1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 翌朝、鳥たちが鳴きだす前にすでに二人は目を覚ましていた。すでに、この森で生きる用心深さが備わっていたのだ。穏やかな朝の光によって、すっかり見晴らしが良くなった森を眺めて、何者も迫っていないことを確認すると、急いで出かける準備をした。ホーチスが仲間から預かって持ってきた食料はすでに残り少なくなっていた。そのことがさらに二人の気持ちを焦らせていた。ほとんど足場のない岩場を乗り越えると、大きな沢があった。夜間にここを渡るのは危険であったかも知れず、昨晩、手前で足を止めて休んでおいたのは正解だったとケークは思った。食べられそうな魚が多数泳いでいるのが見えたが、余計な労力を使うのは危険だと考え、手を出さずにそのまま進むことに決めた。これまでと同じ量を消費していったとしても、余程のことが起きない限り、カスケットに着くまで、食料は持つはずだった。グリパニア軍の靴音が幻聴として聞こえ、ケークの心を早く早くと世話しなく動かした。このまま、グリパニアの進攻に追いつくことができずに、一歩でも要塞の陥落に遅れてしまえば、これまでの旅がすべて無駄になってしまい兼ねなかった。二人に余分な時間は一切なかった。
 辺りに気を使いながら慎重に河を乗り越えると、その先に前を歩いていったと思われる二人連れの足跡が残っていた。素足や草履ではなく、立派な革製の靴跡だったので、旅人の商人かもしれないが、他人から靴を奪った盗賊の可能性もあった。
「やはり、昨晩は進まなくて正解だったな。あれから少しでも歩いていたら、この二人と鉢合わせていたかもしれない」
ケークが独り言を呟くようにそう言った。誰に言ったわけでもなかった。自分さえ納得できれば良かったのだ。ケークがいれば、相手が盗賊まがいの武器を所持した人間であったとしても、ほとんどの勝負には容易に勝てるだろうが、不測の事態が起こりがちな夜間に敵と切り合うのは嫌なものだった。ホーチスはこの森にもまだ、まともな人間が多くいるかもしれないという思いを捨て切れないでいた。彼は前を行く二人が悪意を持った人間だとは考えたくなかった。善人だったら食料を交換するのも良いとさえ思った。砂地の上にしっかりと残った足跡を追いかけて二人は歩いた。しかし、前を行くはずの二人の足跡は、次第に右に寄れたり左に逸れたり、ふらふらと乱れ始めた。
「足跡が乱れてきたな」
ケークがそう呟いたが、愚かなホーチスはそのことを気にも止めなかった。彼はただ移動することが精一杯で、未来を予測することにまで心を動かす余裕がなかったのだ。そこから数十歩歩くと、やがて、右前方の木に誰かが足を投げ出した恰好でもたれ掛かっているのが見えてきた。ホーチスは慎重に近づいてその男に声をかけ、肩を揺さぶってみた。
「死んでいるぞ!」
男は白いチョッキを着込んだ中年の商人に見えたが、胸を刃物で切り裂かれていて、すでに息絶えていた。殺された男は細身の剣を握っていて、彼の刀身にも血がこびりついていた。それは、つい最近、他の誰かと戦闘があったことを示唆していた。そこから地面に点々と血糊がついていて、それは、もう一つの足跡と一緒に森の奥へと続いていた。
「もう一人の男はどうなったんだろう?」
ケークはそう小さな声で呟いてから、あまり足音をたてないようにもう一人の人間の足跡を追った。
 そこから、十歩も歩かないところに、もう一つの死体が転がっていた。かなり苦しんだようで、地面を手で掻きむしり、もがいたような跡が残っていた。その男も中年で、近い年齢と身なりからして、先ほどの遺体の男の仲間と思われた。死体の足元には血のついたナイフと、少しの木の実と薬草の入った布製の巾着袋が転がっていた。その先の道には足跡はついていなかった。彼らの他には連れの人間はいなかったのだ。状況から見て、この二人はお互いで斬り合って、互いに致命傷を負ったとしか思えなかった。
「これはどういうことだ? 二人とも死んでいるぞ!」
ホーチスが狂乱したように大声を張り上げた。彼はいくら考えても事態が飲み込めないようだった。
