1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 アンドレア・ホーチスは、昼夜走り続けていた。彼は自分が歩んでいる道を信じていたからである。また、この南部地方で戦い続けている仲間たちのことも、信じなくてはならなかった。彼は間もなくこの森にもやって来る、凄惨な戦いのために、上官から新兵を探すよう命を受け、泥道の上をすでに数日間も駆け続けていた。だが、いまだ一人の仲間も見当たらず、また、手持ちの食料や水が尽きてきたため、その顔にはすでに不安と疲労の色が浮かんでいた。
「よかった、小屋が見えてきた…。次の宿営地だろうか…? あそこなら…、誰かいるはず…」
 そういう覇気のない声が、喉の奥から微かに漏れてきた。彼がやっとの思いで見つけたのは、南部の領民たちが平時に狩りや採集の際の休憩所として使用していた木製のバンガローだった。しかし、近づいてみると、その小屋の屋根からは見苦しく蔦がたれ、扉は鉄製の取っ手が錆びて腐敗し、その傍には錆びついた銅剣や半壊した兜が放置され、中を確認しなくとも、数ヶ月間に及んで誰にも使われていないことが見て取れるようだった。 「くそ、また無人なのか…?」
 彼は敗残兵たちによって、無残にも地面に捨て置かれたガラクタを見て失望し、そうつぶやいた。一応その扉を開けてみたが、一瞬だけ中を確認して、すぐに扉を閉じた。中には人間どころか虫一匹いなかったのだ。備え付けてあった家具や道具などもすべて持ち去られていた。
 この数日間は、傭兵どころか、一般の人とすれ違うことすらほとんど無くなっていた。サイズの森の奥深くまで来てしまったのだ。期限を考えれば、そろそろ、帰り道の心配もしなければならない。ただ走り続けるだけでは、このまま行き倒れになってしまうかもしれない。いつになったら、我が軍を助けてくれる男は現れるのだろうか。最初から、自分には無理な任務だったのだろうか。歩みを進めても、いや、行くにつれて、彼の不安は増すばかりだった。そしてまた、むんむんとする空気の中、次の宿営地を求めて駆け始めた。
 しばらくすると、森には無情の雨が降り始め、この数日間ですっかり萎縮してしまった彼の情熱をさらに奪おうとするのだった。この時期の雨は降り始めから、ものの数分で激しくなる。人間よりもそれをよく知っているから、鳥も虫たちもやがて鳴くのを止めた。森の音は一瞬にして雨の音だけに統一された。
 部隊長からを命令されたのは、もう六日も前のことだ。たった数十人の出来合いの寄せ集め部隊とは言え、徒党を組んで戦争に参加すると決めた以上、隊長の命令は絶対である。引き受けてからずっと、この広大な森林を、草木を掻き分けながら南へと下り、仲間を探し求めているのだった。しかし、例え、武器を携えた、たくましい身体の男を見つけ、自軍に誘ってみたとしても、普通に考えれば、こんな理不尽な戦いへ、しかも敗軍側へわざわざ参加する者などあるわけがなく、その人間によほどの愛国心がなければ、良い返事をもらうことが難しいことだった。それは、彼にもよくわかっていた。もちろん、名のある傭兵に出会えたところで、仲間を探している本人が、食うにも困るこの状況下で、前渡しの賃金などもあるはずがない。強い者と出会えた時にどう説得するべきか、そのことも彼の心に重くのしかかっていた。
 死の森に分け入っていき、まだ戦える兵士を探しだし、自軍へ引き入れるという、この無謀な任務を引き受けたのは、仲間たち一人一人が、食料集めや敵軍陣地への斥候など、皆、なんらかの重要な作業に従事している中で、いくら戦闘の経験が浅いとは言え、自分だけが何もしないでいて、黙って仲間の仕事を見ているわけにもいかないであろうし、今、大勢の人間を集めて反攻にでなければ、この南部地方は滅ぼされる。首都ハノンも美しいサウスヴィクスもこの広大な森もグリパニアに蹂躙されるのだ。この国のそんな姿を見たくなかった。まだ少数の部隊だが、大国の襲撃から自国を守りたいと、真剣にそう考えている者達が集まって決めたことなのだから、どんな無謀な仕事でも請け負わないわけにいかなかった。
 いま南郡はたいへんな苦境にあった。道が各所で寸断され、生い茂った植物のために馬もろくに使えない、この広大な森林があるために、敵が南部各都市への進軍を一時留めているだけであって、戦力差と敵の機動力を考えれば、すでに各地方の首都まで進攻され、グリパニアに蹂躙されてしまっていても、おかしくはなかった。敗戦間際のそのような状況であるから、現在戦っている南軍のどの兵士も、本当に些細なきっかけで、恐怖のために逃げ出してしまうかもしれない。生来剣も握ったことがなかった、一般人であるこのホーチスも、入隊してからの三週間で、何度も生死の際を感じるような辛い目に遭い、その度に兵士などやめてしまおうという弱気な考えが心中を過ぎるのだが、本当に自分の役目を投げ出して逃げたことは一度も無かった。自分を凡庸な人間だと認めている彼は、それでも、剣や兜を投げ出し、自分の故郷を捨てて、少しでも安全と思える場所に避難しないのはなぜか、その質問にうまく答えることはできなかった。この地で生まれ育った人間だからだと言い張ることしかできなかった。つまり、自分がまだ逃げ出さずに、この地方にいる意味を知らないで戦い続け、走り続けているのだった。仲間がその言葉を聞いても、決して彼のことを馬鹿にして笑ったり、低く見たりしないのは、この森で戦う南軍兵士の多くが、彼と同じような思いで、境遇で、また、同じ程度の技量で、今日も各地の戦場で懸命に戦っており、ホーチスを彼らの代表の一人としてみても、決しておかしくないことを知っているからだった。そのような協力意識が、追い詰められた人間特有の奇妙な連帯感が、弱い彼らの心を支え、結びつけ、また、反骨精神を生み、強力な敵に刃向かわせる力を与えていたのだった。
 雨はすぐに激しくなった。水滴を森に叩きつけ、森の大地も負けずと地表でそれを弾き返してみせた。水しぶきがしだいに濃霧へと変わり、白く森を包んでいった。
「頼りになるやつを探してきてくれ。できれば、長く一緒に戦ってくれそうな奴を。欲を言えば、この戦況を変えられそうな奴をな」
 仲間からはそう言われ、飛び出してきたが、まだ、まともに戦えそうな人間とは出会っていない。ここまでの道中で見たのは、ほとんどが道端で倒れて、餓死寸前の乞食か、目をぎらつかせた盗賊まがいの人間かであり、一番多く眼にしたのは、付近の領民の遺体であった。それらを見るたびに心に浮かぶのは、この辺りに配置されていた味方の兵士は、すでに前線の他の地域に移動してしまったのかもしれないという思いであった。それとも、この辺りをうごめく盗賊や追いはぎに恐れをなして、さらに南部の秘境へと落ち延びていったのだろうか。ホーチスはやがてそう考えるようになり、もう自分の近くに助けてくれる味方はいないような気になった。時間が経つたびに不安はさらに増していった。この強力な雨は彼をさらに弱気にさせた。視界まで遮られ、やがて進むべき方向すらわからなくなっていくのだろうか。指令を達成できなかったことになるが、身の安全を考えれば、これ以上進まずに、この段階でカスケットに戻った方が利口だろうか? 
