目次
1ページ試験の結果
2ページ京介の不調・ラルセの星占い
3ページ新入生歓迎式
4ページガンボレ祭前日の買い物
5ページガンボレ祭その後(一)
6ページガンボレ祭その後(二)
7ページガンボレ祭その後(三)
8ページガンボレ祭その後(四)
9ページサフラン先生の薬品占い
10ページ生徒会総選挙数日前(一)
11ページ生徒会総選挙数日前(二)
12ページ生徒会総選挙数日前(三)
13ページ厳罰棟所長の訪問(一)
14ページ厳罰棟所長の訪問(二)



 そして、ついに僕らはりんごの木商店にたどり着いた。もはや、脳は混乱を極めていて何から手をつけていいかわからなかったが、事件の真相を知らずに生きていくよりかは、多少、漠然としていても結果を知ることができるほうが幸せに決まっている。もうこれ以上不可解な事態は発生しないだろうと思っていたが、商店のドアの前には見たこともない女性が立っているのが見えた。背の高い白人の若い女性だった。ジョウロとホウキを手に持っていたが、近くに花壇は無く、空が真っ暗になったこの状況で、汚い通りをいまさら掃除するわけはなく、極めて不自然なスタイルだった。
「こんばんは、皆さん遠くまでようこそ。お待ちしておりました」
その女性は静かな声でそう言って深々とお辞儀をしたが、その言葉に少し外国訛りが入っていた。
「あなたは誰ですか?」
僕は無表情でそう尋ねたが、冷静に考えてみると、この言葉は人が生きていく中でそれほど頻繁に使われる言葉だろうか? 人間同士の大抵の出会いの場合、目の前の相手がどこの誰であるかは、おおまかにでもわかっているはずで、わざわざこのような言葉で尋ねる必要はないのだが、僕は今日だけでもう三回以上この台詞を使っているような気がする。僕にはこの女性がどこの何者であるか、皆目検討がつかなかったのだ。
「私はマリアンヌと申します。皆さん、こんな夜遅くまでお疲れ様でした」
「あなたはこの商店の関係者ですか?」
「そういうことではないのですが、皆さんにお伝えしたいことがありますので、この場でお借りしてお待ちしていました。夕方頃にお着きになるということは聞いていましたので」
厳しい質問にも、その女性はほとんど顔色を変えることがなかった。まるで、答えがあらかじめプログラムされたロボットのようだった。
「なぜ、僕らを待っていたんですか?」
「皆さんにお話したいことがあるからです」
「そうですか。でも、僕らは昼間からこの町を誰も予期できぬほど長い時間をかけて遠回りして歩き回ってきたので、もうかなり疲れています。とりあえず、商店の中へ入れてもらってもいいですか?」
「お待ちください。実はそれができないのです」
「なぜです? 中へ入れてもらえないと、あなたの話を伺えないのですが」
「私が皆さんをお待ち申し上げていた最大の理由が、『皆さんをこの家に入れることができない。そして、家の中をお見せすることができない』ということを伝えることなのです」
「それはあなたの意志ですか? もし、あなた自身の意志だとするならば、こちらにはこの地区の保安官のビヴラータさんがいます。ビヴラータさんには我々がなぜこの商店に来なければならなかったのかを詳細に説明してあるのです。ですから、あなたの言葉にこの保安官さんを納得させるだけの理由がないと我々の商店への侵入を妨げることはできないはずです」
ビブラータさんは僕の発言に力強くうなずき、後押ししてくれた。
「いえ、あなたがたをお止めしたのは私の意志ではありません。この家の管理人の意志です」
僕は一度会話を止めて、頭をポリポリと掻いて、脳をいくらか整理して質問を続けた。 「管理人というのはこの商店の経営者のおじいさんのことですね?」
「はい、その通りです。私などは、彼をブレゴール三世などとお呼びいたしております」
じいさんはそんな王族のような名前だったのかと無理に納得しながら、僕はこの不可思議な女性への質問を続けた。
「では、次の質問をさせて下さい。友人に聞いたところでは、あなたはこの商店のおじいさんの娘さんということですが?」
「いいえ、私はブレゴール三世の娘ではありません」
予想通りの答えだった。この清楚な顔立ちの女性があのじいさんの四親等内の血縁関係だとは思えなかった。では、なぜこの女性はここにいて、この一件に関与しようとしているのだろうか。
「ここにいる京介の目撃談では、ガンボレ祭の最終日のパレードの際にあなたはこの場にいて、この商店に害意をもって迫ってきた住民たちと何か話していたということですが、それは正しいですか?」
「はい、その認識であっています」
「そんな切迫した状況で、じいさんと血縁関係のないあなたが殺気立った住民たちといったい何を話していたのですか?」
「そのことを説明して差し上げるのはさして難しいことではありませんし、それをお話しすることが、ここまで長旅を続けていらっしゃった皆様のお心を慰めることになるのであれば、喜んで説明して差し上げます。ただ、物事には順序というものがございます。私も多少複雑な経緯を経て、この店でおじいさんと仕事関係を持つことになりました。つまり、あの夜起こったことの結果だけを端的に申し上げましても、皆さんに十分に納得して頂くことは難しいと考えます。そこで、私なりに、私がいったい何者であるかということも含めて、ことの経緯を始めから詳しく説明して差し上げたいのですが、それでよろしいでしょうか?」
その女性は少し早口で淡泊な口調でそう言った。
「さっきも一度言ったかもしれませんが、今日はいろんな種のおかしい人たちに振り回されてしまって、みんな、もうかなり疲れているので、なるべく理屈っぽい話は勘弁していただきたい。できれば手短にお願いします」
身体中がだるくて、返事するのも面倒であったが、僕は無理だろうなと考えながらも、そのような答えを練り上げた。
