目次
1ページ試験の結果
2ページ京介の不調・ラルセの星占い
3ページ新入生歓迎式
4ページガンボレ祭前日の買い物
5ページガンボレ祭その後(一)
6ページガンボレ祭その後(二)
7ページガンボレ祭その後(三)
8ページガンボレ祭その後(四)
9ページサフラン先生の薬品占い
10ページ生徒会総選挙数日前(一)
11ページ生徒会総選挙数日前(二)
12ページ生徒会総選挙数日前(三)
13ページ厳罰棟所長の訪問(一)
14ページ厳罰棟所長の訪問(二)



 僕の何度目かの過ちが、みんなが楽しみにしていた十年祭の前に、厳罰棟所長による講演会という特別なイベントを作ってしまった。生徒会本部へ乗り込んでから二週間後、約束の日はあっという間にやってきた。
 その日、ホームルーム終了後に、たでま先生から、このクラスの生徒だけが厳罰棟の主任から講義を受けることになったとみんなに正式に伝えられた。クラスのみんなからは特に不満の声は出なかったが、いったい誰のせいでこうなったのかと、キョロキョロと周りを見回す生徒もいた。僕は怖くなって、ずっと顔を伏せながらその話を聞いていた。先生は特に誰のせいだとは言わなかったが、真相は知っているようだった。
「みんなも、まだ若いからといって、一時の激情に身を任せて行動すると、取り返しのつかないことになるぞ」という言葉を最後に付け加えたので、それがわかった。ラルセやロドリゲスは、これまでのいきさつを知っているから、先生の言葉を聞いてほくそ笑んでいたが、僕はみんなに申し訳がなかった。隣を見ると、タッサンは厳粛な顔で先生の言葉を受け止めていた。彼は僕が生徒会に乗り込んだことも知らないフリをして、クラスメイトに伝えなかったし、ラルセがその後、幹部に暴行を働いたことも生徒会関係者やホームルームの友人の誰にも告げなかった。彼はあの大事件を本当に自分の頭の中だけで処理してくれたのだ。僕は彼の公平で正大な態度に頭の下がる思いだった。生徒会の重職にありながら、彼ほど律儀で口の硬い男を見たことがなかった。
「タッサンをこっちに抱え込んでいるから、僕は先日の一件を楽観的に見てるんだよ」
ロドリゲスも彼のことをそう評価していた。ラルセは先生が話をしている間中、時々僕の顔を伺いながら、ずっと笑いをこらえていて、隣に座っている友人の女の子から、「どうしたの?」と尋ねられるくらい、我慢しきれないように、クスクスと小さく笑いながら話を聞いていたが、先生の話終わりに突然手を挙げて、「先生、本当にうちのクラスだけでやるんですか?」と、わざと不思議そうな顔をして発言し、僕の心臓をバクバクとさせた。先生はラルセの大人気ないいたずらに気がついて、つまらなそうに「ああ、もちろん、うちだけだ」と答えた。彼女が機先を制したので、その後同様の質問をする生徒はいなくなった。
 ホームルーム終了後、生徒は徒歩で生徒会本部の隣にある記念館に移動した。割と新しい、来賓が講演をするときによく使われる建物である。僕らは一階の広間に案内された。ここは、映画会や寸劇が催されるときによく使用される部屋である。すでに生徒会の役員が数人入り込んで演壇の準備をしていた。みんなは次々とその広間に入っていったが、僕は会場に入る前にやることがあったので、一度外にある購買に向かった。他の生徒よりだいぶ遅れて広間に入ったので、ラルセが不審そうな顔をして入り口で待っていた。
「どうしたの?」と彼女は尋ねてきた。
「いや、ちょっと買い物さ。考えてみると、みんなに申し訳ないことをしたからね」
「ふーん、あれを見て逃げだしたのかと思ったわ」
ラルセはそう言い残して踵を返し、とっとと会場に入ってしまったが、僕はその言葉の意味がわからなかった。だが、彼女を追って会場に踏み込んでみて、すぐに理解できた。広間の入り口に、案内人としてクレモネが立っていたのだ。生徒会から派遣されて来たらしい。僕は恐ろしくなった。先日の一件が鮮明に思い出され、色んなことが瞬時に頭を過ぎってしまい、何を考えていいかわからなくなった。彼女は僕がなぜ狼狽しているのか、わからない様子で、「こんにちわー、まだ前の方に空いている席がありますから、前の方から座っていって下さいねー」と明るい声をかけてきた。ラルセはそれを見ても何ら表情を変えることもなく、彼女と視線を合わせることもなく、「お疲れさまー」と軽く声をかけて、その横をすり抜けた。
「先日は、ほ、本当に、すいませんでした…」
僕は声を震わせて彼女にそう言ってから、広間に侵入した。丸い白いテーブルがいくつも並べてられていて、その周りを取り囲むように椅子が配置されていた。結婚式やお祝いパーティーのようなスタイルだった。広間の中ほどから、京介がこっちに来いと手を振っているのが見えた。授業がすでに終わっているので、彼は大胆にも制服を脱いでいて、白いYシャツ姿で腕まくりをして、頭にタオルを巻いたアウトローなスタイルだった。講演会への参加も授業の一環だということをすっかり忘れて、気を抜いているようだった。
「いやはや、とんでもないことだよ」
僕が辺りをキョロキョロとしながら京介の横に腰を降ろした。
「あんた、さっきから様子が変よね? いったい、何をびびってるの?」
座ってからも僕の目が落ち着いていなかったので、ラルセにそう尋ねられた。
「いや、だって…」
僕はそう言ってから、一度後ろを振り向いてクレモネがこちらを伺っていないことを確認してから話を続けた。
「だって、あんなことがあってから、まだ数日だよ? 彼女はあんなに恥をかかされたことを、もう忘れてしまったかのように、あんな澄ました態度を取って…。あれが本当の淑女なんだろうけど、同じ年齢の人間として、あの落ち着きようは信じられないよ。僕はこれから先も何か起こるたびにあの出来事を思い出して、背筋を凍らせるような思いをしなければいけないというのに…」
京介は最初、何を言っているのかわからないといった複雑な表情で聞いていたが、少し考えているうちに、あの一連の事件を思い出したようで、手をパンと叩いた。
「ああ、ラルセがクレモネをひっぱたいたっていう事件のことか? おまえ、あんなことを気に病んでびくびくしてたのか? 生徒会の幹部になあ、そんなことで落ち込んでしまうような臆病な人間はいないんだよ。だいたい、今になって、大袈裟に騒げば騒ぐほど、奴らにとっては身内の恥を晒すことになるんだぞ。もはや、当時のことは忘れて、大人しくしてる他ないんだよ。まったく、総選挙数日前とは、ラルセはいいタイミングで仕掛けたもんだぜ。俺だって、タイミングさえうまく計れる人間だったら、会長に言いたいことはいっぱいあるんだがな…」
「大人しそうな顔に騙されないほうがいいわよ。クレモネにね、一度殴られたくらいで落ち込むような、そんな清純な心はないの…。あんたももっと強い態度に出ないと彼女に名前すら忘れられるわよ。美しい蝶は派手な色をした花の上にしかとまらないの」
ラルセが京介の言葉を継いでそう言った。
「いや、それにしても…」
僕はそう言って再び振り返った。すると、ロドリゲスが入り口で他の生徒と話しながら、クレモネの横を通ってこっちへ来るのが見えた。彼も、彼女がここにいることをあまり気にしていないようだった。
「まだ、ゲストは来ていないのかい?」
彼は僕らを見つけると手を振りながら歩んできて、そう言ってから、真後ろの席に座った。待ちきれなくなったのか、京介が退屈そうに一度あくびをした。周りの生徒も落ち着きがなくガヤガヤと騒いでいた。ラルセが僕の持っているビニール袋を覗き込んできて、「購買で何を買ってきたの?」と尋ねてきた。僕はその言葉で他にやることを思い出して、一度立ち上がり、会場の中央にある、大きめの机の横まで歩んでいって、そこに白いA3の紙を敷いて、購入してきた十数本のチョコスティックをその上に置いた。周りに陣取っていたみんなは珍しいものを発見したようにそれを眺めた。
「みんなで少しずつ食べてね…」
僕は小さい声でそう言ってから、自分の席に戻ってきた。
