目次
1ページ試験の結果
2ページ京介の不調・ラルセの星占い
3ページ新入生歓迎式
4ページガンボレ祭前日の買い物
5ページガンボレ祭その後(一)
6ページガンボレ祭その後(二)
7ページガンボレ祭その後(三)
8ページガンボレ祭その後(四)
9ページサフラン先生の薬品占い
10ページ生徒会総選挙数日前(一)
11ページ生徒会総選挙数日前(二)
12ページ生徒会総選挙数日前(三)
13ページ厳罰棟所長の訪問(一)
14ページ厳罰棟所長の訪問(二)



 あれから一週間が過ぎた。あれからというのは、たでま先生が禿げることが、水晶占いによって科学的に証明されてからという意味である。前期試験のあまりにひどい結果を受けて、僕は急に危機感を感じるようになり、これからは多少なりとも、勉学に気を向けることにした。たでま先生の頭髪の未来を占った一件のがあったので、ホームルームには行きづらかったのだが、授業が始まると、先生はそんなことは忘れてしまったかのように熱弁を振るった。ただ、それは自身の悲しい未来予想図を忘れようとしているようにも見えた。ホームルームが終わった後、僕とロドリゲスが雑談を交わしていると、たでま先生が自分から近寄ってきた。怒りを思い出して襲いかかってくるのではと身構えてしまったが、彼は気の抜けたような表情で、その様子からは、もう怒っているようには見えなかった。
「おいおい、最近、ラルセと京介が元気ないなあ。口数が少ないように見えるんだが、なんかあったのか?」
僕の眼前まで迫ると、先生はそう尋ねてきた。そう言われてみると、この授業が終わった後も、二人は誰とも口を利くこともなく、せわしなく自分の荷物をたたむと、こそこそと帰っていった。
「いやあ、ラルセの方はあれですよ。いつもの男性問題です…」
僕は軽快な口調でそう答えてやった。隠し立てするようなことでは無いと思ったからだ。
「男性問題って、またあいつ、好きな男つくったのか?」
ラルセが顔立ちの整った男性に惚れやすい性格であることは、このクラスでは有名な話だ。
「ええ、一週間前に占ってやったんですよ。今、付き合ってる男とうまくいくかどうかってね。結果はひどいもんでしたけど…。その時のラルセの慌てっぷりと言ったら…、あれだけのエリートでも自分の未来を簡単には受け入れないんですからね。情けない話ですよ。あんたの占いなんて信じられないって暴れだして…、見てられなかったですよ」
「それで、実際におまえの占い通りになったのか?」
先生はますます真剣な顔になり、再び聞いてきた。
「だから、あんなにへこんでるんでしょ? 本人の口から直接聞いてみるのも一興かと思いますよ。僕はもう他人の痴話に顔を突っ込みたくないんです」
僕は教科書をしまいながら、先生と目も合わせずにそう答えた。すると、突然、隣にいたロドリゲスが口を挟んできた。
「バヌッチ、いつも言ってることだけど、君は少しお客さんへの配慮が無さすぎるよ。他人の運命はおもちゃじゃないんだよ。特に女の子はそういう問題に一番デリケートなんだから、仲間内とは言え、きちんとケアをしないと!」
「でもねえ、僕の店はそのぶん、見料が安いんだよ。結果が引き起こす心理的な問題ぐらいはセルフサービスにしてもらわないと…。だいたいねえ、あんな現実的な結果が出たあとでどうやってケアするんだよ? 君だって不可能だろ? それに自業自得なんだぜ。ラルセの場合は。あんな無軌道な性格だからね。頭はいいけどね、こと恋愛のことになると猪みたいに前しか見れなくなるんだ。その間は客だってほったらかしさ」
僕が強い口調でそう言い返すと、ロドリゲスもむきになって即反論してきた。
「彼女の悪口ばかり言ってるけど、君だって、そんな心構えじゃあ、いつまで経っても、お客さん増えないよ。男性客は女性客につられてやって来るんだからね。女性客が一番喜ぶのは自分の恋愛が上手くいくとわかったときなんだ。例え、良くない占い結果が出ても、そこを言葉できちんとフォローできるかできないかが一流と二流の差なんだよ。君の部屋が、一生閑古鳥でもいいのかい?」
「そうだよ。おまえの占いは人々を確実に不幸にしていってるんだよ。無い方がいいくらいだ」
 後ろで聞いていた、たでま先生までがそう付け足してきた。僕がぐうの音も出なくなると、ロドリゲスは先生に向かって礼儀正しく言った。
「それじゃあ、たでま先生。これから僕らが京介の様子を見に行ってみますよ。どうせ帰り道ですからね。深刻なようでしたら、明日先生に報告しますよ」
「おう、頼むよ。それでラルセの方は…、あっちは放っておいても大丈夫か?」
「大丈夫です。あれは三日もすれば復活します。また、すぐに賑やかになりますよ。季節外れの蝉のようにね…」
僕は即答した。
 普段はホームルームの後は昼ご飯でも食べにいくところだが、今日はそのまま二人で生徒の寝室のある別館に向かった。