「さあな、道中は長時間一緒に歩いてきたようだが、結局争うことになり、一人が相手を切り殺したようだが、勝った方の人間も深い傷を負ってしまい、長くは生き残れなかったようだな」
「ここまで一緒に旅を続けて来た人間同士が、突然剣を抜いて殺し合いを始めたというのか? そんな馬鹿なことがあるのか?」
ケークは後に転がっていた方の人間の胸元を探ってみた。小さな財布が出て来て少量だが貨幣も残っていた。
「食料も金銭も奪われていないということは、この二人以外にここから立ち去った者はいないんだ。悪意を持った人間が二人を襲ったのであれば、これから森を生きていこうとする者が食料を奪わないわけはないからな。彼らは二人きりで争ったんだよ。それ以外にありえない」
ケークはこの二人が盗賊の一団に殺されたわけではないことがわかって一安心したようだった。
「何が争いの原因になったのだろう? この二人は風貌も似ているし、兄弟や親戚かもしれないが…、せっかく長期間一緒に旅を続けて来たというのに」
「知りもしない人間たちの、喧嘩の原因を突き止めるのは俺達の仕事じゃないが…、まあ、こんなご時世じゃ、憲兵も城の役人も来てくれないし、死体をこのままにしておいても、事件の調査や死体の処理なんぞ誰もしてくれるわけがないがね」
「それにしても、この死に方は不可解だ。なぜ、この二人はここまで長いこと平和に歩いてきて、突然争うことになったんだろう? 君にはわかるかい?」
当事者が二人とも死んでしまった以上、どんなに考えても誰にも真相を知ることはできないわけで、ケークは真相などどうでもいいと言いたげに背を向けて、先に進もうとしたが、ホーチスが死体を見下ろしたまま、その場を動こうとしなかったので、仕方なく、二つの遺体の装備を調べてみた。
「やはり、同じ町で購入したようなものを着ているから、この二人は家族かもな。あるいは相当気心の知れた職場の仲間かもしれない。おそらく、キヌトや…、ウィステリアや、もっと東の街からハノンを目指して旅を続けて来たのかもしれないが…、この森に入ったことで気がついたんじゃないか? 戦時中の国の領民たちの態度があまりに異常なことに…。出会うのは自分達と逆の方向へと逃げていく避難民ばかり。笑顔で話しかけても、食料も水も誰も譲ってくれないから手に入らない。それどころか、森では自分のことを知らない民間人たちまでが武器を持って襲ってくる…。盗賊や兵士崩れに出会ったら、金を差し出して、見逃してもらいながら、なんとか旅を続けていたが、金も尽きて、食料も少なくなって体力も奪われてくる…。その上、次第に道もわからなくなってくる…。先行きへの不安はどんどん増していくわけだ。このままでは目的地にたどり着くことはできずに、二人とも野垂れ死にするのではないかと…。自分たちの末路を暗示したような、惨めな死体も道中でたくさん見てきただろうしな」
「そこまではわかったが、例え、二人がそんな状況だったとしても、これまで信頼していた仲間同士で殺し合うだろうか? そこに至るまでの心理状態が理解できないよ」
「例えば、ここから引き返すのか、危険を犯してさらに前に進むのかとか、今後のことを話し合っているうちに、意見が合わなくなり、次第にどちらか一方が身の危険を感じて、途中で裏切ったのかもしれないし、同意の上の戦いかもしれない。このまま二人で旅を続けていっても、いずれ金も食料も尽きる。どのみち、行き倒れは眼前に迫っているわけだ。それならばいっそのこと、覚悟を決めて互いに剣を取って切り合うことにして、どちらか生き残る方を決めようということになったのかもしれないな。勝ち残った方は必然的に体力にも武術に長けているわけだから、このまま不案内な森を二人で歩き続けて、ぐずぐずと体力を消費していくよりは、一人で最短の道を通り、身を隠しながら進む方が、この先、生き残る可能性も高いわけだ」
「そんなことは不自然だ。自分が生き残りたいがために仲間を刺し殺すなんて! 人間は普通どんなに追い詰められていても、そんなふうには考えないはずだ。これまで自分と生死を共にしてきた相手に少しでも愛情を感じていれば、辛い状況に追い込まれて死ぬときも、二人で一緒だと考えるだろう。僕なら一人を生かすことなどしない。まともな人間なら、どうしようもなく追い詰められても、二人で一緒に死ぬことを選ぶに決まってる」