「パヌッチ、そんな気を使わなくても良かったのに!」
ロドリゲスが僕の弱気を慰めるようにそう言ってくれた。
僕が自分の席まで戻ってくると、他の誰にも聞こえないように京介が耳打ちしてきた。
「自分が悪いことをやったと認めるようなもんだぞ」
「いいんだよ、みんな薄々は気づいてるんだ…。僕の悪さのせいで今回の余計なイベントが発生したってことをね…」
僕は袋の中にまだ数本残っていたお菓子を取り出して、それを口に運んだ。ラルセも素早い動作で袋の中に左手を突っ込んだ。彼女はその大きな瞳で横から僕の顔を見つめたまま、袋の中をまさぐってチョコを取り出すと、ゆっくりとそれを自分の口に運んだ。彼女は少し笑っていた。『言いたいことがあるなら、何か言ってみなさいよ』とでも言いたげで、その視線は挑発的だった。僕はその行動に当惑してしまって心臓が高鳴り、何も言葉が出てこなかった。
 クラスの全員が広間に入ると、クレモネが音もたてずに入り口の扉を閉めた。電灯を暗めに設定してあるのか、少し薄暗い室内で、生徒会の役員と思われる人間が演壇に上がってマイクを取り上げた。
「えー、皆さん、揃ったようですね? それでは講演会を始めたいと思います。私語はやめてください」
部屋が薄暗かったので、頭部が影になっていて、最初に見たときは誰だかわからなかったのだが、その声でエンフォード二世だとわかった。彼はいつものように背中をピンと伸ばして、少し威圧的な態度で立っていた。相変わらずの小太りで、まあそれが彼の最大の特徴なのだが、ぶ厚い眼鏡の奥の目は日本のダイブツ様のような細さと冷たさで、とてもじゃないが、人好きのするタイプではなかった。僕らと余り関わりのない人物なので、仲間内では、彼の本名は誰も知らないのだが、彼がこの国の優秀な保守派の政治家だったエンフォードに憧れているという噂を聞いたので、エンフォード二世というあだ名が付けられた。生徒会では書記や副会長を歴任していて、最近では、会長に継いでナンバー2の地位を誇っている。性格は大人しめだが、読心術のようなものを心得ていて、他人が自分に良くない心情を持っていると、少し話しただけですぐにそれがわかると公言している。『まあ、そうでしょうね』と『馬鹿なことをして僕を困らせないでくれ』が口癖。そんな薄暗い性格だから友達はそれほど多くないらしいが、女性には努めて優しくすると周囲の人間に語っているらしい。まあ、一応は生徒会のナンバー2なのだから名声欲しさにそのくらいは言うのだろうが。僕は彼が笑ったところを見たことがないが、面白い演劇などを見ると、他人とは異なるタイミングで「ふふふ」と口元だけで笑うという噂だ。一学生のときにラルセに毛根が細いと言われたのをいまだに気にしているらしい。
 エンフォード二世は今日も不機嫌そうだった。誰を見ているのかわからない無機質な視線を演壇から投げ掛けていた。
「えー、今日は本当は会長が挨拶に来る予定だったのですが、先ほど本部二階のシュレッダーが突然壊れてしまい、唸り声をあげながら大量のゴミを周囲に撒き散らしてしまいまして、会長は事態の収拾に当たっています。そのため、代わりに私が来ました」
それを言った途端、ヒューと会場のどこからか冷やかすような口笛が飛んだ。彼の登場を誰も喜んでいないのだ。例え生徒会長が来たとて、同じような雰囲気だっただろう。
「おまえの話は誰も聞きたくないぞー」と、聞こえるか聞こえないかわからないくらいの音量で京介が言った。周りの女生徒がクスクスと笑い声をあげていた。それで怯むようなエンフォード二世ではなかったが、突然引き受けた大任だったので多少の緊張は見て取れた。
「はいはい、静かにしてください。講演をしてくれる方がすでに会場に入っていますので、ここからはいい雰囲気を作っていきましょう。僕は何があったのか知りませんが、ここ数日間、会長がひどく不機嫌で…、まあ、おおかた、この中の数人が本部に乗り込んできたという一件が尾を引いているんでしょうけど…」
エンフォード二世の声は話している間に少しずつ小さくなっていくのでいつも語尾が聞き取りにくかった。
「おい、太っちょ! もっと大声で話せ!」
ついに誰かがそんな言葉を投げてしまった。エンフォード二世は右手で眼鏡をクイッと上にあげてから、「ちょっと、うるさいクラスですねー。君らは、いつもこうなんですか?」と不満そうに言った。彼が右へ左へと視線を動かすたびに腹の脇のお肉がユサユサと揺れるので、それを見たみんなはついにゲラゲラと笑い出した。
「皆さん、いいですか? 先日の総選挙のこと、ご存知ですよね?(ここで薄笑いを浮かべて) 開票の結果、うちの会長が見事に大量の信任投票を得まして、二期目の当選を果たしました。これまで懸命に業績を積み重ねてきて、多くの生徒さんから信頼を勝ち得たということですからね。(少し上目遣いになる)後期もですね、うちの派閥が実権を握ることになりましたのでね、ふふふ、私の言うことに素直に従って頂かないと、後々困ったことが起きますよ。いいですか? 今騒いでいる人達だって、狭い会議室なんかで、私と面と向かったら、真面目な話なんて出来ない人なんでしょ? あなたたちは重大なことは匿名でしか発言出来ない人達なんでしょ? ふふ、それをまず認めて下さいよ。私を豚だと言うのであれば(この時点では誰も言っていない)、あなたたちは家畜以下ですよ。議論するに足りないですね」
「俺達はおまえら全員を信任したわけじゃない。会長に投票した人間だって、学校の安定を願って保守派に入れたんだ。そんな安っぽい脅しに屈するもんかー、いい加減ダイエットしろー」
会場の一角からはそんな罵声が返ってきた。やはり、今日の集まりは予定外のイベントだったので、みんなかなり不機嫌なようだった。この騒ぎの責任の一端を背負わされた気がして、僕の胸も妙に高鳴った。エンフォード二世は、これ以上ない感情の高ぶりに襲われたようだが、一度眼を閉じた上で、静かな声で、「自己実現、自己実現」と二回繰り返して呟き、落ち着きを取り戻そうとしていた。このままでは講演会が先に進まなくなると危惧したのか、下手に観衆を挑発せずに、騒いでいる連中の声には耳を貸さないことにしたらしい。彼は冷静な顔に戻って話を続けた。
「では、講演してくださる先生を紹介しますね」
彼は冷静を装ってそう言ったが、会場は相当にざわついていた。僕も過去には、生徒会の主催であっても、生徒のざわつきを諌めようとしたところから混乱が起きてしまい、失敗に終わった催し物をいくつか見てきたが(こういう騒乱というのは、この年代の学生の集まりでは起こりがちである)、今回のこの講演会も、この微妙な雰囲気の中での開催とあっては、この段階ですでに、成功するかどうかのぎりぎりのラインといったところだった。せめて、会長がここに来ていれば、その威厳によって、事態はうまく収拾出来たのであろうが、彼が来れないとあっては、今日ここに集まっている生徒は、校内で荒くれ者の部類に入る人間が多く含まれており、それがわかっているから生徒会もナンバー2を派遣して来たのだろうが、万事うまくいくかどうかは、この段階では未知数だった。
 そんな時だった。会場の後ろの扉が開いて、一人の生徒がおずおずと入ってきた。みんな、一斉に振り返った。
「ムングじゃないか!」
「ちょっと、ムング! あなた元気だったの?」
入って来たのはムングという、このクラスの一員だった。あだ名で『地中海の穴熊』と呼ばれる生徒で、もう、3週間も学校を無断で休んでいたので、みんなで心配していたところだったのだ。ラルセも安心したようにムングの方に一度手を振りながらも、ほくそ笑みながら、ちらちらっと演壇にいるエンフォード二世の方に視線を向けた。彼は今まさに講師を紹介しようというタイミングで、予想外の生徒の登場によって、完全に腰を折られた形になり、ほとんどの生徒の視線が自分から外れてしまった気まずい雰囲気の中で、ことの成り行きを見守りながら呆然と立ち尽くしていた。ここから立て直せるだけの人望と技量が果たして生徒会のナンバー2にはあるのだろうか?
