目次
1ページ試験の結果
2ページ京介の不調・ラルセの星占い
3ページ新入生歓迎式
4ページガンボレ祭前日の買い物
5ページガンボレ祭その後(一)
6ページガンボレ祭その後(二)
7ページガンボレ祭その後(三)
8ページガンボレ祭その後(四)
9ページサフラン先生の薬品占い
10ページ生徒会総選挙数日前(一)
11ページ生徒会総選挙数日前(二)
12ページ生徒会総選挙数日前(三)
13ページ厳罰棟所長の訪問(一)
14ページ厳罰棟所長の訪問(二)



 先日購入してきた水晶がすっかり気に入ってしまい、毎夜抱いて寝るようにしている。そのため、その日の朝は、水晶に頭をゴツンとぶつけて目が覚めた。しかしまあ、まぐれではあっても、早起きというのは悪くないものだ。僕の場合は、目が覚めてから、普通に身体が動きだすまで約10分程度かかる。今朝も起きてしばらくの間はベッドに腰掛けたまま、目を天井に向け、口を半開きにしながら、ぼぅ〜としていた。
 こんなに早く起きてしまうと、どうせ、脳はなかなか動いてくれないだろうから、読書をしてもラジオを聴いても無駄である。そこで、僕は脳に正常な活動を促すためには、苦い本格的なコーヒーの力が必要だと思うようになり、授業の前にフランポーゼに向かうことにした。
 喫茶店の店内には不幸なことに、いや、都合のいいことに、今朝はお客が全くいなかった。僕はあまり人混みが好きでないので、空いてる飲食店というのは大歓迎である。店長は他にやることがないのか、寂しそうにナプキンで店内の各テーブルを拭いて廻っていた。僕が入っていくと、店長は哀愁たっぷりの眼でこちらを見た。
「やあ、パヌッチ君…、また客が来なくなっちゃってねぇ…」
「結局、あの日一日だけでしたねぇ。まぐれだったんですかねぇ…」
僕は冗談とも皮肉とも受け取れるように、薄笑いを浮かべてそのような発言をしたのだが、それを聞いた店長の憮然とした表情を見て、「しまった!」と心で叫び、深く後悔した。悪い人間ではないし、話もきちんと通じるのだが、こちらの他愛のない一言に突然機嫌を悪くしてしまう。どこの世界にもこんな扱いにくい人間が一人や二人いるものだ。店長は口を真一文字に結び、いつか、雑誌の写真で見た日本のダルマのような厳しい顔で近づいてくると、僕の対面の席にどっかりと腰を降ろした。
「校内にこんな小さな店を開いて…、貧乏で、しかもできの悪い学生達に格安でコーヒーや紅茶を提供して…、その日銭で暮らしていくのがどれだけ大変なことかわかるかね? 試しに君もやってみるか?」
 店長は静かだが脅すような、まるで執拗に賠償金を求める民事事件の被害者のような口調でそう言った。その毒々しい眼差しを見て、僕は震え上がった。
「す、すいませんでした…。悪気はありません。ほんのジョークです…」
「まあいい…、それで今朝はどうするかね? コーヒーだけでいいの? では、少し待ちたまえ。無料で進呈しよう…」
 どのタイミングで機嫌を直したのかわからないが、店長はそのように言ってから、ニコッと笑い、席を立つとカウンターの方へ戻っていった。
 この際だから説明しておこう。店長の名はマルコス=マルケスといって、自称メキシコ人である。既婚で同年齢の夫人と、この近くのアパートで同居しているそうだ。元々はこの近くで子供相手に怪しい玩具やくじ引きを売り付けるマフィアに近いような商人だったらしい。ただ、ある時、つまらないチョンボから警察に追われることになり、逃げるようにメキシコに帰国しようとしたのだが、パスポートが偽造だったため、入国管理局に入国を断られてしまい、この国に留まる羽目になったらしい。その事件の折、何を勘違いしたのか、この人のこすっからい能力が必要だと感じてしまったうちの学長に招かれて、この学校で店を持つことになった。町で何か小さな事件が起こるたびに、やたらと正義という言葉を使いたがり、錆び付いた道徳観念を持ち出したがるが、その実は、あのヴォートランのような、かなりの悪党である。