「試験の失敗なんて一週間も前のことなのに、京介はまだ落ち込んでるの?」
廊下の途中で僕がそう聞くと、ロドリゲスは少し考えてから、「う〜ん、そんなに態度にはでてないけど、たしかに口数は少なくなったし、案外こたえてるのかもしれないねえ。何しろ、エリートの彼にとっては起こってはいけない種類の事故だったからね…」と、考え深げに言った。
 別館に着くと、僕はまず、自分のポストを開け、全国占い協会新聞の夕刊を取りだした。一面には『超人気占い師脱税で逮捕』と大見出しで書かれていた。その次に『あなたの今日の運勢』の欄で自分の今日のラッキーカラーを確認してから、僕は新聞を鞄にしまった。
 階段を昇り、京介の部屋の前まで来てみると、ドアに堂々と貼られていたはずの『霊魔滅殺』のお札が無くなっていた。どうやら客を相手にした憑依公演も現在はやっていないらしい。彼の部屋のドアはかなり古いので、慎重に開けなければならない。手前にゆっくり引くと、ギ、ギ、ギイ〜…と不気味な音をたて、ドアは開いた。
 部屋の中は真っ暗だったが、沈香の湿っぽい香りが届いてきた。目を凝らして見ると、奥の方で京介がこちら側に背中を向け、寝っころがってるのが見えてきた。この部屋は畳敷きなので、入るためには靴を脱がなくてはならない。僕はこの畳という物の古めかしい臭いがかなり苦手なのだ。まだ、きりのいい時間でもないのに、壁にかけてある木製の古時計がボーンボーンと来客を告げるかのように鳴り出した。部屋にあがると、「お〜い、京介、大丈夫?」と小声で呼んでみた。京介はすぐに反応して、ごろんと寝返りを打ち、こちらに身体を向けると、
「なんだ、おまえら、来たのかあ。今日は遊んでやれないよ。頼むから、また今度にしてくれ…」と、めんどくさそうに言った。
「大丈夫かい? 最近なんか元気ないじゃないか」
ロドリゲスが優しい口調でそう話しかけた。
「ああ、ちょっと調子悪いからな…。客相手の占いはずっと休んでんだ。俺の失敗のせいでまた負傷者が出たりしたら困るからな。見物に来る方もそれなりに覚悟は持っているんだろうし、同情する気はないけど、最近、初歩的なミスが多くて、自分に腹が立ってるんだよ」
彼はけだるそうにそう返事した。
「試験のことだったら、そんな気にすんなよ。僕も水晶で失敗しちゃったんだからさ」
元気付けようと、僕がそう声をかけると、彼は体をゆっくりと起こして、「おまえはいつも失敗してるからな」と苦笑いをしながら言った。
 京介がようやく体を起こしてくれたので、僕らも安心して近くまで寄って行き、畳の上で彼と向かい合うように座った。
「しかしねえ、君のような名人が失敗するとはねえ…。一体何があったんだい?」
まずは、ロドリゲスが口を開いた。
「きつねだよ、きつね、試験の真っ最中に、運悪くきつねにとりつかれちゃってさ…」
京介はまだ脳が覚めきってないような、眠そうな口調でそう答えた。
「きつね? きつねって、白きつねのことかい?」
僕がそう尋ねると、京介は首を振って、「違うよ…。ああ、そうか。この辺りには白きつねしかいないんだな。おまえらは見たこと無いと思うけど、日本に住むきつねっていうのは妖怪でね。人を化かすんだよ。そば屋の爺さんだと思って声をかけたら顔に目や鼻がついていなくて真っ白だったりするんだ。この国の人間に信じろと言う方が無理だろうがな…」
「へえ〜、動物が人を騙すのかい…」
 僕は東洋の神秘に感心し、ため息をついた。京介は話を続けた。
「それで、おまえらは源義経っていう人を知ってるか?」
「知っているよ。平氏という豪族を滅ぼした人だろ」
ロドリゲスはその質問に素早く反応した。他国の歴史にまで精通してるとはさすがだ。
「も、もちろん知ってるよ。あれだろ、山とか川とか、日本のいろんなところで戦った人だよな?」
僕も負けじと相づちを打ったが、「どうせ、おまえは知らないんだろ」と京介に鋭く突っ込まれた。彼はそのまま話を続けた。
「それでさ、憑依の試験の課題が『源義経を自分の身体に憑依させ、平氏との戦争体験談を聞きだせ』っていうものだったんだよ。まあ、そんなに難しいもんじゃないよ。なにしろ、授業では似たようなことを何度もやってるからね。試験でもかなり集中してやったつもりだったんだけど、どうやら、雑念が入っちゃったみたいで、義経の霊魂と一緒にきつねの怨霊も呼び寄せちゃったんだよ。それで、義経より先にきつねに身体を乗っ取られちゃったってわけさ。その後のことは全然おぼえてないよ…」
 京介は淡々と身の毛もよだつような実体験を話してくれた。
「俺、あの後どうなったのかなあ…。悪いことしなかっただろうか。ロドリゲスは先生に真相を聞いて知ってるんだろ? いったい何が起こったのか、教えてくれないか? 俺は身体を乗っ取られたショックで当時のことを考えようとすると、ひどく頭痛がするんだ…」
