1章 激闘の森

 

1節 消え失せた足跡






 何者かに身体を揺り動かされたような気がして、ケークは慌てて立ち上がった。眠り込んでから、どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。視界に人影はなかったが、夜風が冷たく通り過ぎ、上空の木々の隙間から金色の三日月が見えた。先程まで、あれだけうるさく鳴いていた野鳥や虫たちの声がやんだので、この辺り一帯が無人であるかのように感じられた。その声はまるで、この世界でただ一人だけ話す権利を与えられたかのような、堂々とした口調で話しかけてきた。
「やっとここまで戻って来たのか。遅かったな」
夜風と同化したような、心の奥まで突き抜けていくような声質だった。
「誰だ? どこにいる?」
激しく鳴り響く心臓の音を聞き、自分が動揺していることに驚いてしまい、慌てて口走ったが、男の話したことの意味はどうにも理解できなかった。
「おい、ところで何人殺した?」
 何者かは感情を全く感じない機械的な声で、今度はそう呼びかけてきた。茂みの中だろうか、それとも木の上からだろうか。ケークは油断なく辺りを見回して、声の主を探そうとした。なぜか、隣に寝ているホーチスを揺り起こす気にはなれなかった。臆病な彼の手に負えるような事態でないことがわかっていたのかもしれない。少なくとも、声の主は夜盗ではないだろう。盗みや殺しが目的の連中であれば、襲う前に声をかけたりはしないはずだ。ケークはそう考えて、聞き覚えのない声に首を傾げた。
「おまえがこの森で殺したのは、今夜で何人目だと聞いているんだ。質問にきちんと答えろよ」
「戦争中に死んだ人間のことなど、いちいち数えるもんか…。どうでもいい」
そう答えながらも、眼球は右左上と順番に動き、野性の本能で声の男の位置を特定しようとしていた。
「ケーク、あんた指名手配されてるよ…」
 左前方の茂みの奥の辺りから、何者かが、確かに自分の名前を呼んだ。そのことが、また少しだけ、ケークの心を軽く揺さぶった。乾いた声は脳の中央までしっかりと響いてくるが、相手はどこでしゃべっているのか、その距離感がつかめなかった。
「あんたを殺せればな、ルークにある陣地で、グリパニアの士官から、銀貨五枚の報酬がもらえるんだってよ…。すっかり荒んだこのご時世に、ろくな装備も着けずに身一つで歩く傭兵をただ殺すだけで銀貨五枚だぜ…。都会でも、こんな豪気な話は聞いたことがないぜ。なあ、破格だろ? 体力自慢の男でも、この地方で額に汗して働いて五枚の貨幣を貯めるには二週間は必要だ。それだけの金があれば、庶民なら服装をきちんと整えて、なお一ヶ月は食っていけるわけだ。だからな…、その報酬に眼がくらんだ兵士や盗賊が、これから必死になって、あんたの後を追って来ると思うぜ…。あんたはこれから毎日びくびくしながら寝起きし、そいつらが襲ってくるたびに、いちいち剣を抜いて跳ね退けないといけないな…」
「俺の首に報酬だって? それは嘘だな。グリパニア軍は、まだ先鋒隊がようやく森に入ってきたばかりで、俺の名前なんて知らないはずだ…。それと、おまえらはたった貨幣五枚ぽっちのために、自分の命をかけていいのか?」
「別に俺がおまえを襲うと言っているわけじゃない…。相変わらず理解力がないようだな…。そういえば、おまえとは帝都の本城で何度か会ったっけな…。そうそう…、あの頃から、夢中になると周りが見えなくなる男だった。まるで変わっていない…。いいか、よく聞けよ。愚かなおまえさんにいいことを教えてやる…。三日前の深夜、パナン近郊で野営していた、グリパニア軍第三師団の斥候部隊の兵士数名が、突然襲撃して来た正体不明の男一人に惨殺された…。夜間の戦闘だったはずだが、全員、急所を一刺しにされていたそうだ。その場から、なんとか逃げ出した生き残りの兵士が、襲ってきた相手の顔と、ケークという名前を覚えていたそうだ…。グリパニア軍がな、おまえにやられた腹いせに、おまえの首に賞金をかけたんだよ…。だから、俺は気をつけろと言っているんだ」
「知らん。寝ているところを襲うなんて、俺はそこまで腐っていない。誓って、夜襲などしていない…」
 ここより遥か北部にあるパナンの陣地まで、馬もなく三日程度で移動できるわけがなく、錯乱しているケークにも、この男の言っていることの真偽くらいはわかった。この声の主は、記憶を失った俺をさらに惑わせるために、こんな偽情報を持ってきたのだろうか?