「はい、それでは皆さんの心労のことを考慮に入れまして、できるだけ手短に今回の一件について説明して差し上げたいと思います。私が考えるところでは、世の中には二種類のタイプの人間が存在しておられると思います。他人の言うことを素直に聞き、誰とでも仲良くなれる穏やかな性格で、適当な時期に適当な発言をすることができ、人生を器用に渡っていけるタイプの人種がまず一つです。もう一つのタイプの人種がありまして、私の存在意義を確立するためには、こちらのタイプの方が重要なのですが、他人の話に全く耳を貸さず、不器用で世渡りができず、恋人も友達もいないので世間との関わりがほとんどなく、良い仕事もお金も持ち合わせないために町に買い物にも行けず、市民社会と疎遠になってしまっている寂しい人種です。この店にお住まいのブレゴール三世はそのようなお人であったと考えています。それとは別に、私が何者であるのかというご質問がありましたが、私は、このような世間から隔絶されてしまった人達のために、その人に成り代わって市民社会と交渉をする『交渉人』という仕事に就いております。私は生まれつき、家族や友人などとはもちろん、道を尋ねてきただけの見知らぬ他人との会話の中であっても、無駄に理屈をこねるのが好きな人間でした。私がまだ学生であった頃、語学の担当の教授が、授業の中での私のあまりの遠回しな理屈っぽい返答の仕方に驚き、感嘆して、『君ほどの屁理屈持ちなら、もっと本格的に交渉術を勉強した方がいいだろう』とアドバイスをくださいました。そこで私は二十二歳のときに出身地のポーランドからアメリカのミシシッピ州に渡り、そこにある多能的交渉術の専門学校に通うことにしました。この学校は世界中から他人と無駄に口論したり、理屈をこねるのが得意な理屈マニアが集う、いわば屁理屈の聖地なのです。校内で生活をしているのは皆さん理屈っぽさを極めた人たちばかりですから、例えば、食堂で定食を一つ購入するのにも、給仕係のおばさんに対して原稿用紙10枚くらいの理屈をこねなければならないほどでした。この私でさえ、入学した当時はあまりの世界観の違いに戸惑ったものでしたが、運よく、そこで世界でも名だたる交渉人の先達と出会うことができ、その方から3年間に渡って、交渉人になるための勉強を教わることができました。すっかり自信をつけた私は、25歳のときにポーランド人としては史上最速で第一級交渉人の資格を得ることができまして、今では世界を股にかけて、世の救われない人達のために各国の行政機関や企業社会を相手取って、日々様々な交渉を重ねているのです。そして、今回の一件のことに触れますが、先月の末頃、この国のサウズヘルズ地区にて、人間社会からつまはじきにされ、町の中で孤立している老人がいると聞きまして、それを哀れみ、彼の交渉人となるべく参ったわけでございます。ここまでで何か質問はありますでしょうか?」
「まず、一つ聞かせてください。あなたを交渉人としてこの町に呼んだのは誰ですか?」
「本来ならば、依頼人に関する情報は、金銭が絡んでいても、簡単には申し上げることはできませんが、皆さんの今宵の努力に免じて申し上げます。私をこの件の交渉人に任じたのは、ある統治機関の管理職の方でございます」
「だから、それは誰ですか? うちの学校の生徒会ですか? それとも警察関係者ですか? それともその両方ですか?」
そこで、マリアンヌは表情こそ変えなかったものの、チラッとブエナの顔に視線を移した。僕は痛いところを突っ込まれた彼女の動揺した態度を見逃さなかった。
「ちょっと待ってください! この方はご自分で、あのおじいさんの交渉人であることを打ち明けたのですから、それ以上、あなたたちが、この方の存在意義について、とやかく言う必要はないはずです。この方をあのおじいさんの代理人として、事件の日のことを尋ねればいいだけの話ではないですか?」
形勢が悪くなったと見たのか、ブエナが横から突然会話に参加してきて、そのような屁理屈をこねた。
「その交渉人というシステムがまず信用できないって言うんだよ。だいたい、僕らは数日前に、この店に直接来て、あのじいさんに会ったばかりだが、そのときには、この店にこんなけったいな女性はいなかったし、人語をほとんど使えない、深い森の中に住む怪物のようなあのじいさんが、わざわざ金を払って交渉人なんて雇うとは思えないんだよ。あの人は少額の祭りの寄付金すら払わなかったんだぞ。どうせ、生徒会が形勢が悪くなることを見越して、こんな理屈っぽい女をどこからか連れてきたんだろうけど、おまえらのやり方は回りくどすぎるんだよ。いい加減本当のことを話してくれよ! このままじゃ朝になっちまうぞ!」
「いいわ、そこまで言うなら、そろそろ腹を割って話しましょうか?」
獲物を射程距離に捉え、本性をあらわした黒豹のようにブエナの目がキラリと光った。
「ああ、頼むよ。どんなひどい結果を聞かされたとしても、このまま一晩中振り回されるよりかは遥かにマシだからな」
僕も覚悟を決め、彼女の話を腹を据えて聴くことにした。
「まず、昼間にこのおじいさんの家が汚すぎて町の中で浮いているから、建て直したいと、生徒会がそれを希望していたことは話しましたよね?」
「ああ、でも、僕が聞いたところでは、あなたはすでに交渉がまとまって、この家の建て替えを終えたような物の言い方だったが、まあ、それはいいや。話を続けてくれ…」
「実は、何年も前からおじいさんに生徒会の役員が直接建て替えを申し入れたんですけど、ああいう性格の人だから、受け入れてくれなくて…、と言うよりかはですね、端的に申し上げて、何を告げても無気味に笑うだけで、全く話を聞いてくれなかったんですよ。まあ、こちらも長年の要望だったから、多少きつめの論調で『家をキレイに建て替えるか、町から出ていくかのどちらかにしてくれ』とお願いしたんですけど、おじいさんにはどうやら、自分が周りの人間から、サウズヘルズの悪の首謀者みたいに思われているのではないかという被害妄想を持っていたみたいで、余計態度を硬化させてしまい、どちらの要望も受け入れられないまま、交渉は延々と平行線を辿ったわけです。そこで考えたのですが、このまま誰にも相手にされないまま、ひねくれた性格のままで生きていっても、それは決して充実した楽しい人生ではなく、彼のためにもならないと思ったわけです。第一、彼はこのサウズヘルズでも孤立していたのです。ご存知の通り、この地区の住民はお互いに悪戯やちょっかいを出し合いながら生活していますが、ちょっかいを出されるということは、一応は誰かから相手にされているということで、この地区での完全な孤立とは言えません。つまり、ある意味で幸せなことですが、彼にはそうやって気にかけてくれる相手もいませんでした。そこで、我々生徒会が彼に交渉人をつけて地域社会と話し合いの場を持たせようと考えたわけです」