京介は不安そうな口調になって、しがみつくように尋ねてきた。ロドリゲスも真実を話したものかどうか、少し困ったような顔をして、「う〜ん、白目を剥いて、人語でない言葉で絶叫しながら、試験室を飛び出して、たまたま廊下を通りがかった学長に襲いかかってしまったらしいけど…、うーん、あれは完全に事故だから、まあ、あんまり気にしない方がいいと思うよ…」と苦しげに返答した。
 それを聞くと、京介は後ろにゴロンと転がって、「なんだよ〜! そんなことしちまったかあ〜。大変なことじゃん。こりゃあ研究資格取り消されるかもしれねえなあ〜!」 と大声をあげ、頭を抱えた。これが日本でいう後悔先に立たずというやつだろうか。
「大丈夫だよ。学長は数日で退院したらしいし、君は優秀な生徒だから。学校側もきっと解ってくれてるよ。憑依にこういう事故はつきものだからね…。数年前にはもっとひどい事例があったらしいじゃないか」
ロドリゲスは優しい表情と声で、そう言って彼を励ました。
「生徒十数人が授業中に口の悪い仏僧の怨霊に身体を乗っ取られて、誰にも止められなくなって、ゾンビのように町を徘徊したっていうあの事件か…。そういう最悪な事例と比べられてもな…」
 まだ不安そうにそうつぶやきつつ、京介は再び体を起こした。

 僕は彼との話のかたわら、部屋の隅に置いてある本棚に目をつけた。そこには、世界偉人伝や世界史・百科事典・植物・動物辞典など、ありとあらゆる情報誌が備えてあった。おそらく、これは彼が憑依を行うときのための情報源として使われるのだろう。だが、そこで重要になるのが憑依という占いについての考え方なのだが、こういう本の知識を元にして、憑依占い者は高等な技術を使い、霊魂と波長を合わせ、それを自分の脳内に呼び出すのだ。当然、その後は乗り移った霊の人格が表面に現れるため、憑依実行者と掛け離れた行動や言動をすることがよくある。憑依というものを心から信じられない人達にとっては、このような常識を逸脱した人格の変化を信用することができず、単に憑依者が霊魂に乗り移られたかのように振る舞って、客を騙しているのではないかと誤解してしまうことがある。僕も初めて京介の憑依を目の当たりにしたときには、心のどこかでそのような疑念を抱いてしまったこともあったが、強力な霊魂に憑依されてしまったときの京介のあまりにすごい暴れっぷりや、憑依失敗による爆発事故のリアリティを見ているうちに、この占いは本物であると確信できるようになった。憑依実行者が一度憑依を始めると言ったからには、嘘偽りは一切なく、間違いなく、例えどんな抜き差しならない状況になろうとも、成功による賞賛か、失敗による大被害という、どちらかの結果が出てしまうまで憑依は続けられるのである。つまり、今回の試験での事故も起こるべくして起きた当然の結果であるとも言えるのだ。どんな安全に思える乗り物でも事故を起こす可能性があることを考えれば、憑依という占いがどんなに危険をはらんでいようとも、それを制止する理由にはならないのだ。
 憑依について詳しく語るなら、ここで日本という未知の国についての説明もつけ加えなければならないだろう。それは、この文章を読む多くの読者が、かの国に対してたいした興味も知識も持っていないと思われるだ。僕もこの学校に入るまでは、日本という国に関しては戦後急激に発展したということ、何かの皮肉なのか、アメリカで製造されて我が国に輸入された世界地図には、必ず一番端っこの方に描かれているということ、そして国民全員が必ず腕時計とカメラを持っていることくらいしか知らなかったのであるが、それは日本の本質を知る上で、どのくらい重要な情報なのであろうか。どうやら、彼らの几帳面さは伝わってくるようである。
 その後、学業の合間などに京介から聞いたところによると、日本人という民族は、異常なほど時間に正確に動くらしい。それは何も仕事や学業だけではない。日常生活の中の雑事や遊びについてもである。例えば、待ち合わせをしている男女がいたとして、男性の方が20分でも遅刻しようものなら、女性はまるで、野生動物が自分の最後の食料を取られたかのように烈火のごとく怒りだし、男性は人格さえも否定されかねないような罵詈讒謗を全身に浴びせられるらしい。これは京介から聞いた話であるが、もし本当であれば恐ろしいことである。我が国では、男女の待ち合わせどころか、市議会での議案の採決も、人気アイドル歌手のコンサートも、教授が多く集まる学会においても、全身麻酔を伴う大きな手術であっても、まったく時間通りに行われた試しがない。我が国の常識から見れば、日本という国の異常さがわかるだろう。日本人という国では、老人から子供に至るまで分刻みのスケジュールで正確に動き、国家や企業社会のために骨惜しみせずに忠実に働くらしい。イベントや集会などに30分でも遅刻しようものなら、周囲の人からは、まるで奇人であるかのような目で見られるらしい。