「そう言えば、君はガンボレ祭には行ったのかい?」
コーヒーを炒れる手をいったん止めて、店長はそんなことを尋ねてきた。
「ああ…、いえ、行こうかとも思ったんですが…、それほど興味もなかったので、結局行きませんでした…。前日に準備しているところは見たのですが…」
唐突に話し掛けられたので、うまく返事が出てこなかった。
「行ってないのなら行ってませんとだけ答えたまえ…。余計なことは言わなくていい…。耳障りだ…」
「はい、すいません…、つい…」
「すごい祭りだったよ…。私はあんなに祭りで興奮したのは初めてだ…」
顔を高揚感で紅く染めながら、地の底のマントルから沸き上がって来たような暗く印象的な声で店長は言った。
「な、なにがあったんですか…?」
「あの、りんごの木商店の野望がついに砕け散ったんだよ…」
「はぁ?」
先日、訪れたばかりの店が突如話題にあがったので、心底驚いて、意識せずそんな甲高い声を出してしまった。
「私は職業柄神の存在など信じないが…、まあ、あれは神罰と言っていいだろうね…。とにかく、人類があのような行為に及んだのはフランス革命以来だろうからね…」
「な、何があったんですか? 僕はつい3日程前に、友人とあの店に行ったんです…」
「そうか…、現実はかなり深刻でね…。ガンボレ祭の最後に村人全員による行進があるだろう?」
「は、はい、今年の漁の成功と来年も祭りが行えることを祈願するパレードのことですね…?」
僕は、これ以上店長の機嫌を損ねないよう恐る恐るそう答えた。
「そう…、そのパレードの途中、あの商店の前を通り掛かった際、行進を先導する役割だった村人の内数人が、斧や持っていた旗振り棒を振り回して、りんごの木商店に襲い掛かったんだよ…」
「ええ! なぜ、そんなことを!」
「なぜって…、パヌッチ君…、これは人間が常に心中の奥深くに持っている根源的な怒りだよ…。誰でも同じことをする可能性はあるんだ。ちょっとしたきっかけがあればね…」
「あ、でも、やはり、あの老人が祭りへの寄付金を断ったことが…」
「いかん! いかんよ、パヌッチ君! それは浅慮すぎる! 物事の表面しかなぞらない人間の考えることだ!」
 その時、フランポーゼに新入生らしき生徒が入って来ようとしていたのだが、店長の怒鳴り声を聴いてビビってしまったらしく、いずこかへと走り去って行った。そんな新入生の後ろ姿を横目で見て、僕は彼の健全な育成を願い、自己犠牲の精神も相まって、独りゆっくりと頷いたのだった。
 コーヒーを炒れ終わると、店長はカップをお盆に載せ、ゆっくりと近づいてきて、僕の眼前の席に再び座った。緊迫した状況だったので、テーブルに置かれたコーヒーにもなかなか手が出せず、息が詰まる思いだった。
「心の内に一年間積もり積もった人間の最もカオスな一面が一気に噴出したと私は見ているがね…」
「それで…、あの老人はどうなりましたか…?」
「得体の知れない科学物質などを使用して激しく抵抗したらしいが、相手は村人ほぼ全員だからね…。20分もしないうちに店外へ引きずり出されて、手足を縛られて港まで引っ張っていかれ、そこから海へ放り込まれたらしい…」
「うわ! そこまでしなくても…」
「仕方ないだろ…? これまで村人全員を敵に回して、しかも、それを全く意に介さない不遜な態度をとり続けていたわけだからね…」
「それで…、死んでしまいましたか…?」
聞くのが怖くなる質問だったが、僕はためらいがちにそう尋ねた。