「次だ、次の宿営地で終わりにしよう。次も人がいなければ、もう引き上げよう…」
そうつぶやいて、なんとか気持ちをつないだ。髪の毛を伝い水滴が頬に流れ込んできた。それをひとしきりぬぐってから、またいくらか走る速度を上げた。この凄まじい豪雨の中で、彼のか弱い足音は、雨粒の音にかき消され、どこにも響かなかった。

 かつては南テムと呼ばれた大都市があった地帯は、今では廃墟と化したカレンドと呼ばれる一つの集落があるだけの荒野である。そこから北西に約百二十キロメートルほどの地点に、カレンドから数えて十二個目の南軍拠点があった。拠点といってもかつての民家を改造しただけのもので、ひどく粗末な建物であった。しかし、そこは、平和な時代に近くの領民に酒蔵として扱われていたこともあり、石造りではあったが、付近の民家と比較すれば丈夫な部類だった。一般に昼と夜の気温の変化の激しさで知られるサイズ地方であるが、サイズ森林の大動脈でもある、ウヌル川に沿って、ここまで南に下ってくると、さすがに気候も温暖になってくる。この過ごしやすい気候を頼ってか、この宿舎には普段から他の施設と比べても南部兵士の使用頻度はかなり高いと言えた。もっとも、小屋の中に貯蔵されていた酒樽の中身は、とっくの昔に荒んだ兵士たちの餌食になってしまい、現在は天井から吊るされたいくつかの皮製のハンモックと、部屋の隅の机に置かれた、旧式の金属製の燭台のみが平和な時代の遺品となっていた。
 この小屋の内部に領民の姿は無く、薄い橙色に照らされた室内は、この戦争が開始されてから今まで、汗臭い兵士たちのるつぼとなっていた。この日も十数人の兵士たちがこの狭いバンガローの床に所狭しと座り込み、その巨体ですっかり占領してしまっていて、足の踏み場も無かった。
 カード遊びをしている一人の男が――説明を付け加えておくと、この施設の内部にいる男たちのすべてがまともな兵士というわけでなく、敵軍に領内の奥深くまで攻め込まれ、戦いの大勢も決したこの状況下では、すでに戦果をあきらめ、自軍の兵士や領民相手に盗賊まがいの行為をしているような輩も少なくなく、事実、このバンガローにもそういう世捨て人のような者が多く含まれていたから、はたしてこの男が――今カードを一度床に伏せて、木製の三段組ベッドの最上部を見上げた、このずぶそうな男が、まともな兵士なのかどうか判別しがたいが、ともかくこの男はそのベッドの最上部で寝ている若者に向けて声を張った。
「おいおい、おめぇ、ずっと寝てて退屈にならねえか? なんなら一緒にやるか?」
 ベッドの上の若者から返事はなかった。他の者はその声に釣られて、他に誰かいるのかと上を見上げた。
「なんだ、もう声もでねえのか? お互い敗軍の仲間同士だ。挨拶に返事ぐらいしてくれや」
帽子の男は陽気にそうにそう言って次のカードを拾い上げると、再びゲームの戦列に復帰した。
「もう、ほうっておいてやれよ。ここは死の森で最後の休憩所だ。いろんな奴が逃げ込んで来る。たまには無口な奴も来るよ」
ちょうど対面に座っている禿げた男が、気まぐれにそう言った。すると、ふわぁというあくびがベッドの上方から聞こえてきた。その声を聞いて、このむさ苦しい男たちは再び上で寝ている人間の存在が気になりだした。
「なんだ、起きてるじゃねーか…。死んでるのかと思ったぞ…。おい、兄ちゃん、こっちへ来いよ。おまえさんも南部の兵士だろ?」
しばらく間を置いて、「そうだと思うのだが…」というほとんど聞き取れないようなかすれ声が戻ってきた。要領を得ないので、今度は別の男が声をかけることにした。
「それなら、仲間だ。俺たちも南部の兵士だ、とは言っても、もうかなり昔にやめちまってるがね。へへ」
「……それは、戦っていないということか?」
 男は身体を起こそうともせずに、今度は自分からはっきりとした声で話しかけてきた。その質問に虚ををつかれ、男たちは一度手を止めて顔を見合わせた。数日間、無言だった男が急に口を開き、語り始めたので、皆驚き、すぐに返事をするものはいなかった。
「あんたたちは、戦場から逃げてきて、もう戦っていないということか?」
 その若者は寝そべったまま、今度は自分からはっきりとした声で話しかけてきた。その挑戦的な質問に虚をつかれ、下に集まっていた男たちは一度遊びの手を止めて、顔を見合わせた。
 数日間、無言だった男が急に口を開き、それも、高飛車な態度で語り始めたので、その場にいた人間は、皆何事かと顔を見合わせて驚きを示し、すぐに返事をするものはいなかった。
「あんたたちは、もう戦争には飽きたのかと聞いているんだ。戦闘はまだあの山の向こうだぞ。戦場に戻らなくていいのか?」
 ベッドの上の男から、再びそんな威圧的な言葉が飛んでくると、しばらく間を置いて、部屋のあちこちに笑い声がこだまし、そのうち誰かがこんな答えを返した。
「俺らはもういいんだ。給金も満足にでない中で、あちこちの戦場に連れ回されて必死の思いで戦って、十分にこの国の役に立ったんだ。楽な作業ばかりじゃないぞ。雨中での塹壕掘りや、敵軍に殺された住民の遺体の埋葬もやった。しかしな、もう飽き飽きしたんだよ。この無慈悲で凄惨な戦いに…」
 今、この男は十分に戦ったと言ったが、ベッドの上で聞いている男には、それが真実の声として伝わらなかった。言葉の軽さとでもいうのだろうか、長年の間、軍に貢献してきた歴戦の勇士の発言とはどうしても思えない責任感の無さを感じた。例えば、敵の姿を見てすぐに恐怖し、戦わずして戦場から逃げてきた男の口からなら、平然とこういう言葉が出てくるのだろう。