 京介といくらか仲良くなってから、彼の口から、日本についての新しい情報を次々と得ることができた。彼から聞き出したことの中で一番違和感を感じたことは、日本では大衆の知識がすべてマスコミに支配されているということである。どういうわけか、かの国では出版社や新聞社、それとテレビ局などが必要以上に幅をきかせており、国民はこのマスコミの流す情報をすべて鵜呑みにして生活しているというのである。そのテレビ局や新聞社がどんなに有名であろうが、情報を発信しているのは自分と同じ一般の人間であるから、そこには嘘とは言わないまでも耳を疑うような見解も混ざるであろうし、解説者が主観で語る以上、情報の中に、何らかの悪意ある意志が含まれる可能性もある。同じ事実であっても、発信の仕方を少し工夫するだけで、受け止め方に大きな差ができるものである。
 興味のある案件はすべて自分で見聞きし、自分で考えて判断したことしか信じず、新聞に書いてあることをたちの悪い冗談くらいにしか思っていない、我が国の人間とはえらい違いである。さらにたちの悪いことに、日本のマスコミは政府や大企業から多くの出資を受けているので、彼らにとって有利な情報しか流されないそうだ。このような仕組みでは、政府の役人や企業幹部が何かの不正をしたときに、真正な報道ができないのではないかと勘繰ってしまうところだが、かの国の国民がそれを納得した上で情報を購入しているのであるから、間違えた知識を植え付けられても文句は言えないのであろう。
 恋愛について言えば、テレビドラマや映画などに、ゲイシャやマイコサンといった慎ましい女性像が描かれていたのは、もはや遠い昔のことで、現在の日本社会では良くも悪くもアメリカ的恋愛が一般的であり、若者たちはお互いを出会った瞬間に鋭く値踏みし、資産価値や顔の良し悪しだけで好き合ったり、離れたりするそうだ。それは判断力の進化ではなく、人間の人格や魅力を総合的に判断することができないという、双方の知性の低下なのではないかという指摘もあろうが、当の日本人は自分達をかなりの文明国だと自負しているようだ。日本人が占いを最も頻繁に使う目的の一つが、この恋愛に関してだそうで、学校や会社などで良さそうな相手を見つけたら、まず、自分との相性を占いで調べるのだそうだ。占いの結果がどうであれ、自分が好感を持てる相手なら積極的に付き合えば良いだろうと、我が国の知識人には言われてしまいそうだが、日本人はまず占いによって、相手との距離感を計るのだそうだ。ちなみに、我が国で占い師が最も頻繁に占うのは1に天気予報であり、その次に来るのが家族の健康についてである。株や土地価格の上下を占う人も多いのだが、これは違法である。
 それともう一つ、我が国には無い、日本の特徴を上げろと言われれば、判断の曖昧さがあるだろう。かの国の民衆は何か問いをかけられたときに、イエスやノー以外に、『どちらでもない』という答えを頭の中に常に用意しているらしい。これは常軌を逸した凄い解答である。例えば、質問者から『あなたは朝食にパンを食べますか?』と尋ねられたときに、我が国の人間ならば当然答えは二通りである。『食べる』か『食べない』かである。問いをかけられた全員がどちらかを選ぶはずである。だが、日本という国の一般大衆の多くは(さすがに上流階級の人間にまで、こんな解答をする人間はいないであろうという期待はあるが)、『どちらとも言えない』と答えると言うのだ。さすがにこのことには当の京介も、半ば笑いをこらえきれない様子で話してくれた。彼自身は日本人の中では物事をしっかりと判断できる男なので、我々から発せられる、ほとんどの質問にきちんとイエスかノーで答えられるが、それでも、時折人間関係における難しい問いかけに会うと判断が曖昧になることがあるようだ。気をつけて欲しいものである。先ほどのパンの質問にとどまらず、政治や経済・社会などの硬い真面目な質問に対しても、彼ら日本人はもっぱら冷静な表情のままで、『私は、そのどちらでもない』と答えると言う。まったく、恐れを知らない人種である。我が国の政財界でそんな発言をしようものなら、上官から二度と重要な発言を求められることはないだろう。重要な場で判断を保留する人間は、いてもいなくても同じだからだ。