「なるほど、交渉人をつけたのが自分達の組織であることは認めるわけだね?」
「ええ、その通りです。交渉を進めるために、マリアンヌさんをおじいさんに紹介したのは我々です。ただ、それは必ずしも良い結果だけを、つまり我々の組織にとっての利益だけを考えての判断ではなかったのですよ。交渉人を付けた段階では、事の結果が我々にとって優位に運ぶかどうかは、我々にもわからなかったのです。ガンボレ祭の開催以前から交渉人を立てて、おじいさんと交渉していたことをあなたがたに隠していたのは、今朝の何も判明していない時点で、事件を知ったあなたがたに変な方向に勘繰られたくなかったためです」
「そして、結局、建て替えの交渉はうまくいかなかったので、あんたたちは苛立って、祭りにかこつけて、寄付金を払ってもらえなくて落ち込んでいた、この町の住人をうまく扇動して、この商店を燃やすという強行手段に出てしまったわけだ…」
すでに時間が時間なので、僕は結論を急いで、冷たい声でそういう言葉を彼女にぶつけた。しかし、ブエナはその問いに対しては、意外なほど否定的な態度を見せた。
「ちょっと待ちなさい。燃やした? 燃やしたですって? あなた自身の目でよくご覧になってください。この通り、りんごの木商店は目の前にありますよ。あなたがたは今朝から何度となく、くだらない会話の中で焼き打ちという言葉を口にしていましたが、現実にはそんなことは起きなかったのです。なぜならば、この通り、店は現存しているからです。この商店は、あなたたちが数日前に訪れた、あの時のままですよ」
「それは、おまえたちが今日になって、祭りのときの悪事がばれたから、慌てて建て直しただけだろ? 焼き打ちでの焼失を『建て直し』と言い直しただけじゃないか!」
「いいえ、我々は最近になって交渉人を通じた折衝でおじいさんと和解して、つい先程、この店の建て替えに成功したのです。焼き打ちなど絶対に起きていません!」
「そんなに言うのなら、店の中を見せてもらいたいのですけど、それは可能ですか? 暗いから外の様子はよくわかりませんが、店の内装が当時と本当に同じかどうか、確かめなくてはなりませんからね。どうせ、僕らが町でわけのわからない住民や保安官に絡まれて、長話を聞かされている間に、あなたたちは他の生徒会員が大工を雇って、必死に店の建て直しや店内の舗装をしていたんでしょうけどね!」
僕はそのとき初めて、今日出会った連中は町ぐるみで僕らの妨害をして、生徒会の手助けをしていたのかと思い至り、背筋が冷たくなり、軽く身震いした。
「それは違います。今現在、店の中には店長のブレゴール三世がおられます。彼は体調も良く健在ですが、今日は誰とも会いたくないから、例え秘密警察が来ても家の中には入れるなと、先程、交渉人に伝えたのです」
「今現在、店主のおじいさんが家の中にいるですって?」
僕は仰天して、彼女らに聞き返した。僕の言葉に呼応するかのように交渉人が一歩前へ進み出た。
「ええ、おられます。先程まで、店の中からブレゴール閣下の寝息が聞こえていました。今日は相当疲れてお休みになられているようです」
交渉人の女は、再び余計なことを言い出してきた。近くからじいさんの生気を感じないので、おそらくこれも嘘だろうが、こうまでして話の腰を折られてしまうとやりにくい。この女はまるで、泳ぎを止めると死んでしまうマグロのように、ずっと無駄なことを話し続けていないと気が済まないらしい。それとも、この女自身にも何か後ろ暗いことがあって、生徒会委員と助け合って、この窮地を乗り切りたいと思っているのだろうか。こうなると、この交渉人を名乗る女が、先程自分で語ったようなきちんとした経歴を持った人間なのかどうかも疑わしくなってきた。
「朝からずっと不思議なのですが、なぜ、生徒会はそんなにこの件に関わりたいのですか? こんな小さな町の場末の占い専門店に、そこまであなたがたが執着する理由は何ですか?」
それまで、不毛なやり取りを黙って見ていたロドリゲスがついに動きだし、ゆっくりとブエナの眼前まで迫ってそう聞いた。
「だから、この店は汚くて町の美観を損ねているから、建て替えてもらわなきゃ困るって何度も言ってるでしょ? あなたは私の話を聞いてなかったの?」
ブエナも疲れのためか相当に熱くなってきたようで、鉄面皮がようやく崩れてきた。
「そこなんですけど、周りをよく見て下さいよ。もう暗くなってしまって見えにくいですけど、このサウズヘルズ地区は汚くて臭い家ばかりで、このおじいさんの家だけが浮いているようには見えませんけどね。元々、この地区はあなたたち生徒会の管轄外ですし、この関係ない地区の一軒の商店にそこまであなたたちが介入する理由は?」
「あなたは私たちや中央区の住民が、祭りのときに私怨でこの店を襲ったって言いたいわけ? 返答次第では許されませんよ! 生徒会の審問会議にかけてやるから! 生徒会には、あなたが考えたこともないような恐ろしい人がいっぱいいるのですからね!」
もうすでに、エリートらしい余裕の態度も消え去っていた。これではただの口喧嘩に敗れた駄々っ子である。そこでロドリゲスはう〜んと少し考えてから、冷静な口調でこう切り出した。
「ブエナさん、生徒会には助成金というものがあるのはご存知ですよね?」
「た、確かに知ってるけど、それがなんだと言うの?」
生徒会助成金は学生の育成基金で、生徒会が周辺地域の町村の機関や商店などから寄付金の名目で徴収している、いわば住民から生徒会への補助金である。
「このおじいさんの店は、生徒会に今年度の助成金を払っていましたか?」
「な、なんで今になってそんなことを聞くわけ? この一件とは関係ないでしょ?」
「商店街の人達の直接の恨みは、ここのおじいさんが祭りの寄付金を払ってくれなかったことに起因しているんでしょうけど、生徒会が祭りの事件をひた隠しにするのはおかしいし、正義の立場に立つなら、祭りの参加者を糾弾するべきでしょう。あなたがた生徒会が焼き打ち事件を見て見ぬ振りして、もみ消そうと奔走しているのは、あなたがたもこの町の住民と共通の恨みをおじいさんに対して持っていたからでは?」
