になってさらに気温が上がった。頭の上で太陽がぐるぐると回っているように感じられた。身体を支えて、走っていることだけに体力と自意識が費やされ、他に何が起こっても対応できそうになかった。そのため、二人の集中力はかなり落ち込む結果になった。悪党に不意を突かれたのはそんな時だった。
 突然、道の両脇から四人組の男が姿を現して行く手を塞いだ。鎧を着ている者もいれば、動きやすいハーネスや半袖のチョッキを着ている者もいた。この集団は明らかに誰かが通り掛かるのを待っていたようだった。ホーチスは慌てて後方を振り返ったが、脇に逸れる道のない一本道だったので、今さら後戻りしても、この道を通らずにカスケットに向かうことはできなかった。ケークは四人の姿を確認しても、笑いながらそのまま前進した。
「いよいよ、本業の方が現れなさったぞ」
「どうしよう、話し合いで済むだろうか?」
ケークは首を振った。彼がこれまでサイズで生き抜いてきたように決着をつけるしかないようだった。
「おい! ちょっとまった!」
四人のうち首領格の一人がそう声を張り上げ、二人の前に立ちふさがった。まさか、話し合いを少しもせずに暴力的な行為に出てくるとは思っていなかったので、ホーチスの顔色は変わったが、ケークは男たちがこういう行動にでることを察しており、表情には何の変化もなかった。カスケットに着くまでに、当然こういうことが起こるという予測も覚悟も無意識のうちに持っていた。しばらく安全に進んで来れた道ほど怖いものはないのだ。その先に必ず死地が待っている。
「すまんが、通行料を払ってもらえるか?」
 男たちは二人の足を止めさせたことで優越感を感じたようで、ニヤニヤと二人を見下したように笑いながら、得意げな顔でそう呼びかけてきた。一番小柄な色白の細目男が、いやに子供っぽい甲高い声でケラケラと笑うので、ケークの癇に障った。お互いの命がかかっているのに、何を笑うのだろうか?
「元ハノン兵か…、こんなところまで…、斥候の部隊だろうか?」
 彼らの装備を見て、ケークにしか聞こえないように、小声でホーチスはつぶやいた。
「違う。ただの盗賊だが、兵士だと名乗ることで通行人を脅して、金を奪って食いつないでいるのだろう。他にやることがなくなった惨めな人間のやりそうなことだ。あの装備だって金で揃えた物じゃない。きっと、戦地で拾ってきたんだよ」
 ケークは呆れたようにそう言って、ホーチスを肩で押しのけ、一歩前に出た。
「おまえらは、なんだ? どんな人生を語ってくれるんだ? さっきの男のように、人を襲うまで成り下がったのには理由があるんだろ?」
ケークは楽しそうにそう言った。戦闘に巻き込まれることを恐れとは感じていないようだった。
「ぶつぶつ言いやがって…、結局、金を払わねえ気か? むかつくやろうだ」
 一番図体の大きな男が暗く響く声でそうつぶやいて、ケークの前に立ちふさがった。その大男は白銅の立派な鎧を着込みながらも、頭にはターバンを載せ、ちぐはぐな格好だった。だが、両手にしっかりと握られた巨大な斧が彼の巨体をさらに大きく見せた。
「どうせ盗品だろうが、斧か…」
ケークの声はあくまで静かだった。声に自分の感情が出ないように、戦いなれた剣士特有の自然体の声だった。
『敵が複数いる場合は、目を一カ所に固定せず、まず冷静に状況を見ること…』
誰から教えられた言葉か忘れたが、彼の頭の中にはそのことしかなかった。彼の目は敵の武器と身体能力をよく観察するように、敵の全身をゆっくりと眺めていった。
「へへ、もうやり直しはきかねえぞ、おい」
四人の男は、数に頼って二人をすっかりなめてかかっていた。
「持ち慣れていないようだが、それは盗んだ斧か?」
 表情を全く変えずに放たれたその冷静な問いかけは、大男の機嫌をさらに害したようだった。この薄暗い森の中でも、はっきりとわかるほどに大男の顔は紅潮していた。そして、もう我慢はできんとでも言うように、ゆっくりとその巨大な斧をケークの背丈の遥か上まで持ち上げていった。