「いや、噂では命からがらアンポマ島まで流れ着いたらしい…。それ以後の詳しい情報はまだ私のところにも入ってないがね…。店の方は暴徒と化した村人によって粉々に破壊されて、その後、灯油の上から火をかけられて灰塵になったらしい…」
「なんてことを…。警察は何をやっていたんだろう…?」
「商店街の奴らも上手いことを考えたものだよ…。祭りの最中にどんな不測の事態が起きたとしても、それは神事の一環だから、警察も取り合ってくれないだろう…。恨みを晴らす機会としては絶好だったな…」
「でも、それは…」
イエスともノーとも言えない僕のそんな優柔不断な態度を見て取ると、店長は反論を封じるべく、すかさず、にじり寄ってきて、顔と顔の間合いを詰めてきた。吐息が顔に届くぐらいの近距離だ。
「では、聞くが君はあの店主のことを好きだったかね? 一人の社会人として見て、好ましい人間だと思ったか?」
「いえ、不快な人でした…。顔も話し方も気持ち悪かったです…」
「そうだろ? はっきり言うが、生物界のどこへいたとしても、邪魔物になるような存在だったんだよ」
「でも、気に入らないからって、村人全員で寄ってたかって独りの老人を攻撃するなんて…」
「いやいや、この際、商店街の連中があの店主を好きだったかどうかは関係ないんだよ…。いいかね? 社会に対してどんなに抵抗を試みても、規則を守れない人間、集団の中に収まれない人間は自然に淘汰されていくしかないんだよ」
 ラルセや京介などもよくこの喫茶店で店長の話を聴いているが、彼らのように相手の話を軽く聞き流せる人間には、こういう人生哲学は面白いらしい。事実、ラルセなどは、店長の無駄に長い話を2時間も聴いた後で、「そうよねぇ〜、人間って全然進歩しないもんね〜」などと、頷きながら共感していたりする。だが、思想論だろうが哲学だろうが、他人の話をすべて真に受けてしまう僕にはこういう話はひどく重苦しさを感じるのだ。
「それで…、店長は老人が数十年守ってきた店が暴力で破壊されていくのを見て、辛くなかったですか?」
「俺だって、あの店で買い物をしたこともあるし、店主とも知り合いだから思うところはあるよ…。だがね! 人間関係っていうのは成長が止まってしまえば、あとは自然崩壊するしかないんだ…。だから、人生っていうのは詰まるところ、そうやって必要なくなった人間関係を切り落としながら進めていくしかないんだよ…。残酷なように聴こえるかもしれんが、これが現実なんだ…」
「あきらめろということですね?」
「そうさ…、俺達には俺達の生活があるだろ? 自分の日々の生活を充実させて、数年後、昔、そんな老人もいたっけなあ…と、思い出してやればそれでいいんだよ」
 僕はゆっくりと大きく頷き、余っていたコーヒーを一気に飲み干して、フランポーゼを後にした。何か、コーヒーよりも遥かに苦い人生の真実を知ってしまった気がした。

 授業が始まる時間が近づいてきたので、仕方がなく暗い気持ちのまま、鞄に教材を詰め、学舎へ向かうべく支度を始めたのだが、喫茶店で受けた心中の計り知れない動揺は拭えないままだった。
 今日の朝一番は選択科目の授業である。これは、将来立派な知識人になるために、占いだけでなく、一般的な学力も身につけなければならないという、我が校独自の教育方針によって、各生徒が幾つかの教科の中から自分で一つを選択して受ける授業である。テストも一応あるが、占いのように結果が掲示板に張り出されることはないので、その点は気が楽である。選択科目の時間を休み時間と割り切って、すっかり気を抜いて読書したり、昼寝をしている生徒もいるとかいないとか。
 科目は生物学・美術・音楽の中から選択できる。僕は芸術系の教科が嫌いなので、生物学を選択している。