 日本では学生などに配布されるアンケートの記入欄にもイエスとノー以外に、どちらでもないという選択肢が堂々と載っているというのだ。我が国では議会でもどんな重要な議題についても、議員全員の意思がはっきりしていて、自分の主張した意見を後から覆す人もいないため、話し合う余地などなく、議案はすぐに採決にかけられる。議長が議題を投げ掛けると、その瞬間に賛成の起立をする議員までいるほどだ。票を自陣に取り込むための裏取引など一切発生しない。重要な議案が山積みのときでも、会期は一週間ほどで終わる。このことには、日本人側から反論もありそうだ。結果が見えていても、一応、話し合っている態度だけでも、国民に見せておいた方がいいのではないかと。なるほど、日本人は形式を重んじる民族らしい。京介はそんな堅苦しい日本社会の構造に耐えられなくなり、憑依という奇抜な占いを引っ提げて我が国に渡って来たのだという。憲法の中に『重要な実験であれば事故を起こしても罪には問わない』という規定がある我が国に、彼のような前向きな人物は、うまく適応していけるのかもしれない。彼はこの国に渡ってきて一年で、すでに全校生徒の注目の的であり、彼も国を捨ててきたことに一切の後悔はないようだ。逆に、京介のような重要な人物を手放すことになり、彼が元いた日本の学校の先生方は後悔しているところかもしれない。

「そうかあ…、おまえらに励まされているうちに、また憑依をやる勇気が少し出てきたよ」
「そうだよ、それでいいんだよ。あんな事故なんて、そんなに気にすることじゃないんだよ。それよりさあ、僕にちょっと憑依を教えてくれよ」
僕はタイミングよくそう切り出した。
「それは危ないよ。絶対やめたほうがいいと思うよ」
ロドリゲスは心配そうな口調ですぐに反対した。
「そうだよ。おまえ、まだ水晶もマスターしてないんだろ? そんな奴が憑依なんかやったらどうなるかわからんよ。過去の極悪人に身体を乗っ取られて、銀行に強盗に入ることになるかもしれないんだぞ。まあ、おまえは悪霊に憑依されてなくても、強盗ぐらいするのかもしれないけど」
京介にもそのように簡単に断られてしまった。
「そうかあ、素人が手を出すと危ないのか…。でもねえ、僕も一度でいいから、エリートの真似事をしてみたいんだよ」
「そうか…、それじゃあ、『夢占い』を教えてやるよ。これができなきゃ、どのみち憑依も出来ないんだから」
 僕の嘆願を聞き入れて、京介は重い腰を上げた。
 『夢占い』はこの地方に古くから伝わる神秘の占いだ。依頼者の寿命や運命、前世など、人知の全く及ばない領域の問題について、占い師自らが眠りにつくことで、 夢の中にその結果となる映像を映し出し、解決に導くのである。この占いは技術云々よりも生まれつきの得意不得意に左右されるところが大きく、できない者はどんなに努力しても一生できない、とも言われる。
 夢占いも僕の不得意な教科の一つなので、京介のようなプロ中のプロに教えてもらえるとは、光栄な限りだ。自慢ではないが、いや、あるいは自慢になるのかもしれないが、僕は授業でも一回も成功した試しがない。
「いやあ、助かるよ。夢占いを成功させることが、僕の夢だったんだ」などと、わけのわからないお礼を言っていると、京介は部屋の奥から枕と薬瓶を一つ持ってきた。
「おまえは慣れてないだろうから、これを使いな…」
そう言って、彼は僕に木でできた汚い枕を手渡した。そして間髪入れず、説明を始めた。
「まずねえ、眠る直前の、あのぼや〜とした状態に自分の脳みそをもっていくんだ。わかるか? そして、夢の中に吸い込まれていくのではなくて、逆に夢をつまんでこちら側に引っ張り出してくるような感覚だな。これでわかるか? そして、その状態で、占う内容を頭の中に思い描き、そのままの状態で眠りにつくんだ。やってみるとかなり難しいけどな」
「なるほど、なるほど」
説明を聞いても何のことやらさっぱりだが、とりあえずテキトーに返事をしつつ、ぼくは寝っころがって、眼を閉じた。
「バヌッチ、まだ寝ちゃあだめなんだよ。寝たらそこで終わりだからね」
横で見ていたロドリゲスが心配そうにアドバイスをくれた。しかし、昨日の晩は熟睡していたので、目が冴えてしまい、なかなかうまくいかなかった。京介はそんな僕の様子を見て取ると、薬瓶を開け、紫色の丸薬を一粒取りだした。
「それじゃあ、この睡眠薬を使いな。ただし、これはすぐ効いてくるから、飲む前から頭に見たい夢を思い描くようにしなきゃならんよ。そんで、夢に入ったときの心の準備を今のうちからちゃんとしてくれな。中途半端な気持ちでこの薬を使うと瞬時に睡魔に足を引っ張られるからな」
 彼は真剣な眼差しでそう教えてくれた。余計難しくなってしまった気もするが、丸薬を受け取ると、ポケットから財布を取り出し、「じゃあ、僕は君の前世を占うから、君は僕の寿命でも占ってくれ。結果はどっちに出てもいいから」と言って、彼に占い料の1000を渡した。
「なんだよ…、まいったな…、金を受け取っちゃうと、失敗できなくなっちゃうなあ…」
 遠慮深げにそう言いながらも、彼は1000札を懐にちゃっかりしまうと、ゴロンと寝っころがり、「それじゃあ、俺は先に寝るから。後からゆっくり来いよ?」と余裕の表情で言って、眼を閉じた。