「しかし、こんなところで遊んでいて…、余計不安にならないか? 君たちが遊んでいる今も、敵は着々と進攻を続けているんだぞ。バルガスがここまで攻めて来たら…」
 若者は自分で口にしたその言葉に驚いた。バルガス? たしかにどこかで聞いた名だ! なぜ今、そんな名前が浮かんだのだろう? 自分と関係のある人物なのか? 何者の名前だろう? 彼は重大なことを知っていながら、思い出せない自分に苦しみ、右手で頭を何度も叩いた。
「バルガスが? けっ、何を出まかせを言いやがる。敵軍の指揮官がこんな辺鄙なところまでわざわざ攻めて来るとでも言うのか? こんな森の奥まで敗残兵狩りに来るのは、どうせ下っ端の兵隊さ。つまりは、上官にいいように使われている、俺らみたいな連中だ。まともに戦う気力なんてないんだ。十分に逃げ切れるさ。敵将自らがここへ来ると思い込んでいるなんて、あんた頭がどうかしてるぜ…。妄想に取りつかれてるのか?」
 周りに座っている男たちもその言葉を後押しするかのように、「そうだ、そうだ」と軽い笑い声を乗せてきた。すでに、戦争のことなどどうでもいいようだった。
「そうかもしれないな…。俺はもう、あまりよくわからないんだ…。この頭痛のせいで記憶が飛んでしまって…、自分の過去のことも、この戦争のことも…」
「おまえは寝すぎたんだよ!」
 奥のほうに座っていた男がそう言った後、みんなはさらに勢いよく笑い始めた。ここにいる男たちに同時に喧嘩を吹っかけるなんて、ベッドの上にいる男をただの気違いだと思い込む人間もいた。
 よし今度こそ! と声を張り上げ、これまで取られた掛金を取り返してやると意気込んで、帽子の男はカードを床に叩きつけた後で、会話をさらに続けようと試みた。ベッドの上にいる男の素性が気にかかっていたのかもしれない。
「別にいまさら死ぬのは怖かねえよ。バルガスだろうが何だろうが、そいつらがもしここまで来りゃあ、もう逃げはしねえ。素直に戦ってやるよ。俺だって南郡の生まれだ。色白の都会人じゃねえ、度胸はある方だぜ。おまえこそどうなんだ? 何日か前に少し休ませてくれと、ふらふらとこの小屋に入って来て、それから、ずっとそこに寝っぱなしじゃねえか。それでいいのか? 以前はどこに配置されていたんだ? 戦いはもうやらんのか?」
「俺もよくわからないんだ。なぜか、また、記憶が消えてしまって…。記憶を失うのはこれで何度目だ…。ここに来るまで、どこでどうしていたのだろうか?」
 その若者は、朦朧とした意識の中で、ゆっくりとした口調でそう返事した。しかし、下でその話を聞いていた男たちにとっては、戦場から命からがら逃げてきた、負け犬の陳腐なごまかしの言葉に聞こえたに違いない。事実、そういうちんけな人間をこれまで何度も見てきたのだ。
「そうか、そうか、あんたも戦いは苦手なのか。それなら無理に戦えとは言わねえけどよ。ここは俺らの城なんだからな。へへへ、まあ、悪ささえしなければ、そこで好きなだけ寝るといい」
 ベッドの上から返事はかえってこなかったので、床に陣取って座る男たちは、若者を言い負かしたことに満足して再びカードゲームに興じ始めた。結局のところ、素性が知れずに不気味だった上の若者も、自分達と素性は同じで、武器を投げ捨てて戦場から命からがら逃げ延びてきた、一介の南軍兵士であり、たちの悪い盗賊の一味や、グリパニア軍のスパイではないかという疑念は払拭された。
 その直後に帽子の男がえいっと勢いをつけて山から引いたカードが高いポイントになったため、他の男達の叫び声がこだまし、そのうち数人は負けた悔しさに頭を抱えた。勝った男の膝の上に多くの銅貨幣がばらまかれた。こういう男たちは大金を賭けているわけではない。戦争の現実を忘れようとして、落ち着かない自分の心を何かに熱中させておきたいだけなのである。ゲームはさらに盛り上がり、残り少ない食料をほうばり、酒を飲み尽くし、大声で笑って、皆がようやく戦争の影を忘れることができた。それからしばらくの間、存在を忘れられた、ベッドの上の若者はまた孤立することになった。
「ところで、おまえさん、名はなんと言うんだ? この辺じゃ見ない面だが、いつ頃から戦争に参加したんだ? それとも、元から南軍の兵士なのか? 剣はちゃんと使えるのか?」
 しばらくして、今度はベッドから離れた位置にいた、別な男から声がかかった。たった一人で、武器も持たずに戦場真っ只中の兵舎を訪れ、数日間も寝続けていた、この若者に男たちは多少の興味を抱いてた。
「俺の名前を聞きたいのか? 名前なんてどうでもいいじゃないか…。俺は南軍の兵士だ…。重大な使命を帯びてここまで来たんだ…。思い出せないが…」
 再び強烈な脱力感を伴った眠気に襲われ、自分の名前を思い出す気も、素性を答える気もなくなっていた。その気力のない返事を最後に、この若者との会話は途切れた。
 しばらく、屋根を激しく叩く雨粒の音と、周りの木を揺さぶる強風の音と、男たちの勝った負けたの声だけが耳に届いていた。ケークというこの若者は、朦朧とする意識の中で、自然とそれらの音を聞き分けながら、必死に自意識を取り戻そうと試みていた。考えれば、考えるほど、自分が何者なのか、ここで何をしているのか、あるいは何をせよと命じられた者なのかがわからなくなってくる。目を閉じると脳はぐらぐらと揺れている。そして、脳の一番奥から、このバンガロー内部の人間ではない誰かの声で、「できるだけ早くそこから動き出せ。予定の時間は近づいている。戦いの準備を始めろ。もうすぐ迎えが来るぞ」と聴こえてきた。しかし、自分はまだ記憶を失っている。声をかけてくるのが、誰で何を意味するのかがわからない以上、ここから、このベッドの上から身体を動かす気にはなれなかった。