「おいおい、兄ちゃん、口だけは達者だが、まだ剣は抜かないのかい?」
 後ろの方であの色白の小柄な男が手をパンパンと叩きながら笑っていた。本当に気色の悪いやつだとケークは不快に思った。四人の盗っ人が数を頼みに笑うのは当然である。人間が殺し合いに敗北するときの怖さは命を失ったときにしか体感できないのだ。
「ぐおおおおお!」
 ケークが剣の柄に手をかけたとき、ものすごい絶叫とともに大男は斧を振り降ろした。次の瞬間、二人の肉体はそのまま交差した。斧はケークの身体にかすりもせず、ズドンという音ともに、地面に突き刺さった。そこにいた誰も肉眼で捉えることはできなかったが、ケークはすでに剣を鞘から抜き、それを風のように振り切っていた。彼らに見えたものは剣を振った後の体勢だけだった。
「すごい…」
 ホーチスは思わずそうつぶやいた。ホーチスの眼には斧を振り降ろした男の身体が流れるようにケークの横を通り過ぎていったように見えた。だが、実際にはケークが斧を避けつつ横をすり抜けて行ったのだろう。いつ、どのように彼の剣が振られたのかは見えなかった。大男は戦いを後方から見ていたホーチスの方によたよたと近づいてきた。だが、もう白目をむいており、顔に生気はなかった。
「あ!」
仲間の3人はほぼ同時にそう叫んだ。足元に突き刺さった斧を置き去りにしたまま、ターバンの男はそのまま崩れ落ち、雨で濡れて柔くなった地面に身体を埋めた。うつぶせになった身体の右の腹部から大量の血が流れ、地面を赤く染めていった。斬られた男はまだウハーウハーと肩を使って苦しそうに呼吸をしていたが、傍目に見て助かりそうにはなかった。盗賊方の残りの三人には、もうその大男の生死を確認する余裕などなくなっていた。戦い慣れていない人間は、数だけを頼みにして、これまで一緒につるんできた仲間の実力をずいぶん買いかぶるものである。敵にも凄腕がいる可能性を考えていない。彼らも頭の中では、この大男がケークを簡単に叩き伏せることを予想していたのであろう。しかし、現実として結果は逆であった。驚きは次第に焦りへと変わっていった。もう一人、奥に斧を構えた髭面の男がいた。ケークはその男に向けて声を張った。
「どこで拾ったのか知らないが、森で戦うときに大きな斧は使えないよ。振り上げる動作、そして振り降ろす動作、二つがいるのでね…遅すぎる。木を切るときに使うと便利なのだがね」
 そう言った彼の顔は無邪気に笑っていた。こうやって余裕を見せて、相手の感情を操作しながら、追い詰めて殺していくことが楽しくて仕方がないようだった。
「この男は自分とは違いすぎる…」
 ホーチスは口に出せずにそう思い、味方ではあったが、このような死の恐怖に捉われることのない剣士の存在があることに改めて心を凍らされる思いだった。
「こう、無心に戦っていると、いろんなことを思い出すが…、面白いね。この森ではこんなことが、他人の食べ物や金や着ている物を命をかけて奪うようなことが、この瞬間もあちこちで起こっているんだろうね」
「そういう現状かもしれないね…」
 誰に語られた言葉か判断がつかなかったが、自分が言われたものと思って、ホーチスはそう返事をした。
「こうやって、皆が食料や金を奪い合いながら毎日を生きているから…、少しずつ、少しずつ、難民は淘汰されているのかな? それとも、今はまだ戦争が始まったばかりで、毎日住む家を失った領民や、戦いに敗れた兵士たちが森に流れ込んで来ているだろうから、実質的には、俺たちがどれだけ斬っても、盗賊や追いはぎの総数はそう変わらないのかな?」
 もちろん、敵方の三名はケークのそうした言葉に聴く耳をもつ余裕はもうなかった。ただ、彼の感情のこもっていない乾いた声色がただただ不気味だった。
「おまえ、通り抜けの旅人じゃないな…。傭兵か?」