「みんな、心配かけてごめんね。俺が休んでいた件については、本当に誰も悪くないんだ。うじうじと悩んでいた俺一人の責任なんだ。みんなは気にしないで学校生活を送ってくれ」
ムングはそう言ってから、会場の隅の方の席に腰を降ろした。彼はいつも通り、警察と同じ紋様のついた立派な制帽を被っており、胸には拳銃をしまうホルダーのついた防弾チョッキを着込んでいた。これが彼のいつものスタイルなのだ。彼が入学当初からなぜそのような格好で登校して来るのかについては、誰もが興味を抱いているのだが、本人に対して真剣に質問をしたことがある人間はごく少数に留まると思われる。ただ、わかりきっているのは、彼は決して保守的でも軍国主義でもなく、無難な思想を持った一般の市民である。それなのに、なぜ上半身だけ警官のような格好をして来るのかについては、彼なりの複雑な思考があるのだろう。ここで、僕が言っておきたいのは、人間は誰しも他人に容易には話せない、複雑な嗜好や趣味や、あるいは思想を持っているということで、それは幼い頃の複雑な体験が元でそうなったのか、あるいは誰か有名人に影響を受けてそうなったのかはわからないが、とにかく、人間として生まれて十数年も生き続けていれば、何かしら特異な嗜好を身につけてしまっても仕方のないところなのである。例えば、僕の故郷にほど近い町で、ゆうに70を越えたおばあさんがいつも話題を集めていたのだが、それは、彼女が買い物に出かけるときに、必ず短い真っ赤なスカートとピンク色のタイツを履いているということで、これも今回のムングの一件と非常によく似た事例で、その町に住んでいる誰も、そのおばあさんに、なぜ少女のようなスタイルで出かけるのかについては質問出来なかったのである。一言尋ねてしまえばそれですっきりするのに、不安感に襲われてそれができない。どうしても、始末に負えない回答が戻ってくるのではと考えてしまう。人間の心とはそれほど不可解なものである。この世は、心理学の学者にも説明できないことで溢れている。
 先ほども述べたが、人間は誰しも、一つくらいは特異な嗜好を持っていて、ほとんどの人は、それが他人の目に映らないところに匿っておける程度の趣味なのだろうが、ムングの場合は、あのように他人に自分の異形の姿を見せて、堂々と生活することを選んだと、ただそれだけのことである。彼も自分が他人から興味の視線で見られていることは、当然承知しているだろうが、彼がそのことを少しでも気にしているのか、あるいは全く気にも留めないほど、自分の中で、警官に対する、ある種の熱意と興味が進行してしまっているのかはわからなかった。とにかく、彼は大きな体格に関わらず、非常に大人しい人間で、何か事件に巻き込まれても、大声で騒ぐとか、他人を非難するとかいうことができない人間であった。授業中に時々ボソッと先生の言葉に相槌を打つか、あるいは意味もなく反論することがあったが、それらはほとんどが一般の生徒ならわかりきっていることであった。つまり、彼は自分の知性を見せびらかすために呟くのではなく、抑え切れない衝動、おそらくは血統に含まれた特性なのかもしれないが、そういう他人に不快感を与えかねない特徴を持っていた。しかし、彼が授業中の大事なタイミングで、そのような独り言を呟いても、誰も陰口を叩いたり、非難するようなことはしなかった。うちのホームルームにそんな卑屈な生徒はいないのだ。タッサンなど、できる生徒は、「ムング、その通りだな」と合いの手を打ってやったりもした。彼の言葉が、教室内に嫌な空気を作り出さないように気を使っていたのだ。
 ここで、ムングが学校を休むことになったいきさつを説明しようと思う。とは言っても、取るに足らない事件であって、このことだけが彼を引きこもらせた原因ではないと思われるが、とにかくうちのクラスでは度々話題にのぼる話なので、知っておいて損はないと思う。
 僕らが二学生になった直後の5月頃、学内では、大勢のリベラル派の台頭と相まって、生徒会の行動を見張るための新たな組織を結成しようという動きがあった。ロドリゲスやラルセもこの動きにはかなり関心を持っていた。彼らも生徒会の支持者になるには抵抗があるとは言え、個人での政治的活動にはいささか限界があると感じていたからである。組織の他のメンバーと折り合いがつけば、そのグループに参加したいと考えていたようだった。もちろん、生徒会の不正を暴こうと言うのであるから、この組織自体が完璧な倫理と道徳によって運営されなければならないことは言うまでもない。いい加減な組織だったら、生徒会どころか、一般の生徒にも相手にされないだろう。
 この運動の中心にいたのは、リチャードソンという学生だった。彼はリベラル派の中枢にいながら、法や道徳を尊守する理念を持っていて、暴力によってではなく、話し合いによって生徒会から学校の運営権を奪還しようと目論んでいた。彼は他のリベラル派の同志と議論を重ね、組織を少しずつ大きくしていった。たった数ヶ月の期間で、その規模は数十人に及ぶようになり、生徒会も無視できないほどの勢力になっていたのだ。当然、運動の中心メンバーたちは、生徒会の密偵に見張られる毎日となっていたが、多くの同志はそんなことは気にしていなかった。組織のリーダーであるリチャードソンは真面目で温厚な人間であったから、彼のどこを突いても黒い埃は出て来ないと思われていたのである。春も終わりに近づく頃には、リチャードソンがいずれ現在の会長と並ぶほどの名声を手にして、次の生徒会長選挙に立候補するのではないかという噂まで流れていた。
 ところが、ある日、生徒会発行の機関誌にとんでもない記事が躍った。このリチャードソンが、学校の敷地内で小さい女の子数人とおままごとをしている記事だったのだ。生徒会の追跡調査でわかったことは、その行為が一度だけ成されたわけではなく、長い間繰り返されてきた彼の趣味だったのだ。リチャードソンは味方や他の陣営からの厳しい非難に耐え兼ねて学校を辞めることになった。ラルセはその記事を読んで激昂し、「メンバーに加わっていなくてよかったわ」と吐き捨てるように言った。自分の信頼を完全に裏切ったのであるから、もっときつい行動に出てもおかしくなかったのに、それだけの言葉で抑えた彼女は偉かった。ロドリゲスや他のリベラル派閥のメンバーも、あまりのことにショックを隠し切れず、この件についてのコメントを差し控えてしまった。生徒会の威勢は大波に乗り、この事件が起きてからは校内でのリベラル派の活動は大幅に制限されることになってしまったのだ。もちろん、リベラル派の間で、この事件のことを口に出すことはタブーだった。
 そんなある日、ホームルームのさなか、京介がクラスで持ち上がっていたある政治的な問題について意見を求められ、「それは、まるでリチャードソンみたいだな」と何気なく口に出してしまったのだ。その途端、教室内は静まり返った。ロドリゲスも珍しく怒りを表情に出し、彼を冷たい目で睨みつけたのだった。ラルセが慌てて、「じょ、冗談でしょ?」と取り直しを入れ、その直後に京介も自分のコメントについて不適切だったと謝罪した。そこでこの一件が終わっていれば何でもなかったのだが、そうはいかなかった。ムングがそのタイミングで突然立ち上がったのだ。彼は冷静な顔のままで教室の全員に呼び掛けた。
「なんで、今のコメントが悪かったの? 言葉を引っ込める必要がどこにあったの? リチャードソンの事件のことについて語りたかったんでしょ? なんで、京介は謝ったの? このままじゃ納得がいかないよ。誰か説明してよ!」
彼は機関銃のような口調になって議長に詰め寄った。彼はすでに怒っていたが、彼が怒り出したことに意味はなかった。それは、ある種の気持ちの高ぶりであり、きっかけが本当に京介の言葉であるのかも疑わしいが、それが顔に出ないだけなのである。普通の人間の場合は、興奮すると顔を徐々に赤くするので、感情の変化が読み取れるのだが、彼にはそれがなく、冷静な口調で淡々と同じことを繰り返すので、みんなはすっかり怖れをなしてしまうのだった。まるで自分の意見が、どんな時にでも、どんな重大な場所においてでも、最も重要なものとして取り扱われると勘違いしているかのようだった。