 僕は極度に緊張していたので、先ほどのアドバイスをすっかり忘れていて、受け取った丸薬を何も考えずにごくんと飲み込んでしまった。すると、すぐに強烈な脱力感に襲われ、意識が遠ざかっていくのを感じた。その瞬間、ロドリゲスが「あっ!」と叫び、京介が飛び起きた。
「こいつ! あれだけ言ったのに、何も考えずに飲み込みやがった!」
京介はそう言うと、僕の頭をパンパン叩いた。
「おい! おまえ、このやろー! 飲む前に占うことを頭に思い描けって、あんだけ念入りに言ったろうが! 起きろ! ここはおまえの休憩所じゃないぞ!」
 しかし、僕はその時、もうほとんど意識がなかったので、「頼む、寝させてくれえ〜」とだけ情けない声で言ったのだけを覚えている。薄れゆく意識の中でロドリゲスの「あ〜あ、やっぱりこうなったか…」というため息混じりの声が聞こえた。その後のことは全然おぼえていない。

 どのくらい時間が経ったのかはわからなかったが、ロドリゲスに強く肩を揺すられ、目が覚めた。何が起きたのか全くわからなかったので、「あれ? ここは? 何で君がここにいるんだい」などと、寝ぼけたことを言ってしまった。ロドリゲスは呆れた様子で、「何言ってるんだい。夢占いだろ? もう、あれから3時間も経ってるんだよ。普通、成功するときは自然に40分ぐらいで目が覚めるんだ」と言って、大きくため息をついた。
「ああ、そうか、失敗しちゃったかあ。ただの昼寝で終わっちゃったね…。それで京介はどうなったの?」
 僕がそう聞くと、ロドリゲスは部屋の奥の方を指さした。京介はグゴ〜、グゴ〜と熊のような物凄いいびきを掻いて寝ていた。天才憑依師の面影は全く無かった。
「すると、彼も失敗かあ」
僕はそう言うと、京介の側へ行き、当然のように彼のポケットから1000札を回収した。なんだか馬鹿馬鹿しくなってきたので、僕らはすぐに帰り支度を始めた。
「君には悪いことをしたねえ。なんだか、無駄な時間を過ごさせちゃって…」
僕がロドリゲスにそう言うと、「そんなに気にしてないよ。夢占いってのは結構難しいからねえ。反面教師というか、僕にもいい勉強になったよ」と彼は苦笑いを浮かべた。
 僕らが部屋から出ていこうとすると、後方から、京介の、「う〜ん、みよちゃ〜ん、みよちゃ〜ん、愛してるんだ〜」という情けない寝言が聞こえてきた。
「彼も相当調子を崩してるようだねえ…」
 最後にその言葉を残して、僕らは京介の部屋を後にした。


 先日の夢占いの影響なのか、ここ数日ずいぶんと体がだるい。夜あまり眠れないので、その分、昼間余分に寝るようになり、授業など全然でれないし、でたくない。これが最近世間で流行りの睡眠障害なのかもしれんな、などと自分のいいように考えながら、今日も夕方までゴロゴロしていた。
 しかし、部屋の外からガヤガヤと騒がしく人の声が聞こえ、全く眠りにつけない。おそらく、今日も隣室に住む我が友ロドリゲス氏の部屋に占い目当ての女性客が殺到しているのだろう。この際だから説明しておくが、この別館には2階から5階まで40近い生徒の個室があり、その全てが占い師として営業しているわけである。しかし、その中で客が頻繁に訪れるのは5つにも満たない、特定の部屋だけである。つまり、残りの多くの部屋は、ほぼ無客状態であり、その生徒のただの寝室としてのみ存在するという、恐ろしい現状がここにある。僕のように半ば営業をあきらめた生徒も中にはいるのだ。
 しかし、隣の部屋であんなに派手にやられて、黙って寝ているのも何か腹立たしいので、寝床から抜け出し、ドアの隙間からそっと覗いてみた。案の定、隣の部屋のドアは開け放たれ、客が部屋の外まで累々長い列を作っていた。そのほとんどが十代の女性客だ。後ろの方に並んでいる女の子たちが、「ロドリゲスく〜ん、私の番はまだ〜?」などと、部屋の中に向かって呼びかけたりしていて、なんともにぎやかである。
 そうかそうか、今現在、京介が不調で商売を休んでいるから、よけいロドリゲスの方へ客が集中してしまっているのだ。しかしまあ、隣の部屋にも同学年・同学科の占い師が寝泊まりしているのに、一人もこっちへ入ってこようとはしない。まったく、何という過酷な現実であろうか。まさに才能主義によって生み出された二極分化である。
 先日、そのことでロドリゲスにいくらか不平を漏らしたところ、「それなら、派手な看板でも掛けるといいよ。」などと、前向きな助言がもらえたので、昨日自ら手作りで『完全的中! 超人気占い師在中!』と、真っ赤な文字で大きく書いた看板を作成し、ドアの外に掛けた。ところが、全く何の効果も得られない。それどころか、あんな派手な看板を掛けておいて、誰も入ってこないとなると、よけい惨めだ。やらなければよかったという虚しい思いも湧き、そんなことを考えていたら、だんだん頭の中に怒りが浸透してきた。思い切って、自分の部屋にガソリンを蒔いて、自演火事でも出してやろうかなどと物騒なことまで考え始めてしまったのだが、それでは占い師としての領域を逸脱してしまうので、思い直すことにした。