 ケークは今、天井を飛び交う蛾の姿を眼球で追う。くるくると不規則に身体を回しながら、蛾の身体はしだいに浮かび上がり、蝋燭の光へ近づく。それは明らかに意志のある動きだ。はじめはうまく捕まえられなかった蛾の羽に、眼球は焦点をあわせていく―― やがて羽の模様とその輪郭がくっきりと浮かび上がる。脳が動き始めたのだ――それから時を置かず自意識は徐々に蘇ってきた。ケークはゆっくりと身を起こした。休養の時間は終わりなのだろうか? ぼさぼさになった頭を掻きむしっていた右腕で、そのまま目やにを取るという仕草をしてみた。なるべくなら、事態が理解できるようになるまでこのまま寝ていたいが、身体はまた自然に動き出すのだろう。そして俺はまた知らないうちに人を殺すのだろうか。
 このバンガローに篭ってから、もう三日間。もう、あれから三日も経ったのか? 本当に? 肉体の疲れはもう抜けきったのだろうか? たった三日間の休養で…。だが、脳はほとんど死んでいる。ただ、このまま無駄に寝ていたのでは退屈でしょうがない。腹が減ったのなら、飯も食わなければならない。今後も生きていくつもりなら、まず食料を得なければ…、そのためには…、そのためにはどうすれば……? 
 さきほどの意味のない会話で、自分のここ数ヶ月の行動の断片が見えた気がする。南軍の将校に何かを命じられた後、どこの誰かともわからないやつらと長期間一緒に行動し、敵の軍勢と食料を奪い合いあっていたような気がする。それから、いったい何が起きたのか…、多分、思い出さない方がいいほど悪いことが起きて、仲間と離れ離れになり、自分はいつの間にか独りきりになった。数日前は敵軍と思われる兵士をかなり殺してやった。今は戦時中だから、見知らぬ人間を何人殺しても罪にはならない。つまり、俺を追ってくる者もいない。俺に目をつけた相手が悪いんだが、そいつらが食料や水を少し持っていたので、ずいぶん安心したのをおぼえている。剣はそのときに捨ててきた。相手を皆殺しにした後で捨ててやったんだ。なにしろ、これでしばらく戦いは終わりだと、剣は必要ないと、そのときは思っていたのだから。
 特別な事情がない限り、これからは一人で行動したい。無意識にそう思った。なぜだろう? もう仲間はいらないと思ったのはなぜだろう? だが、仲間を作ることに抵抗があるのは確かだ。独りでいい…、この危険で不気味な森で行動するなら独りのほうがいいに決まっている。仲間は必ず足手まといになる。ケークはこれまでの経過を何とか思い出しながら、そこまで考えを進めた。しかし、自分の素性は南軍兵士のはずだが、同じ南軍の人間に見つかってはいけないような気がするのはなぜだろう。この理解できない後ろめたさに彼は首を傾げた。その記憶を封印するために、この数日間寝ていたことを彼は思い出せなかった。
 このバンガローのドアが数日振りに叩かれたのは、丁度そのときだった。ドンドンという突然の音に、中にいた全員が反応し、扉の方を睨んだ。もしかすると敵軍かもしれないと思ったのは一人や二人ではなかった。小屋にいる全員が、戦争のことなど忘れて、すっかり気を抜いていたので、不安は余計に大きくなった。もちろん、誰も戦えるような状態ではなかった。ケークも反射的に身を起こした。
「すまんが、中へ入れてくれ! こっちは南軍の者だ!」
ドアをノックした人間は外から大声でそう叫んでいた。中にいた人間たちはとりあえず胸をなでおろした。その言葉は嘘ではないだろう。もし、グリパニア軍の兵士だったら、挨拶などせずに、剣を抜いて中へ飛び込んで来るはずだ。少なくとも、ドアを叩いた男は味方なのだ。しかし、そう判断しても、扉を開きに行くものはなかった。万が一のことを恐れて誰も立ち上がれずにいた。
「ここはもう入れねえよ! 満員なんだ! 他へ行きな!」
誰が来たのかも確認せずに、そんなことを言う輩がいた。
「頼む! 開けてくれ! 伝えたい重大なことが! 君たちは南軍の味方だろ? 話したいことがあるんだ!」
このまましばらくの間、無視しておけば、あきらめて引き上げるのだろうが、こんなご時世である。敵軍の斥候や盗賊の一団がどこで聞いているかわからない。あまり外で大声で騒がれても困る。ここに大勢の人間が集まっていることを、余所の人間に知られてしまうと、余計に厄介なことになるかもと思い始めた。男達のうち数人が目で合図をして、しぶしぶとドアを開けてやることにした。まずは、トランプやカードをかき集めて、ベッドの下に放り込んで、なるべく入口側から見えないようにした。こんな集団であっても一応の階級があるらしく、一番下っ端の男が、すっかり錆び付き、何も切れはしない短剣を握りしめながら、ゆっくりと鍵を開け、扉を開いた。
 扉が開くのを外で待っていたのは、中にいる男たちが期待した通り、安っぽいつぎはぎの革装備に身を包んだ、ひ弱そうな青年兵士だった。腰にはこれまた安そうな飾り気のない細身の剣を一本さしていた。自分たちに害を成そうとする存在にはとても見えなかった。これなら安心だと見下して、下っ端の男は下品な笑みを浮かべながら、その青年を中へ入れてやった。
 新しい人間の気配を感じると、ケークはベッドから身を乗り出して、入ってきた男の姿を確認した。もしかすると、自分のことを知っている人間かもしれないという小さな期待があった。ところが、目に入ったのは、この戦場には似つかわしくない、まるで、貧乏学生上がりのような凡庸な兵士で、かつて自分の知り合いであったような気は全くしなかった。
「私はカスケットの南軍陣地から駆けて来ました。アンドレア=ホーチスと申します」