「当たり前でしょ? あんな見栄えの悪いじいさんよ? しかも、貧乏で気前も悪くて誰にも好かれてなかったのよ? いったい誰がかばうと言うの? 焼き打ちにされて当然だわ! 今まで、されていなかったのが不思議なくらいよ!」
膝に手をついて、苦しそうに息をぜいぜいと吐き出しながら、ブエナはついに隠しきれなかった本音を言ってしまった。
「ブエナ…、あのね…、どんな意地汚くて性格の悪い老人でも自分の家で平和に生きる権利はあるのよ?」
ラルセがブエナの肩を優しくポンと叩いて、説得するようにそう告げた。これが、スパイとスパイされていた者との、別れの瞬間なのだろうか。
「平和に生きる権利って…、あ、あのじいさんのせいで、周りの住民は…、ぜ、ぜん、全然平和でも幸せでも何でもなかったのよ?」
ブエナは声を震わせ、涙を拭いながら、なんとかそう反論した。
「じいさんはこの地区にもう三十年以上前から住んでいるから、仕方ねえんだよ! コウモリが大量発生する前からここに住んでいたんだぜ? いわば、誰も知らないうちに自然発生していたんだ。後から来た住民には可愛そうだが、平和な山で凶暴な熊にでも出会ったと思ってもらうしかないんだよ!」
今度は京介がとどめを刺すべく、威勢よくそう言い放った。
「私にこんな恥をかかせて…、あなたたち覚えておきなさいよ! 今後も生徒会の総力をあげていじめ倒してやるわ!」
二つの嘘の真相が同時にばれてしまったので、ここにいられなくなり、ブエナは後ずさりをして逃げ支度を始めた。
「ちょっと待てよ! おじいさんを解放してくれよ! どうせ、おまえらがどこかに拉致してるんだろ?」
「知らないわよ! 祭りの混乱のときに、あのじいさんが自分で勝手にいなくなったんだから!」
最後に捨て台詞を吐き出すと、ブエナは我々の方を一度も振り向くこともなく、全くやり残しのないような気持ちいい疾走態勢で、中央通りの方向へすごい勢いで駆けていった。
「あ〜あ、この地区をあんなに慌てて駆けたら危ないぜ。住人に見つかっちまうぞ…」
京介が消えていく後ろ姿を目で追いながらそうつぶやいた。
「さてと…、そろそろ店の中を見せてもらってもいいですか?」
僕が向き直してそう尋ねると、交渉人は不都合でもあるように表情を曇らせた。
「実は…、私もまだ店の中へ入ってないんです…。つい先程、あなたがたがここへ尋ねて来られる十分ほど前に改築が済んだばかりなのです」
「そうでしょうね…。私たちがここへ来たとき、あなた、外で待ってたものね…」
ラルセが同情するようにそう言った。
「なぜ、あなたは今夜になって再びここへ来たのですか?」
「家に匿名の電話がありまして、重要な案件があるからすぐに商店まで来るようにとのことでした。その電話は最後に『数人の占い師が尋ねてきたら、何をされても絶対に店の中へ入れるな』と言い残して唐突に切れました。私に連絡が取れるのは生徒会の一部の方だけですので、電話がかかってきた時点で、なんとか言う通りにしなければならないという思いはありました。外で待っていたのは、外装のペンキが乾くのを待っていたのです。さっきまではドアノブにも触れませんでした」
「じゃあ、仕方がない。家の外側だけでも見せてもらおうか」
 もうすでに、凶行の当事者がいなくなってしまったので、ここにいる理由もないのだが、祭りの事件の痕跡だけでも発見できはしないかと、僕らは商店の周りをぐるりと廻ってみることにした。謎の交渉人の女が携帯の電灯を持ってきてくれた。店の側面には窓枠の横に、僕らが数日前に訪れたあの時と同じように動物の剥製がついていた。しかし、なぜか熊の剥製に変わってしまっていた。
「ここに飾ってあったのは鹿の首の剥製だったのよね…。作り直した人達…、きっと慌てていたから細かく調べなかったのね…」
ラルセが毛深い熊の頭をゆっくりと撫でまわしながら、寂しそうにそう言った。よく周りを見渡すと懐中電灯のほのかな明かりでも、改築のいろんな痕跡を見つけることができた。大工道具の箱が一人分だけ一式まとめて置き忘れられていたり、片っ方だけ脱げ落ちた生徒会の人間の物と思われる学校の制式靴も見つかった。逃げる際に落としていったのだろうが、ここからも建て替えを行った連中が相当慌てていたことがうかがえる。証拠の写真を撮ろうと、僕がカメラにフィルムを詰めているときに、ロドリゲスと京介が少し離れた場所で焼き焦げた切り株を見つけた。
「すごいね…、ここまで火炎瓶が飛んで来たんだね…」
もはや、事件の恐ろしさに震えることしかできなかった。僕は人間の心の闇の深さと恐さを胸の中に抑えつつ、カメラのシャッターを何度か切った。鹿と熊がすり替わってしまった剥製と脱ぎ捨てられた片方の靴、そして、まだペンキが乾いていない外壁の写真などを証拠としてフィルムに納めることができた。これで、今後生徒会との間に抜き差しならない論争が発生したときに少しは有利になるかもしれないと、カメラを鞄にしまいながら僕は一人安心感を持っていた。そんなとき、僕らの真後ろから、パチパチと小気味よく手を叩く音が聴こえた。振り返ると、ビヴラータさんが満足そうな笑みを浮かべながらそこに立っていた。
「いやあ、しかし、君たちはたいしたものだ。数々の卑劣な妨害に遭いながらもそれをくぐり抜け、ついに真相に達したわけだ。僕は感動をおぼえたよ。権力に立ち向かう勇気は、近頃の若者にはなかなか感じられないものだからね。さて、事件は解決したようだし、僕もそろそろ帰らせてもらおうかな」
「いえ、ビヴラータさん、そう簡単にはいきませんよ」
ロドリゲスはそう言って彼を呼び止めた。
「ん? 僕にも何か言いたいことがあるかね?」
「ええ、その通りです。先程、この前の通りで、半裸のヘルズ地区の住民と出会いましたよね?」
「ああ、かなり酔っ払っていたようだがね。あのおじさんのことが何か…?」
「彼はあなたを『保安官』とも『警察』とも呼ばないで、ビヴラータさんと名前で呼びましたよね? それが気になるんです」
「おいおい、君はあの娘と同様に、僕も生徒会の回し者だと疑っているのかね?」
「そうではないです。ただ、ブエナ女史があなたと会ったとき何の反応も示さなかったのも気になるんです。彼女はあなたを知らなかったんですよね?」