 しかし、授業が始まり、先生が光合成や食物連鎖のなんたるかについて語り始めても、それらは耳の入り口までで止まってしまって、決して脳には届かず、村人に焼き打ちにされ、着の身着のままで放り出された哀れな老人のことを思うと、胸が張り裂けそうで、誰かにこの苦しい胸の内を伝えたくて仕方なかった。
「そろそろみんな眠くなってしまったようですね。今日はここまでにしましょうか?」
 苦笑しながら先生がそう言って教科書を閉じ、授業が終わると、僕は誰よりも先に教室から飛び出し、ロドリゲスか京介に例の悲惨な物語とそれに対する自分の耐えられない気持ちを聞いてもらおうと廊下をひた走った。だが、その道中、廊下の曲がり角で見慣れた人影が横目に映ったような気がして、慌てて足を止めた。
「あれ? そっちも、もう授業終わったの?」
ラルセの方から驚いたような声で話しかけてきた。表紙に楽譜がデザインされた教科書を左手に持っているので、彼女も音楽の授業がちょうど今終わったところらしい。
「なに急いでるの? 何かいい儲け話でもあった?」
「いやぁ〜、それがさ…」と、さっき知ったばかりの話をしようと、そこまで言いかけたところで、彼女の隣に、目立たないがもう一人女性がいることに気づいて、反射的に唇の動きを止めた。
 その女生徒はラルセのように目立つ顔立ちでも巻き髪でもなく、褐色の肌に黒髪おかっぱで分厚い眼鏡という出で立ちであった。その顔は確かにどこかで見たことがあるのだが、名前がなかなか思い出せなかった。
 その極度に地味な女生徒は、僕の方に気づくと軽く会釈した。
「どうも…、初めまして……、ですよね?」
あなたに出会えてもあまり人生の足しにはならないわ、とでも言いたげな少し雑な挨拶だった。
「こんちわ…、あなたはたしか…」
僕がそこまで言ったところで、ラルセが横から割り込んできた。
「多分、お互いに初めてよね? こっちにいるのがパヌッチ。入学した頃から仲良しで、よく気が合うフレよ。そして、こちらの女の子はブエナさんよ…。音楽と水晶で一緒のクラスなの」
「ああ…、あなたがパヌッチさん? お会いできて…、なんというか…、こんなに億劫な出会いは初めてです…」
「こちらこそ…、僕もそれほど胸のときめく出会いではないです…」
「こんなこと言うとまずいかもしれないですけど、色んな人からあなたには近づくなって言われてます…」
ブエナさんはさすがに言いにくそうに、顔を下に向けて、少し照れながらそう言った。
「パヌッチはね、良くない事件をいろいろ起こしちゃったけど、それは決して悪気があったわけじゃなくて、悪ふざけと衝動で起きた事件がほとんどなのよ…。だから、なんというか…、余計にたちが悪いんだけど…」
ラルセは二人の間の微妙な空気を読み取ったのか、必死にフォローしながら間に割って入ろうとしているようだ。
「ブエナさんはたしか生徒会の人ですよね…? 以前、生徒会室で会議しているところを見たことがあります…」
 僕のその言葉を聞くと、『しまった! 知ってたか!』とでも言いたげな表情でラルセは唇を噛んだ。自分が生徒会の人間と仲がいいことを知られたくなかったのだろうか。それとも、このブエナさんが生徒会委員だということ自体を知られたくなかったのだろうか。いずれにしても、僕はこの時のラルセの微妙な表情の変化を横目でしっかりと観察して、脳に刻むことにした。
「パヌッチさん、生徒会室の中を覗いたんですか…?」
生徒会員だと見破られたことで、彼女が動揺しているのは顔つきからわかったが、ブエナさんの声は小さすぎて語尾が聞き取りにくかった。もっとも、これは生徒会の人間のほぼすべてに言えることなのだ。あそこの構成員は押しなべて無口でしかも小声で話す人間が大多数である。生まれつきそういう体質なのか、誰かに命令されて、あえてそうしているのかはわからないが…。