「俺が悪かったんだ。そのことは、もう、いいんだよ!」
京介は吠えるようにそう言って、彼を座らせようとした。事態の思わぬ推移に、彼も相当に慌てていた。しかし、ムングはすっかり興奮してしまっていて、こうなってしまうと、誰の言うことも聞かなかった。彼は後ろからどんなに呼びかけられ、責められても、議場の最前列から動かなかった。ここまで事がもつれてしまうと、事態は簡単に片付きそうもなかった。静かだった室内が荒れはじめた。時間を気にしだして、早く議題を進めたい一派と、ムングの意見に同調する一派が激しく言い争いだした。ムングの疑問がおかしく聴こえたとしても、それは一つの列記とした疑問なのであるからきちんと取り上げるべきだという意見もあった。そのうちに、さっきの京介の発言を蒸し返せという声まで起こって、議論はさらに紛糾した。そんなことをしたら、さらに多くの生徒を巻き込んだ騒乱になってしまうだろう。ここまで来てしまっては、肯定も否定もただの雑音になってしまっていた。狂乱して悶え苦しみながら一人で頭を抱える生徒もいた。みんなの喚く声にすっかり脅えてしまって、耳を塞いでうつぶせになる生徒もいた。後方で数人の生徒が立ち上がり、ムングを抑えつけようとした。事実、ここを乗り切るには、それ以外の解決策は無いように思われた。しかし、ムングは身体に触られると途端に野生生物のように興奮して、「俺に触るな! おまえら、何様のつもりだ! 今回のことをなかったことにする気か? そんなこと、許されないだろうが!」と叫んだ。女生徒のうち数名が立ち上がって、先生を呼びに行くと言って廊下に飛び出した。一人の女生徒がヒステリーを起こして立ち上がり、「今日のことは、卒業しても忘れないからね!」と口走り、みんなを脅して騒ぎを止めようとしたが、その言葉すら騒音に掻き消されて、誰の耳にも入らなかった。もはや、正しいも悪いもなかった。全員がルール違反を犯しており、全てが場違いであった。
 そんなとき、誰かが「あーあ、ムングのせいで、ホームルームが台なしだよ」と力なく呟いた。その声を聞いて、ムングは我に返り、場の混乱や、みんなの虚ろな顔を見回してから、自分のしたことの重大さを悟って肩を落とした。そして、会議を混乱させた責任を取って、荷物をまとめて静かに退場したのだった。
 その翌日からムングは不登校となった。彼が登校しない理由はわかりきっていたのだが、みんなも意固地になっていたので、しばらくは、彼を呼びに行く生徒はいなかった。先生も生徒同士のいがみ合いに介入するつもりはないらしく、生徒が一人欠けても、特に何の手立ても取らず、これまで通りに授業を進めた。ここで教師が間に入ってこのことを解決しても、決して生徒自身の成長には繋がらないだろうし、このことをバネにして、さらに大きな成果を掴んで欲しいと願ったのかもしれないが、これは一種の賭けだった。これまで一つだったうちのクラスに初めて大きな傷が出来た瞬間だった。
 以上が、ムングが数週間の間、登校できないでいた、大まかな理由である。まあ、この年頃の青年というのは、心の奥に一言では言えない、繊細なものを抱えているから、ひとたびそれがもつれてしまうと、立ち直ることは難しいらしい。彼に悪気があって会議で荒れたわけではないことは、みんながわかっていた。問題発言をして、きっかけを作った生徒も悪かったし、発狂した彼を止められなかった生徒たちも悪かった。最初に問題の発言をした京介などは、次の日からは、もう何事もなかったように学校生活を送っていた。ラルセも彼が来なくなったことを余り気にした様子はなく、「青年時代に、一度ああいうことを体験しておいた方がいいのよ。波乱のない学生生活の方がよっぽど毒になるわ。泣いて、泣いてね、戻って来る頃には一回り大きくなれるのよ」とうそぶいていた。他の生徒はこの話題になると、障らぬ神にとか、自己責任だとか、こういう時に使われるお決まりの文句をフルに活用して、なるべく、この問題に関わらず、一定の距離を置いているようだった。ロドリゲスはさすがにムングのことを心配していて、『みんなはもう気にしていない』だとか、『元気な君の姿が早く見たい』だとか、こういう事件が起こった際の常套句がいっぱいに詰まった手紙を書いて、何度か彼の部屋に送り付けたりしていたが、反応は無かったので効果のほどはわからなかった。
 事実として、ムングは失踪から三週間経った今日、立派に戻ってきた。その顔は少し引き攣っていて、まだうまく笑えないようで、あのことを気にしているそぶりはあったが、時折、吹っ切れたような笑顔も見せていた。彼が席に着くと、みんなで一斉に拍手を贈った。歓迎の拍手も、釣られて送られた拍手もあったが、とにかく全員がそれをした。まるで、ムングがこの場の主役であるかのようだった。ムングに握手を求めに行く生徒もいた。彼は照れながら何度も手を振っていた。
 講演会の方はと言えば、この間、ずっとストップしたままだった。エンフォード二世は、このことには無関係な自分を恨んで、なすすべもなく佇んでいたが、場内の騒ぎ声が一通り静まると、これをチャンスと見て、マイクを持って再び話し始めた。
「えーと、これですべての来場者が揃ったようですので、講演会を始めたいと思います。それではご紹介します。厳罰棟の所長を勤めていらっしゃいます、マリャベリさんです。では、所長、壇上にどうぞ」
そう紹介されて黒づくめの服装の女性がしずしずと演壇に上がった。彼女は一連の騒ぎや新手の登場があった間ずっと身動き一つしていなかったため、この薄明かりの中では彼女がこれまでどこに立っていたのか、本当に生徒の入場時からずっとこの室内にいたのか判然としなかった。彼女は司会の不手際とムングの登場で、長いこと待たされてしまい、機嫌は悪そうだったが、それにしても、来賓として呼ばれて来ている以上、不用意に怒りだすわけにもいかないので、その大きなえくぼの付いた細い顔は微妙な表情だった。出来るだけ、場を盛り上げてから演壇に迎えてほしかったところだろうが、その願いは叶わず、そろそろ自分がなんのためにここに呼ばれたのかも忘れている生徒すらいて、この室内は全く盛り上がっていなかった。それどころか、何か、不手際の多い生徒会に対する反乱でも起きそうな雰囲気だった。幾人かの生徒は演壇に上がった彼女をエンフォード二世の仲間として見ていて、険しい顔で睨みつけるほどだった。拍手を贈る生徒もいたが、今日の集まりの目的を覚えているのは、ごく小数だった。
 ミス・マリャベリはそんな室内の空気を読み取った上で挨拶を始めた。 
「皆さん、こんにちは、わたくしが厳罰棟の所長を勤めております、マリャベリと申します」
そう述べた彼女の顔はぶ厚い化粧で真っ白だった。年齢は40代後半といったところだった。黒いローブで全身を覆い隠していて、胸には銀糸で縫われた豪華な刺繍があった。占い協会から支給の非売品のようで、明らかに、自分は成功者だと言いたいがために、服装からして無理をしているのが見え見えだった。うちの学校の卒業生ということだから、占い師だということはわかるのだが、どの程度の技術を持っているかまではわからなかった。
「今日は『妥協の上に成り立つ成功』という演題で、皆さんとお話をしていきたいと思っています。私のほうで少しだけお話しをしますので、何か疑問がありましたら、どんどん質問してきてくださいね」
彼女はそう言ってから、会場中に笑顔を振り撒き、自分からいい雰囲気を作っていこうとしていた。あえてきつい態度で出て、生徒を脅して静かな状態を保ちながら、説教じみた話をするという選択肢もあったのだろうが、うちのクラスを手強いと見たのか、相当に妥協した態度であった。