「生き残る人間を殺し合いで決めた方が、この森では自然な考えだと思うがね。そもそも、この二人は森に入ってから、長い間そういうことを体験してきたんだよ。食料や金が尽きた母親が平然と子供を見捨てるところ、分け前を巡っての盗賊同士のいさかいや殺し合いなどをね。そういうものを目にして、最初は不可解な現象だと思っていても、悪というものは次第に自分の心に染み付いてくるものさ。一人になれば、少なくとも食料だけは一人分で済むわけだ。これまでより負担は減る。荷物さえ一人で持てれば、ハノンに到着して、これまで通り商いを続けられる可能性も出て来る…。これまで連れてきた仲間一人の存在が自分の心から消えるだけでね…。不安な旅を続けているうちに、どちらかの心にそんな考えが浮かんだんじゃないか? 死がすぐそこに迫ってくれば、人間はどんな冷酷な考えを持ち出しても不思議はない。いや、むしろ、その考え方は自分の生というものを真っ直ぐに見ているかもしれない」
ホーチスはケークになんと言われようとも、納得がいかない様子だった。彼は考え事をしながら何度も地面を蹴っているうちに、一人目の男の足元から紙切れを見つけて拾い上げた。
「ややっ、この人はこの付近の地図を持っていたぞ。これは貰って行こう。ありがたいことだ」
ケークは彼のその浮ついた態度を見て笑った。
「ほらほら、君だってそうやって他人の死を自分の幸運に変えているわけだ。だが、この世界ならそれは正しい行いだ。どんな正義感を持ち出したところで、この森にいれば誰の心だって次第にそうなってくる。他人が困っていたら食べ物を恵めとか悠長なことを言ってる坊さんたちも、この森に三日も篭れば、いずれ必然的な殺し合いを始めるさ。ここには悪意の霧が立ち込めているからな」
「すでに亡くなってしまった人から地図を譲ってもらうことと、自分の利益のために他人を害することは違うさ。僕らはサウスヴィクスにたどり着くまで、何としても生きていなければいけない。まだ生きている人達から奪うのは人道的に良くないが、死んでしまった人達から借りるのは仕方ないさ」
「それでいい。君にもだいぶ利己的な考えが染み付いてきたじゃないか。その考え方はもう一歩進めれば、他人を殺しても自分は生き残るという考えに繋がるのさ。なぜって、さっきまで君は商人二人が死んでいることに同情し、死んだ理由をなんとか探そうとしていたのに、今はもう、それさえどうでも良くなって、今度は自分のために便利な一片の地図に心を奪われている。相手のことよりまず自分のことなんだろ? この森に少しでも生きれば、誰だってそうなるさ」
ホーチスはそう言われて、一度下を向いてしまったが、顔を少し赤くして言葉を続けた。
「だって、この状況じゃ仕方ないだろ? 僕らが国を救いたいと思っているのは正義のためだ。一番優先されなければいけない考え方なんだ。人間は国家に少しでも貢献するために生きているんだぞ。この二人の人が何を思ってここまで旅を続けて来たのかはわからないが、少なくとも、それは商売のためであって、ハノンを窮地から救うためではない。こんな状況、君の言うように、道で出会うほとんどの人間が敵に見えてしまうような状況の中では、主観で考えて、少しでも正義だと思われる行動を優先するしかないさ。僕らが彼らの持ち物を奪っていったって、天から見ている神様はきっと許してくれる。それは僕らの行為が後々の未来に貢献するためだからさ」
「正義…、そして神様ときたか…」
ケークは静かな声でそう言ってほくそ笑み、二人の財布と食料を平然とした表情で拾い上げ、さらに先へと進もうとした。ホーチスも彼のそういう行為に、もはや何も言わなくなった。平和のうちに生まれ育った彼にも、この戦時下で次第に生きることの残酷さと難しさが理解できてきたようだった。正義か道徳か本能か、この森の中で生きる者は命のかかった問題に直面するたびに、どれかを優先させなければならなかった。

=6=




第1節 10
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20


アラブ系千葉文庫へ戻る