「覗きたくて覗いたわけじゃないです。教員室に、ある理由で呼び出された時に、たまたまその前を通りがかって、その時にチラッと…、会議に参加しているところを…」
「そうなんですか…。じゃあ、意図的に覗いたんですね…。悪意ありなんですね…。…れは…、ゆ……なら…い…」
先程も言った通り、彼女の声は小さすぎてよく聞き取れない。でも、唇の動きから察して、語尾の部分は『油断ならない』だと思う。
 僕らは3人でそういうたぐいの会話を表向きは楽しみながら、ゆっくりと木製の手摺りの付いた階段を伝って1階に向かった。
「それで、あんたは何であんなに慌ててたんだっけ?」
階段途中でラルセが突然、僕の上着の袖を乱暴にぐいっと引っ張って、思い出したようにそう尋ねてきた。
「そう! おまえでもいいから聞いてくれよ!」
「だから何があったのよ?」
ラルセと僕がそんな話をしているときも、ブエナさんはラルセの左脇にピッタリと寄り添っていて、顔は下を向いていたが、明らかに聞き耳を立てているようだった。
「それがね…、僕らが先日行ったりんごの木商店が焼き打ちされたんだよ…。ほら、ガンボレ祭のパレードがあっただろ? あの時に…」
僕は生徒会員に聞かれぬように、できるだけ声を絞ってラルセの耳元でそうささやいた。
「どこでその話を聴いたんですか!!?」
向こう側から大声で叫んだのはブエナさんだった。ラルセは慌てて彼女の右肩をポンポンと叩いて、騎手が馬をなだめるように、なんとか落ち着かせようとしていた。 その次に、ラルセは一度僕の方に顔を向け、『その話は今はしないでほしかった』というように苦い表情を見せ、左右に小さく首を振った。
「でも…、ひどい話だろ!? 商店街の連中が寄ってたかって攻撃したらしいんだ…」
 例え、生徒会委員が聴いていようが、お構いなしに僕は話し続けた。これ以上、胸に貯めておくことができず、我慢ならなかったのだ。
「そ、そうね…、気持ちはわかるわ…。でも、あの、おじいさんも相当危なっかしい人だったわよね…? 人としてギリギリって言うか…。せめて……、ねぇ…、お祭りの寄付金ぐらい少しでも払っていればね…」
ラルセは僕と生徒会のスパイとの板挟みになりながら、苦しそうにそのような返答をした。
「パヌッチさん、もう一度聞きますけど、どこで、誰からその話を聞いたんですか?」
ブエナさんは自分が攻撃的な質問にまわるときは、はっきりとした聞きやすい声で話せるようだった。
「誰から聞いたって関係ないじゃないですか。事実なんだから…」
「事実って…、その眼で現場をきちんと確認したんですか?」
「ちゃんと信頼できる人から聞いた話なので確認する必要はないですよ…。事件が起こるたびに、いちいち眼で確認するまで確定情報にできなかったら、マスコミなんて廃業だし、世の中成り立たないでしょ…?」
「そんな屁理屈言って…。パヌッチさんって、いつもそうなんですか? そんな怪しい疑わしげな情報を事実確認せずに校内にばらまいて、人々をいたずらに惑わしておいて、したり顔で平然としてるなんて…最低…人間…ですね…」
「ブエナ、落ち着いて…。パヌッチはたしかに最低だけど、掴んでくる裏情報にはいつも信憑性があるし、簡単に嘘をばらまく人間ではないわ…」
ラルセはそう言って、苦しい立場ながら僕を支援してくれた。
「でも…、その話は嘘です…。私は真実を知ってますもの…」
校舎の玄関口まで着いてしまったが、彼女の口から思いがけない言葉が出てきたので、僕らは足を止め、その話に聴き入ることにした。ブエナさんは少し上目づかいで、両手を胸の前で組みながら、修道師が神に訴えるような仕草と声で話し始めた。