大勢の人間に見られていたので、青年は緊張に震える声を無理に張り上げて挨拶した。長い間、仲間と出会えた時のことを考えながら走ってきたが、実際にその場面になると、なかなか考えがまとまらなかった。気の利いた言葉が出てこなかったのだ。
「おう、長旅ご苦労だったな」
この小屋の住人のほとんどは、一度は南軍の一員として、この戦争に参加しておきながら、この重大なときに、武器を放り出して、カード遊びをしてさぼっていたわけであるから、下手にでるとかえってまずいと思ったのか、ぼさぼさ頭の髭面の男が、連中を代表して、やや見下ろすような口調でそう答えた。
「それで、どんな用事かな? できれば手短にお願いしたい。我々も偶然ここに居合わせただけであって、この小屋に長いこといるわけではない。軍部から引き受けた重要な任務もある。つまり、何と言うか…、こちらにも急ぎの用事があるのでね」
まるで、雨が止んだら出ていく当てがあるかのように、男は頭の中で必死に考えた言葉でそう言ったが、ここにいる誰もが、南軍の一番隅っこの部隊に所属していた人間であるから、今回のように何も言わず陣地から逃げてきても、誰も追ってくるはずもなく、もちろん、すでに任務を遂行する気などなく、このだれきった男たちには、どこへ行くあてもなかった。人生の敗者がよく口にする、出まかせというやつである。
「しばらく、足止めを喰らっていたグリパニア軍が数日前ついにサウスヴィクスを南下し始めたことは諸君もすでに聞いていると思います」
「おう、もちろんだ!」
男は反応鋭く、勢いよくそう答えたが、本当はグリパニアの本格的な進攻を上官から聞いて恐ろしくなり、夜中に南軍の陣地を脱出し、ここまで逃げてきたとは口が裂けても言えなかった。
「私はハノンで働く職人の息子です。従来からの兵士ではありませんが、この緊急時ですから、ハノンを出て、義勇軍として徒党を組み、この戦争に参加する決意をしました。しかし、アイムール要塞には南部の正規軍が充満していて、我々は雇ってもらえません。そこで、我々の部隊は峡谷に潜んでグリパニアを迎え撃つことに決めました。しかし、少しでも長く敵軍の足止めをするためには、まだまだ兵の数が足りません。そこで、援軍を求めてここまで走ってきました。皆さんの力をお貸し下さい」
「援軍だって?」
この小屋に集まっているのは、皆元兵士のはずだったが、全員がまるで無理難題を押し付けられたかのような反応を示した。天井の隅を眺めたり、床に目を落としたり、ホーチスとまともに向き合っている人間はほとんどいなかった。戦場から命からがら逃げてきた彼らにとって、今、援軍に来てくれと言われることは、脱走の罪を問われる恐怖と相まって一番頼まれたくないことだった。
「あなたたちが参加してくれるなら、ここから急いで西方に駆け戻り、この森を抜けた先にあるカスケットという湿地帯で仲間と合流する予定です。敵はもう峡谷を南下している。その進軍速度を考えれば、あと数日でそこまで戻らなければならない。一刻を争う事態ということはわかっていると思う。腕に自信のある人は、すぐに装備の準備してください」
ホーチスは必死な形相でそう訴えた。しかし、そこにいた男たちからは、彼が期待したような活気ある反応は返ってこなかった。南軍の兵士と出会えた喜びに満ちていたはずの彼の心に影が入り込んできた。
「たった数日で、この森を抜けて湿原まで走るって? おまえ本気で言ってるのか? 今、この森の中には食糧や金に餓えた浮浪者や盗賊たちがうろうろしてるぜ。要所に検問をはられているかもしれない。そいつらに一度も会わずにこの樹海を数日で抜け出すって…、どう考えても、そりゃ無理だな!」
 後ろの方で、酒に酔って足元がふらついている若い男が半ば笑いながらそう叫んだ。 「無理でもなんでも…、五日もすれば、グリパニア軍はサウス・ヴィクス峡谷を南下して、アイムール要塞に殺到する。もしアイムールが落ちたら、もう首都ハノンは目と鼻の先だ…。我が軍の負けということだ。グリパニアに南郡を制圧されてしまえば、俺もあんたたちもどうせこの地には住めなくなるんだ。この様子だと、もしかすると、ここで戦乱が収まるのを待っているのかもしれないが、そのうち、この森にだって敵は侵入してくる。敵はアイムールに手こずれば、前線を二つに分け、別動隊をここに差し向けてくるだろう。絶対にそういう手をうってくる。ここで戦争に参加しないでいても、どのみち敵軍に捕まって皆殺しになるかもしれないんだ! それまでに、自分たちでなんとかしなくては…。誰か力を貸してくれ! 頼む!」
 ホーチスは最後に力をこめてそう言った。だが、しばらくの間、返事をするものはいなかった。小屋にいる者はみんな下を向いてしまって、言いたいことは皆同じようだったが、なかなか口から出せず、先に他の人間が返事をするのを待っているようだった。沈黙に耐えかねて、代表格の男が二三度周りを見てから口を開いた。
「あんたはここに来る前に、南軍の他の宿営地はあたってみたのか? まず、それを聞きたい」
「ここより北にある宿営地はすべて見てきたよ。だが、どこも、中は荒らされていて、もぬけの殻だった…。兵士どころか、誰もいないんだ…。ここより、南東の地方まで探しにいく時間はもうない。それに一兵卒の身分で他の都市への国境を越えるのは無理だ。この状況では、君たち以外にあてはないんだ」
「それじゃあ、他の奴らは逃げちまったんだな。もう、この戦いに勝ち目はないとわかったんだから当然だが…。みんなどうする? 俺たちもそろそろ他のとこに場所を移すか?」
