目次
1ページ試験の結果
2ページ京介の不調・ラルセの星占い
3ページ新入生歓迎式
4ページガンボレ祭前日の買い物
5ページガンボレ祭その後(一)
6ページガンボレ祭その後(二)
7ページガンボレ祭その後(三)
8ページガンボレ祭その後(四)
9ページサフラン先生の薬品占い
10ページ生徒会総選挙数日前(一)
11ページ生徒会総選挙数日前(二)
12ページ生徒会総選挙数日前(三)
13ページ厳罰棟所長の訪問(一)
14ページ厳罰棟所長の訪問(二)



 正門の横に警備員さんが立っていたので、軽く挨拶して抜け出した。彼は、この学校の中には彼しか味方はいないのではないか、と思わせるほどの輝く笑顔を見せて、右手を上げて敬礼した。
 いつもは正門を出ると、すぐにホットドッグの屋台に出会うはずなのだが、今日はなかなか姿が見えなかったので、それを探して、うろうろと歩き回る羽目になってしまった。ゆったりとした坂を下り、左への大きなカーブを曲がった辺りでようやく屋台を見つけた。客は一人もいなかった。看板もなんだか色あせて見えた。主人は青白い顔をして、椅子に座ってうなだれていたが、僕の姿を見ると、慌てて立ち上がり、笑いかけてきた。 「やあ、どうも、こんにちは。今日もいい天気ですな。確か、水晶占い専攻の学生さんでしょ? 占いの調子はどうですか?」
「こんにちは。ええ、どうも、ありがとう。おかげさまで調子はいいですよ。どんな人間の未来にも、占えないことなんてないのではないかと思えるほどです」
「それは素晴らしい! どうぞ、お構いなく、誰彼構わずどんどん占ってやってください。中世ではどうだったかわかりませんが、当代では未来を知ることは残酷だ、などとぬかす人間はほとんどいなくなりましたからな。いや、まったくその通り、そんなことを言う人間には、もう先がないでしょう。それまでは便利だと騒がれて、民衆に当然のように扱われていた事物が、別な作品の発明を境に、全く使われなくなり、人類史から影も残さず姿を消してしまうのと同じように、そんな古い思想持ちの人間なんぞはこれからの時代にまったく必要ありませんからな」
店主はこの時間まで誰とも話せなかったウサを晴らすかのように、一気にまくし立ててきた。
「いや、まったくその通りです。しかし、今日はずいぶん外れたところで店を開いていますね。見当たらなかったから、探してしまいましたよ。何かあったんですか?」
「そうそう、ご注文を聞き忘れていましたな…。いつもと同じでサラサソースのホットドッグ一つでよろしいですか?」
僕の聞き方が悪かったようで、主人は客を待っていたときのような淋しそうな顔に戻ってしまい、何かをごまかすように、話題をすり替えて答えた。
「どうしたんです? 正門のすぐ外の目立つところに店を出せなくなった理由でもあるんですか?」
先ほどの店主の暗い表情が妙に気になったので、突っ込んだ質問を試みた。
「いえいえ、何ということはないんです…。ただ、何と言うか…、難しい時代になりましたなあ…。生徒たちに嫌われることをやった覚えはないのですがね…」
「いったい何があったんですか? 聞かせて下さい。誰かに嫌がらせを受けたんでしょう? 力になりますよ」
「いえ、たいしたことはないのです。ただ、数日前に、『正門のすぐ外で業者が店を開いていると、車の出入りの邪魔になるから、すみやかに場所を変えてくれ』と生徒会の役員の方から脅迫めいた通告を受けまして、こちらとしても、時間を限定して開いているのだし、ここは学校の敷地の外だから、どこで店を出そうが問題はないはずだ。奇妙な言い掛かりをつけないでくれという感じで、ハッキリと言い返したんですが、そこからおかしなことになってしまいまして…」
「生徒会から嫌がらせを受けたんですね?」
「ええ…」
「どんな仕打ちを受けたんですか? 僕も同じような境遇に遭っています。すでに失うものは何もないし、力になりますよ」
僕は彼を元気づけようと思った。
「いえ、これは軽々しく人に聞かせるような話ではありませんで、それどころか、この話を聞いたことにより、平穏に生きている一般の方まで私と同じ境遇に落ち込む可能性があります。そういうことから、私はなるべく他人に話したくないのです。しかし、聞けばあなたはこの学校で唯一生徒会と真っ正面からぶつかっておられるという。そのあなたがこの話をお聞きになりたいと言うのであれば、喜んでお話しします。あれは、まだ誰から陰口を叩かれることもなく正門の前に店を出せていたある日のことですが、いつもは、きちんと洗濯をしたのかどうかも定かでないような着古した私服を着た、眠気まなこの学生しか立ち寄らない私の店に、その日に限って、立派な紺色の制服を着込んだ目付きの鋭い学生さんが並んでいたんです。一目で、校内でもかなり厳格な組織に身を置いておられる方だとわかりました。その方は辺りをきょろきょろと抜目なく見回しながらうちの店に近づいてきました。今思い返しますと、他に並んでいた平凡な学生さんたちもその方を畏れていて、なるべく顔を見られないようにしていたようです。その方がこの界隈でも特別な力を持っている人だということは、その身体から発散される威圧感ですぐにわかりました。挨拶のために軽く頭を下げる仕草や、身振り手振りから感じられる余裕が、もう他の生徒とはまったく違っていたのです。その人は自分の順番がまわって来ると、穏やかな口調で私に尋ねました。『親父さん、ここで店を開いてもう何年になるんですか?』私は、突然話しかけてきた相手にも心を落ち着けて、おかげさまでもう四年目になります、と平静に答えました。『ふう、そうすると、うちの学生の中にはもう数年間にも渡って、学食を利用せずに、わざわざ敷地の隅までやってきて、このような貧しい食事を喜んで取っている人間がいるというわけですね?』とホットドッグを指差して今度は尋ねてきました。私は、占いの儲けが少なくて、お金にあまり縁のない学生さんや、学生食堂などの込み入った人間関係があまり好きではないという偏屈な学生さんもなるべくお腹いっぱいにしてあげたいと思って正門の前にこの店を出しているんです、とお答えしました。曲げて伝えたわけではないです。実際その通りのことを常に思っていますしね。すると、その方はふっと少しお笑いになって、『親父さん、神様というのは努力している人、才能に恵まれている人の周りには自然と良い友人が集まるようにしてくれるし、知性に溢れた人間の財布の中には常にお金が貯めるようにしてくれているんですよ。ですから、こんな場末の店に、わざわざケチャップ漬けのパンを食べに来るような連中には、何かしら足りないところがあるというわけなんです。それが人望なのか、本人の器量なのかはわかりませんが、とにかくそういうことです。汚い裏路地のどぶには泥にまみれた鼠が集うがごときです。店主であるあなたが、そういう人に同情する必要はないんです』と冷たく言うわけです。それを聞いて、私は自分が一生懸命に作っているものが馬鹿にされたような気がして少しムッときました。そこで、それは違うのではないかと言い返しました。努力を続けて真面目に勉学を続けていても、結局のところ神に報いられずに、食うや食わずの生活を続けている人間もいるはずだと、そう言いましたよ。私だって、十数年前のある日、床の上を今より高速に走り回るビー玉を創りたいと思い立って、家に研究室まで作りましてね。長年連れ添った女房にはすっかり呆れられて、ある日彼女に愛想が尽きたよって言われ、逃げられた後も、財産のほとんどをそれに注ぎ込んで研究を続けたけれど、結局願いは叶えられずに、札束を机の上に積み上げる夢を毎日のように見ながら、もう十数年間もこういう露店商をやってるんですよ。そんな私の姿を見て、無茶するなよ、そろそろ辛くはないかと尋ねてくる周りの人間には、自分は子供たちの笑顔を見たいだけだって、研究を始めた当初から気持ち良くそう答えていたけれど、あれからずいぶん時が流れて思い返すと、実際はどうだったのかな…? ビー玉で一山当てて、マスコミに派手に追いかけられたり、道行く人みんなに手を振られてちやほやされるような資産家になりたいという願望も少しはあったのかもしれませんね。何せ、きれいでしょ? ビー玉というのは。ちまたの話題になるような七色に輝く玉を発明したなら、こんな私にも若い女性が、まあ素敵などと言いながら寄ってきてくれるかもしれないし、無駄に歳は取ってしまったけれど、まだ男として終わったつもりはないし、四輪馬車に乗ってサロンに通う真っ赤な美しいドレスに淡い恋心を抱いていた時期もありましたしね。でも、そんな妄想生活を続けていたらどうです? 財布の中にはいつだって小銭しか入ってないんですよ。神様なんて本当にいますかとね、逆にその生徒会委員に真顔で聞き返してやりましたよ。もしいるのなら、十数年間の毎日をつまらない妄想から発生した浪費に費やしていた私にだって、少しはお恵みがあっても良いのではないかとね。そうしたら、その立派な格好の人は何も言わず、二三度首を振ると微笑みながら去って行きまして、私の話に退屈したのか呆れたのかでしょうが、とにかく何も購入せずでした。ところが、次の日には、正門の横に生徒会からの貼紙が…。あの店は不謹慎な店で、無神論を唱えているから近づくなとね。どうです? ちょっと、ひど過ぎやしませんか? 私は自分の夢も追いかけられなくなって、生活費を稼ぐためにただホットドックを作っていただけなのに…。いくら生徒会の人達が未来の高給取りを約束された立派な方々だからって、元から恵まれなかった者がここまで差別されるとはね。この世にはほんと神も仏もありはしませんや…」
僕はそれを聞いて、あなたの言うことは正しいと思うから、めげずにこれからもがんばって下さい、と励ますにとどまって、商品を受け取るとホットドック屋から足早に離れたが、実際は、あのおじさんの半生は、全て自業自得のような気もしていたので、この事実をネタにして生徒会を責めるのは難しいように思われた。これは武器と言うよりも蛇足になりかねなかった。僕が生徒会と敵対している理由はあのおじさんのそれとは明確に違うからだ。彼のは自分の分不相応な願望が生み出した妄想に振り回された哀れなる人生を、生徒会に最後の段階になって踏みにじられただけで、僕のように普通に生きているだけで思想的な差別を受けているわけではなかった。話を聞いた限りでは彼との共闘は難しいように感じられた。僕が欲しいのはできる限りかの組織に弱みを持たずに一緒に戦ってくれる頼れる仲間であって、あのホットドック屋のように矢尽き刀折れた老戦士ではないのだ。