「あの日…、ガンボレ祭の当日ですけど…、りんごの木商店は新しく建て直されたんですよ…」
「どういうことですか?」
「ほら…、りんごの木商店はあの賑やかで華やかな商店街には似つかわしくないほど、うす汚れていたじゃないですか? 害虫やネズミの巣になってましたし…」
「ええ、それは僕も知ってます。亡霊のような存在でしたね…」
僕は在りし日のりんごの木商店を思い出し、感慨深げにうなずいた。
「ガンボレ祭は村の英雄に感謝し、その霊を祭る神の儀式ですから、そのパレードの通り道に、あのような汚らしい店があってはお祭りの興を削ぐことになります。ですから、みんなで相談して、店を一度解体して、綺麗に造り直してもらうことになったのです…」
「そうだったんですか…」
「もちろん、そのお金は商店街の人達が少しずつ出し合ったものです。街が綺麗になるならと、子供から老人まで、みんな嫌な顔一つせずに協力してくれました。ですから、あのおじいさんが恨まれていたなんてことはなかったですし、ましてや店が焼き打ちされたなんて、根も葉も無いウソですよ」
「では、僕が得た情報が初めから間違っていたんですね?」
「全てが間違いだとは言いませんけど、寄付金の件でかなり憶測が入ってるのと、おじいさんの家が建て直しのために一度解体されたときの場面を、パヌッチさんに情報を流した人が偶然見てしまったから、それを商店街の人の悪意ある攻撃だと勘違いしたのではないでしょうか?」
「なるほど…、そういうことも考えられますね…。でも…」
 ブエナさんの説明ではいくつか納得がいかない点もあった。フランポーゼの店長は焼き打ちの時間が祭りの終わり頃のパレードでのことだと断言していたし、彼が語ったあの生々しい描写は、とても見間違いや思い違いだとは思えなかった。僕が半分信じていないことを見て取ると、彼女はさらに優しげな口調で語りかけてきた。
「ね? 私も胸の内を明かしたのですから、パヌッチさんもその話を誰から聞いたのか教えてくれませんか?」
「それを知ってどうするんですか?」
三度同じことを尋ねてきた彼女に僕は逆にそう聞き返してみた。
「もちろん、その方にも焼き打ちの件が間違った認識であることを理解してもらうために説明しに行きます」
「生徒会本部に知らせるということですか?」
「それは…、誰がその情報源かによりますけど…」
これまで冷淡に話し続けていた彼女が初めて顔色を変え動揺を見せた。
「そ、その話はもういいじゃない…。三人で…、きっさ、じゃなくて食堂でも行って、甘いものでも食べましょうよ!」
 ラルセは僕の話しぶりから情報源を悟ったらしく、とっさに言い直した。彼女らしい冷静な対応だった。この辺りはさすがだ。激論を交わしているうちに小腹も空いてきたので、僕らは無意味な戦闘を一時中断することにした。
 学舎から食堂へと通じる吹き抜けの渡り廊下の途中にロドリゲスが立っていた。彼は僕らのことを見つけると小走りに駆け寄ってきた。
「やあ、パヌッチ。京介を見なかったかい?」
「授業に来てないの?」
「それが…、今日は朝からどこにもいないんだよ…。自室にも食堂にも喫茶店にも…。美術の授業にも来なかったよ」
「京介は美術だけは簡単にはサボらないしねぇ…。おかしいな…、二日前にガンボレ祭を見学するって言って、出かけていくのを見たきりだな…」
 その時、僕は不意にラルセの背中で息をひそめていたブエナ女史の姿を見た。彼女は左手を口にあてて、不気味にほくそ笑んでいた。何がおかしいのだろう? 京介の身に何かあったのだろうか? 僕は急に不安になってきた。
「りんごの木商店のこと、もう聞いたかい? 大変なことになっちゃったねぇ…」