「そうなるだろうね」
ビヴラータ氏は少し暗い声でそう返事した。
「知っての通り、この地方の警察署の幹部はうちの学校の元生徒会委員で占められています。警察内でうちの学校の卒業生の派閥が幅をきかせているからです。それだけ、生徒会と警察との関係は密接なのですが…、ブエナさんはあなたのことを全く知らなかったですね。このことはおかしくないでしょうか?」
「ビヴラータさん、あなたは何者ですか?」
僕が尋ねても彼は何も答えなかった。これまで一応は仲間であった者を追い詰めていくのは忍びないが、仕方なく、僕はさらなる真相を追い求めるべく、店の正面に走った。
「ちょっと電話を借りますね!」
生徒会委員が逃げ去った今、それに雇われた交渉人に存在意義は無く、別にマリアンヌに断る必要はないのだが、僕は一応彼女の了解をとってから、店のドアを開けて中に踏み込んだ。室内は塗り立ての塗装料のきつい臭いが立ち込めていた。その臭いに一瞬で脳が犯され、空間が歪んで見えるほど視界は乱れ、気分が悪くなった。予想した通り、中に店主のおじいさんの姿はなかった。店内は落ち着いていた。いくつも整然と並べられた木製の戸棚に新品の占い製品が並べられていて、数日前の亡霊の住家のような無気味な雰囲気は消え去っていた。腐臭を漂わせながら生きる、あのじいさんの寝床だった面影は全くなかったのだ。
 レジの横に最新型のプッシュホン型の電話が置かれていたので、僕は受話器を手に取った。警察へ通報するのは生まれて初めてなので上手く事情を説明できるかどうか自信がなかった。急いで警察署の番号を入力すると、すぐにつながった。でたのは女性の声だった。
「はい、こちら中央警察署です。ご用件をお願いします」
「も、もしもし、少しお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、ご質問をうけたまわります」
「今、サウズヘルズ地区に来ているのですが、ここでビヴラータという保安官を名乗る男と出会ったのです。この人は本当にこの地区担当の警察官なのかを緊急に知りたいのです」
少し間を空けて、かなり動揺した女性の声が返ってきた。
「ビヴラータ? ビヴラータですって? たしかにその男はそう名乗ったのですか?」
「はい、その通りです」
「しょ、少々お待ちくださいね。担当の者と代わりますので」
次に電話にでたのは中年のヒステリー気味の女性の声だった。彼女の強くて鋭い声が、僕からすぐに主導権を取り上げた。
「もしもし、あなたはビヴラータと名乗る人間と出会ったということですけど、本当ですか?」
「本当です。今、ヘルズ地区の南端にある、りんごの木商店という店の外で待ってもらっています。彼が本当に保安官なのかどうかを知りたいのです」
「何ですって! ビヴラータは自分が保安官だと名乗ったの?」
「その通りです。サウズヘルズ地区の入り口でこの人に出会ったのですが、彼は自分のことを、この危険な地区の唯一の警察官であると説明したのです。そして、数時間ほど、この人にこの地区を案内してもらったのですが、その間に不審な人物と多く出会ってしまい、その人たちに理屈っぽい言葉で責められたせいか、僕はもう人間不信になってしまって、用事が片付いてしまった今になって、本当に彼が保安官なのかどうかが不安になってきたので、この人の素性を確認する電話をした次第です」
「あのねえ、あなたたちはサウスヘルズ地区に入ったら、どんな人間に出会っても、何を言われても、決して信用するなと学校で教わらなかったの?」
「確かにその通りに教わりましたが、彼は警察だと自分で名乗りましたし、保安官専用の赤いバッジを持っていたのです」
「保安官用のバッジなんて、昔は警官以外の人間は付けられなかったけど、今では似たような物が子供の玩具売り場に普通に売っているし、それだけで他人を信用するなんて考えが甘すぎるでしょう? 生き馬の目を抜くような時代に生きているんだから、もう少し慎重にならないとダメよ!」
「それではやはり彼は偽警官なのですか?」
「当然でしょう? うちの警察署では制服以外に警官の身分を証明するものはないし、サウスヘルズ地区にはもう十数年前から誰も配置されていないのよ。その理由はもうあなたにもわかるでしょう? そうよ、その通り、何百人配置してもあそこの治安を守れるか自信がないからよ。それなら始めから誰も配置しない方が、例えどんなひどいことが起きたとしても気分的に楽ですからね。でもね、私たち中央警察署の署員もヘルズ地区の住民の更正を完全にあきらめたわけではないのよ。実は、週に一度、ヘリコプターを使って上空から地区の隅々までビデオカメラで撮影しているの。何か変わったことが起きてないかとか調べるためにね。時々、地上から悪質な住民の手で石や空き缶などをぶつけられることもあるけど、防弾のヘリコプターだから心配はないわ。そういう投石があれば住民がまだ羞恥心を持っているということだから、かえってこちらも安心しますけどね。でも、それだけでは彼らに扱いが悪いとデモを起こされそうなので、そうならないように、月に一度くらいの割合で上空から消臭剤を撒いてやるんですよ。そうすることで、こちらから、『私たちも一応はあなたたちのことを意識していますよ』というアピールをしているわけね」
「なるほど、では、彼は警察関係者ではあり得ないということですね。それを踏まえてお聞きしますが、僕らはこれから彼とどう接していけばいいのでしょうか? しつこく付きまとわれてしまって困っているんです」
「そんなことも他人に聞かないとわからないなんて、あなたはどこの学校の生徒? え? 占い専門学校ですって? 本当に占い師になりたいんだったらね、自分の進む道に関することを他人に聞いているようではだめよ。ビヴラータの素性はまだ子供のあなたたちには教えられないけど、その男は自分の心の弱さから、人生を完全に踏み外してしまった哀れな人で、一緒にいてもマイナスになることしか起きないから、あなたの生きる道に大きなT字路でもあったなら、そこでうまく別れることね。自分にとって不利益にしかならない人を切り捨てる。それぐらいのことはこれまでの半生で何度か体験しているでしょう? とにかく、なるべく早くその男から遠くに離れなさい。それと、もう深夜だからいつまでも危険な地区にいないで、自分の家に帰りなさい。わかった?」