 社会とは言うなれば大洋に生まれ育った雑多な魚たちの集まりで、そこには、大きな魚も取り柄のない小さな魚も特殊な能力を持つ魚もいるのだろうが、あるいはどの魚も自分こそが世界の中心だと思っているのかもしれない。ところが、その海流は人知の及ばない自然の力で流れ動いていて、実のところは、誰を中心に回っているということもないのだ。特定の力によって、ある一くくりに大網が投げられてしまうと、それが当たらなかった魚達には、なぜか生涯まったく光が当たらないような仕組みになっており、網が投げられて幸せになれた本人も、自分がなぜこんなに恵まれることになったのかはわからないのだが、運悪く網から漏れて、引き上げられなかった魚たちは知らぬ間に暗黒の海流のただ中に我が身一つで漂うだけということに成り兼ねないのだ。つまり、ラルセの人生には網が投げられたのだ。僕は自分だけが取り残された魚になったような気がして、ますます身が重たくなった。
 正門の横にはおじさんの言う通りホットドック屋をひどく中傷する貼紙があった。僕はそれをビリッと剥ぎ取って丸めて道端に捨てた。広場のベンチに座って無心にホットドッグをかじっていると、「ここにいましたか」と弾む声が聞こえてきて、ブエナが笑いながら駆け寄ってきた。今日の彼女は生徒会の礼服ではなくて、一般の制服姿だった。
「僕を探していましたか?」
彼女に視線を向けて動揺を見せないようにそう声をかけたが、先ほど生徒会本部に乗り込んだときのような熱い心の炎はすでに小さくなってしまっていて、今、このしつこい女に対抗できるかは微妙だと感じていた。正直、今は逃げたさ半分だった。生徒会が自陣まで乗り込まれたことを根に持って追っ手を差し向けてくるとしたらこの女だと思っていたが、まさに僕の思っていた人物が思っていたタイミングで現れたのだった。
「ええ、探しましたよ。何があったんでしょう? わざわざ本部まで来て、私を探しながら、受付嬢を散々に罵っていったそうじゃないですか。かわいそうに、あの娘は生徒会の中では一番純粋な娘なのに…。本当に何も知らない子なんですよ。あなたの汚れた思想論を吹っかけるのなら、もっと手強い相手がいくらでもいたでしょうに。でも、ヘルズ地区でのあんな一件があった後なのに、私ごときがパヌッチさんに興味を持っていただけるなんて光栄です。今だったら、時間がありますから喜んでお話をお聞きしますよ」
彼女はそこで僕の手に握られているパンの破片を見た。
「正門のところの貼紙を見ましたか? あの店には近づくなと警告してあったはずでしたが…」
「ああ、見たよ。僕自身はあのおじさんが悪い人間には見えなかったから、安心してパンを買ったよ。彼は才能や判断力には恵まれていないかもしれないが、しごくまともな人間だよ。おかしいのは君らの方だ。なあ、頼むからおじさんが元のようになんの迫害も受けずに商売ができるようにしてやってくれよ。あなたたちのいじめはちょっと陰険すぎるぞ」
ブエナはそれを聞くと、何も返事をせずに僕の隣に腰をかけてから足を組んで座り直した。その無機質な表情は、その問題については、私の一存ではどうにもできませんと言っているように見えた。おそらく決定を下したのは生徒会の上級幹部なのだろう。きっと彼女が口を出せるような単純な問題ではないのだ。始めにどんな解答を用意しても、いずれは「それは本部に問い合わせないとわかりません」という答えに行き着くことになる。生徒会の階級の中にあっての自分の発言力の小ささを表に出したくないのだろうか。
 しばらく二人とも口を開くことはなかった。冬になりたがっている冷たい風が何度となく二人の横を通りすぎていった。彼女は僕がホットドッグを食べ終わるのを黙って待っているようだった。風に流されたイチョウの葉が舞ってきてヒラと足元に落ちた。その日は午後になっても気温は上がらず、広場にはほとんど人影がなかった。普段は昼休みのこの時間は、自分の部屋の占いの宣伝をする呼び込みや、上級生が使い古した占い用品を格安でバザーに出していたりして結構賑やかなのだ。
 そのときちょうど、反生徒会組織の活動員と思われる二人組が視界に現れて、そのまま僕らの方に近づいてきた。毛玉のいっぱいまとわり付いた、センスの悪い安っぽいセーターを着込んでいたので、すぐにそういう派閥に属する人間だとわかった。彼らは生徒会にきつく見張られていて、校内で堂々と政治活動をすることはできないので、鼠が喜んで巣を作っているような埃だらけの部屋に篭っている間に、いつの間にやら世間から置いてきぼりを喰らい、顔はニキビや口髭だらけになり、自然と見かけも悪くなるのだった。そして、数週間ぶりにやっと巣穴から出てこれて太陽を怖がるような、そんな不自然な身振りによって素性がよくわかるのだ。二人は妙に不自然な作り笑いを浮かべて、にこやかに話しかけてきた。校内でこのような人間たちが、おおっぴらに活動をしているところに出くわすのは珍しいことだった。
「お二人さん、いいお天気ですね。今はちょうどお昼休みですか?」
ブエナは二人が自分と思想を異にする人間だとわかると、真っ青な顔色になってすぐに顔を背けた。僕と彼らとは、『敵の敵だが、別に味方ではない』といった感じの関係だが、僕は嫌悪感を顔に出すことなく、にこやかに「ええ、実にいい天気です」と自然な声で答えた。それは隣にいる彼女にしてみれば、反体制派の人間同士が使う合言葉のように聞こえたかもしれない。同じベンチに腰掛けている僕ら二人を友人同士だと思い違いしたのか、反体制派の二人は何の警戒もせずに余裕たっぷりに近づいてきて、僕に薄汚れたビラを手渡した。そこにはよく見知っている生徒会の悪事の数々が列挙してあった。ただ、僕の隣に座っている人が生徒会委員だとはまったく気がつかないようだった。反体制派に属していながら、ブエナの顔も知らないような安っぽい活動家とは仲良くなりたくないのだが、僕はにこやかに頑張って下さい、と声をかけた。僕の言葉に二人は気を良くしたようだった。
「現生徒会をみんなの力で打破しましょう。彼らは偉ぶっていますが、その実は、彼らだけの正義を振りかざし、権力にものを言わせて、好き勝手やっているだけです。彼らは校内にいる生徒を、自分たちに従う者、従わない者の二つの階層に明確に分けようとしています。次の総選挙で彼らを打倒して、本当の自由と正義に満ちた生徒会を立ち上げましょう」
二人は力こぶしを作って、活力に満ちた声で力強くそう言って、僕の肩をぽんぽんと叩いて仲間意識を植え付けてから去っていった。
「ああいう人たちとも付き合いがあるんですか?」
ブエナは二人の活動家の姿が小さくなると、安心したように大きく息を吐き、呆れたようにそう尋ねてきた。
「もちろん知らない人だよ。僕ら二人が平凡なリベラリストに見えたから声をかけてきたんだ。君だって襟元のあの金バッジさえ付けなければ、案外見所があるのかもしれないぜ」
ブエナは二度とそんな話をするなとでも言いたげに、冷たい視線を返してきた。彼女は一度大きく腕を伸ばして深呼吸をしてから再び話しかけてきた。
「知らないとは言わせませんが、次の日曜日は総選挙です。パヌッチさん、どうするんです? 今年もうちの会長に投票して頂けますよね?」
「投票したら、ブラックリストから外してもらえるのかい?」
「あなたとしたら、その第一歩にしたいのでしょう? 今度の選挙は明るい真っ当な道へ踏み出す、いい機会だと思いますよ。うちの会派は馬鹿馬鹿しいからってことで、一票ずつ積み重ねていくような、こんな細々とした選挙活動なんて本当はしたくないんです。だって、活動をしようがしまいが、どうせ大量得票を得て勝つのはわかってますから。実を言えば、支持率は8割でも9割でもいいんです。ご承知でしょうが、どんなに不祥事が起きたとしても、政権を担うのは結局うちの会派しか有り得ないんです。余所はうちのやり方に文句こそ言えますが、どうあがいても十年祭や卒業式などの大きな行事を司ることはできませんからね。ああいう盛大な行事には、それはもう大量の寄付金と、他校や商店街の各店舗との密接な繋がりが必要なんです。うちの会長はそういう裏側の根回しだけで学校生活のほとんどの時間を使ってしまうほど多忙なんです。それらの行事をつつがなく成功させるためには、他の会派では、まだまだ人脈や経験が足りないんです。一般生徒もそれはよくわかっています。ですから、大多数の人は何も言わなくても我々に投票してくれるんです。もっと言えば、私だってパヌッチさんにわざわざ温情をかけにくる義理はないんです。でも、わかってくれますよね? 今度のことを無かったことにしたいのなら、黙って会長に一票投じて下さい。これ以上詳しく言わなくてもわかりますよね? 私につまらない説得をさせないで下さいね。去年だって、あなたの留年がかかっていなかったら、まったく、あなたって人は、誰に一票を投じたかわからないのだから。つまらないプライドに自分の人生を賭けてはダメですよ」
「今年も僕を脅すつもりですか? 去年も今と同じことを言われましたけど、あの時はたしか、もっと上級の人が出向いてきましたけどね」
「そういう反抗的な目付きはやめてください。私だって重職に就いている身ですから、もう、あなたとつまらない言い争いをしようとは思いません。交換条件などと言い出すつもりもありません。下手に出るつもりもありません。こちらの警告に素直に服従して下さい。もう一度言いますね。今年の総選挙でうちの会長に入れていただければ、先ほど本部に乗り込んできて、会長秘書のクレモネさんを罵倒して痛めつけた罪は不問にします。本当にそれがわかってます? 万が一、白票なんて投じたら、あなたの学生生活は本当に崖っぷちですよ」
道理で手強いなと思ったが、先ほどの受付嬢は会長秘書だったのかと思い至りながら、この女のうかつさを腹で笑い、僕はゆっくりとベンチから立ち上がった。
「誰に投票するかは少し考えさせて下さい。なに、日曜日までにはちゃんと決めますよ。さっき、会長の得票が8割でも9割でも信任だと偉ぶってましたけど、去年はギリギリで8割でしたっけ? 校内一の有名人が、さすがに7割だと笑えませんよ。情勢を見ていると、今年は危ない危ない。僕とひなたぼっこしてないで、ちゃんと選挙活動したほうがいいと思いますよ」
僕は自分らしい嫌みをきちんと放ってから、彼女に背を向けて自分の部屋へと向かった。ブエナも僕がタッサンに説教されたのは知っているようで、これ以上追い詰める必要はないと、平和な会見を望んで来たのだろうが、今の発言にはさすがに頭にきたらしく、彼女は苦々しい顔をしながら、獲物を付け狙う狼のようになって後をついて来た。僕は振り切ろうとして足早に宿舎に戻ってきた。