 髭面の隊長格の男は、周りの人間の顔を見回してそう言った。「逃げよう、逃げよう、そろそろ逃げよう」と、周りにいる連中もなりふり構わず相槌を返した。こうなると、一度も戦場に出たことのない人間より余計にたちが悪かった。これほどの重大事を伝えているのに、ここにいる男たちは、皆へらへらと笑うだけで、これまで自分が住んできた国が失われるという現実を真剣に考えようとしない。一応は兵士の端くれのくせに、自分の身の安全のことしか考えられないのだ。ホーチスははらわたが煮えくり返る思いだった。しかし、そんなとき、ベッドの上から新しい声が聞こえてきた。
「あんた、人手が必要なのか? 俺でいいなら参加させてくれ…。そろそろ外に出てみたいんだ…」
そう言って、ケークはベッドから下を覗き見た。
「そろそろ、息苦しくなってきた…。外の空気が吸いたいのでね…」
我ながらおかしなことを言うものだとケークは思った。毛布を跳ね退けて、彼はのんびりと階段を降りてきた。
「それは助かる!」
 ホーチスはこの申し出を手放しで喜んだ。だが、ベッドから降りてきた男は中背細身で肌は浅黒く、目つきは鋭いが、悪い意味で南部の地方独特の特徴を持った人間だった。おまけに寝起きなのか、動きがひどく緩慢に見えた。ホーチスがこれまで培ってきた常識で考えれば、兵士というのは体つきと働きが比例するものだ。欲を言えば、もう少しがたいのいい男が欲しかったところだが。しかし、こんな状況下で志願兵を選ぶような贅沢は言ってられなかった。きっと、この男だってちゃんとした武器を持たせれば、それなりに戦うのだろう。
「名は? 名はなんて言うんだ? 聞かせてもらえるか?」
「名前…、俺の名前…、なんといったかな…?」
ホーチスはそれを冗談と受け止めた。話に聞くところによると、軍の末端にいるような兵士や傭兵などには、子供の頃に真っ当な教育を受けた者が少ないから、このような偏屈な人間が多く、北部の山間地方での、血で血を洗い、混迷を極める戦場でも、「俺の軍隊の大将は誰だ」とか「食料が少ないから戦いたくない」など、戦闘中におかしなことを言い出す人間は多くいたらしいのだが、自分の名前もわからないなどと言い出す人間の話はさすがに聞いたことがなかった。ホーチスはそれでもせっかく出会えた仲間であるから、なんとか受け流そうと愛想笑いをした。
「いやいや、君の名前だよ。名前を教えてもらいたいんだ。それとも、まだ名乗りたくないのかな?」
彼は小屋内部の様子を見回してからそう言った。男たちの内、何人かがベッドから降りてきた若者の顔を見て、顔色を変えたようだった。
「もう少し、待ってもらえるか? しばらく外を歩けば思い出すと思う…」
ケークは目を何度かこすって、そう言いながらベッドの上からベルトを取り出して、それをズボンの上から装着した。
「ああ、そういえば、俺はケークというんだったな。思い出したよ」
 彼はつい最近、誰かが自分をケークと呼んだことを思い出したのだ。だが、この名前はこの宿舎全体を震撼させた。このやり取りをはた目で見ていた何人かが、驚きの声を上げた。多くの男がこのケークという名前にまつわる噂話を頭に思い出していた。それは、数ヶ月前、突然この地方に現れた名前だった。ハノンの都市に近い宿屋で、ある兵士が森の中で出会ったその男を、おそらく南部最強の剣士であろうと、目撃談として興奮したように語った。ある盗賊は森の中で突然野獣のような男に後方から襲われ、仲間数人が一瞬のうちに惨殺されたと、カレンドの町の酒場で伝えた。また、この地方に最近まで生活していた複数の商人が、森の中で敵軍の兵士に襲われたところを、この男に救われたと、ケークの強さを噂しあっていたのだ。良い話も悪い話にも登場するが、この名前はこの地方ではあまりに有名な名前になっていた。ただ、これら全ての情報に共通しているのは、「南軍にとって、また南部の領民にとって、敵か味方かはわからない」ということだった。さきほどまでの雰囲気とは打って変わり、この小屋の中は静まり返り、皆の動きは止まり、まるで、珍種の動物を見るような目で小屋の中の誰もがこの男を注視していた。
「そうか…、道理で最近、この近辺がやたらと騒がしいわけだ…」
「昨日もそこの河で一刀で切られた盗賊の死体がごろごろと…、誰があんなことをやったのかと…、常人ではないとは思ったんだが…。あいつの仕業か…」
「ケークだ…、あれがケークだ…」
「なんてことだ、よく見ると、本当にあいつじゃないか。俺は顔を知っているんだよ…。森の中で会ったことがあるんだ…。何で今まで気がつかなかったのか…」
「俺は知っていたよ。知っていたが、言えなかったんだ…。わかるだろ? 声に出したら殺されるかもと思って…、あいつは普通じゃないよ。なにせ、三日間もだ、三日間もこの小屋の中で、平気な顔をして寝ていたのだから…」
周囲のたちはこの男の正体を知ると、猛獣に睨まれた鹿の群れのように騒ぎ出した。ホーチスはこの男たちの尋常でない反応に驚きつつ、それは強靭な兵士を探しに来た自分が望むところでもあるわけだから、期待もこめて尋ねた。
「それでは、彼は強いのか? 頼りになる男なのか?」
 数人の男たちがほぼ同時に首を上下に振った。さっきまで偉ぶっていた男たちが急に子供のように脅えて、震えているようにも見えてきて、ホーチスには少し滑稽だった。
「少し準備がある。待っててくれるか?」