「この数週間、あんたが何も知らないで、まるで意識が朦朧とした精神病患者みたいに森の中をあてもなくウロウロしている間に、事態はかなり進んでしまっているみたいだぜ…。あんたみたいに、他人の操り人形にされて、たやすく利用されてしまう人間を、第三者の視点で外から黙って見ているのも楽しめるんだが、あんたはあいつらと違って状況判断が全くできないようだから、あまりに不憫になってな…。俺はそれを教えてやろうと思ったのさ…。わかるか? 俺の言葉は助け舟ってわけさ」
「事態が進んでいる…? わからん…。記憶を失ったのは、もう三年ぐらい前だ…。その時、俺は完全に意識を失っていて、エスポーサ近くの林の中で倒れていたところを、南軍の将軍に拾われたんだ。その後、剣の腕を買われて、正式に南軍の一員になり…、鍛練を重ねて評価され、バルガス暗殺の任務を受けた。その時のことも、その後のこともちゃんと覚えている…。あんたが今言ったことは、すべてでたらめだ」
「頭の悪い男だ…。俺が言うことは全て真実だ。だが、おまえが過去の記憶を失ったのが、もし事実なら、このまま話を続けても、埒があかないというわけだから言い方を変えようか。つまりな…、この森の中で、あえておまえの名前を名乗って行動し、ケークという名に注目を集めようとしている人間がいるってことだ。つまり、そいつらはなぜかご丁寧に『自分はケークだ』と名乗ってから、森に侵入してきた敵軍の将校を襲っているんだ。名のある将校への襲撃が相次いでいるので、グリパニア軍もそろそろ対策に本腰を入れるようだ。だがね、おまえさんの偽物は、なんで、わざわざそんなことをするのか、わかるか?」
「うるさい奴だな…。そんな話どうでもいい…。俺の名前を使いたいなら、そうすればいい。だいたい、同名の人間かもしれないじゃないか…。 それより、あんたはいったい誰だ? いったい何の用なんだ…?」
「もう少しだけ、大人しく話を聞け…。カスケットまで行けるか…? おまえに必要なものが、そこで少しは見えて来ると思うが…。はっきり言うが、今のままでは、上手くいくか心配だな。残念だが、私は一緒に付いていってやることはできないのだがね…」
「俺の心配をしてくれるのか? それはありがたいが、あんたは誰だ? いい加減、名前を言え。俺のことにずいぶん詳しそうだな…」
 自分は記憶がないのに、相手が自分のことを知っているというのは不快なことだった。恐れはなかったが、焦りは、はっきりと感じていた。聞いたことのない声だが、もしかすると、記憶がなくなる以前に出会ったことがある人間かもしれないという思いもあったからだ。
「おまえの仲間はまだ来ないよ…。出会えるのはまだ先だ…。カスケットより、さらに先の時間なんだ。時間は限られているが、そこまで独りで行けるかね? 私は心配性だから、そのことを尋ねているんだ…」
「今は二人で行動しているんだ…。あんたにはそこで寝ているホーチスが見えないのか? 他にも仲間がいて、数日後に峡谷で落ち合うことになっているんだ…」
「そいつらは無駄死にしたくないから、都合よく、おまえを盾にしようと考えて、ついて来ているだけで、別に仲間ではないだろ…。まあ、これから出会う人間の、どれが仲間で、どれがそうでないかは、多分おまえにも区別できないのだろうがね…。ただ、カスケットに向かうのは悪くないぜ…。あそこには小さいが真実があるからな…。この森は嘘つきばっかりだ…。いいか…、とにかく、気をつけるんだ…。おまえの影に…」
 それっきり、その冷たい声は聞こえなくなった。漂っていた不気味な気配も消えた。森は再び静寂に包まれていた。

 翌朝は雨こそ止んでいたが、厚い雲に被われた、薄暗く蒸し暑い日だった。森を濃い霧が包んでいたので、二人は昨夜よりもさらに油断なく進まなくてはならなかった。西方の湿地帯へと向かう泥の道は執拗に湾曲していて、濃い霧と相まって、視界は全くきかなかった。