「ちょっと! 投票するって言ってから帰りなさい!」
ブエナは我慢できずに、後ろから大声を張り上げた。僕は自室まで逃げ込むつもりだったのだが、階段を駆け上がると、部屋の前にはラルセが立っていて、僕の心臓を驚かせた。
「どこへ行ってたの? みんな、心配してるよ。生徒会に拉致されたのかと思って…」
ラルセは後ろから追ってきたブエナの存在にも気づいていたが構わずそう言った。
「だ、大丈夫だよ。何も悪いことはしてない。生徒会長に一言言ってやろうと思ったんだけど、彼は広報活動中でいなかったんだ。だから、おとなしく帰ってきたよ」
本当は会長秘書を罵倒したり、上申書を書こうとしてタッサンに説教を喰らったりと色々あったのだが、これ以上彼女を心配させぬよう、僕はそれらの件については話さなかった。
「それならいいけど、ロドリゲス君があなたを心配して、本部まで様子を見に行ったみたいよ」
僕らの話が途切れたのを見て取ると、ブエナは走り寄ってきて、ラルセの手を取った。
「ラルセ! おめでとう! 晴れて占い師に合格したんですって? 親友が合格して本当に嬉しいわ! 私ったら、取り乱しちゃって…、本当に我が事のように喜んでるのよ」
落ちた僕が眼前にいるので、ラルセがおおっぴらに喜べないことをいいことに、ブエナは彼女の成功を必要以上に騒ぎ立てた。この女は勘が鋭いから、彼女の合格によって、僕ら二人の関係が揺らいでいることを知っているのだ。
「ブエナ…、ありがとう…、生徒会の人達にはいつも応援してもらって…」
「そんなこといいのよ…、生徒会でも、みんなあなたが合格するだろうって、数週間前から噂しあってたのよ。秘書のクレモネさんが、実は普段の成績はあなたより上位なんだけど、今回は落ちちゃって…(ここは声を小さく)、でも、あなたが我が校の代表として占い師になれるんならって…、みんな喜んでたわ。会長も協会から正式な通知が届く日には本部に合格者をお招きして軽いパーティーをしようって言い出して、今大騒ぎになってるところなのよ」
僕はついさっき本部にいたが、生徒会の関係者は全員落ちたようで、全体的にかなり落ち込んだ雰囲気であり、リベラリストのラルセの合格を喜んべるような余裕があるはずはなく、ここまで嘘八百を並べられるとは、この女の外交戦術には驚くばかりである。
「ありがとう、ブエナ…。クレモナさん、落ちちゃったの…? 信じられない…。彼女ほどできる人はいないって普段から思ってるし、手紙を送りあったりして、お互いに尊敬する間柄だから、合格するときは一緒にって思ってたのに…。でも、彼女の実力なら、次の機会に絶対通ると思うから、私は何の心配もしてないわ…。彼女に会ったらよろしく伝えてね」
「あの受け付け女とそんなに仲良かったの?」
ブエナに聴こえないように、僕はラルセの耳元でそう囁いた。ラルセは僕の方に鋭い一瞥をくれた。
「仲いいわけないでしょ。あの人、私とすれ違う時にいつも足を踏み付けていくわ。あの性格で受かると思ってるんだから、お気楽もいいとこよね。まったく、神様は全能だわ」
僕らの密談を聞き取ろうと、ブエナがさらに顔を近づけてきた。
「ラルセは知らないかもしれないけど、さっき、ここにいるパヌッチさんが生徒会本部に乗り込んできて…、みんなに大声で罵声を……ううっ、クレモネさんなんて…(ここでわざとらしく涙を拭って)、立ち直れないほど精神的にダメージを受けてしまったらしいのよ…。ラルセや京介君がこれからパヌッチさんと一緒に本部に来てくれると嬉しいんだけど…。だって、彼一人だけじゃ、また気持ちが熱くなってしまうから、きちんと謝罪できないだろうし、また乱闘になりかねないですものね。次の選挙の投票のことで…(少しためらいがちに)、みんなに一筆書いてもらえたら、私もあなたたちをより強く弁護できると思うわ」
「そんなことがあったのね…。わかった…。行くわ。きちんと事情を説明しないとね…」
「ありがとう! じゃあ、私は一足先に本部に戻って、これからあなたが来ることをみんなに知らせておくね」
ブエナはそう言ってから、サッと振り返り、後ろ髪をなびかせて走り去っていった。
「なんで、一人で勝手に本部に行ったのよ? 気が立っていたのはわかるけど、それでどうにかできると思っていたなんて…、信じられないわ」
ラルセはブエナが消え去ると、僕の耳を強く引っ張って怒りだした。こういった彼女の計らいによって、気まずさが霧散して、かえって僕は打ち解けることができた。
「それで、あなたは誰と会ったの? 経緯を説明してよ。クレモネと長時間議論して後は誰と話したの? 会長はいなかったんでしょ?」
僕は会長を呼び付けたかったのだが、受け付けにいたクレモネの牙城を崩すことができず、最終的には上申書を書こうとしてタッサンに止められ、彼に喫茶店で叱責を受けたことを正直に話した。
「今思うと、自分でも大胆なことをしてしまったと思っているよ。生徒会の本部に乗り込むなんて、権力にびくびくして、まだ大人しかった去年の僕には、とてもできなかったろうからね。それと、クレモネって女が、まさか会長秘書だとは思わなかったんだ。上品そうであまりに線が細かったから、たいした身分じゃないだろうって思い違いして、きっと、ちょっと顔が綺麗だからってことだけで受け付けを任されたんだろうなんて思い込みをしてしまって、それなら少し威圧的に迫ってへこませてやろうと、あんた呼ばわりなんかしちゃって、その上で散々怒鳴りつけてしまって…、まあ、向こうからもかなり言い返されたけど、ちょっと、やり過ぎちゃったかなあ…。どうしよう?」
「お願いだから、本部へ行くなら、もう少し敵を知ってから乗り込んでよね…。クレモネは生徒会の中で一番怖い存在だわ。顔の表面に薄皮の猫を被ってるけど、その下に、さらにぶ厚いぬいぐるみを被っているような、決して他人に自分の心を読ませないタイプの女でね…。まあ、あなた程度の人が言った悪口を、そんなに本気で受け止めたりはしていないだろうけど、途中でタッサンに救われて本当に良かったわね…。あなたが目を血走らせながら言ったことは、そのまま全部会長の耳に入ることになるのよ。彼女からは何も言われなくても、後でどんな嫌がらせを受けるかわかったもんじゃないわ。上申書なんて提出してたら、それこそ、私たち四人はしばらく自宅謹慎になるとこだったんだから…」
「あのクレモネって女は、もしかすると会長の彼女なの?」
僕は心に思いついたことを恐る恐る聞いてみた。
「当然でしょ…って言いたいところだけど、実際はどうなのかしらね。なるべく話したくない相手だから、そんなこと尋ねたこともないけど…。授業で私が隣の席に座ると、まるで女神様のようにニコッとして『こんにちは〜』って話しかけてくるけど、あの女のすました笑顔は本当に怖いわね。『ほら、こちらから声をかけてあげたんだから、早く丁寧な態度で言い返しなさいな』ってな感じに聞こえるのよね。寒気がするわ。あの女に比べたら、会長やブエナなんて全然怖くないんだけど…」
ラルセは僕の靴を自分の靴のつま先でコンコンと蹴りながら説明してくれた。
「これからどうする? ラルセが行きたくないなら、僕一人でもう一度本部へ行って、事情を説明してくるけど…」
「私も行くわよ。あなた一人で行かせたら、今度こそどうなるかわからないでしょ。京介は審査の結果で相当落ち込んでいるから、連れて行かない方がいいでしょうね。これ以上、話を錯綜させるのもどうかと思うし…」
 二人で靴を並べて歩きながら、そんなことを話し、もう一度僕は生徒会本部に向かうことになった。本部の入り口には先ほどと違って、竹刀を持った生徒二人が立っていて、緊張感がみなぎっていた。僕がここを訪れた件が大きな問題になっているのか、いつもよりさらに警備を強化しているようだった。
「ほら、二人が見えたわよ!」
忍び足で一階のロビーに一歩踏み込むと、ブエナが誰かに大声でそう呼びかけながら、鋭い視線を向け、殺気を漂わせながら僕らを出迎えた。彼女の声を聞き付けて、二階から静かに数人の生徒が降りてきた。そこには静かに微笑むクレモネの姿もあった。彼女がそれほどの重要人物だとわかってから見ると、その清楚なブレザー姿には威厳があるように感じられた。彼女は軽く笑いながら、ラルセの方に真っ直ぐに向かってきた。
「ラルセさん…、いらっしゃい…、久しぶりに会えて嬉しいわ。ますますご健勝のようで…」
そう言って彼女は利き手をラルセの方へ伸ばした。
「こんにちは、お元気そうね。さっき、パヌッチがそそうをしたそうで…、何と言うか…、申し訳なくて二人で謝りに来たの…。本当にごめんなさいね…」
二人はそこでしっかりと握手した。そこには、これまで紛争を続けてきた国の首脳同士が初めて会談するときのような緊張感があった。
「ああ、そんなことで来てくれたの? パヌッチさんとは…、人間関係についてお互いの意見を軽く述べあっただけで、思想の違いがあって、多少熱くなる場面もあったかもしれないけど、お互いに何も不機嫌になるようなことはなかったのよ。もしかしたら、ブエナさんが大袈裟に伝えたから来てくれたのかもしれないけど…。私って、こんなつまらない女でしょう? 相手の話を黙って聞くことしかできないし…、それで、上手く助言することができなくて、パヌッチさんの機嫌を損ねてしまったのなら、こちらこそ謝らなくてはならないわね」
「パヌッチさんも、今期の選挙で会長に投票することを約束するためにわざわざ来てくれたんです」
横からブエナが出てきて、わざわざ余計な口を挟んできた。僕は一度愛想笑いを浮かべて、肯定も否定もしなかった。投票については、まだ、心を決めかねていたからだ。僕は彼女に歩み寄って深々と頭を下げてから話し始めた。
「クレモネさん、どうも…、些細なことですぐに気分を高ぶらせてしまうのは僕の悪い病気でして…、先ほどはちょっと熱くなって言い過ぎました。占い師の審査に落ちたのは、よく考えてみれば僕自身の責任なのに、思い込みを含んだ思想的な観点だけで話を進めてしまったのは間違いでした。どうも、すいませんでした」
「あら、いいんですよ。こちらもパヌッチさんの初めての来訪をみんなで喜んでいたんですよ。(処分や叱責を受けるために)いつ来られても、おかしくない立場のお方ですのに、入学してからの二年まるで来てくださらなかったので、こちらも不思議に思っていたんですよ。雰囲気が悪くなりますし、その件はもういいですから、選挙の投票のことで、みんなで少し向こうで話しませんか? 難しい話になりますし、立ち話は行儀が良くないですね。ちょうど午後から会議室が空いているんですよ。ロドリゲスさんも先ほど見えられて、今、会長と一緒に会議室で皆さんを待っておられますよ」