 はじめて、相手側から真剣な質問がなされたように思えた。彼らも戦う以外の選択肢を模索しだしたのかもしれない。
「俺が商人なら殺せるのか? 傭兵なら勝てないから逃げるのか? それでは、盗賊として失格だな」
 ケークの余裕の態度を見て、まともに返答する気がないとわかると、手前の首領格の男が覚悟を決めて剣を抜いた。左にいた小柄な男もいつのまにか両手にナイフを握っていた。
「手前から順に、剣、ナイフ、斧か…、ここではナイフが怖いかな」
 ケークは微笑していた。その口調も、さきほどの説明的な口調とはまた違った冷徹さを持ち、まるで、狩る側と狩られる側が完全に入れ替わったような雰囲気だった。この森の中で、武器を持たないか弱い旅人や、カスケットから命からがら逃げ延びてきた難民ばかりを襲って殺し、生計を立ててきた彼らにとって、今夜出会った二人も最初は獲物としか見れなかった。実際、その凡庸な服装や、焦って向かっていく方向などを考慮すれば、二人をただの旅人だと見たその判断は正常である。そのただの旅行者の中に、これほどの凄腕が紛れている可能性が天地にどれほどあるだろうか? 万分の一か、あるいはそれ以下か。四人で組んでいれば、相手が一人の場合、ほとんどの傭兵にも勝てるはずだった。一生に一度はこのような凄腕に出会うかもしれないが、そのようなほんの小さな確率を恐れて、盗賊を辞める者などいない。それに就いている者からすれば、盗賊とは最も前向きな職業だと思っているのだ。彼らは広大な砂漠の砂の中から砂金を拾い出すような確率で、このような不運に遭遇してしまい、仲間を失い、今度は自分の命を危険に晒される羽目になったわけで、その心中はこれまで体験したことないほどに揺れているのは当然だった。
 動揺は隠し切れず、額やこめかみから汗が噴出して流れ落ちた。顎が強張って言葉は出てこなかった。だが、その恐怖にも耐え切れず、しばらくの睨み合いが続くうち、『どのみち逃げられないならば、こちらから仕掛けるしかないか』と、そう思うようになっていた。三人揃っているうちに、ケークに一傷でも負わせなければ、皆殺しは避けられないだろう。その焦りから、ケークより先に動いた方が得だろうと、首領格の男は次第にそう考えるようになっていた。しかし、それは戦場において、すでに追い詰められた脆弱な人間の発想であった。
「はあ!」
 極度の緊張のため、いつもとまったく異なる雄叫びを上げ、自分では完全にケークの身体を捉え、振り下ろしたつもりの剣であったが、振り下ろした剣の先に敵の身体はもうなかった。剣を避け、獣のように素早く、後方に飛びのいたケークは、左側にいた男がナイフを振り上げた瞬間を狙って、再び彼らの間合いに飛び込んできた。最初の一振り目が男の腕をナイフごと斬り飛ばし、二振り目は胴体を肩から腹部にかけて切り裂き、眼に見えぬような速度で後方にさっと引いてみせた。奥にいた男が片手斧を振り下ろそうと身構えたときには、もうケークの姿は彼らの間合いにはなかった。
運悪く最初に斬られた小男は、「ぎゃあ」と甲高い声をあげ、二つ目の死体が地面に転がった。
「最後までうるさい男だ。高い声は脳に響く…」
 ケークは今度はひどく不機嫌そうな顔をしていた。子供のように目まぐるしく気分を変えていた。
「それと、ナイフは切るものでなくて、刺すものだ。少なくとも、森の中ではそう使え」
 ナイフの使い手はすでに死亡しており、この言葉がいったい誰に向けて発せられたものなのかはわからずじまいだった。
「頼む…。な、名前を教えてくれ」
震えた手で剣をかろうじて握り締めながら盗賊の一人がそう尋ねた。
「俺はケーク」
 そう答えると同時に、ケークの足が静かに前に動いた。男の脳の中をその名前が白い光となって貫通した。森で生活するようになってから、何度も聞いた名だ! 一騎当千の化け物だ! なんでこんなところで出会うのか!