「世の中には、成功者という人がいますね。誰も及びもつかない才能を持っていたり、お金や土地をたくさん持っていたり、有名人にたくさん知り合いを持っていたりする人のことですが、この世に人間として生まれてきたからには、そのように他人から羨まれる、最低でも嫉妬されるくらいの人間にならなければなりませんよね。そうでなければ生まれてきた意味が半減してしまいます。皆さんがこれからどういう半生を築いていけば、そういう成功者になれるかを、今日の私の講演から掴んでいただければ幸いです。何しろ、人生は一回ですものね。来世があっても、一度目で失敗する人は同じことをしでかしそうですよね。では、まず最初に成功とは何かということですけど、それは夢が叶うことでも、大金を手にすることでもない、明確な基準があります。それは現在の状況が、自分の願望を満たしているかどうかです」
彼女が講演の最初の話をしている間、僕の横でラルセがもぞもぞと動いていて、チョコをもう一つ口に運んだり、講演が始まってからの生徒会役員二人の表情を確認したり(おかしな動きがないか見ているのか? それとも、二人の連係が気になるのか?)、せわしなかったが、一度だけ僕の方に真剣な顔を寄せてきて、「これは、相当につまらない会になるわよ」と耳元で囁いてきた。
「ところで、厳罰棟をご存知の生徒さんはどのくらいいらっしゃいます? ちょっと手を挙げてもらえますか?」
マリャベリさんがそう言うと、数人の生徒が弱々しく手を挙げた。その後でムングやロドリゲスも手を挙げた。ラルセはこのタイミングで、ステージの横で見ていたエンフォード二世にピースサインをして見せていた。彼は突然のことに困ったような顔をして、不自然な対応を見せたが、慌てて目を伏せた。これまでこの二人の間にどのようなことがあったかと、彼がラルセにどのような感情を持っているのか、ここで説明する必要はないと考えている。

「そうですね。ご存知ない生徒さんも多いと思います。まだ、皆さん、お若いですものね。厳罰棟というのは、犯罪は犯していないけれども、心の中が、思想的に凝り固まってしまって、他人からの助言や忠告を一切聞けない状態に陥ってしまった人を、生涯に渡って拘留する場所なんですよね。誰でもそう聞くと、行政の冷たさを感じたり、一方的に拘束するのは残酷だと思うようですけど、この処置は、そういう他人と交われないような人たちが、大手を振って町を歩いていたら、市民が余計に困るからですよね。そこで、今現在、何人くらいの方がそこに入っていると思われます? 意外と多いんですよね。二百三十人ほどをここに収容しています。皆さんは、もう少し多いと思われてましたかね? でも、実際には、世の中の不道徳な心得を持つ人というのはそのくらいなんです。あまり増えたり減ったりもしません。ほとんど収容者の数は一定ですね。収容されるに至る理由は人により様々なんですけど、何人か紹介しますと、ある人は、映画館で映画を見終わった後に席から動かなくなってしまいました。何でも、自分は神の生まれ変わりであるとか、自分が長時間座ったことによって、この席には神の威徳が染み付いたとか申されまして(映画の内容は宗教や神に関することではありませんでしたので、彼が言い出したことと関連はないと思われます)、警官隊が来るまで、丸一日そこから動かなかった方がいました。
 別の例を挙げますと、この方は中産階級が多く住まわれている中央区に住んでおられるのですが、食いぶちを失ったために、毎日食うや食わずの大変な貧困にありまして、査察によって、これでは中央区に居住する資格がないということになりまして、行政の命令によりまして、サウズヘルズ地区に住居を移転しなければならないはずのご身分でしたが、そこから行政の命令に執拗に逆らい始めまして、なかなか転居をされなかった方。この方は、自分はまだ夢を見ているだとか、今はこんな情けない身分だが、これから自分の想像の通りに人生が進んでいけば、ここからでも(すでにその方は50代のお歳でしたが)お大尽になれる可能性はあるだとか申されまして、迎えに行った役所の職員は、人間の成長力の限界というものを良くご存知の方でしたから、あなたの力では、この位置からはい上がることはもはや無理だと、優しい口調で説得にあたりましたが、その方は顔を真っ赤にされて反論をされまして、それはもう気がおかしくなったように、その譲らない話を延々と三時間も聞かされる羽目になりました。例え、そんな途方もなく低い可能性で、彼の成功が起こり得るとしても、そんなものをいちいち計算に入れていたら、政治も行政もはかどりませんものね。ですから、そういう聞き分けのないお方には厳罰棟でですね、もう一度人生のお勉強をしてもらうことになります。この施設の話をしますと、すぐに横暴だとか、人権侵害だとか、そういう言葉を投げてくる方がいるんですけど、逆にお聞きしたいのですが、そういう聞き分けのない方を世の中に放置しておいたらどうなると思われます? それは巡り巡って皆さんが嫌な思いをされるんですよね? 非難される方も街でそういう人に絡まれて、時間を無駄にするなりして、ご自分の人生が被害に遭われれば、すぐに悟ってくれるはずなんです。ですから、まともな大多数の人間の生活を守るために、厳罰棟のスタッフは、これからも粛々と活動を続けますし、言い換えれば、この機関は、この国をさらに住みよい世の中にしていくための見えないごみ箱という言い方も出来ますよね。聞き分けのない方を皆さんの目に見えない場所に隔離して教育し直して、それでも矯正が無理なら一生を棒に振ってもらう。ここはそういうシステムになっているんですよね。誰でも、どんな思想を持った人でも、平等に暮らしていいなどと申してしまいますと、実際問題として、どんなに住みにくい世の中になってしまうことかわかりません!(ここは少し興奮気味に身を震わせて) そういう方たちの脳内から溢れ出した得体の知れない病原菌が周囲にばらまかれて、不条理が蔓延してしまいますと、それこそ、社会全体が腐ってしまって目も当てられませんものね。目先を少し変えますと、犯罪というものは未然に防げるかもしれませんね。高度に発達した教育や、都市に充実した警察組織があればそれは可能なんです。しかしですね、聞き分けのない人の無用なトラブルというのは、警察には防げないものなんですよね。刑法にはそこまで踏み込む力がないからですね。まあ、言い方を変えれば、教育がそこまで進んでいるからこそ、このような方々が生まれて来られたとも言えますよね。警察は怖いから犯罪は起こさないけれども、いつの間にか自分だけの思想に取り付かれてしまって、道徳や法を無視するようになって、縦横無尽に動き回り他人に迷惑をかけるようになる。そもそも、犯罪に振り回されている国などでは、我が国の厳罰棟のようなシステムは出来ないわけです。まず、警察の仕組みを発展させる必要があるわけですからね。あくまで犯罪の根絶が優先事項です。この仕組みは、いわば、犯罪の少ない社会に、それでも沸き立つ不愉快を未然に防ぐシステムとも言えるんですね。皆さんも不愉快のない社会の方が良いと思いますよね?」
そこまでの話を聞いて、みんなの反応は様々だったが、今のところためになると思っている生徒が半分。おかしな雲行きだぞと思っている生徒が半分といったところだった。この段階でどうですかと質問を投げ掛けられても首を捻っている生徒の方が多かった。
「そういうおかしな人達を、学生時代に矯正出来なかった教育機関にも責任はあるのではないですか?」
どこからか、そんな質問が飛んできた。それはいかにも、まだ、社会の汚さというものを知らない無垢な学生から飛び出して来そうな青臭い質問だった。面白い答えが返って来そうにない、退屈な展開が予想されたが、何人かの生徒があくびをしたり腕を組み直したりして不満をアピールしただけで不満を口にする生徒はいなかった。講師はにこやかにその質問に応じた。自分が予想していて、待ち望んでいた質問であったらしい。