「ロドリゲスが来てるんですか?」
僕は驚いて聞き返した。
「ええ、先ほど大変顔を蒼くなされて来られまして、パヌッチさんの一件で話したいことがあるということでしたので、今、会長がお話を伺っているところです」
ブエナとクレモナに案内されて、僕らはA会議室と書かれた部屋に入った。奥に黒板があり、壁にポスターが一枚貼ってあるだけの殺風景な中規模の部屋で、大きな長い机の周りに椅子が8つほど並べられていた。一番奥の席に生徒会長とロドリゲスが真剣な表情をして、向き合うように座っていたが、僕らが入っていくと、彼らは話すのを止めて、ロドリゲスは緊張した面持ちのままで僕の方に手を振ってくれた。
「どこで捕まえたんだ?」
会長の鋭い質問が飛んだ。彼は不機嫌を隠そうとはせず、僕を睨みつけた。
「それが、正門の外にいました。ご存知かもしれませんが、あそこには最近ホットドッグ屋が店を構えていまして…、なんというか、まあ、えーと…、私は直接主人と話したことはないですが、かなり偏った思想の持ち主らしいんです。パヌッチさんはその人と何か楽しげに雑談をされていまして、おまけにホットドッグを一つ購入されていました」
ブエナが僕の行動をそのように説明すると、会長は今度こそかんかんに怒って、拳で机をたたきつけた。ドスンという大きな振動が離れた場所に立っていた僕のところまで届いてきた。その場にいた全員が身震いをした。
「なんだ、君は! 次から次へと罪を重ねて! 君のために何度審議会を開かせるつもりだ! 生徒会は忙しい組織なんだ。とても対処しきれないよ! 君の悪事だけで、生徒会委員全員を過労死させるつもりなのか?」
僕は一度ごっくんと唾を飲み込んで、気分を落ち着けてから返事をした。
「僕はホットドッグ屋の店主の実情に同情して、パンを一つ買っただけです…。彼の人生には多分に同情の余地があります。難しい言い方になりますが、生徒会が出ばっていくような相手ではないと思うのです。ええ、まるで小物です。自分の半生をかけて高速のビー玉を作っているとか言ってましたけどね。考えてみると、それも自分で作り出したただの妄想かもしれません。自分の境遇に耐え切れなくなって、そのような想像上の半生を捏造したのかもしれませんが、とにかく、とても哀れな親父で見てられませんでした。どうか、あれ以上の差別は勘弁してやってください…」
僕は会長の威圧感に多少びびりながら、震える声でそう返事をした。
「それは生徒会への当てこすりだろうが! よくも、抜けぬけとそんなことを言ったもんだ。おまえなら、あの店がどんな店かわかっているだろうに! 何度同じ失敗を繰り返すつもりだ。特異な思想を武器にして公に反抗しても余計やりきれない気持ちに陥るだけだと、これまでの事件で、いい加減反省したものだと思っていたがな!」
僕はその剣幕に恐ろしくなって口がきけなくなってしまった。
「それで、そのホットドッグは全部食べたの?」
ラルセが会長の話を遮るように僕に尋ねてきた。
「うん、残らず食べたよ。前に来たときと味は変わってなかった。屋台の場所は変わっていたけどね」
ラルセは隣にいるクレモナの方を向いて微笑みながら尋ねた。
「昼休みに何を食べるかは、一応それぞれの生徒の自由よね? 食欲も無いのに、わざわざその店に行ってホットドッグを買ったのなら、何かを疑われても仕方ないけど…」
彼女の言い方には争いを止めて欲しいと哀願するような響きがあった。クレモネはその意見に一度頷いて、場を制するように話し始めた。
「一応、皆さんには座っていただきましょうか。お茶もお出ししますし、いくつかお話を伺いたいことがありますので」
全員が席につくことに同意した。文字通り呉越同舟なので、思想ごとに左右に別れて座った。会長の横にクレモネが座り、書記を挟んで、ブエナが座った。ラルセはクレモネの真向かいに座り、ライバル同士で意見を真っ向から受け止める姿勢だった。全員が座ると、ロドリゲスが一度右手を挙げてから発言を始めた。
「えーと、それで、ホットドッグ屋の件ですけど、さっきの話を聞いていると、購入することを生徒会の誰かに見られていたということかな?」
「ブエナさんが正門のところで待ってたんだ。多分、また僕を見張ってたんだと思う」
ロドリゲスはそれを聞くと、正面に座っている会長の方を向き直った。
「会長、この間、りんごの木商店の店長がガンボレ祭のさなかに何者かに拉致されるという事件がありまして…」
「そんな事件は知らんな」
会長は最後まで聞かずに、つっけんどんにそう答えた。
「その時、僕らはサウズヘルズ地区で調査にあたったのですが、その日一日ずっとこのブエナさんという方が僕らのやることなすことを見張っていまして…」
「私はラルセの友達よ! 一緒にいて何が悪いのよ?」
ブエナがそう叫んで立ち上がった。ロドリゲスは意に介さず話し続けた。邪魔が入ることを予期していたかのように冷静だった。
「それはいいんですが、ラルセさんはいまや生徒会とはまったく無縁のリベラリストですし(本人が例え否定されても、僕が見る限りはそうです)、いくら、入学したての頃は友人だったからと言って、思想が真っ二つに別れてしまった今になって、友人面をして後を付け回すというのはどうかと思うんです。いえ、あなたの言いたいことはよくわかっています。確かに、世の中には、思想的ないさかいを抜きにして子供からの付き合いを大事にしておられる方もいらっしゃいます。ですけど…、それはすでに消えかけた恩情に引きずられての友人関係ですし、僕に言わせれば、やはり、思想の分かれ目が人間関係の切れ目だと思うんです。心の最内に隠し事をしながらの友人関係とは美しいものではないですからね。僕はブエナさんが友人と称してラルセさんに近づく行為というのは、友人関係ではなく、生徒会の任務の一貫であると言わざるを得ないと思うのです」
「そういうことなのよ、ブエナ…。お願いだから、もう、馴れ馴れしくしないでね…」
ラルセは静かな声で相槌を打った。ブエナは彼女の方を見て、悔しそうに唇を噛み締めた。
「だから、それが何だと言うんだ? ブエナとラルセの友情なんて、もう壊れたものだ、今さらどうでもいい。いいか? おまえらみたいなアナキスト集団は、見張っておかないと何をしでかすかわからんだろ? 生徒会とすれば、それはしごく当然の行為だ…。だが、勘違いはするなよ。俺はおまえたちの偵察をしろなんて命令した覚えはない。そんな小さな事案に、忙しい俺がいちいち関わっていられるもんか。他の部所でよかれと思って勝手にやっていることだろう。不適切だとは思わんが、どうでもいいことだ」
会長は冷え切った声でそう反論した。
「しかし、生徒会にはブエナさんのようなスパイ行為を専門に行う部所があって、彼女以外にも、こういう他人の一番見られたくない部分をのぞき見るような行為を行っている部門があることは認めていただけるわけですか?」
ロドリゲスはボールペンで数回机を突きながら、落ち着いた口調で再び会長に尋ねた。
「今も言ったと思うが、俺自身がそんなちんけなことを画策したり、命令したりはしない。専門の部所があるかどうかについては、機構に関することだから詳しくは答えられない。ただ、あのパヌッチのような、思想のねじまがったどうしようもない人種を見張る必要性はあると思っているし、生徒会の他の幹部がそういう行いをやっているのであれば、俺はそれを是認する」
クレモネがそれに追従するかのように語りはじめた。
「そのことは私も知りませんでした。ブエナさんが他人を見張るような、そんな行為をしていたなんて…。ただ、私も会長のお側で日々働いていて知っていますが、会長自身がそのような薄汚いことに関わっておられることは誓ってないと言い切れます。会長は全校生徒のことを考えて、日々骨身を削って行動しておられる素晴らしいお方です。会長という役職はただそのためだけに存在し、宝石のように昂然と光り輝いているのです。ですから、生徒会の一員であるブエナさんが、そのようないかがわしい行為に及ぶには何か深い理由があると思うのです」
ロドリゲスはその発言には構わず、視線をブエナの方に移して質問を続けた。
「これは生徒会の議事録にも残る会議ですから、虚偽の発言をすれば、当然罰せられるわけですよね? では、ブエナさん、いったい、どこの部所の誰から指令を受けて僕らを見張っていたのかを教えてくれませんか?」
ブエナは緊張しているのか途端にぎこちなくなり、少し口元を震わせながら、会長やクレモネの方に一度視線を向けて、それすらまずい行為だと悟ったのか、今度は下を向いて、指先で机の上に何か文字を描くような仕草をしながら、口をもごもごとさせた。
「言いたくないのなら、言わなくてもいいんだぞ。会議には回答拒否権もあるんだからな」
会長の鋭い声が飛んだ。
「どうぞ、発言して下さい。ことの善悪を判断するためにはあなたの発言が重要なんです」
ロドリゲスは早く話すように促した。
「ええ、え…、私の独断です。誰からも命令を受けてはいません。友人のラルセとパヌッチさんが仲良くしているのが許せなくて彼らを見張ってました…。生徒会とは関係のないことです。不愉快でしたら、謝罪します。すいません…」
「それなら、僕がホットドッグ屋に行くところまで見張らなくてもいいだろ?」
「ごめんなさい…」
ブエナは屈辱にまみれた表情で、そう謝罪した。ラルセが一度クレモネの方を見てから、静かな声で質問した。
「クレモネさんはこの件について本当に何も知らなかったんですか? あなたとブエナさんは授業でも、いつも隣に座るほどの仲良しだし、二人とも私と面識があるし、会長が私たちを見張れとブエナさんに直接命令したっていうのは無理があると思うんだけど、あなたなら…、何か知ってませんか?」
鋭い質問にもクレモネの表情はまったく崩れなかった。