ロドリゲスの方から、その話を切り出してきた。どうせ、僕の方からするつもりだったので、心底驚いた。
「やっぱり、あの話は本当なの? 焼き打ちされたっていうのは?」
「うん、僕の友人がその場面を偶然見ていたらしくて、ついさっき、その話を直接聞いてきたんだけど…」
 彼のその返事と同時に、海面から勢いよく飛び出したトビウオのごとく、ブエナさんが我々の間に顔を突っ込んできた。
「ロドリゲスさん! そのご友人の名前を教えて下さい!」
今朝からもう何度聞いたかわからないが、この日何度目かのこのお馴染みのセリフが、中学生が自宅での学習中に何度も使う有名な数学公式のように飛び出してきた。
「それはできないよ…。君は生徒会だろ…?」
ロドリゲスはブエナさんの存在に気がついても動揺することなく冷静に対処していた。彼ぐらいの優秀な生徒なら、生徒会委員全員の顔形などは、当然頭に入っているはずだろう。
「私が何者かはこの際関係ないんです! 災いの禍根を絶たねばなりません! さあ! ご友人の名前を!」
「だから、教えられないって…。大切な友人だし、信用できる人だから情報の正確性は大丈夫だよ」
「その人は本当にお祭りに参加していたんですか?」 
ブエナさんはさらに食い下がってきた。
「違うよ。実は、バードウォッチングが趣味の人でね。高精度の望遠レンズを持ってるんだよ。その人が宿舎の窓から祭のパレードを見ていたんだ…。だから、焼き打ちの現場写真もあると思うよ…」
「望遠レンズ越しとは言え、肉眼で見ていたのなら…。重要な証拠になるわね…」
ラルセもブエナさんを擁護することを諦めたように静かな声でそう言った。
「その人は宿舎の窓からお祭りの何を見ていたんですか? 私が思うに、かなり不埒なことを考えていたのではないでしょうか?」
ロドリゲスはそれを聞いて、はぐらかすことを半ばあきらめたように語りだした。
「その友人はお祭りが大好きなんだよ。だから、ガンボレ祭の最終日だけはどうしても現地に行きたかったらしいんだけど、学校から商店街までの道はかなり混雑していて、億劫になったのと、あとは…、まあ…、ちょっと言いにくいけど、生徒会の人間が道中見張りを立てていたから、行くのが嫌になったらしくてね…。それで、部屋から望遠レンズを使って見ていたらしいんだ…。几帳面で性格はいい人だから望遠カメラの悪用はしてないと誓うよ」
「それは駄目です! 眼前で見ていないのであれば、証拠にはなりません! 証拠にならない話は人心を惑わします!」
ブエナさんはやはり一歩も引かない構えだった。
「やっぱり、商店街の人はお祭りの当日も、おじいさんに寄付金を要求していたのかしら? それでトラブルになったとか?」
ラルセは話の矛先を変えようとしたのか、そのような質問を繰り出した。
「えっと、友人も声は聴いていないから、確たることは言えないけど、聞いた話では、お祭りのパレードが、あのおじいさんの店の前を通ろうとしたときに、じいさんが凄い形相で店から飛び出してきて、口汚い言葉で罵って、パレードの進行を妨害したらしいんだ…。パレードに参加していた人達は説得にあたったんだけど、じいさんは全く聞く耳持たないし、武器とか薬品まで持ち出して脅す始末だから手に負えなくなって、仕方なく、お店のすぐ近くにあった大木にじいさんの身体を縛り付けたんだって…。その直後に何かの拍子で店から火が出たらしいんだけど…」
ロドリゲスはラルセの質問に落ち着いた態度で説明してみせた。
「僕が聞いた話と少し違うなあ…。」
先程、フランポーゼの店長から聞いた感じでは、パレードに参加していた人が日頃の恨みを込めておじいさんの店を有無を言わさず襲撃したような印象を受けたので、おじいさん側から攻撃を仕掛けたというロドリゲスの主張は新鮮だった。