 約束の時間に遅れまいとしているせいか、しきりに先導したがるホーチスを、ケークは何度か声をかけ、制止させて、なるべく二人の身体が離れないように気をつけながら進むしかなかった。もっとも、視界がこんな状況では、昨日のように、複数の人間に道を塞がれていない限りは、敵軍や盗賊たちにしても、彼ら二人のことを遠くから察知するのは困難であるから、それだけは移動に有利な点だった。ただ、水溜まりの上を通過するときに鳴り響くビチャビチャという水音は、二人の存在を周囲の生物に教えるものであり、ケークはしきりに足元を気にしていた。
 ホーチスは、自分に底知れぬ恐怖を与えた、昨夜の盗賊の一団は、すでにこの世にいないわけで、そう考えると幾分か気は楽だった。彼は荒んだ戦場にも、平和な町中の常識を持ち込む性質の人間で、二日間続けてあのような酷い思いを味わうとは、夢にも思えなかった。それは、確率の上では正しいのであるが、他の人間を殺すことなど夢にも思わない、小さな町の果物売りや床屋、彫金細工の職人のような感覚だった。彼はこの森の中で自分を畏怖させる存在は、もうこの世から消えさったと考えていた。小鳥たちの鳴き声に合わせるように、ホーチスは時々楽しそうに口笛を吹いた。彼には、昨日より、森の雰囲気はいくらか安らいだように感じられたからだ。
 反対にケークは太陽が昇りきってからは、必要以上に辺りを警戒し、時折首を伸ばして、無理にでも遠くまで景色を見回すようになった。夜盗を四人ぽっち斬ったところで、この地方に潜む悪が絶えるわけはなく、むしろ、この先にさらに恐ろしいことが待っているのではないかと考えていた。昨夜の幻想を抜きにして考えても、心中を嫌な予感が覆った。深夜に強敵を討ち果たして安心し、すっかり安心して力を抜いてしまい、次の日の早朝に、思わぬ敵襲を受けた経験もあった。この森で一ヶ月以上生きてきて、自分のこうした直感は、生命を守る上で非常に頼りになることがわかっていた。
 あの汚いバンガローを出てから丸五日間走り続け、二人はついに森の出口に到達しようとしていた。遠くに見える木々の隙間からは光が溢れていた。
「光が近づいてきた。よかった、カスケットはもうすぐだ…。よし、仲間と会えばどうにかなるぞ…」
「待て、止まれよ。そこに何かいるぞ」
ケークが道の左前方を指差してみせた。霧の向こう側に二人の人影が見えてきた。道端に立っていたのは、老人と子供のようだった。二人とも修道士のような黒いチュニックを着ていて、一人は中年の男で、もう一人は十歳にもなっていない男の子だった。子供の保護者と思われる男性は二人の姿を確認すると、一歩前に踏み出して、にこやかな表情を浮かべ、左手を一度掲げてから、うやうやしく礼をして話したい用件があることを示した。気持ちは急いていたが、二人は足を止めるしかなかった。
「こんにちは。今日はずいぶん暖かいですね。実に気持ちがいい! さてさて、失礼ですが、あなた方はこれからカスケットへ向かうのでしょうか?」
「その通りです。遅まきながら、南軍に参加するつもりなのです」
ホーチスの無防備な返事を聞くと、初老の男はニコリと微笑んで、いかにも嬉しそうに大きくうなづいた。
「あなたがたのように国を憂う若者が多くいるのならば、まだ今からでも、この国は救われるかもしれない…。あなたたち二人の正義に満ちた堂々とした表情を見て、私は安心しました。どうか皆様の道中の慰みに、僅かですが食料を受けとって下さい。カスケットでも配給をしているようですが、ここで補給を受ければ、しばらくはもつでしょう」
ローブを着た老人は笑顔を浮かべ、同胞との出会いに満ち足りた表情でそう話しかけてきた。男性のその声に呼応するように連れの男の子が無邪気な笑顔を見せながら、二人に近づいてきた。右手に大きな麻の布袋が握られていた。まさか、悪魔の住家のような、この陰欝な森の中で、こんな温かい施しを受けられるとは思ってもいなかった。ホーチスは喜んでそれを受け取ろうと、自然な動作で手を伸ばそうとした。
「まて、その子を間合いに入れるな」
ケークが後ろから鋭い声でそう叫んだ。彼は男の顔を睨みつけていた。
「この辺りには血の臭いがしているぞ。おまえらはその手を使って何人殺してきたんだ?」
ホーチスがその言葉に驚いて後ろを振り返った瞬間、その子供は持っていた袋を地面に落とした。その下に何かを握っていた。鋭い刃先が見え、それが薄い光に照らされてキラッと輝いた。子供は金や食料への願望を力に変え、一直線にホーチスの心臓めがけて迫ってきた。