それだけ言い終わると電話は向こうから一方的に切られてしまった。受話器からはツーツーという発信音がむなしく聞こえてきた。もうつながっていないことを確認して僕は静かにそれを置いた。憔悴して店から出ると、ドアの外すぐのところにビヴラータ氏が壁にもたれるように立っていた。その眼には光があり、まだ何か言いたいことがあるようだった。
「そこまで丁寧に調べあげるとは見事だ。いささか君たちを見くびっていたよ。ヘルズ地区で初めて会ったとき、この頭が子供の占い師と判断した時点で、僕はただの遊び半分のエリート学生の調査隊としか思わなかったのだよ。こんなに足を使った泥臭い推理捜査ができるとは思わなかったよ」
「あなたはいったい何者ですか?」
「僕はさっきも言った通り保安官だ。警察関係者と言った方が伝わりやすいかな。え? 警察署の人は否定していたって? それはその通りさ。これからそのことを説明するとしよう。実はね、僕は見ての通り制服の着用を認められていない非公式の警察なんだ。若い頃は本当に中央署で働いていたのだが、理由があって追放処分になってね…。それでも、僕は保安官として町を守りたいという思いがあったのだが、この町のほとんどの地区にはすでに優秀な警官が配置されているから居場所がなくてね…。それで、誰も配置されていないこのヘルズ地区で、誰の命令も受けずに自分の意志だけで勤務をするようになったのさ」
彼は僕らに対してずっと嘘をついていたのに、それを恥とも思わない様子でそんなことを話し続けた。
「空を見てください。暗いでしょう? これも時間を無駄遣いさせたあなたのせいです。僕らも暇ではないので、偽者の警官だったあなたと話すことはもうないですよ。今にして思えば、なぜ、あれほど多くの情報をあなたに渡してしまったのかと、悔やまれるほどです」
「まあ、そう言うなよ。僕はさっきも話した通り中央署をクビになった身だが、心はまだ警察官さ。どんな人間が警察官に向いているかって聞かれたら、真にこの町を良くしたいと願っている者だと僕は答えるね。いくつか人道に背くことをしてしまったために、普通の人間として生きられなくなってしまったが、これは自分の癖だから仕方ないんだ。どうも、少しずつ自分の住める場所を狭くしてしまうというのが、生まれついて持った僕の悪い癖らしい。クビになった後は、ヘルズ地区を用もなくふらつくのが趣味になったんだが、飽きられてしまったのか、最初は適度に遊んでくれた住民も、最近はあまり相手にしてくれないんだ…。だから、仲間でつるんで楽しそうな君たちがうらやましかったのさ」
「では、あなたもこのヘルズ地区の住民なんですか? そういえば、この地区の住民の挙動についてずいぶん詳しかったですね」
「違うよ。ここには住んでいない…。寂しくなるからこんなことは言いたくないが、多分、身分としてはここの連中より、もっと下さ…。では、僕はもう行くよ。歩けば歩くほどこの町は暗くなるが、この暗闇をいくつか越えた先に戻りたくはない家があるのさ。できたら、また会おう。君たちの人生のためには、僕のような人間にはなるべく出会わないほうがいいのだろうが…」
思わせぶりな言葉を残して偽警官は去って行った。その背中には敗北者としての哀愁が満ち満ちていたが、呼び止める気にはなれなかった。
 もうこの頃には、心に何も思い浮かばないほど疲れきっていたし、事情を聞く必要のある相手も、勝手なことだけ言って帰ってしまっていたので、僕らもすることはなく、早いところ解散したかったのだが、取り残されたようにドアの前にポツンと交渉人のマリアンヌがいて、何か話しかけて欲しいようにこちらをじっと見つめていた。
「言いたいことがあるなら聞きますよ。ただ、あなたは疲れきった僕の心を慰めるようなことも、すっきりと納得させるようなことも言えないでしょうけどね」
挑発するようにそう言ってやると、マリアンヌは小さくうなずいて、口を開いた。
「よくぞ言ってくれました。このまま、生徒会の不十分な嫌疑を残したまま、今日という日を終えてしまっては、あなたたちも胸にしこりを残したまま帰路につくことになります。そして、こちらの方が大切なことですが、ここで決着としてしまっては、あなたの目から見て、私は交渉人という仕事を何もしていないに等しいのではないでしょうか? どうか、交渉人としての私に最後の仕事をさせて下さい」
「しかし、あなたは交渉人としては不適格ですね。それは、あなたが生徒会の人間に雇われているということです。それでは公平な仕事をしているとは言えませんからね。だって、そうでしょう? 生徒会も警察も一つの偏向した勢力としてつながっているのですから、彼らを擁護するのであればもう一つの勢力については不利な証言をするに決まってますからね」
「いえ、私はきちんとした資格を持った公正な交渉人ですから、例え、対抗組織の人間と出会って交渉する機会を得たとしても、決してあなたの言うような差別はしていないと誓います。確かに、私を雇って賃金を支払っているのは生徒会です。でも、私は心の奥底まですべて彼らに従っているわけではないのです。彼らを信頼できる雇い主や仲間と信じているわけではなく、ただ、一つの雇用関係を有するだけの、占い師学校の保守派層の生徒の集合体と見ています。ですから、彼らにとって不利な情報でも、きちんと相手に伝えて、公平な交渉を行ってきたのです」
「では聞きますが、ここの店の店主はどこへ行ってしまったんですか? 彼との交渉人だったあなたがそのことを知らないとおかしいでしょう?」
「はい、実のところを申しますと、店主のブレゴール三世は祭りの夜、店を焼かれてしまった際に精神錯乱状態に陥ってしまいまして、警察当局に身柄を拘束されてしまいました」
「それは何も語っていないのと一緒なんですよ! そうでしょう? 警察という機関を間に挟んでしまったら、大事な事実情報をすべてうやむやにされてしまうということは今日の一連の出来事で十分証明されているではないですか!」