「まあ、ああいう大事件はどうしても目撃者も興奮していて、主観と憶測で感想を語ってしまうから、多少事実と食い違う部分が出てくるのは仕方ないよ」
「私が聞いたのはね。一度揉めかけたおじいさんとパレードの参加者を、店から飛び出してきたおじいさんの娘さんが仲裁したんですって…、物腰の柔らかい、いい娘さんだったから祭の参加者も親身になって、きちんと話を聞いてくれたらしいわ…。そして、娘さんがお祭りの寄付金を代わりに支払う形で双方納得して、一度騒ぎは収まったんだけど、その直後に、パレード参加者のうち一人が、おじいさんの店に火炎瓶を投げつけたらしくて、それが凄い勢いで燃え広がって辺りは大混乱に陥って、そこからまた暴動が始まったって言うんだけど…」
「あの人に娘さんなんていたのか…。全然知らなかったよ」
隔世の感のある、あの爺さんの言動を思い出し、驚愕の事実に僕は天を仰いだ。
「ちなみにその話は誰から聞いた?」
ロドリゲスがラルセに詰め寄って、首を伸ばして上から見下ろすように彼女の顔を覗き込み、質問した。
「今朝、京介から直に聞いたわ…。彼は当日現地に行ってたから…」
「京介は今朝まで学校にいたの?」
僕とロドリゲスがほぼ同時にそう叫ぶと、ラルセは困ったように一度チラリとブエナさんの顔を見て、言いづらそうに話し始めた。
「えと、朝9時頃に私は授業があるから校舎に向かってたんだけど、広場を通り掛かったら、向こうから走ってきた京介とぶつかりそうになって、なんか興奮してたから、彼から話を聞いたのよ…。そしたら、昨日ガンボレ祭でとんでもない事が起こって、誰かにそのことを伝えないと占い師失格だって大声でわめくから、私たちの周りに広場の人が大勢集まって来ちゃって…。それで、お祭の話はだいたい聞いたんだけど、授業の時間が近づいてきたら、彼は突然、教科書とノートを自分の部屋に忘れてきたって言い出したのよ…。それで、すごい形相で走り出して、宿舎まで戻って行ったのよ。それが京介を見た最後だったわ…。その直後に、校舎でブエナさんに話しかけられてね…。一緒に授業に…」
ラルセはここぞとばかりに口を大きく広げ、身振り手振りを交えて説明してくれた。
「人がいっぱい集まる場所で、大声を出してしまったのが良くなかったかもね…」
ロドリゲスは苦い顔で考え深げにそう感想を述べた。
 おそらく、襲撃事件に何らかの形で生徒会が関与していたため、それを見た者や事件を吹聴する者がいないか、今現在、探っているのだろう。ラルセと京介は広場で事件のことを話しているところを聞かれてしまったのは明らかだった。その結果、京介は生徒会に拉致されてしまい、ラルセにも見張りが付いてしまったのだろう。焼き打ち事件の真相を暴くために動き出したいが、スパイを一匹押し付けられたままでは何も出来ないので、僕らはなんとかして、この窮地を脱さなくてはならなかった。
「それじゃあ、一度現場へ行ってみる? こんなところで長話するのもよくないしね」
「私もその方が良いと思います。パレードの現場を一度見ていただければ、皆さんの誤解を解消できると思います」
ロドリゲスの提案をブエナさんも受け入れてくれたので、僕らは再び商店街の事件現場に向かうことにした。ずっと足踏みしていた話がなんとか前に進んだため、授業が終わって1時間経過して、ようやく校舎から出られた僕らは、正面玄関を出て、寄り道せず真っ直ぐに正門の方向へ向かった。広場へと続く吹きさらしの通路には、初夏の涼しげな風が吹き渡っていて、女子生徒のスカートを乱暴にめくり上げていた。

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