「どけ!」
ケークはホーチスの身体を突き倒して、二人の間に割って入った。子供は慌ててケークの方に狙いを変えて突いたが、それよりも速くケークは自分の剣を振り下ろしていた。小さな叫びが辺りに響き、子の右腕の肘から先が地面に切り落とされた。土の上に転がった小さな手には緑色の柄の短剣が握られていた。落とされた自分の腕を名残惜しそうに見つめる少年の顔が印象的だった。
 その一瞬の攻防だけで、自分たちの計画がすべて失敗に終わったことを悟ると、ローブの男は瞬時に背を向けて走り出し、少年を見捨てて、そのまま一目散に森の奥に向かって駆けていった。
「まて! あんたの子だろ? まさか、置いて行く気か?」
男が自分の子供を置いて逃げ出したことに驚いて、ホーチスが慌ててそう叫ぶと、男は一度だけ後ろを振り返って、こちらの様子を伺い見た。二人の顔に追う気が無いのを見て取ると、男は歪んだ笑みを浮かべながら、信じ難い言葉を口にした。
「そいつは俺の子じゃねえ! おまえらの好きにしな!」
 かくして利き腕を失った少年はその場に置き捨てられた。もはや逃げる気もないようで、失った腕を抑え、とめどない出血を気にしながら、うつむき立ち尽くしていた。
「なぜ、斬ったんだ? こんな小さな子供の腕を! それも、この子に僕を殺す気があったのかどうかもわからないうちに!」
ホーチスは気が動転して、真っ赤な顔でそう叫んだが、彼は自分が刺されなかったことを、喜ぶことすらすっかり忘れているように思えた。
「あんたも南軍の一員なら、そろそろ、この森に慣れた方がいいぞ。道中で出会う人間はすべて敵だと思え。昨日まで善人だった者でも、ここでは襲って来るんだ。あんたが気を抜いて、こういう連中に殺されるのは一向に構わないが、そうなったら、誰が俺をサウスヴィクスまで案内するんだ?」
ケークはホーチスを二度まで助けた理由を、そのように簡潔に表現してみせた。無駄な手間になるので愚鈍な相方には、あえてこの場で言わなかったが、ケークの頭には、これまでの体験を通して、この森の周辺には、犯罪に手を染めている者以外に、他人に食料を与えられるほど、手持ちに余裕のある人間はいないという確信があり、簡単に食料を渡すと言い出したあの男の言葉が信じられなかったのだ。素早い動きを見せた子供にさらに早く対応できたのは、そういう考えからだった。
 腕を斬られた子供はいまさら逃げることも泣くこともせず、一言も発せず、その場にとどまっていたが、やがて、何か言いたげに顔を上げ、ケークの方に視線を向けた。戦争で親兄弟を失って孤児になり、その上、悪人に拾われて利用され、そのあげくに利き腕まで失ってしまったこの子は、これからどのような人生を歩むのだろうか。ホーチスはそれ以上のことを考えたくなかった。
「この先は本当にカスケットなのか?」
ケークは罪悪感など微塵も感じていない様子で、冷たい声で少年に尋ねた。少年の額には大量の汗が吹き出していた。その汗を左手で一度拭ってから、その子はさらに無感情な声で、「知らない」と一言だけ答えた。仲間との約束の時間が迫っていた。二人は子供をここに置いて先に進むしかなかった。ホーチスはこの現実に対して、何もしてやれない自分を情けなく思った。彼はいたたまれなくなって、一度後ろを振り返ってみた。その子供は何も声を発することもなく、森の奥の方にゆっくりと歩み去っていった。
 すっかり落ち込んだ彼を慰めるように、森の木々の間から漏れる光りの量は次第に増していき、やがて視界の先に原野が広がった。
「見ろ! 森を抜けたぞ!」
ホーチスは暗く汚い森を抜けた嬉しさのあまり、何の警戒もなく足元の水溜まりを飛び越えて、光のある方へ駆け込んでいったが、彼は目的地であったはずのその湿原に、たった一歩踏み込んだだけで、森さえ抜ければ、この旅はずいぶん楽になると考えていた自分達の思惑が、全く的外れであったことを思い知らされることになった。

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