「ごめんなさいね。授業の中でブエナさんといちいちどんな話をしたかは覚えてないです。学生同士の授業前の挨拶なんてあまりにも軽すぎて、話した側から空気の中に消えていくようなものです。ブエナさんという存在を軽視しているわけではないですよ。ただ、学業は教師の声に集中していればこそ身につくものですしね。私自身はパヌッチさんはともかく、ラルセさんのことはすごく尊敬していて、なんというか、勝つためには手段を選ばないところなんてすごいなっていつも思っています。ラルセさんは自分が最後に笑うためなら途中過程でライバルの身に何があっても平気みたいだし、あなたの論文に罵倒され、蹴落とされて、さめざめと泣いている占星学生もいっぱいいるのに、あなたは自分の後ろを振り向きもしないで、そういう背後で肩を落としている生徒達に何の配慮もなくズンズンと前に進んで行かれて、成功のためには友情なんていらないって思われてるんでしょうけど、お望みは友情の入る余地のない学生生活ですか? それもいいですよね。人間、墓の中に入るときはどうせ一人ですものね。そういうラルセさんの生き方をこれからも陰ながら応援していくつもりです。それと、誤解なさらないで下さい。私は応援のつもりであなたを見守っているのであって、行動を見張るとかそんな怖いことは考えてもいません(例え、誰か人を使って、あなたの行動を探らせていたとしてもですよ)。だいたい、権力も持たない一秘書に過ぎない私が、あなたがた自由人に手を出すことなんてありえませんものね。あなたは本当に尊敬できる人です…。他人とは向き合えない自由…、ふふふ」
クレモネはそこまで言うと、こらえきれないように低く笑い声を発した。ラルセはそれを聞いて、一度目をそらして下を向いた。その口元がにや〜っと笑い出した。こういうときは彼女の頭が熱くなってきて、怒りで心が爆発寸前になっている証拠である。
「私の人生が今のところうまくいっているのは、自分の努力の賜物で、ライバルさんたちが転んでくれたからではないですよ。ただ、私だって前を向いています。目は後ろに、転んでしまった方々が妬みの目をして座り込んでいる後方にはついていませんものね。それと、羨望っていうのは成功の後にしかついて来ないものです。もう一つ言わせていただければ、クレモネさんが権力の影に居座って、手を汚さずに美味い汁を吸っていても、私には関知しないことです。会長秘書ですって? 冗談じゃないですわ。そんなふしだらなポストに就くくらいだったら、組織に属さない自由人の方がよっぽど素敵ですわ。例え、どんなに地べたに近くても、私なら喜んでそっちを望みますものね」
ラルセは完全に言い返し、感極まったようだった。ブエナは二人のぶつかり合いをなんとか止めたいようだったが、その場に漂うあまりの殺気に身体がブルブルと震えてしまい声が出ないようだった。僕も口を挟む余地がなく、今のところ、下っ端とエリートの格の違いを見せつけられる結果となっている。
 しばしの沈黙の後、音も立てずにクレモネが立ち上がって、入り口の方へ向かって歩み出した。
「どうした?」すかさず会長から声が飛ぶ。
「暖房の温度上げて来ます。パヌッチさんもちょっと寒いでしょ? ごめんなさいね、気がつかなくて」
「いえ…、僕は…、そうですね。すいません、わざわざ…」
彼女が席を立って、議論に間を開けたのは、暖房などが気にかかったわけではなく、今のところ、自分の方が押され気味だと感じたから、ラルセの勢いを食い止めるためにわざわざ立ち上がったのだが、僕は当然として、ロドリゲスも彼女の巧妙な時間稼ぎに勘づいたようで、少し苛立ったのか、背もたれに寄りかかって、椅子をギシギシといわせながら一度大きく深呼吸をした。
 そんなとき、ドアが開いて、タッサンが室内に入ってきた。彼は手にお菓子の乗ったお皿を持っていて、足音も立てずに会長の背後まで歩んでいくと、それを静かに机の上に置いた。
「皆さんでどうぞ…。議論の合間につまんで下さい」
「これは、どこで買って来たんだ?」
会長が中心部に黒ゴマをまぶしてある、模様のついていない地味な薄型のセンベイをつまみ上げて、不思議そうにそれを眺めてからタッサンに尋ねた。
「憑依の京介の実家の両親が生徒会宛てに送ってきたそうです。ええ…、なにしろ、彼も今期は相当に成績が落ち込んでいますから、あれはあれで気を使ったのだと思います…。イワテという地方の銘菓だそうです」
「そういえば、今日は、おまえたちの仲間のあいつは来ていないのか? よくわからんが、狐に憑かれたとか言って、よく広場をぴょんぴょんと飛び回っている、あいつは?」
会長はセンベイを一枚口に入れ、それをガリガリとかみ砕きながら大きな声で質問した。
「京介のこと? 今回は連れて来なかったの。彼が来ると議論が錯綜してしまって収集がつかなくなってしまうと思ったから…。でも、本当は彼にもこの議論を聞いてもらいたかったのよ。彼も私たちと同じ意見を持っているんですもの」
「あんなものが占いと言えるのか? どんな大きな事故を起こしても、前例が無いという理由だけで、この国の法律で裁けないような占いが! 俺がどれだけ我慢してると思ってるんだ。いくら研究機関といっても、学校は遊び場じゃないんだぞ!」
「会長、1985年のエスカー論文というものがありまして…。ご存知でしたか?」
不意にロドリゲスが割り込むように口を挟んできた。
「正確には、ハインリッヒ=エスカー宣言だ。俺を誰だと思っている。占い研究の第一人者だぞ。知らないわけないだろうが…」
「ええ、そのエスカー宣言で憑依も占いの一つとして正式に認められたんですよ。もちろん、地位は水晶には遠く及ばないかもしれませんが…。ですから、この場で憑依を卑下するような言い方はやめて頂きたいですね」
会長はそれを聞いても、まったく表情を変えることもなく、眼鏡の向こうは冷たい視線のままで、手に持ったセンベイを眺めながら、余裕の面持ちだった。
「ハインリッヒが言ったのは、水晶や占星以外にも未来や過去を占える占いが存在する可能性があるということだけで、何も憑依を賛美したわけではないし、ましてや、占いに選択の自由を認めたわけでもないんだぞ」
「ええ、でも、それまでのような、古典的な占い方法に占有されていた占い世界に新しい光が大いに差し込んだとも言えるのです。なにしろ、それまではタロットか水晶を数年間学んだ人間でなければ、占い学の応用には進めなかったのです。会長は今でもそのような古い考えを持っているみたいですが、僕は新しい占いも認めてあげて欲しいんです。もし、人類のすべてが保守的な考えしか持ち合わせていなかったとしたら、エジソンもアインシュタインも生まれなかったのですよ。例え、最初は苦く感じても、新しいものを認める心は人類の発展のために必要なんです。違いますか?」
ロドリゲスは会長の目を見ながら、説得するかのように強く働きかけていた。
「ロドリゲスさんはロマンチストなんですね」
クレモネは暖房のスイッチを操作すると、そう言って軽く笑ってから席に戻った。明らかに自分達の知性の高さを鼻にかけて見下しているようだった。
「まあ、発明と革命は違うからな…。エスカー宣言を受けて、もしかしたら、研究を進めていくうちに何か新しい発見…、占いに関することでなくてもな、そういう発見があるんじゃないかと思って学長は憑依の研究を認めたらしいが……、今のところ、たいした成果は出ていないようだな…」
会長は視線を天井に向け、何か物思いに耽りながら、ゆっくりとした口調でしゃべった。ロドリゲスはそこで一度下を向いてしまった。これまでの京介の様々な失態が頭を過ぎったのかもしれない。
「ラルセ君はどう思う?」
不意に会長がラルセに問いをかけた。
「もちろん、難しい問題ですわ。私自身、憑依を何度か目撃して…、ある種の感動に心動かされた経験はありますけど、水晶とあれを比べるのは利便性の面でも安全性の面でも比較になりませんものね…。魔女のまたがっているホウキと新幹線を比べるようなもので…」
ラルセは答えにくそうだった。彼女自身も議論の矛先が僕らにとってまずい方向に進みつつあるのは承知しているのだろうが、一度受け手に回ると、いくつもの弱みを持つ僕らは不利だった。

 もしかすると、読者の中に、今話題にのぼっているエスカー宣言をご存知ない方が紛れ込んでいるかもしれないので、ここで少し説明を付け加えておく。もっとも、エスカー宣言は20世紀の占い史の中でも、最も優れた学説の一つと言われているものであるから、今まで、これを知らないで育ってきたということは、占いを少しでもかじっている人間にとっては大きな恥になるということも理解しておいて頂きたいところである。
 1985年秋のこと、ドイツのミュンヘンの占い協会主催の学会に占い研究の第一人者ハインリッヒ=ミュラー氏が出席するのではないかという噂が、開催の数週間前から関係者の間でまことしやかに流れていた。
 ミュラー氏といえば、60年代から70年代にかけて、占いに関する数々の画期的な論文や定義を発表し、学会の話題をさらった人物である。氏が発表した有力な学説の一つに『占い結果二分性の法則』があり、これは同じ問題について、同じ人物が水晶とタロットを使って別々に占ったとしても、必ずしも結果は一致しないという法則であり、これが発表されるやいなや、占い界全体が震撼し、その実用性が証明されると、氏はたちまちにして占い研究の最先端をいく学者に祭り上げられることになったのである。氏はこの後にも、複数の方法で占って違う結果が得られた場合、水晶の結果を一番重んじるべきだという『水晶有利の原則』や、水晶やタロットで占う未来の予測にはある程度の限界があるという『未来予知不可分性の法則』などを次々と披露して、学会を沸かせたのである。
 しかし、エスカー教授は70年代の半ばに突如として研究施設から姿をくらませ、以降、まったく行方がつかめなくなり、協会での重要な会議や研究にもまったく出席しなくなった。これには、病気説や失踪説も含め、学者の間で様々な憶測が飛んだが、その中で一番有力であったのは、当時世間を騒がせていた、占星での占いよりもコンピューターによる天気予報の方が結果が正確だという、ある数学者の研究発表に、エスカー教授が反論出来なくなったためではないかというものであった。
 思えば、当時は、21世紀の天気予報は機械が担うか占いが担うかを決定するちょうど端境期であったわけだが、エスカー教授は占いの威信を保つべく、その責任を一身に背負い、思い悩んでいたのではないかと、学会の関係者は連日噂しあっていた。もちろん、占い協会の幹部の大部分はエスカー教授の復帰を強く願っていたし、この日、数年ぶりにミュンヘンの議場に教授が姿を現すと、会場全体からの割れんばかりの拍手がそれを出迎えたものである。議場では早朝から、この数年の間に、各国の学者たちによって考えだされた様々な学説が次々と発表されていったが、観客の目は常にエスカー教授に向けられていた。数年間の沈黙を破って、教授が自らここへ足を運んだからには、何かとてつもない、数学者とのこれまでの議論に一気に終止符を打つような、画期的な学説の発表があるのか、あるいは、占い自体をさらに大きく発展させていくような希望に満ちた展望が開かれるのではないかとの期待に、来場したすべての聴衆が胸を躍らせていた。