 そのような緊迫した状況下で、ケークはさらりとそう言い、床の上にあった汚れた皮製のベストを拾い上げた。これだって、どうせ盗品だ。自分が着る前は誰かが着ていたのだろうが、さっぱり思い出せない。ケークはそんなことを思ったが、周りの男たちの自身に対する態度の変わりようなど、全く意に介さない様子だった。ケークはいまだ薄い自意識の中で、なぜ自分がこのホーチスという見知らぬ男について行こうと決めたのかがわからず、こうして自然に戦いの準備をしている自分の姿が不思議でたまらなかった。俺はまともに戦えるのだろうか? こいつは誰だ? ホーチス? まるで知らない名前だ。ただ、今度も頭の中で何者かが、「その男でいい。ついていけ。そのうちに道はきっとわかる」 そう言ってくれた気がした。
そのうち、男の一人が恐る恐る口を開いた。
「先日、バークレルの南の森に火をつけたのもあんたか?」
ケークは天井を見上げ、何かを思い出そうとするようにゆっくりと目を閉じた。ベッドに横になっていた、さっきまでよりは頭が働くようになった。だが、まだ、過去のことを思い出すにはまだ不十分だった。
「俺じゃない」
朦朧とした意識で少し考えてから、彼はそう答えた。
「それじゃ、数日前の深夜、レイモンドの村の近くで旅人数人を虐殺したのはあんたか?」
こういう男たちは、最近になって起こった恐ろしい事件の罪を、全て自分たちが名前を知っている人物になすりつけてしまいがちである。あるいは、酒の席でそういう会話を楽しんでいるうちに、話題が一人の男に集約してしまうのかもしれない。有名な傭兵や剣士からすれば迷惑な話だが、ケークはそんなことを気にする人間ではなかった。
「それも、俺じゃないよ。俺は自分から人を襲ったりはしない。どうしても殺し合いたいというので、何人かの相手をしてきたがね」
 ズボンのポケットから丸めておいた皮製の手袋を取り出し、しわくちゃになったそれを指にはめつつ、彼は首を左右に振ってそう答えた。ケークはその薄い手袋のしわを伸ばしながら、ふと、自分がどこのものとも知れぬ兵士の集団と、暗闇の中で松明と剣を持ち、切りあっている姿が脳裏に浮かび、思い直した。
「ああ、そういえば、バークレルの話は俺かもしれないな。相手はきっとグリパニアの斥候部隊だ…。ただ、誰が火をつけたかはわからん。もうおぼえてない。それに過去のことを考えだすと目の奥が痛いんだ…」
 彼は自分の頭部を指差してそう言った。身支度をしているのを待っていたホーチスは彼の姿を見て不思議に思った。
「あれ? おい、君は剣を持っていないのか? それでも傭兵なのか?」
「この間、置いてきちまった。それがね、あまり覚えてないんだ――どこか、森の中だよ、森の中に置いてきてしまった…。もしかすると、バークレルなのかな…。最後の記憶はどうもバークレルのようだな。そこまで戻ってみれば、見つかるかもな…」
 まるで他人事のように、そして半病人のようにうわのそらでケークは続けて喋った。まともな剣士なら、森の中に武器を放り投げてくるようなことはしないだろう。それは誰もがわかる。この男が今話したことは通常の兵士の常識からは相当に外れていた。ホーチスもそのことが気になり、自分から部隊に誘ってしまったこの男について、多少の疑念が沸いてきたが、それと同時に、新兵を探すという、今の自分の仕事には、もうそれほど時間がないことも思い出した。どうやら、この男以外に、もう兵士になってくれそうな人間は見つかりそうもなかった。
「そんなとこまで取りに行っている時間はもうないよ。グリパニアが来ちまうよ。僕たちの国はすでに断崖にいるんだ。なにしろ、時間がないんだ。」
ホーチスは嘆願するようにそう言った。ケークは何も応えなかった。自分の名や、ここ数日間の出来事すらまともに浮かんでこないのに、そのような地名や理屈が理解できるわけもなかった。ケークは細かいことについては考えることをあきらめていた。
「サウスヴィクスか、数日も続けて走るのか…。それはかなりしんどいな…」
顔をしかめて、そうぼやきつつも彼の足は扉へ向かった。まだ、身体が思うように動かず、走ることは可能だろうが、盗賊などに襲われた場合、実戦にすぐ参加できるかどうかは不安だった。
「本当に来てくれるのか? それならとても助かる。何しろまだ軍兵がまったく足りないんだ…」
「敵軍はもう来るのか? ああ、たしかグルパニアの軍隊だったな…。俺はその事態を知っているはずなんだ…」
ケークが答えた言葉はホーチスが期待した返事ではなく、奇妙な印象を与えた。
「ああ、数万のグリパニア兵が、サウスヴィクスの付近まで、もうすぐ攻め込んでくるんだ。わかるか? 僕らやハノン周辺に住む人間の命は、すでに瀬戸際だってことだよ」
 ホーチスのその言葉を聞き、しばらく静かになっていた小屋の住人たちがまたざわつき始めた。この森の、そしてこの国の滅びが静かに、確実に迫っているのだ。ホーチスはケークの顔を不思議そうに眺めた。見かけはただのやせ気味の若者だが、何を考えているかわからない凡庸とした表情の質が、今まで彼の出会ったどの人間とも異なり、逆に興味が沸いた。
「ケーク、君は相当できるそうだが、どうも記憶が不安定なようだね? 君の言葉は要領を得ていない…。本当に来てくれるのか? これからサウスヴィクスまで、治安の悪い道が続く、かなり危険な旅になりそうなんだが…」
カスケットの合流地点までの道中が非常に危険であるということは、相手を兵士に誘う際、言いにくい情報であったので、巧妙に最後まで隠しておいたのだった。
「ああ、それでも間違いなく行くよ…。」
 相変わらず、呆けた表情でケークはそう答えた。それには何の意思も積極性も感じられなかった。ホーチスは目の前の男に多少の疑いを持ちつつも、やっと、仲間を迎いいれることができたことを素直に喜んだ。二人がドアに手をかけ、いよいよ外へ出ようとしたとき、「おい、おいちょっと待ってくれ」と後ろから野太い声がした。先ほど、まだ寝ていたケークに一番初めに話しかけた帽子の男が二人を呼び止めたのだ。男はこの小屋で寝ていたのがケークだと判明した瞬間から、ずっとあることを問うてやろうと思っていたが、彼への恐怖感もあり、なかなか行動に移せないでいたのだ。男はようやくここで腹をくくった。