僕は最後の力を振り絞って彼女を責め立てた。ラルセやロドリゲスはといえば、その頃にはもう疲労困憊で意識を失う寸前であり、石段にしゃがみ込んで、遠くの方をぼんやりと見つめていた。僕が早く決着をつけることを待っているようだった。ここで会話を終わりにして、この屁理屈女を蹴飛ばして帰り支度をすれば彼らは喜んでくれるだろうが、それだけはできなかった。
 交渉人マリアンヌは全く疲れた様子も見せず、笑いや怒りや焦りといった感情を表に出すこともなく、笑みのない冷たい表情のままで僕との会話を続けた。
「大変残念なことですが、昨今、警察内部では様々な不祥事がありまして、少なからず報道もされておりますけれども、そういうことで市民の信頼を幾分損なっているということはあります。ただ、それを差し置いても、はっきり申し上げまして、あなたがたには店主のおじいさんを救い出すだけの力はないと思います。なにしろ、まだ何の力も持たぬ未成年ですからね。警察権力と正面から向き合うときに、世間の事情に疎いということは思いもよらぬハンデになると思いますよ。ですから、ここは交渉人たる私にお任せ下さい。私自身がこれから当局へと直接赴いて、今回の一件について詳しく事情を説明して、三世の身柄の引き渡しを要求して来ようと思います」
「あなたに任せてじいさんが釈放されたとしても、事件の途中経過がわからなければ真実は何一つ明らかにならないし、きっと、警察もあなたも釈放された理由すら説明してくれないんだろ? 考えようによっては、例え、あなたの交渉がうまくいったとしても、それすら、あなたと警察との出来レースだったと判断されるかもしれないですけどね」
「それは違いますね。確かに、私自身があなたがたに有益な情報をもたらすことはないでしょう。私たちは契約外のお付き合いですからね。しかし、おじいさんが店に戻れば彼の口から真実が明らかになるはずですし、それによって、これまで私がこの地区でどんな仕事をしてきたのか、そして、店主のおじいさんとどんなに温かな人間関係を築いてきたのかが、きっとわかっていただけるはずです」
その時、二人の論争の均衡を破るかのように、遠くの方から爆音が鳴り響いてきた。あまりの轟音にみんな反射的に耳をふさいだが、よく聴いてみると、それは車のクランクションのような音だった。
「ちょっと待って! 何か来たよ!」
ロドリゲスがそう叫ぶや否や、けたたましいサイレンを鳴らしながら、黒塗りの高級外車が猛スピードで近づいてきた。僕は何が起こったかわからず錯乱してしまい、「わあ!」と叫んで歩道へと飛びのいた。砂埃を巻き上げながら、僕らの前で車は止まり、運転手席からサングラスをかけた黒いスーツ姿の男が顔を出した。
「祭りの件でわざわざ、警察にまで連絡をいれやがったのは、おまえか?」
僕が『そうだ』と返事をする前に二人の男たちが車の後部席から大きな布袋を引きずり降ろした。その袋は地面に叩き落とされると、その衝撃に反応したのか、もぞもぞと動きだした。中に生き物が入っていることは一目見てすぐにわかった。
「こんな汚らしいじじいを拉致しておくことが、俺たちに何か利益になるって言うのか? 当局からの命令がなかったら、誰がこんな損な役目を引き受けるかってんだ! そんなに返して欲しいのなら返しておくぜ!」
それだけ言い残すと、男たちは乱暴に車のドアを閉め、乗用車は猛スピードで闇夜の中へと走り去っていった。僕は置き去りにされた袋に近づき、ゆっくりと袋の封印を解いた。口を開くと、すぐにもわっとした湿っぽい空気が溢れ出してきた。その汚臭と共に袋の中から現れたのは、他ならぬ、りんごの木商店店主その人であった。店主は助け出してやるとすぐに起き上がり僕の腕を乱暴に振り払った。
「なんじゃ、おまえらは! また来たのか! 寄付金は払わぬとあれほど言ったろうが!」
信じがたいことに第一声がそれであった。僕らを生徒会員と間違っているのだろうか。店主は数日前の来店時に輪をかけて身体全体からひどい体臭を放ち、着ているものはあちこちすすけていて全体に埃っぽかった。ぼーぼーに伸ばした口髭を見苦しく晒し、自分がこの地区の代表者だといわんばかりの凄まじい出で立ちだった。マリアンヌが店主と接触を持とうと、彼に近づいていったが、そんなけなげな交渉人を店主は鋭い眼光で睨みつけた。
「なんじゃ、この女は! うちの店に女人は近づくな! 去れ!」
「ブレゴール三世、お帰りをお待ちしておりました。私はあなたの生活をより良くするための、異国からの助け舟。交渉人でございます。お加減はいかがですか?」
「誰じゃ! おまえは! おまえなど知らんわ! わしの名前はガルツじゃ! とっとと去れ!」
店主は蹴り上げるような仕草を見せ、交渉人を近づけようともしなかった。マリアンヌは一度静かにうなずくと、申しわけなさそうな顔に変わり、脇へどいてしまった。こんな簡単にこの女を追い払えるのなら僕らもそうすればよかったのだが。
「店主、ずいぶん機嫌が悪いですね。大丈夫ですか?」
僕は後ろから恐る恐る話しかけた。
「おまえはアホか! 丸二日もワインみたいに樽の中に押し込められて機嫌が良くなる人間などいるか! わしはなあ、こんなゴミ溜めのような地区に住んでいても、プライドだけは高いんじゃ! いままであんな扱いを受けたことは誓って一度もないわ!」
僕は救い出したことへの感謝の言葉を期待していたのに、待っていたのはじいさんからの罵倒という非現実的な結果だった。仲間に助けを求めるべくロドリゲスたちの方を振り返ってみたが、彼らは一番出会いたくない人間に出会ってしまったといわんばかりの不快感極まった表情をしていて、なぜ、この長い一日の捜査の結末がこんなむごい現実なのかといったような絶望感たっぷりの雰囲気で立ちすくんでいた。ラルセは自分の両肩を押さえながら震えていて、この世で一番汚い生き物を見つめるような視線で店主を見ていたが、やがて、僕の方にも視線を向け、『ほら、この一件には手を出さないほうがよかったでしょ?』と言いたげな表情だった。僕も好奇心に動かされてここまで来てしまったことを、今は深く後悔していて、長い時間付き合わせてしまった三人に対して申しわけない気持ちでいっぱいだった。僕が何も言えずにいると、京介が前に進み出て店主に迫った。
「おい! 俺達は命懸けで捜査をして、あんたを救ってやったんだぞ! そんな言い草があるのか? 一言礼を言ったらどうなんだ?」