「ところが、一概に教育や行政の責任にもできないんですよね。これまでのサンプルを見ていますと、学生の頃はまともだった人が、学業を終えてから、もうグネグネに捻くれてしまうということもありましたのでね。それに、例え、学校内にそのような不審な学生さんがおられたとしましても、先生方に言わせると、それはすべて若さのせいになってしまい、社会未経験のなせる業になってしまい、きちんとしたお説教や折檻が行われない傾向にあるんですよね。無責任な話ですけど、これは仕方ない部分もあります。私立でもなければ、先生方だってそこまで個人の性格の矯正までは責任を負いかねる部分がありますものね。家庭と二人三脚だ、などとよく言われますが、どちらにしても無責任な話ですよね。我々の研究では、どうやら、血統にも何か手がかりがありそうなんです。厳罰棟に入所している人の家系を調べていくと、三親等以内に必ず入所経験のある人が見つかるんですよね。こればかりは、カエルの子はカエルというような簡単な仕組みにはなっていませんが、それでも、幼い頃の習慣や、生れついた家庭環境が悪癖を生み出す一因にはなっているかもしれませんね。血統以外にも、疑わしいのは、夫婦関係ですよね。なぜか、夫婦で揃って入所されている方もおりますので、おかしな夫の生活を追いかけているうちに、妻の方まで、知らず知らずの内に自分まで洗脳されておかしくなってしまうということはあるようです。奥様方の中には、自分の夫は神だと慕う方もいらっしゃいますのでね。もちろん、結婚した当初からお互いにおかしな人間同士で、変な者同士だから出会ってしまったというような、類は友を呼ぶパターンということもあるようです。これはもう、笑えない話になってしまいますけどね」
そこで、グリーンという名前の真面目な男子生徒が高だかと手を挙げて質問を要求した。彼には、少し目立ちたがりなところがあるので、ここで発言しておくことによって、クラスでの自分の地位を高めるための、何らかの狙いがあるのかもしれなかった。
「そこに入所させるからには、簡単な判断は出来ませんよね? 血縁や犯罪歴ではなくて、普段の生活の中から、おかしな行動を見つけていって、そういう聞き分けのない人を個別に探していくしかないわけですか?」
マリャベリさんは飛んできたその質問に大きく頷いた。これも彼女の答えやすい質問であったようだ。
「それはその通りです。しかし、そう難しいことでもないのです。そういう不道徳な人の見分け方はきちんとあって、自分の心の汚さや嫌らしさは、どうやって隠そうとも、必ず行動に現れるものですからね。実は、そういう人を見つけるのにさほど苦労はいりません。さらに言えば、先ほども申しました通り、類は友を呼びますから、一人おかしな人を見つけたら、まずはわざと捕まえずにおいて、行動をじんぐりと追っていけば、数日も経たない内に、必ず仲間のところに行きますから、そこで一網打尽という手もありますね。社会というのは不思議なもので、どんな変わった人達も、一人で生活を続けていくことは困難で、そういう人達でも、必ず仲間を探して動き回るんですよね。自分のおかしな性格を他人に見てもらって、それを少しずつでも晒していくことによって興奮を見つけ出して喜んでいるのかもしれませんね。もちろん、そういう連中が群れだすというのは危険信号ですから、繁殖させた以上は、仲間も含めてきちんと捕獲しなければいけません。卵でも産まれてしまったら目も当てられませんものね。すぐに職員を派遣して自宅のドアを強くノックします。ドンドンってね。その後で大声を張り上げます。大きな声というのは不心得者を脅えさせる効果があります。我々は法務局の者です。ぶしつけですが、身柄を拘束させて頂きます、とね。ところが、捕まった時は、これは不思議なことなんですけど、皆さん、相当に落ち込まれて、『しまったー』という顔をなされるんですよね。つまりですね、この発言は、自分が行政に目をつけられる存在であったことを事前に知っていたことになりますよね。『あなたたちは、誰ですか? なぜ、ここへ来たんですか? なぜ、私を逮捕しようとするんですか?』これが罪悪感を持たない一般の人間の反応ですよね。不心得者にはこれが出来ないんです。つまり、これを上手く解釈すれば、心に罪悪感を持っている人間を探して捕まえていけばいいということにもなりますよね」
その時、ラルセが僕の胸にそっと片手をあてて、心音を聞くようなそぶりをした。僕もそういう不道徳な人間なんだと思わせたいようだった。僕は慌てて彼女の手を払って舌を出して見せた。ラルセの態度は、今日はなぜだか落ち着きが無いように見えるのだが、それは一見、会場の入口でクレモネを見たことによって数日前の興奮が再燃したのかもと思わせた。しかし、彼女の眼前を一緒に通った時には何の反応もなかった。クレモネさんをまるで観光地の置物を見るような目で見ていて、動揺もなく本当に自然な態度だったのだ。この時期の女生徒の気持ちを判断するのは難しい。競馬で牝馬のレースの方が格段に予想が難しいように、人間も女性同士の方が力関係を量りにくいのだ。特に、ラルセのような無邪気でありながら、一種の霊感を持ち合わせているような人間の心を読むことは難解である。彼女は物事を単純に捉えることはないようで、ちょっとした生徒同士のいさかいやその後の仲直りを見たとしても、そのこと一つに憶測を交えた単純な結論を言い添えるようなことはせず、その背景にある若者の心情のゆったりとした変化やその時代ごとの特徴などを見出だし、人間関係の構築や破壊の一つ一つをその大きな器量を持って見定めているようなところがあった。その彼女の心情を読むというのは、雲の間から今まさに降り落ちた雪の結晶が、これから広大な地上のどこへ着地するかを当てるようなもので、または、春先の爽やかな風が飛ばした、たんぽぽの綿毛を追いかけていって指先で掴むようなもので、女性との付き合いにはほとんどの場合運が絡んでいる。雑誌やテレビなどで、男は恋愛が下手だとかはよく言われることだが、それは男同士の付き合いと同じような軽い感覚で女性の気持ちを量りかねてしまうからではないだろうか。感性で行動するからか、それとも妥協を知らないからか、とかく女性の心を掴むことは難しいが、女性同士の付き合いの深遠を知ろうとすることは、それにも増して無謀なことである。先に言っておくと、僕はそういう女性の気持ちを読むのが極めて下手な人間だから、こういうことを偉そうには語れないのだが、今日見たところでは、クレモネさんとラルセの関係は、あのビンタ一発によって、元のさめざめとした関係に戻ったように思われた。あの時の複雑な心情のまま、リベラルと保守のお膝元という、熱い敵対関係を保って生活を続けるのではなくて、元の鞘に戻ったとでもいうのか、お互いがあまり意識しない元の関係に戻ることを望んだということなのかもしれない。ただ、二人の間に長い間続いて来た冷戦は、今日になっても断続的に続いていると思われる。
 ラルセの注意力は講演者の方に全く向いていなかった。今も、彼女は講演者の方ではなく、首を左側に寄せて窓の外の景色に気を取られているようだった。どうも、講演会の方には集中出来ていなかった。無関係なのに巻き込まれた彼女にとってみれば、元々興味のないイベントなのだろうが、そんな意味のないイベントに参加する時でも、これまでは集中して、どこかに意義を見出だそうとしていたことを考えると、今日の態度はなおさらおかしいものに感じられた。そんな彼女の心情を反映してか、まだ陽は照っているはずの時間なのに、窓の外はすでに薄暗く、雲行きはずいぶんと怪しかった。風もぴゅーぴゅーと強く吹いていて、時折、強風が窓をギシギシときしませていた。他の生徒は一応は講演に気を取られているから、そんな窓の外の天候の変化には気づいていないようだった。しかし、ラルセはまるで天気占いでもするかのように、そんな窓の外の空気の流れ方をじっと感じているようだった。僕には、彼女のそんな心をくすぐる横顔が、何かを待っているかのように思えた。彼女は一瞬窓の外から目を離して、会場の一番後ろ、クレモネとエンフォード二世が並んで立っている方をちらと見たが、それでも一度見ただけで目を離し、何を確認したかったのかはわからず、表情は厳しいままで、再び僕の耳元に顔を寄せた。 そして、「嵐が来るわよ」と一言だけ呟いた。その目は真剣なようでもあり、何かを楽しみに待っているようでもあり、憶測になるが、生徒会のここまでの失態をあざ笑っているようにも見えた。