「しまった!」
 その言葉を発するのがやっとだった。剣を構える暇もなく、ケークが一瞬にして、自分の眼前に迫ってきたのを確認するまでがやっとだった。ザクッという、身体の内部からの不気味な音が聞こえただけだった。少し前にあるはずの木々の姿は横に揺らめきながら、すでに霞んでいた。この世での最後の光景である。だが、その木々の緑もしだいに上下から揺れはじめ、紫から黒に変わり、やがて視界はなくなった。足に力が入らなくなり、グラグラと身体は不自然に揺れ、前かがみに倒れながら、「ああ、今斬られたのか」男はようやくそれを実感した。軽い遊びのような感覚で旅人から金銭を巻き上げてきたこれまでの日常は霞となって消えた。今夜、突然現れたのは、腹を割かれて激痛とともに横たわる今の血まみれの現実だった。
「人生は不可思議だ…」
 痛みや死への恐怖ではなく、この男がこの世で最後に考えたこともおそらくそんなところだっただろう。
 ケークは地面に転がっている四つの死体を足で強く蹴って転がし、金や食料を持っていないかどうかを手慣れた様子で確かめていたが、四人が武器以外は何も持たずにここへ来たことがわかると、自分のただ働きを嘆いているようだった。
「少し、動いたほうがいい」
息を整えると、今度はそう言い出して彼は森の出口に向かって走り出した。
 盗賊の類いは、当然そういう境遇にある人間たちであるから、盗品の分配などで意見が分かれて揉めることが多く、その関係でたいがい少人数で動くものだと、これまでの経験でわかっていても、もしかすると、この男たちには他にも仲間がいて、彼らの帰りを待っているのかもしれないという予感があった。その場合、四人が戻って来なければ、一大事が起こったものとわかり、捜索を始めるだろう。そう考えると、今はなるべく早くこの場から離れなくてはならない、という思いが自然と働いた。二人は四つの死体を置いて、なるべく足音を立てないようにして、薄暗くなってきた森の中をひたすら駆けていた。それから、数時間の後、二人がようやく足を止めたのは、盗賊を殺した場所から、二つの小さな川を越えた地点で、木はますますまばらになり、虫や鳥の声も薄くなっていた。途中にいくつか立て札があったように覚えているが、わざわざ、明かりをつける危険を侵してまで、そんなものを読んでいる余裕などなかったので、今現在、カスケットまでどのくらいのところまで近づくことができたのか、二人にはわからなかった。
 暗闇の中で判別しにくいが、ここには草木と砂地とに区切られた、歩きやすい確かな道があり、普段の通行が多いのであれば、思っているより、森の出口に近づいているのではないかと考えられた。ケークは一度辺りを用心深く見渡してから、今夜はここで足を止め、そろそろ睡眠を取ろうと言いだし、相方の返事を待たずに、すぐに上着を敷いてその上に横になった。漆黒の闇の中で、どの地点が安全なのかは誰にもわからないが、彼は動物的な直感でそれを決めたらしかった。
「さっき襲われた場所からあまり離れていないぞ…、こんな物騒な場所で本当に眠れるのか…? また、悪意のある人間の待ち伏せがあったらどうするんだ…」
ホーチスは身体を横たえながら、声を震わせて、独り言のようにそんな不満を言った。すぐ近くに敵が追ってきているかもしれないと考えながら、暗闇の中で眠る自分の恐怖は、こんな無神経な相方には絶対わかってもらえないだろうとも思っていた。
「明かりがなければ、多分大丈夫さ。そろそろ、盗賊たちも休む時間だ…。少し、風を感じるから、森の出口はかなり近いはずだ。この先は、きっと、もっと危険だ」 
ケークに確信があったわけではなく、彼は気休めのつもりでそう答えてやったが、その時には、話す相手はすでに寝息を立てていた。数時間に渡って、周囲を警戒しながら、この危険な森を通過してきたので、彼も自分が思っている以上に消耗して疲れていたのだろう。ホーチスが寝てしまった後、ケークも余計な緊張が取れて、肩の荷が降りた気がしたので、目を閉じて無理にでも眠りにつこうとした。しかし、森のすべての生物がこちらに注目しているような、異様な雰囲気がして、なかなか寝つかれなかった。

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