「うん? 君も来てくれるのか? それとも他に質問があるのか?」
 ホーチスはドアに手をかけたまま、振り返る形でその男に尋ねた。ケークもその後ろで下を向いてはいたが、おとなしくしていた。先ほどの男たちの噂話からは考えられぬ、落ち着きようで、まるで殺気は感じられなかった。男は話しづらいことを言うときの癖か、頭の後ろ側をぼりぼりとかきむしりながら、こう言った。
「なあ、ケーク、あんたいったい、これから何人の人間を殺すつもりだ?」
ケークは眠たそうに一度大きなあくびをした。
「さあな、なぜか森で出会うのはほとんど敵だからな…。俺の顔を見ると相手は襲って来るんだ。それなら何人殺すことになるかわからん…」
そう返答しつつ、先ほどまでよりは、ずっとまともな言葉が出てくるようになったと自分でも感心していた。
「気に障ることかもしれないが、聞いてくれ。」
 そう前置きしてから、男は勇気を振り絞って二人の方へ一歩進み出た。
「あんたが強いのは知ってるさ。多分、この小屋にいる全員がな…。だがね、ケーク、あんた一人がいったいこれから何人の敵兵を倒せるんだ? 五十人か? 七十人か? この地方ではな…、もっと北に行けばわかることだが、南部の領民の死体が数え切れぬほど転がっている…。子供も女も関係ないさ。グリパニアのやつらに皆殺しにされている…。死者の数はすでに数万にのぼるかもしれん…。俺が言いたいのはな、ケーク。あんたが数十人の敵兵を殺したところで、その数十倍の、いや数百倍の怒りになって跳ね返ってくるだけじゃないのか? 中途半端な反抗をして、余計にやつらの怒りを買えば、それだけ多くの罪のない人々が死ぬことになるんじゃないのか? いくら強いといったって、あんたみたいな一介の兵士が、勝ち目のない戦いをこれ以上続けることに意味はあるのか?」
ケークは床に落ちている一枚のカードを見つけて、それを眺めてから、つまらなそうに言った。
「あんたらがゲームなんぞやってないで、敵兵を数百人ずつでも斬り殺してくれれば、まだこの戦は勝てるよ」
男たちはそれを聞いて顔を真っ赤にして憤慨した。自分達の主張が多少なりとも正当性を持っていると思わせたいようだった。
「おい、そんな言い方はないだろ。あんたは傭兵なんかじゃない。それは昔の話だ。きっと、あんたの心は、森で他人を切り刻んでいるうちに変わってしまったんだ。今のあんたは、ただ、人殺しを楽しんでいるだけだ! 自分でそれがわかるはずだ! あんたは人間を殺す快感に酔っているだけだ」
ホーチスが慌てて二人の間に割って入った。軍に参加する前に、味方同士で騒ぎを起こされてはたまらなかった。
「ちょっと待て、あなたの考え方は変だ。先に攻め込んできたのは向こうの国だ。グリパニアだ。俺たちはそれに対して仕方なく、防御し、反抗してるに過ぎない。それを、無意味な戦いと言うことはないだろう? それに自分に襲いかかってきた敵を殺すときに、どんな感情を持っていたとしても、それは個人の自由だ。彼が森の中で突然に襲われて、仕方なくその相手を斬ったとしても、それは正当防衛だ。人殺しはそのまま狂気にはつながらない」
彼はケークの代わりにそう反論してみせた。そのとき、後方でさらに一人の若い男が立ち上がり暴発したように叫んだ。
「おい! そいつはきっと南軍とは無関係の野獣だぞ! ただの狂った人殺しだぞ! そいつはな、自分の眼に入ったやつを誰でも斬るんだ! そんな人殺しを自分の部隊に加えるつもりか?」
「俺は森で暮らしていたのに、突然襲われたから、武器を持っている相手を正々堂々と斬り殺しただけだ…、それが人殺しとは心外だね…」
ケークは誰とも目を合わせずに静かにそう答えた。脳の動きはずいぶん滑らかになってきたが、まだ頭痛が止まらなかった。
突然、ホーチスがコテージの壁をドンと叩き、勢いよく言った。
「いいか、これだけは言っておく。ここにこれだけの無傷の兵士がいるのに、このケークという男以外はこの戦争に参加してくれないようだが、これ以上、自分の国が蹂躙されるのを黙って見ている者がいるとしたら、そいつはただの臆病者だ!」
それは正論のように聞こえたが、このバンガローにたむろしているような、ひねた連中には、すでにそのような立派な文句は通用しなかった。笑い声が辺りにこだまし、すぐに汚い言葉が返ってきた。
「おい、死に方を選ぶことはできるだろ? どうせ、あんたらとサウスヴィクスに向かっても死ぬ。そして、ここで安閑と待っていても死ぬのなら、俺は喜んで後者を選ぶね。これ以上、余計な恐怖や苦痛を味わなくて済むからな」
「黙れ! グリパニア軍は俺たちが黙ってても、いずれここまで攻め込んで来る。戦うか、従順にするかはそれぞれの考え方次第だ。だが、これから国のために戦おうとしている人間の鋭気をくじくのだけはよしてくれ」
 最後にそれだけ言い残して、ホーチスはその小屋を後にした。たしかに、自分の考えだけで戦いをやめ、自尊心を捨て、剣を捨てて逃げ惑うのは個人の自由だ。ただ、その堕落した考え方を他人に勧める態度は許せなかった。

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第1節 10
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