1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 焚き火からの煙が漆黒の闇の中をゆっくりと浮かび上がり、夜空に白い筋を描き、やがてたなびいて消えていった。その火を囲む男たちの表情は真剣で、しかも極度の緊張をおびていた。冷静に考えれば、例え成功したとしても、全員が生き残る可能性は極めて低い仕事だったが、どの顔にも悲壮感はなかった。ここまで辿り着けた運命に感謝する者さえいた。決戦前の最後の食事をとる者、武器の手入れをする者、それぞれの準備に追われていた。その間、隊長らしき男から作戦を実行する際の位置確認がそれぞれに言い渡された。隊長の名は…、たしか…、リディッツだ。自分が言い渡された隠れ場所は、部隊の最後方だったと思う。まだ新米だったから、まったくあてにされていないのだ。あるいは、作戦が失敗に終わったとき、なるべく生き残るようにとせめてもの配慮だったのかもしれない。
 数週間も前から練っていた作戦が、こうしてこれから本当に実行されるのかと思うと、緊張で心臓が浮き上がるような感覚をおぼえた。そういえば、ここまでたどりつけなかった者も多かった。食料を得るために敵の基地に侵入して、あるいはその後の敵軍からの追撃から味方を逃がすために…。無念の死を遂げた者たちのためにも、今夜は上手くやらなければならない…。それはわかっているのだが…、いつものように呼吸がうまくできない。腕の筋肉も凍りついたように堅くなっていた。
「よし、そろそろ奴らが来るころだ。火を消すぞ」
 そう言って、誰かが焚き火を踏み消した。すると、その場にいた者たちは、草木の陰にばらばらと散って、皆地面に伏せた。首都ハノンで南軍の司令から、今思い出せば素性も明かさない、暗い目をした無気味な男だったが、この作戦を授けられたあのときから、毎日欠かさず、この突撃の瞬間を夢みていたが、実際にそのときを迎えると、目の前に迫った現実に押しつぶされそうになる。本当にうまくいくのだろうか? いくわけないだろう。敵の数は圧倒的に多い。いくら暗がりで襲うと言っても…。バルガスがどのくらい強いか知っているやつはいるのか? 俺達の剣術で通用するのか? やつはグリパニア最強の将軍だ。すべてが桁違いなんだ。いったい何人の護衛に守られているのだろうか? 作戦はなんだっけ? 俺の役目は? そんな数々の疑問がここにきて自分の心をいそがしく駆け巡っていた。
「来た!」
呼吸を整える暇もくれず、誰かが低い声で言った。本当に行く気なのか? 南軍の中では猛者ぞろいとはいえ、所詮、寄せ集めた集団だというのに…。やがて、カッツカツと馬群の通る音が聞こえてきた。それは少しずつ確実に大きくなり、やがて敵軍の馬上の兵士たちのしゃべる声まで届いてきた。味方の最前列で、木の陰に隠れその様子を伺っていた男がまた小声で何か言っている。隊長はどうやら、最後の指示を出そうとしているようだ。
「本当に……ガス……先頭にいるぞ。予定……い……ぞ!」
 先頭にいる誰かが、そうつぶやいたのだが、ケークは最後尾をまかされていたから、その声がいまいち届かない。そのことがまた彼の不安を余計にかきたてた。もう少し待ってくれ! 気持ちの整理ができない! その言葉が出そうで出ない。もういまさら止めることはできないのだ。成功するか、あるいは無惨に死ぬかだ。いや、失敗するに決まっている。自分は行きたくない! 恐ろしい! きっと殺される! 数分後に待っているのは、確実な死! それがはっきりと見えるようだった。心の中で何ども言った助けてくれという声は口から出てこなかった。なぜ、やめようと言えなかったのだろう? なぜ…?
「それ! いまだ!」
 そう叫んで、先頭にいた数名の暗殺者が豹のように飛びかかっていった。リディッツはバルガスからの最初の一撃を避けて、奴の馬に組み付いた。それを合図に伏せていた全員が立ち上がり、目標に向けて突進していった。敵兵は我々を見ても、それほど慌てた様子はなく、片手に持っていた松明をこちらに向け投げつけ、そして剣や槍に持ち替えた。やはり、我々が森に潜んでいることは敵に知られていたのだ。情報は筒抜けだった。ケークの足はまったく動かなかった。彼は震えながら考えていた。なぜ、俺はこんなことをしているのだろう? 兵士になどならなければ、こんな命令を受けなければよかった…。そのような悲壮感や重圧感が仲間への信頼を上回ってしまったのだ。彼は結局戦うことができなかった。しばらく敵将の馬にしがみついていたリデッィツの背中が槍で貫かれる瞬間を見た。臓腑が凍りつく思いだった。グリパニアの兵士たちは不意をつかれたにも関わらず、誰も慌てず、冷静に暗殺者を一人ずつ片付けていった。その中でもバルガスの強さは圧巻だった。猛獣のような殺気を放ちながらも極めて冷静だった。ケークの仲間たちをくだらない鼠でも殺すかのように一人ずつ突き刺していき、戦いながらも、顔を覆う鋼鉄製の冑の下で笑っているような気がした。ケークは仲間が次々殺されるのを見てもなお、戦う意志は沸かず、それを見捨てて逃げることを選んでしまった。心でそれを選んだわけではない。足が勝手に後方へと動いたのだ。
 夜暗の中をどこまで逃げても、背中に張り付いたバルガスの殺気が追いかけて来るような気がした。逃げている途中は、仲間に申し訳がない気持ちなどまったく起こらなかった。ただ、冷酷な敵将が恐ろしくて、森の中をなるべく見つかりにくい小道を選んで走るだけだった。小川のほとりまで来て立ち止まったとき、彼は安堵と屈辱で泣いていた。記憶の無かった自分を助けてくれた人も、ここまで支えてくれた人も眼前でみんな死んだ。天が決めたその残忍な結果に、何を考えてよいのかもわからず泣いた。そして、彼は惨めな敗北感とともに生き残った。 