 しばらくの間、ロドリゲスの部屋の方を覗いていると、列に並んでいる女性のうち数人がこちらに気がついた様子だ。しかし、彼女らは、何か悪いものでも見てしまったかのように、僕の方から不自然に目を背け、再びわちゃくちゃと無駄話を始めた。その有様を見て、僕はさすがに腹が立ったので、一言文句でも言ってやろうと、ドアを開け、一歩外へ踏み出した。すると、その時、列の最後方に並んでいた、僕と同年齢くらいの痩せた男性がこちらに向かって歩んできた。彼は僕の眼前まで来ると、オドオドとした態度で話し始めた。
「あの、こちらも…、一応、占い師さんですか?」
「一応でなくて、完璧に占い師ですよ!」
僕は強い口調でそう言い返した。すると、その男は深々と頭を下げ、「いやあ、そうですかぁ…、助かります。実は私少し急いでまして、あちらの部屋だと、もう数時間はかかってしまいそうなので、できればこちらで占ってもらえませんでしょうか?」
 たいそう礼儀正しい態度と、その純朴な笑顔に僕の怒りは吹き飛び、「さあさ、そういうことでしたか、どうぞ、どうぞ。いやね、お客さん、お目が高いですよ〜。あっちの部屋はねえ、長時間待たされる割には対応と技術はたいして良くないんですよ」などとうそぶき、その男性の手を引き、部屋に呼び込んだ。その気弱そうな男性は部屋に入ってからもおどおどしていて、イスに座ろうともしなかった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。そこにあるイスに座っていて下さい。」
久しぶりの客だったので実は緊張していたのはこっちの方だったのだが、僕は平静を装ってそう言い、水晶の準備を始めた。
「すいません…、それでは…」
小さな声で言いつつ、男性はようやく席に着いた。
「それではどうしましょうか? 何について占いますか?」
「あっ、そうですね。え〜と、実はですねえ。私、明日、あの、ある女性とデートの約束をしていまして…、それでですねえ、明日の天候を詳しく教えていただきたいのです…。その後、天候に応じて、デートの時間・場所などの設定をしたいと思いますので、うまくいく秘訣を教えて頂けたらと…」
 男性は照れくさそうに頭を掻きながら、そう答えた。しかし、これは少し困った相談だ。僕の水晶の技術では、映像を静止画でしか映せないのだ。明日一日の詳しい天候を知るためには、水晶に一日の空の動きを動画で映し出せる占い師でなくてはならない。水晶を使わずに天気を占うとなれば、占星術が一番だが、僕はその占星が一番苦手なので、これも無理だ。少し考えた後、僕はついに実利をあきらめ、他人に客を譲る決意をした。
「そのご相談でしたら、知り合いに専門の占い師がいますんで、そちらを紹介しましょう。」
僕はその男性を引き連れ、4階のラルセの部屋に向かった。占星術専攻の学生の部屋は、夜空を見やすい上階に集中している。階段の途中で、「その女は性格にかなり難があるんですがねえ。まあ、技術は保証しますよ」と、どうとでも取れるような説明をした。
 ラルセの部屋に鍵はかかっていなかった。失恋直後の婦女子の気持ちを考えて遠慮などしていたらきりがないので、僕はドーンと躊躇なくドアを押し開け、中に入り込むと、「お〜い、おまえ、生きてんのか〜!」と力強く挨拶した。彼女は部屋の奥の方で、三人掛けのソファーに前のめりに座り込みながら、缶ジュースを飲み、ファッション雑誌を広げていた。寝起きのようで髪も整えてないし、服も昨日と同じものだった。
「なんだ、バヌッチか。ごめんね…、今、私もお金無いのよ。貸せないわ…」
彼女は憔悴しきった表情でそう答えた。
「違うよ、そんなことじゃなくて、あんたにお客さんだよ」
僕はそう言うと、男性客を部屋に引き入れた。彼女は客の方を確認すると、あわてて立ち上がった。
「えっなに? お客さん? ほんと?」
「明日の詳しい天気が知りたいんだって」
「明日の天気なんて簡単よ。まかしといて!」
「それで…、おいくらになりますでしょうか?」
男性は不安そうな顔でそう尋ねてきた。持ち金にそれほどの余裕がないらしい。
「いいわよ、いいわよ。あんた初めての客だし、ただで見てあげるわ」
ラルセは天体望遠鏡を窓の近くにセットして、高さを調整するダイヤルを捻りながら、相手と顔を合わせようともせずにそう答えた。
 彼女は常連の客からしかお金を取らないという、ちょっと変わった営業理念を持っている。まあ、再来を期待するという長い目で見ればその方が効率がよく、僕と違って商売上手なのかもしれない。しかし、男性の方はそれで収まらないらしく、ポケットをまさぐりだした。
「私にとっても明日は人生の大勝負なので、そういうわけにはいきません。これでお願いします!」
彼はそう言って、5000円を差し出した。