「嵐だって? それは天候のこと? それとも、生徒たちの心中が吹き荒らされて、これから人間関係が崩壊していくという意味?」
僕は彼女の目を見て、真剣にそう聞き返した。彼女はすぐにつまらなそうな顔をして僕から視線を外した。僕の凡庸な言葉は、さして興味をそそらなかったようだ。
「それは、どっちも同じことでしょ? どちらにしても、今日は無事には済まないわよ」
彼女はそれだけ言うと、講演者の方に向きを直した。これ以上、多くを語るつもりはないようだった。ただ、天気占いの大家であるラルセが嵐が来ると言うなら、それは、天候だろうが、人間同士の争いのことであろうが、この短い時間の中で必ず起こるということであり、僕も必要以上の緊張感を感じないわけにはいかなかった。そんな運命が後に控えていることを露知らず、講演者のマリャベリさんは堂々とした態度で話を続けていた。

「私のこれまでの経験では、どのような不届き者も、捕らえられてからの数日間は、まるで何事もなかったかのように、ヘラヘラとしていますね。自分の犯したことを、どんなに厳しく追求されても、笑みまで浮かべながら受け答えをして責任など何も感じていないようです。まあ、この辺りの反応は強盗などで捕まった凶悪な犯罪者と一緒ですが、彼らにも罪悪感はないでしょうし、これから起こることもわかっていないのですから、開き直るのも仕方ありません。しかしですね、この後の展開で、裁判所の判断によって厳罰棟行きが決まってしまいますと、どの囚人さんも決まって騒ぎだしますのでね、やはり、こんな方たちにも心の器の一番奥底に積もり貯まっていた最後の恐怖感というか、人生の末路まで続く縛りのようなものはどうやらご存知のようで、皆さん、腰から下がガクガクと震えて来るようですけど、ふふ、こんな人達にも我が機関のことが知れ渡っているというのは、大変光栄なことですね。
 厳罰棟はこの学校の東南にあるシャズラ山のふもとにありまして、戦中は防空濠として使われていたようですけど、今も中には火薬ですとか銃器の類が保管されています。今後も一度大災害が起これば使用される見込みですし、数万単位の住民をこの中に避難させることも出来るわけです。入口は数人がかりでしか開かないような金属製の大扉に仕切られていまして、それこそ、外界の澄んだ空気と内部の薄汚れた空間を仕切っているわけですが、その門まで連れて来られますと、どの不心得者さんも必ず辺りをキョロキョロと見回して不安そうにされますのでね。係員から、『さあ、大人しく中に入りなさい。もう、じたばたしてもどうしようもないんだからね』と言われて、ようやく促されるままに中に、不安そうな面持ちのままで入って行くわけですね。そうしますと、耳を揺さぶるような轟音がしまして、門が閉じられますけど、もうこうなってしまいますと、例え何があっても、この処置が何かの手違いであったとしても、外へ出ることは叶いませんのでね。その瞬間に涙を落とされる方もいるようですけど、さすがにこればっかりは自業自得というものですのでね、これまでのご自分の行いというかですね、身勝手極まりない行動が招いた結果ですのでね、嘆くのは勝手ですけど誰も同情することは出来ないんですよってわけですね。地下空間ですので中はひんやりとしていて、夏場はありがたいんですけど、冬場はそれはもう冷えますのでね。初冬になりますと、小煩い人権団体などから非難の声があがる前にストーブでも設置してやらなければならないわけですね。内部は細長い通路によって幾つもの区画に分けられていますが、廊下に備え付けられた蝋燭の明かりだけを頼りに進んで行きますのでね。廊下の煉瓦造りの壁は薄明かりに照らされて薄緑色に光っていまして、それがなおさら旅慣れていない囚人たちの郷愁を誘うようですけど、『どうやったら、もう一度外に出られるんだ』なんて、この段階になってから、尋ねてこられる方もいるようですけど、ふふふ、子供っぽいですよね。すべては過ぎたことですのでね。この段階になってしまうと、刑罰はズンズンと前に進んで行くしかありませんのでね、私も投獄許可書にグイッとハンコを押しますのでね、ここは悪者らしく覚悟を決めて欲しいところなんですが、このような施設に隔離されてしまうような人達ですから、こちらから、そのような堂々とした態度を期待するほうが間違っているかもしれませんね。
 これは最近になって投獄された女性の話ですけど、以前は『祭荒らし』なんていうことをやっておられた方で、なんでも、近くの町でお祭りが始まると、決まってそこに出かけて行って、「ラッパの音がうるさい」だとか、「子供の騒ぎ声が気になって眠れない」などと主催者にいちゃもんをつけるそうですね。責任者が蒼い顔をして出てくると、それはもう凄い剣幕になって脅したてて、これはもう、白目をむいたり、理解できないような野鳥のようなキンキン声で騒がれましてね、相手がお金を払うまでは引き下がらないという、そういうことをやっていたわけですよね。こういう人もですね、普段から性格通りの悪事を働いて下さいますと、警察の方でも早いうちから動きが取れるんですが、何しろ、日常的には大人しくされていまして、お上の目につくようなところは何一つ無いんですが、いったん祭が始まりますとね(どういう経緯で日程を調べているんでしょうね)、途端に町に繰り出して来て大暴れされますのでね、この辺りの行動力は理解できない部分もあります。まあ、ある意味で、この方も祭を楽しんでいる一員なんでしょうが、それにしても、このまま放置しておきますと、祭の進行の妨げになりますし、こういう、どうしようもないいさかいを見てしまいますと、子供の教育上もよろしくありませんのでね、住民からの通報によってですね、今年の夏にお縄にかかってしまいました。彼女も厳罰棟に入ることになりまして、入る直前まではそれはもう元気にしておりまして、どうせつまらない人生だったからとか、私は食い物さえあればどこに連れて行かれても平気だとか、平然とした態度でそんなことを申されてまして、笑っておられたんですが、厳罰棟の門をくぐって数分も経たない内に表情が曇ってしまいまして、こういう方でも人生が追い詰められたとわかると、それまでの無法がもう出来なくなると、自由に町を出歩くことができないとわかるようでして、突然、通路にしゃがみ込まれて涙を落とされましてね。『もう一度、外の空気が吸いたい』などと図々しく申されますのでね。どこへいても無遠慮に駄々をこねる様はまるで赤ん坊のようなんですね。この段階まで来て、ようやく後悔という念が、むくむくと頭をもたげて来ているわけですね。逆に言えば、世間の目に触れさせたくもないような不心得者を改心させるには、世間に用意されている並大抵の手段では駄目ということで、結局は、厳罰棟まで連れて来なければいけないということなんですよね。口で言えばわかるだろうなんて申される方もいますが、実際のところは説得なんか生易しいわけです。