 いよいよ、エスカー教授が意見を述べる番になり、彼はゆったりとした足どりでステージに上がった。会場のあちこちから一斉にフラッシュが炊かれ、立見客は教授の姿をなるべく良い場所で見ようと移動して、押し合いへし合いを始めた。会場の盛り上がりはすでにピークに達していた。教授の姿は失踪前の頃とあまり変わっていなかったが、いくぶん頬がこけ、やせ細っていて、目の光にも衰えが見られた。彼がこの数年間、難解な疑問と戦っていた形跡が十分に伺えたのである。
 彼は一度大きく咳ばらいをすると、会場に響き渡るほど大きな、はっきりとした声で、「考えれば考えるほどわからなくなるような、深い泥の沼に、我々はまた足を踏み入れてしまったのであります!」と、まず怒鳴り声を発した。一瞬の驚愕のどよめきの後に、会場中が静まり返った。齢80を過ぎた老教授にそんな大声が出せるとは誰も思ってもいなかったので不意を突かれたのである。教授はまた一度咳ばらいをすると、今度は静かな、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「物事の本質はできることとできないことの、両方を知ることであります。この世界に生きる多くの研究者は、すでにできると決定づけられたことにしか手を出してきませんでした。それは科学や物理の研究に止まらず、占いにおいても然りであります。例えば、水晶の技術や品質を上げることであるとか、占星用の望遠鏡の精度を科学の力をもって引き上げることなどです。人間は誰しも、いくらでも行き先を選択できる広い野原の上に生まれ落ちたにも関わらず、一心不乱に学業に励んでいるうちに、それに専念する余り、いつの間にか、一歩も脇道にそれることができない暗いトンネルの中へと、知らず知らずの内に入り込んでしまうことがあるのです。我々のこれまでの十数年間に及ぶ研究は、すでにそのようなものだったのです。我々は、占いへの理解を上げて技術を磨く、新しい技術を生み出し、古い技術を捨て去る、そのことだけに執着してきました。それによって、人類は占いがまた新たな一歩を踏み出せるという錯覚に陥ってしまったのです。それは、鉛筆がボールペンに取って代われたように、また、テープレコーダーがCDデッキに置き換えられていったのと同じ現象です。しかし、占いとは自動車やテレビの発明とは違います。パソコンで正しい数値を導き出せば、精度が上がるというものではないのであります。占いの本質とは、コンピューターという、人間が作りだした最も大きな幻覚、それは、まだこの目で見ぬ発展を、これを使い続け、プログラムを進化させていくことによって、必ずや手に入れられるであろうという幻覚ですが、占いとは、そのような幻覚では決して進歩できないものだったのであります。太古の地上で、鉄砲や船をようやく手に入れた欧米人が、まだ新大陸を発見できずにいるとき、先進国の国民が足を踏み入れない南米のある地方では、すでに色とりどりの石を使った占いによって、未来の天災を見事に予知していたではありませんか。彼らにコンピューター計算機を手渡しても、石の占いが発展したり、彼らの生活が豊かになったりということが有り得るでしょうか? いえ、金や財宝に目もくれず、森を見て、海を見て、土を見て暮らす人々の生活にとって、コンピューターなど不必要なものだったのです。しかし、彼らも私たちと同じように占いによって未来を知ることができます。天の声を聞いて、身に降り懸かる厄災を未然に知ることができます。精度の差こそあれ、先進国の国民も、発展途上国の原住民も、同じ占いというもので未来を知ろうとしているのだと、我々は認めなければなりません。そこで考えなければならないことは、石占いが発展したから、水晶占いができたのではなくて、タロット占いが発達してトランプ遊びが生まれたという発想でもなくて、各占いはそれぞれ得意とする分野の占いがあり、それ以外の分野では占いの結果の精度が著しく落ちるということなのです。石占いが進化したものが水晶占いだから、水晶さえあれば、過去の石占いは捨て置くという考えではなくて、この二つの占いを並べて相互に見なければならなかったのです。つまり、これまで水晶が苦手としてきた分野の占い、万能と言われる水晶にも、いくつかの踏み込めない領域がありますが、そのような占いの結果を求めようとするときに、それは、理解を深め、技術を高めることによって解決されるのではなくて、我々がまだ占いとは認めていない、いくつかの未知の占い、例えば、先ほどの南米の石並べや、東洋の霊魂に頼った占い、そういったものに解決策を求めるべきだったのであります。水晶やタロットや占星、そういった見かけのいい万能に見える占いに頼ってきた結果、我々はいつしか童話に語られるお姫様のように、出口のない袋小路に迷い込んでしまったのであります。占いに限界はありません。世界中の占い師が集まれば、あるいは占えないことはないのかもしれません。しかし、水晶には確実な限界があるのです。皆さん、今こそおごりを捨てて、まだ見ぬ占いに、新たな未来を託して見ようではありませんか。我々は知っています。これまでも、そうした幾つかの小さな謎めいた試みが、時には人類の行き先を大きく変えてきたということを! 来たれ! 新世紀の偉人よ! 我々は未来に必ずや勝利する! げほっ」
そこまで演説した後、エスカー教授は壇上で倒れ込んでしまい、そのまま病院へと運ばれた。議場は異様なムードとなり、これまで自分たちが信じてきたことが、偉大な先駆者によって真っ向から否定されてしまった、多くの保守層の占い師たちは、まるで、数十年信じてきた神に裏切られた信者のように、その先、路頭に迷う結果となったのである。エスカー教授は脳梗塞を引き起こしており、意識不明の重体であったが、容態が回復することはなく、七日後の未明に息を引き取った。彼のミュンヘンでの謎に満ちた演説はそのまま彼の遺言になってしまったのである。
 この偉大な演説を受けて、世界中の学者たちは一斉に水晶一強時代の終焉を唱え、まだ見ぬ新しい占いにも協会の門戸が開かれるようになったのである。ただ、頭の固い保守派の占い師たちは、いくら神のように崇められているエスカー氏の言葉であっても、これまで自分たちが教え込まれてきたこととは正反対のことを、いまさら簡単に受け入れることはできず、相変わらず旧式の占いを習い続け、また教え続けてもいた。マスコミに影響力を持つ、有力な学者の中にも、エスカー宣言を否定する者も多くいた。彼らはエスカー氏の死後二ヶ月もすると、テレビに連日のように出演するようになり、その中でエスカー氏はアル中で、当日はひどく酒に酔っていたのだとか、痴呆にかかっていて、自分の主義に反することをしゃべりだしたのだとか、容赦ない非難の言葉を浴びせかけた。それに引きずられる形で、現在進行形で占いを学んでいる、世界中の占い学徒たちも、校内で日々エスカー宣言の是非を巡って、激しい論戦を繰り広げるようになった。しかし、悪いことばかりではなく、これまで閉鎖的だった占い界がエスカー宣言によって、多少は革新派にも開かれるようになったのは事実である。今では、いわゆる三大占いを学んでいなくても、技術の高さが認められれば、占い協会に加入することが出来るようになったのである。それは、そのままエスカー教授の功績であると言っても良いのである。

 一つ呼吸を置いて、ラルセは話を続けた。
「ですから、エスカー氏が最後に何を言いたかったのかは、今や知る術はないのですから、彼が自分が発展させてきた占いを最後になって裏切ったのか、あるいは、さらに発展させようとして、あのような文言を弟子たちに残したのか、はっきりわからないとなかなか前に進めませんね。芸術家にはブロンテやカフカ、ゴッホのように、亡くなって年月が経過してから評価が急激に高まった人は多いですけど、エスカー教授のように亡くなってから、業績をどう評価していいかわからなくなった人は珍しいですものね」
会長は一つ大きく頷いてから、ラルセの方に顔を向けた。
「まあ、昔も今も占いを生業のする者は、幼い頃からエスカー教授の書いた本を読んで基礎を学ぶわけだが…。彼を抜きにした占い学習なんてありえないからな。ただ、今、エスカー教授の本を読む人間は、徹底的な彼の信奉者か、そうでなければ、彼の残した言葉を知りたいとは思うが、それを信じるかどうかは別の問題だと思っている人間に二分されるわけだな。つまり、エスカー教授はミュンヘン会議以前の神々の位置から、あの宣言によって、ナポレオンやコロンブスのように評価の難しい偉人の位置へと位を下げてしまったことになる…」
「それは少し乱暴すぎます! 今の占いの基礎を作った人の評価が定かでないなんて! 計算機で答えをはじきだすようには、彼の業績は計れないはずです!」
ラルセは会長の方ににじり寄って反論し、その熱い視線を彼に向けた。
「ラルセさん、どうしたの? そんなに大声を出さないで。ここをどこだと思ってるの? 少しは慎みなさい」
クレモネが会長への暴言に耐え兼ねて、冷たい声でそう忠告した。
「これは会議ですから、目上の人に反論するのは、まあ許すとしても、あなたも、ちょっと頭が熱くなるとすぐに鎖が外れてしまう人種だから注意して…」
彼女はそう付け足して静かに笑った。この忠告によって、自分が女としてラルセより上の立場にいるのだとはっきり宣言したいようだった。ただ、占い審査の通過によって、ラルセの立場が急激に上昇したため、彼女としてはあまり強くも出れない微妙な心持ちだったのだろう。
「ごめんなさい、ただ、京介はいずれ必ず大きなことをやりますわ。それが良いことであれ、悪いことであれ…。彼が偉大な占いを完成させたときに、占いを専門にしているはずの、この学校の学生が、誰も彼のやっていたことを信じていなかったでは、同じ占いの研究生として、少し寂し過ぎます。私たち3人も、今のゆらゆらとした心持ちでは、どこまで彼を信じてあげられるか自信はないですけど、少なくても、ここしばらくは彼の研究を追いかけていくつもりです」
「ふん、まあ、それはいいんだが…、京介については粗削りながら、研究熱心なところもあると調査報告があがっているからな…。学長も日本びいきだし…、東洋では目に見えぬ悪霊を妖怪というのか…、あれにも興味がおありのようだ。憑依の存続についても、すぐにどうこうと言うことはないんだが…、さて、では本題に入ろうか…」
会長はそこで一度話を区切り、僕の方に鋭い視線を向けた。恥ずかしい話だが、僕はこの場の空気にすっかり飲まれてしまっていて、何のために自分がここに呼び出されたのかすっかり忘れてしまっていた。