「む! 焚き火は、焚き火は?」
がばっと起き上がり、ケークはそう言ってあたふたと何か探すように動きまわった。
「起きてしまったのかい?」
 ホーチスが微笑みながらそう言った。彼が寝ぼけているところが面白かったのだろう。
「うん? ここは…? そうか、まだ……戦地に向かう途中だったな。俺は生きているのか…」
 落ち着いた口調になり、ケークは座りなおした。まだ、頭は夢に取り付かれてぼうっとしていたが、自分の中にある意識は、ここ数日、あの小屋で目覚めたときよりも、ずいぶん回復したと気がついた。少なくとも、仲間を失ったときのことは、こうして明確に思い出すことができたわけだ。どんなに日にちが経っても、心の底に根を張っている恐ろしい出来事だった。空を見上げると、雨はまだ止んだままだったが、夜空は暗い厚い雲に覆われ、森はしんしんと静寂に包まれていた。ホーチスの話では、まだ彼が寝付いてから数時間しか経っていないらしい。森はまだ暗闇の中だった。
「僕はなかなか眠れなかったんだが、君の様子が苦しそうだったので、心配でね、様子を見ていたんだよ」
ケークはそれには答えなかった。さっきの夢に、まだ心を奪われていた。流れ落ちる汗がなかなか引かなかった。森のどこかを走り抜けて、目に見えない何かが襲ってくるような気さえした。自分に厚い装備がないことが、この上もなく心細く感じられた。心臓が剥き出しになったような感覚だった。
「君はハノンに戻ることはあるのか? 役目が終わったら、戻りたいと思うのか?」
一つ呼吸をおいてから、ケークはホーチスにそう話しかけた。
「今のところ戻る気はないけど、万が一、戦争に勝てたら戻るかもね。うまくいったとしても、おそらく遠い未来だよ」
「できたら、ハノンで俺のことを話題にしないで欲しい。つまり、俺と出会わなかったことにしてくれ」
「それは、どういうことだい?」
「実は、仲間を裏切って役目の途中で逃げてしまった。一人の兵士として、口にするのも恥ずかしいことだが、作戦途中に敵将を前にして恐ろしくなってね…。同じ作戦を受けた仲間は勇敢に戦ってみんな死んだよ。元々、出来ない仕事だったんだが…。それでも、自分は仲間と一緒にあの時に死んだことにしたい」
「どうしてそんなことを言うんだ。何があったか知らないが、生き残るのも大事なことだ」
「本当にバルガスが来るというなら、俺をサウスヴィクスまで案内して欲しい。そこで、奴に向かっていって、今度こそ戦士らしく死にたい。勝てるわけはないからな。そうすることで、あの世でみんなに詫びることができる。あの時、なぜ逃げたのかはわからないが、やはり、生き残ってはいけなかったんだ。毎晩、悪夢を見るようになって…。今は逃げたことを後悔しているよ」
「僕はその時の状況を知らないから、無責任なことは言いたくないが、君が生き残ったのは正解だよ」
ケークはうなだれていた。こんな惨めな姿の彼を見るのは初めてだった。
「仲間があの世から俺を指さして笑っているのが見えるんだ。『あいつは逃げたんだ』『俺達を裏切ったんだ』って言ってるよ。あれから人生がすっかり重くなってしまった。こんなに長い間、罪の意識を背負わされるくらいなら、早く死んでしまいたい。それで、今度こそ決着だ」
「では、とにかくサウスヴィクスまでは一緒に行こう。グリパニアと戦うということでは、僕らの目的は一致しているからね。そこからどうするかは君の勝手だが、僕も一度助けられたから、簡単に君を見捨てる気はないけどね」
ケークはそんなことは聞いてない様子で笑っていた。
「バルガスにまた会えるのが楽しみだ。胸が疼いて仕方ない。早く彼に会って今度こそ…」
ケークはそう言い残して再び眠りについた。ホーチスも彼の毛布をかけ直してやってから、今度こそ睡眠を取ることにした。

=5=




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