「やかましいわ! それだけ偉そうなことを言うなら、祭りの夜になんで助けてくれなかったんじゃ! 周りに見物人が百人はいたが、わしの援護をしてくれたものは一人もおらんかったぞ! 警察も民衆もみんながわしに襲いかかってきたんじゃ! こんな理不尽があるか!」
店主はそれだけ言うと、京介の胸を両手で突き飛ばし、彼を道路に押し倒すと、つかつかと店の入り口へ歩み寄り、そのままの勢いで中へ入り込むと、バシンという大きな音と共に内側からドアを閉めて家に閉じこもってしまった。
「店主! せめて一言だけでも話を聞かせて下さい! 今はどんなお気持ちですか?」
僕は扉をドンドンと叩きながらそう怒鳴った。
「うるさい! マリアナ海溝のような、とてつもない深い絶望の谷へ叩き落とされて、いまさら感想などないわ! おまえらみたいに弱者の傷口を押し拡げて、それを楽しんで見るような奴らがいると、わしらみたいな落ちこぼれた人種は夜もおちおち寝ていられんわ!」
「そんなことを言わず出て来てください! 一緒に真実を明らかにしましょう! お話を聞かせてください!」
僕は近所中に鳴り響くほど強く何度も何度も商店のドアを叩いた。そんな僕のことを友人たちは哀れみの目で見守っていたが、やがて、ラルセが歩み寄って来て僕の肩を優しく叩いた。
「今夜はもう帰りましょ? ね? とりあえず、おじいさんも無事だったわけだったし…。勝負としては完全な負けだけど、あなたの希望が一つは叶ったわけよね?」
彼女にそう言われてしまうと、僕も今日の闘争を終えようかという気持ちになってきた。警察も生徒会もこの地区の住民もすべてを敵にまわしながら行った今日の調査だったが、結局、きちんとした結果をだすことはできなかった。それはつまり、禍根を大量に生み出しただけの一日になってしまったというわけだ。実社会の裏側にあるこの暗闇の中を、もう一歩か二歩だけでも前に進んでみたかったが、警察と生徒会が僕らの捜査を察知して、拉致していたじいさんを手放してしまった以上、ここから先には進めなかった。彼らの破れかぶれな戦術によって、ここまで来ていながら最後は権力という厚い壁に阻まれてしまったのだ。僕は彼女の言葉に同意し、商店から目を放した。帰る支度を始めた僕らの後ろには交渉人の女が申し訳なさそうに立っていた。おじいさんに追い払われた直後だったので、さすがに名うての交渉人も落ち込んでいる様子だった。
「あなたは帰らないの?」
ラルセが同情して声をかけた。
「どうやら、雇用関係を解除されてしまったようなので、私も皆さんと同じく敗北者として家に帰ります。ポーランドやアメリカで学んできたことがあまり生かせなかったのが残念でなりません」
最後まで自分の言葉を使わずに淡々と言うと、彼女は僕らに背を向け、中央区の方角に向けて歩きだした。
「ここはあんたの講演会じゃないんだぞ! マニュアル通りの言葉だけじゃなくて、たまには自分の心で話してみろよ!」
彼女の背中に向けてそう叫んだが、今度こそ返事は返ってこなかった。それを言ってしまうと、心も落ち着き、ようやく気が済んだので、僕らも今夜の調査をここで終えて、家路につくことにした。暗い夜道をしばらくは四人並んで歩いていたのだが、京介の歩む速度が少しずつあがり、彼はやがて走り出した。
「悪い! 先に行くな! 腹減ったから中央区でスパゲティー食ってから帰るわ。家に帰ってからじゃ、時間的にあまりに遅くなって胃に悪いからな」
手を振ってやる間もなく彼の姿は闇に飲み込まれていった。舗装もされていない荒れたでこぼこ道を黙って歩いていると、不意に僕は淋しくなり、「結局、何もわからなかったな〜」と口走っていた。
「何が?」とラルセ。
「この事件全体がだよ。いろんな人が現れて、みんな自分勝手に語っていたけど、いったい、誰の言ったことが本当なんだろう?」
「みんな、事件の当日はひどい混乱の中にいたから、しっかりと客観的に事実を見てた人はいないんじゃない?」
ラルセがそう答えてくれたが、声のトーンはいつもよりかなり低く、疲れて大きな声が出ないようだった。
「人類の歴史上に重大な事件は多々あるけど、どれも客観的な真実なんてないんだよ。各々が自分の目で見て、自分の心で判断したことが真実なんだ」
ロドリゲスが僕の肩をギュッとつかんで、無理矢理ながらもそのような結論を付けてくれた。
「今日は少し突っ走っちゃったかな? 君らを巻き込んじゃって悪かったね。不快になったかい?」
僕がそう言うと、ラルセはワンピースの裾をまくって少し赤く腫れた肌を見せ、そこを指差して軽く笑ってみせた。
「あの時は悪かったよ。あまりにもむかついていたから、意識が飛んだんだ」
「それって私に対して? それとも私の女友達に対して?」
「事件に対してだよ。この事件全体にむかついていたんだ」
「ブエナもビヴラータさんも、もう寝ている頃かしら?」
少し間を空けてラルセはそう言った。彼らのことを考えてしまうと、いろんなことが頭をよぎってしまい、言葉が出てこなかった。上空を見上げると、ヘルズ地区にはもったいないような星空が広がっていた。
「おかしいなあ、ここがそんなに怖い地区なのかなあ、何度か来たことがあるけど、そんな怖い人に出会ったことないけどなあ…」
「昼間、中央区の交差点で会ったおばさんたち、怖かったわね。これぞクレーマーって感じで」
「あれはもう会いたくないな…。それにしても静かだなあ。ヘルズ地区の人はみんな寝ちゃったのかなあ」
「みんなもう寝てるわよ。明日も朝からみかん畑でしょ?」
ラルセはそう言って軽く目くばせした。僕には今日起きた出来事の半分も理解できなかったが、彼女には何かわかったようだ。
 この地区の出口が近づいてきたとき、僕らの淋しさが届いたのか、付近の住民たちが家の外へ次々と出て来て、庭に蒔きを積み上げ、たき火の支度を始めた。夜になって冷えてきたので火をおこしたのかもしれない。これから食べ物を焼いて食事にするのかもしれない。やがて、道の両側の家々が次々に火をおこすと、赤い炎が揺らめきながら幻想的な道を作っていた。

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