「おまえは何で昼間に本部に一人で乗り込んで来たんだ? しかも、わざわざ、俺のいない時間を選んで…。普段の授業中は萎縮していて、自分の意見を言うことがほとんどないくせに…。今、スケジュールを開けて話を聞いてやるから率直に意見を言ってみろ。何が言いたかったんだ?」
熱い議論の応酬で場の空気がすっかり燃え盛っているところで、僕の方にバトンが飛んできてしまったので、発言を用意してなかった僕はしどろもどろになり、「えーと、えーっと…」と言うだけで、上手く話し出すことができなかった。見兼ねてロドリゲスが助け舟を出してくれた。
「会長、彼は今回の占い協会の審査で残念ながら不合格となってしまいまして…」
「それは驚きに値することか?」
「いえ、そうではなくて、ただ落ちただけでなく、その結果が余りに衝撃的なもので、彼なりに納得できない部分があったようでして…。その話を聞いてやってくれませんか?」
僕は彼のおかげで気持ち良く話し出すことができ、今日の昼間、真っ黒な姿に変装した協会の幹部が尋ねてきて、ラルセの合格と僕の不合格を告げていったことと、合格できなかった理由について詳しく尋ねてみたところ、僕の審査書類は第一次審査すら通っていなかったことと、思想の偏りが審査に悪影響を与えたことが判明したことをみんなの前で話した。
「協会の幹部が直接ね…、おい、今のところ、メモをとっておけ」
僕の話をいったん止めて、会長はブエナに的確な指示を出した。ブエナは素早く青いカバーのノートを取り出して、震える手でそれを開いて何かメモを取りはじめたが、利き腕どころか、下半身まで緊張でガクガクと震えていて、それは会長への熱すぎる忠誠と、対抗組織である僕らの前で何かいい格好をしなければいけないのではという義務感が合わさってそうさせるのだろうが、明らかにこの豪勢な顔ぶれの中で、一人だけ空気についていけていない印象があった。彼女のような俗物の人間というのは、自分よりも下手だと思っている人間の前ではやたらと張り切って強気になれるが、自分よりも目上の集団の中に引っ張り出されてしまうと、いつもの反動で余計な緊張に身体の自由を奪われて、今のような情けない状態に陥ることがままあるのだ。僕はそんなブエナを横目に見て、それを少し鼻で笑い、自尊心を取り戻すことができた。そのため、深刻な話題にも、落ち着いた口調で話を続けることができた。
「そこで…、僕は思ったのです。いくら僕の未熟な技術でも一次審査すら通らないほど、みんなより劣っているはずはないと。僕だけがこのようなひどい結果を受けるのには、まあ、ここから先は少し言いにくいのですが…、もしかすると、生徒会の思想差別を背景にした妨害があったのではないかと…。例えば、リベラル派の選考書類にだけ、何かマイナスになるようなことを書き込むとかですね…」
「しかしな、仮にそういう妨害があったとして、ラルセは審査に受かってるんだぞ? そこをどう説明するんだ?」
「会長、パヌッチは不合格を告げられた際、協会の幹部からかなり激しく罵倒されたそうです。そのことが、彼の心を深く傷つけてしまい、あのような暴挙に走らせる結果になったとお考え下さい」 
ロドリゲスがすかさず僕をフォローしてくれた。
「それは初耳です。先ほど来たときにそれを話してくれればね」と冷静な顔でクレモネ。
「ふん、どうせ、場違いな発言を繰り返して、逆に揚げ足を取られる羽目になったんだろうが、そんな自業自得で占い協会のお偉方を怒らせると、いずれ酷い目に遭うぞ。おまえはどうも、何か感情的な行動を起こすたびに余計な敵を増やしていくタイプらしいが、思想が偏向していてもなるべく敵は一つに絞った方がいいぞ。でないと、いずれ、今の仲間にも愛想を尽かされることになる…」
「その通りです…。今はもう後悔しかしていません…。申し訳ありませんでした」
僕の謝罪を見届けると、会長は目をつぶって瞑想してしまった。どう裁断したものか、考えているようだった。時計の針は凍りついたように動かず、僕らにとって厳しい時間が続いた。
「会長、ここにいる3人は選挙で会長に投票すると約束してくれたんです。ですから、その…、今回だけは許してあげてくれませんか?」
両方の陣営から効率よくポイントを稼ぎたいと思ったのか、間の悪いタイミングでブエナが口を挟んできた。会長はブエナを睨みつけ、冷たい静かな声で答えた。
「いいか? 選挙で俺に票を入れるというのは、この学校で学ぶ学生にとって当然のことだ。反対に聞くが、それ以外の選択肢があるのか? もし、あるんだったら聞かせて欲しいくらいだ…」
ブエナはあまりの恐ろしさに髪の毛が逆立ってしまい、身体全体が縮こまってしまった。大蛇に睨まれた子羊のようになって、何も言えなくなってしまった。
「いいですわ。パヌッチの今回の一件を不問にして下されば、あなたに一票投じる覚書を書いていきます」
ラルセが強い言葉でそう言ってくれた。
「生徒会本部に、リベラル派に土足で踏み込まれて不問にはできない…」
会長がこれほどまでに機嫌を悪くしているのには、生徒会に入り込まれたことよりも、自分が可愛がっている秘書のクレモネがひどい仕打ちを受けたことに原因があると思われるが、彼女が僕のしたことをどの程度に増幅させて会長に伝えたのかはわからなかった。
「あら、それは博愛を旗印に掲げる会長様らしくないお言葉ですわ。愚かしい行為を厳しく罰することは、どんなレベルの人間にもできることです。そういう偏屈な行為もこの大きな社会の一部なんだと大目に見て、その上でそういう人間の行為も温かい目で見守ってやるのが上に立つ人間の器量だと思いますけど…」
クレモネはラルセのその発言を薄ら笑いを浮かべて聞いていたが、目は笑っていなかった。僕はラルセがそう言った瞬間、ポケットの中で手を滑らせて床に万歩計を落としてしまったのだが、それを拾い上げようと屈んだ瞬間、机の下でクレモネの足がラルセの足を蹴り上げようとしているところを見てしまい、逆にラルセの足がそれを交わしてクレモネのくるぶしを蹴飛ばしていたのだが、それを間近に見て恐ろしくなってしまった。ブエナの先ほどまでの真っ青な表情からすると、彼女はとっくに机の下での、このような攻防に気づいていたらしいのだが、ネズミ程度の発言権しか持っていない彼女には、事態を打開することを何も言い出せなかったのだ。彼女は何事も起きないようにと願い、顔を青くして震えているだけだった。時々、口をパクパクとさせて、その震え方は異常なほどだった。
 タッサンは先ほどお菓子を届けに来てから、この部屋にそのまま留まり、部屋の一番隅に佇んでこれまでの様子を見学していたのだが 、そのタッサンがブエナの異常に一番早く気がついた。彼は音もたてずにブエナの席の横に走り寄って、肩をポンポンと叩いて話しかけた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
ブエナは苦しそうに喉を抑えて喘いでいた。
「過呼吸でしょ? どうせ、過呼吸になったんでしょ?」
クレモネが冷めた声でそう呼び掛けた。ラルセが慌てて立ち上がった。元友人としての同情心が少しは残っていたのかもしれない。考えてみればブエナというこの女も哀れだった。タッサンは心配そうに背中をさすってやっていた。会長は一度だけブエナの顔を見たが、僕の処分のことを考えていて、精神を集中させすぎているため、何が起こったのかわからないといった表情をして、再び目を閉じて、瞑想に入ってしまった。
「まあ、過呼吸で死に至ることはないですから…」
ロドリゲスはブエナの苦しむ姿が時間稼ぎの演技だと思ったのか、会議が中断されたことが苦々しく感じられたのか、そのような感想を述べた。ブエナの真っ青な顔と苦しそうな動きを見れば、これは演技でなく本当に起こったことなのだろうが、これからクレモネとラルセの間で激しい議論の応酬が行われると期待していた僕らからすると、彼女の過呼吸はまるで場違いな行動で、いったい、どうやったらこんなに間の悪いタイミングでそんな症状を引き出せるのかわからないが、これまでの緊張した空気が台なしにされた感じは否めなかった。ブエナはロドリゲスの方を一度睨みつけると、苦しそうにゲップを何度かして肺に貯まった空気を吐き出そうとしているようだったが、そのうちにみんなの注目をたいして集められていないことがわかったのか、すっかり涙目になって、「つまんないことで中断させてしまってすいません」という台詞が出てきた。
「水でも飲んできたら?」
立場が違うとは言え、同僚の女性として何も手助けしないのはまずいと思ったのか、クレモネの口からそんな言葉が出て来た。
「コーヒーを入れてやるよ」
タッサンがそう言って、一度会議室から出て行った。
会長が再び目を開けたのはそんな時だった。彼は重職にありながらも、重要なイベントで話す内容を事前に準備するタイプではなく、議場で思いついたことを次々と話していく人間で、それはありきたりの発言に一般の生徒はすでに飽きているだろうという思惑からそういう方式を取り続けているのだが、授業中などでも、しばらく瞑想していたかと思うと、突然先生の話を中断させて自分の意見を長々と述べることがある。
「そう言えば、来週、厳罰棟の所長がお忍びでうちの学校を訪問されるのだが…」
彼は顎を少し上に向けて、そのような思わせぶりな言葉でこの話を始めた。
「それは聞いてます。噂では、あそこの所長もうちの学校の卒業生らしいですね」
ロドリゲスがすかさず相槌を打った。
「うむ…、ちょうどここにいる三人も、ここにいない京介も同じホームルームの生徒だし、おまえらのクラスに所長を招いて講演をしてもらおうかな…。普段から札付きの罪人を相手にしておられる方だから、ためになる話をして下さるだろうし、そういう真面目な話を聞いて、大人に向けての一歩にしたらいい。そのくらいの罰だったらおまえたちも受け入れられるだろう?」
「厳罰棟の所長ですか…、話が長くなりそうですわね…。ええ、でも、そういう罰で済ませて頂ければ幸せです。パヌッチも安心したでしょうし、私たちと生徒会との間の溝も、これで全て埋まるというわけにはいきませんけど、これまでより何割かは近づくと思います」
ラルセがこれまでの緊張から解き放たれたように、晴々とした表情でそう言った。
「では、そういうことで会議は終わりにしようか…。体調の悪い人間もいるようだしな…。ラルセ君、私への義理が少しでも残ってるのなら、投票の方、よろしく頼むよ…」