「げっ!」
ラルセよりも先に僕がその金額に反応してしまった。慌てて自分の水晶を取り出すと、「じゃ、じゃあ、やっぱり僕が占いましょうか!」と思わず口走り、素早く水晶に手をかざした。その瞬間、ラルセの目がキラリと光り、次の瞬間にはこっちに向けて黒豹のように走り出していた。
「ちょっと! なめてんじゃないわよ! 大体、何であんたがここにいんのよ!」
ラルセはライオンのようにそう叫ぶと、僕の手から水晶をもぎ取り、なんと、窓の外へ放り投げやがった。
「おまえ! それはないだろ!」
僕はそう叫ぶと、一目散にその部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。水晶は下の広場にある花壇の上に落ちていたので、幸い割れてはいなかった。僕は水晶を拾い上げて、ハンカチで奇麗に拭くと、急いでラルセの部屋まで戻ってきた。
 彼女はすでに望遠鏡のスタンバイを終え、望遠レンズの微調整を行っていた。息を切らして、僕が部屋に入っていくと、「なんだ、割れなかったんだ? いい水晶ね…。持ち主の人生は壊れかけてるのにね…」と顔色一つ変えずに冷たい言葉を投げかけてきた。その後、彼女はもう一度望遠鏡を覗くと、「よし、これでいいわ。じゃあ、メモ取ってくれる?」と男性客に向けて語りかけた。
「あっ、はい、わかりました」
お客の彼はそう言って、懐からメモ帳とボールペンを出した。
 『占星術』は主に数日後までの詳しい天候を知るために用いられる。基本的な占いではあるが、上級者になれば、一ヶ月以上後の天気や天災はもちろん、今後数年間内に起こる天変地異などを察知することもできるという。この占いばかりは基本的な占いの知識や技術はあまり関係なく、もっぱら、占い師自身の才能と理系の知識に正否がゆだねられる。
 彼女は先程までとうって変わって、真剣な表情でレンズを覗いている。その身からは濃緑のオーラが発せられていて、こうなると声もかけづらい。そして5分ほど経つと、望遠鏡から目を離すことなく、独り言のように何かぼやき始めた。
 「う〜ん、今夜も…、金星の輝きがいいなあ…、夕焼けの色合いはいまいちだけど、明日も確実に晴れるわね…。でも…、スピカの光りかたが昨日ほどじゃないわ…。他は…、どうかな…? まあ、こんなところか…」
 彼女はそんなことを呟いた後、望遠鏡から静かに目を離した。そして、机の上に置いてあった電卓を手に取ると、慣れた手つきでボタンを押し始めた。計算はすぐに終わり、彼女は再び電卓を机に置いた。
「じゃあ、いくわよ。いい?」
「は、はい、お願いします」
男性は鉛筆を握りしめて身構えた。
「え〜と、明日、午前5時10分に日の出。その後、午前9時15分まではほとんど雲もなく快晴ね。9時半頃から、やや雲が多くなって、風も少しでてくるわ。風速は南東の風3、5mぐらいね…。30分に一度突風が吹くくらいかしら…」
彼女が話し続けている間、男性は一言も言葉を口にせず、ただ紙の上で鉛筆を走らせていた。
「正午を過ぎると、風はおさまるわ。気温は上がり続けて、午後2時12分に最高気温の27度になるわね。その後は、ほとんど無風で蒸し暑くなります。湿度は57%ぐらいでしょうね。気温はだいぶ下がるけど、雲はなくなって、夜は星空がきれいに見えるはずよ。絶好のデート日和ね!」
 彼女はそこまで一気に話してしまうと、一仕事終えた芸術家のようにイスにドカッと腰を下ろした。男性も言われたことを書き終えると鉛筆をしまい、スッと立ち上がった。
「どうもありがとうございます。おかげさまで明日のデートもうまくいきそうです。また今度、お礼に伺います」
男性はそう言うと、深々と頭を下げた。ラルセは満足そうな笑顔で頷いていた。その態度には一流の生徒だけが持つ余裕が感じられた。
「明日はがんばってよ。応援してるからね」
僕はそう言って、彼の側まで歩み寄ると、固い握手を交わした。
「上手くいったらあなたがたのおかげです! それでは失礼します!」
男性は堂々と部屋から出ていこうとした。しかし、突然ラルセが機械仕掛けの人形のように立ち上がった。何か大事な事を言い忘れていたらしい。
「あ、ちょっと! あんた、星座は何座だっけ? それを聞かないと!」
男性は余裕の笑顔を浮かべたまま振り返り、「蟹座です!」と自信たっぷりに答えた。ラルセはそれを聞くと、強い口調で最後に一言付け足した。
「それじゃあ、明日のデート、絶対うまくいかないわよ。ふられるから行くだけ無駄! 星雲がぼやけてるもん、蟹座は…」
 そんな方向から占うこともできるのかと、僕は占星の深さに改めて驚かされた。一歩も身動きせず、呼吸も止まってしまった男性客も、もちろん僕と同じことを考えたはずだ。

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