 囚人によっては『今度こそ改心するから』とか『外に出て、今度こそ人の助けになるようなことをしたい』だとか申されますけど、それはもう手遅れですのでね。悪人の口から飛び出す出まかせなんて、こっちはもう聞き慣れてますよってわけですよね。その祭荒らしの女性には、こちらから、『もう二度と外へ出すつもりはない』と冷たい口調で言ってやりましたが、そうしたらもう、狂乱したように係員のシャツにしがみつきまして、ワンワン泣かれますのでね。まあ、こちらとしても、この瞬間を迎えることがですね、この厳罰棟の存在意義という気もして、いい心持ちになりますね。何しろ、こうまでしないと、悪人の汚された心中の、さらに一番低いところ、底辺のさらに下の地下水脈を流れていたような後悔の念を、現実の世界に引き出してやることは出来ませんのでね。世間の人からは、『そこで許してやって外に出してやれば?』なんて声もあるようですけど、実はそれは出来ないんですね。何と言うんでしょうか、許してやるのは簡単なんですけど、私の身体にも親譲りのサディスティックな血がほんのりと通っているようでして、そういう罪人の懺悔のような、悔恨の言葉を聞きますと、無性に、ある種の喜びが湧いて来まして、それが濁流となって、この(通常の快感にはすでに飽き飽きした)心を打ち震わせるんですね。それは、自分というものが、これまで罪を犯さずに真っ当な道を歩いて来れたことへの優越感とか、その罪人への姿形や態度への嫌悪感とか、そういう複雑な心情が練り合わさって湧いて来るのだと思われますけど、とにかくですね、私としても、捻くれ者をここまで悔恨させることが出来たのだから、もう元へは戻って欲しくないなという気持ちがふつふつと湧いて来るんですね。さらにさらにと厳しく刑罰を進めていこうなんてね、思ってしまいますね。だいたい、この厳罰棟に来られるような方は、例えば、当局の許可が出た場合に限り、相当な模範囚に限ってですけど、外に出して差し上げることも出来るんですが、そうすると、不思議なことに、ほんの数日でまた元の自分に戻ってしまわれますのでね。外へ出られた開放感によって、恐怖感が失われてしまいますと、すぐにまた昔の自分を思い出してしまうんでしょうけど、そっちがそうくるなら、こっちもそれは出来ませんよってわけですね。つまり、戻ってきた時に、前より厳しい規則で縛り上げてしまうわけですね。外出させることによって、囚人の心の底が見えたなら、今度こそは徹底的に追い詰めていくわけです。
 そうしますと、今度は恩赦なんていう言葉を持ち出されまして、それがいつ発生するのか、なんて恥ずかしげもなく尋ねて来られますのでね。これは我々も嫌われたものです。世の中をあれだけ軽蔑して、道徳や人心を侮るような行動ばかり取られていた方が今度は恩赦、こっちに恩情をかけてくれとせがんでくるわけですね。これはいけません。せっかく、厚顔無知な態度を誰に咎められても続けてこられて、この厳罰棟まで辿って来られたんですから、もう少し、のんびりとしていらっしゃったらどうですか? なんて逆に聞きたくなってしまいますけどね。その女性も、厳罰棟に来てから数日も経たない内から、もう、恩赦なんて言葉を口に出すようになってしまいましたけれど。いえ、この瞬間にいつも思うのは、恩赦なんて小難しい言葉を、いったい、どこから聞き付けてきたんだろうってことですよね。世間で自由に生活を営まれていた時も、心の奥では自分がいつかは自由を拘束される身分になるということがわかっていたんでしょうかね。それならたいしたもんですが、どうもありそうにないですよね。テレビのニュースなんて見ようともしない人達ですし、こればっかりは憶測になってしまいますね。ところが、残念なことに、恩赦というものが、これが本当に滅多に出ないんですね。もう驚いてしまうくらい、ため息をついてしまうくらい出ませんね。ですのでね、皆さんも学生の身分にあって、今自由を謳歌されてますのでね。どうか、このまま鉄路の上をしっかりと歩まれて、悪いことをなさらずに、この自由な空気をいつまでも吸い続けていただきたいと思いますね。悪いことはできませんね。厳罰棟に収監されている囚人さんたちは、多かれ少なかれ、みんな後悔していますのでね。これまで、無軌道な人生を歩んできてしまったことをですね、今になって、ことさらに後悔なされるんですよね。棟の中は夜になると、囚人さんたちの泣き声がワンワンと響いていますのでね。
 ちなみに、恩赦というのはこの国で大きなお祭りや行事があるときに大統領の気分次第で出ると言われてますけどね。これがもう、本当は伝説なんじゃないかと思うくらい出てませんのでね。最後に出たのが、もう二十年も前の話になりますのでね。しかも、解放されたのは真面目に5年以上刑期を勤めた方数人だけですね。その祭荒らしの女性にもいくら待っても無理ですよと、そのように伝えましたら、相当に落ち込んでしまわれましたけどね。ようやく、ご自分が今どのような状況にあるのかがわかって頂けたわけですね。私は執務室でその落ち込んだ顔と対面してですね、たっぷりと優越感に浸らせてもらうわけですよね。私が厳罰棟に勤めたいと思ったそもそもの動機が、実は囚人の意気消沈する様を見たかったからなんですよね。これまで人々に迷惑ばかりかけてきた方々が、人生を追い詰められてくるとどういう態度を示すのか、なんて、私のような性格でなくとも興味のあるところですよね。つまりは、ざまあみろという話なんですよね」
講演者が半ば興奮気味にそこまで話した時、予想通り、場の空気は相当に凍りついていたわけだが、それでも、当初の雑然とした雰囲気から考えれば、みんなの話を聞く姿勢は相当に紳士的だと言えたし、目立った非難の声や妨害するような掛け声も聞かれなかった。僕の前に座っている女生徒が何度かクスクスと笑っていたが、これは、講演者の話の内容にではなくて、その顔面の化粧の濃さに起因したものだった。
「ね? まともじゃない話を延々と聞く羽目になったでしょ?」
ラルセが正面を向いたまま、そう尋ねてきた。
「うん、厳罰棟の所長さんだから、やっぱり保守層の中でもそういう人が選ばれるのかなあ。どうも、一般人の思考とは違うみたいだね」
「あんたねえ、生徒会がゲストに迎えるような人を信じちゃだめよ。あなたはよく私やブエナの性格について、女性らしくないって不平を漏らすけど、世の中は端まで見渡せば、ああいう人もいるのよ。女性がみんな心のきれいな人ばかりだと思っちゃダメなの。男と話すときにヘラヘラとへりくだって話す女性に限って、内心はもう臭いも嗅ぎたくないくらいに腐っているのよ。それが現実なの。この国も上へ進めば進むほどにあんな女ばっかりよ」
「そういえば、ラルセも…」
僕がそこまで言いかけた時、窓の外がピカッと光った。続けざまに雷光が二度三度と室内を明るく照らし出した。これから激しい雷雨になる前触れだった。ラルセの顔が再び窓の外に向けられた。ただ、不安そうな顔には見えなかった。彼女は当然起こるべき成り行きを見守っていくつもりらしかった。突然の雷鳴に、生徒の中の何人かが驚きの声をあげた。
 すべてが終わってしまった後から考えれば、この日は学内の生徒にとって特別な日ではないかと思われるほど、宿命的な出来事が多く起こっている、それは、講演会の日程が今日に設定されたこと、ムングが現れたこと、シュレッダーが壊れて会長がこの場に来れなくなったこと、天候が荒れ模様になったことなどだが、これから起こる大きな騒乱は、このいくつかの運命的な出来事に支えられていると言えなくもなかった。これらの条件が揃っていなければ、案外、講演会は円滑に進んだのではないだろうか。
 とにかく、この瞬間にまず起こったことは、一人の女生徒、会場の左側、僕らの逆側の窓際に座っていた、ひょろっとして背の高い女生徒が突然立ち上がったことだった。
「ダメよ! この講演会を続けちゃダメ! 早く家に帰らないと!」
彼女は甲高い声でそう叫んだ。その目はカッと見開かれていて、何かにとりつかれたようだった。みんなの目が彼女の方へ向けられた。彼女の名前はアリアといった。口数の少ない、大人しい生徒で、クラスでも目立つ存在ではない。賑やかなうちのクラスに馴染めていないといった方が適切かもしれない。長い付き合いの中でも、彼女の生態をほとんど知らない生徒も多いと思われる。なぜ、彼女がこの時に立ち上がったのかということを書き留める前に、彼女がどんな生徒なのかを説明しなければならないと思う。

10
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20


アラブ系千葉文庫へ戻る