会長は最後にそう言うと、顔も合わせずに静かに立ち上がると、威厳を保ったままドアの方へ歩み寄っていった。ラルセは返事をしなかったが、いたずらっぽくニヤッと笑った。会長はクレモネの後ろを通り過ぎる時に、「おまえも早く来いよ」と気遣いの言葉をかけていた。クレモネはそれに対して複雑な表情をして、「ええ、もう少し話をしてから追いかけますから」と呟いた。会長はドアの外へ出て行き、扉はガチャンと閉められた。その瞬間だった。クレモネがすごい勢いで左手を伸ばし、ラルセの右腕の服の裾を掴んだのだ。僕もロドリゲスも彼女の素早い反応にあっけにとられたが、会長が退場してしまえば、箍が外れたように、こういうことが起きるのではないかという予測も何割かは頭の中にあった。僕よりもロドリゲスの方が先に反応して叫び声を上げた。
「やめろ! そんな! まるで、餌がなくなって豹変した、野性のリスみたいじゃないか!」
「あんた…、あの方を誰だと思ってるの? 偉そうな口ばかりきいて…、いい加減にしなさいよ…」
クレモネにそういう言葉で脅されても、ラルセはまるで動じなかった。こういうことが起こるのを望んでいたようでもあった。本当は早く決着をつけたくてウズウズしていたのかもしれない。ラルセは微笑していた。
「あんたの人生論なんて、かったるくて聞いてられないわ。いくら背伸びしたってチューリップの美しさなんて空からは見えないの。今日はパヌッチに代わってそれを言いに来たってわけ…。熱く人生を語るなら成功してからにしなさいってね」
「二人ともやめないか! ここをどこだと思ってるんだ! 暴力沙汰を起こせば、厳しい処分を受けることになるんだぞ! クレモネさんも手を放せ! たった一度の他愛もない怒りのせいで人生が台なしになる人だっているんだぞ!」
ロドリゲスの出したその大きな声を聞き付けて、タッサンが部屋に戻ってきた。彼はコーヒーをテーブルの上に乱暴に置くと、クレモネの側に走り寄って行った。聡明な彼には、なぜこんなことが起きたのか、半ば理解できていたようだった。元々、こういう不測の事態が起きないように我々を見張る目的でここにいたのかもしれない。
「生徒会を上から見下すような態度が、前々から気に喰わなかったのよ」
クレモネはそう言ってから、さらに腕に力を込めた。ラルセも余裕が無くなってきて、パンパンと何度かクレモネの手を自由な左手で叩いたが、それでもクレモネは放そうとしなかった。二人とも目が血走り、歯を食いしばっていてすごい形相だった。普段から二人とも見かけを重視しているため、外に向けてこんな顔を見せたことはないと思われる。タッサンがクレモネの肩を抑えて二人を引き離そうとしたが、鬼が宿ったかのような凄い力で引っ張り合っていたので、簡単には引きはがせなかった。僕とロドリゲスは危険を感じて、ラルセを両脇から抑えつけようとした。その時、ブエナが突然立ち上がって、「やめてー! こんなことはやめてー! どうして? 同じ学校で学ぶ生徒なのに、どうして!」と狂ったように叫んだ。
「あんたが役立たずだから、こんなことになったんでしょうに!」
クレモネが一度ブエナの方に顔を向けてそう言ったが、その時掴んでいた左手の力が少し緩んだのか、ラルセがうまく身体をねじって自分の右手を取り返した。ラルセはその反動をうまく利用して身体を半回転させると、そのままの勢いでクレモネの頬に思いっきりビンタをかました。
 パーン!! という乾いた音が部屋中に響き渡った。クレモネは壁際まで吹っ飛んでいってそのまま床に倒れた。
「何でも、自分の思い通りになると思ってるんじゃないわよ!」
ラルセはとどめとばかりにそう叫んだ。百獣の王の雄叫びのようだった。起こってはいけないことが続け様に起こってしまったので、僕は何をしていいかわからずしばらく呆然としていた。自分のことがこんなに役立たずに感じられたのは久しぶりだった。タッサンはクレモネを助け起こし、「大丈夫か?」と声をかけた。クレモネは目にいっぱいの涙を溜めていた。痛みからの涙ではなく、占い師協会の審査で一番のライバルであるラルセに先を越され、その動揺を心の内に隠しておくことができなかった自分への怒りがあったのかもしれない。タッサンはふらふらしているクレモネの肩を支えようとしたが、彼女はその手を振り払って一人で出口に向かってゆっくりと歩み出した。
「こんなものは、自分への恨みよ」
最後にそう言い残して、クレモネはドアを開けて廊下に出ていった。タッサンはそれを確認すると、ラルセの方を振り返って声を張り上げた。
「こういう暴力沙汰が起きないようにするための会議だろ?」
ラルセはそれを聞いてふてぶてしくニヤッと笑った。
「みんな、ああやって大人になるのよ。あなただって、そうでしょ?」
彼女はそう言ってからコーヒーのカップに手をつけて手前に引き寄せた。ブエナは壮絶な展開に感極まって両手で顔を覆い隠して泣き出した。それは、自分の一番好きなものに自分の一番大事なものを壊されたような気持ちで、たいした思想も持たない彼女には難しすぎる場面だったのかもしれない。
「昔から、こういう子なんだ、こういう子なんだ…」
さすがのロドリゲスも青白い顔をして、錯乱したようにそう言ってから、冷静を保てないといった様子で、その場で何度か足踏みをした。
「この場で今起きたことは、他の誰にも知られないようにするしかないな。歴史上、こういう取り決めが守られた試しはないが…」
タッサンが深刻な顔でそう言った。
「僕らの方からは絶対漏れないよ。でも、そうとも言いきれないかな…。人間っていうのは、とかく、衝撃的なものを見た後は口が軽くなるからな…」
僕は自信もなくそう言った。例えば、今起こったことを帰ってから京介に話すなと命じられてもそれは難しかった。スポーツで応援しているチームが勝った後のように、こうした興奮のイベントは人間の口を子供のときのように軽くしてしまうものなのだ。
「ブエナさん、必ずしも僕らの不利になるだけの出来事ではないですから、みんなには黙っててくれますね?」
ロドリゲスが念を押すようにそう尋ねた。
「わ、私は何も見てません…。何も聞いていません…」
ブエナはそれだけ答えて、机に伏して泣きじゃくるばかりだった。「わーわー!」という彼女の泣き声が廊下まで響いていた。
「もし、喋るようだったら、その女もビンタするだけよ」
ラルセはすっかり高ぶってしまった感情を抑えきれないようにブエナを睨みつけてそう言った。持ってきてもらったコーヒーにようやく口をつけたが、興奮の余り、さすがに利き腕が震えていて、うまく口に運べないようだった。
「おまえらがこんなことをする人間じゃなかったら、俺だって素直にリベラル派でいられたんだよ…。これは嘘じゃないぜ」
タッサンはうつむいてそんなことを話してくれた。同じクラスメイトとしての、義理と友情が少しは生きていたのかもしれない。
「育ちがいいのよね…。結局、そうなんだわ。オーストリアの令嬢だったっけ? 温室の中で紡ぎあげてきた理論だけで世渡りできると思ってるんだから…。例え、完璧な生き方を構築したって、それを実践できなきゃ…。いや、それじゃ変よね…。そういうものをお互いにぶつけ合うのが学校でしょ? 誰だって見知らぬ人間とのぶつかり合いの中で凹まされる部分だってあるはずだわ。私だって妥協することがあるもの…。人に育てられたライオンより、野性の虎の方が強いのよ。一番権力のあるものにすがって生きていくことがどれだけ危ういことか、人生のこの時点で知ることができたのは、あの娘にとってよかったんじゃない? 少しの間、アザは残るだろうけど…」
「みんなが一人で生きていけるほど強くないのは確かさ…。一人でしかやっていけないパヌッチのような人間を情けない男と鼻で笑う生徒も多いが…、一人でやっていけないから、大勢の仲間入りをするしかない他の連中は、きっと、もっと弱いんだ…」
タッサンも神妙な顔でそう呟いてコーヒーをすすった。
「ただ、生徒会とは懸案が多いんだよ。僕も、来年の卒業アルバムの件で会長と意見が分かれていてね…。僕らは亜流なんだから、これ以上、大きな問題を起こすのはやめてくれな」
ロドリゲスはそう言って、ラルセの肩を優しく叩いた。彼女はそれに反応して笑った。
「それでは、おいとましましょうか」
ラルセがそう言って立ち上がった。僕らも後に続いた。タッサンが入口のドアを開けて僕らを見送ってくれた。
「ありがと、生徒会でこんなに美味しいコーヒーが飲めるとは思ってなかったです」
ラルセは最後にそう挨拶してこの会議を締めくくった。
 本部の入り口には警備をしている数人の生徒が立っていた。
「ご苦労様」と呟いてラルセがその横をすり抜ける。まるで何の感慨も無いように。居並ぶ生徒会の委員たちは複雑そうな顔で僕らを見送った。三人で歩いていても、なかなか話す言葉が見つからなかった。長い一日だったせいだ。広場まで戻ってきてから、ようやくロドリゲスが口を開いた。
「パヌッチも少しは気分が晴れたかい? 最初は言われっぱなしだったから辛かったろう?」
「うん、やっと僕にも信頼できる仲間と思想があることがわかったよ。片寄った意見も何人かで集まって主張すれば大木を揺るがすこともあるんだね」
僕は少し照れながらそう返事をした。すでに太陽は傾いてしまっていた。僕らは長細い影を背にしながら、橙色の光に包まれた広場を歩いた。ベンチに座って本を読んでいる学生も新しい水晶の占い方について熱く語っている学生たちもみんな子供のように見えた。
「ちょっと、喫茶店に寄って行きましょうよ。今日くらいは奢る気があるんでしょ?」
ラルセが楽しそうに笑いながらそう言ったので、みんなでフランポーゼに立ち寄ることにした。店主に今日の出来事について話すことになれば、また熱い思想論を聞かされるのかもしれない。太陽が沈むまで、みんなとここにいるのかもしれない。でも、僕はそんな一日が好きだ。
「よ! ラルセちゃん、今日から本格的に占い師だって?」
ドアを開けて踏み込むと、店主から威勢のよい掛け声が飛んできた。
「実はそうなのよ」ラルセが頭をかきながら返事をする。
店にいた十数人の客から、「おめでとう」「おめでとう」と声が飛んできた。
「すっかり、先を越されちゃったな」
ロドリゲスはそう言って、ラルセの頭をポンポンと叩いた。いつもと同じ爽やかな笑顔で悔しそうには見えなかった。
「おめでとう、本当におめでとう」
僕も彼女の背中からそう声をかけた。今日の昼間に言っておかなければいけなかった言葉が、今になってやっと口から飛び出してきた。

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