目次
1ページ試験の結果
2ページ京介の不調・ラルセの星占い
3ページ新入生歓迎式
4ページガンボレ祭前日の買い物
5ページガンボレ祭その後(一)
6ページガンボレ祭その後(二)
7ページガンボレ祭その後(三)
8ページガンボレ祭その後(四)
9ページサフラン先生の薬品占い
10ページ生徒会総選挙数日前(一)
11ページ生徒会総選挙数日前(二)
12ページ生徒会総選挙数日前(三)
13ページ厳罰棟所長の訪問(一)
14ページ厳罰棟所長の訪問(二)



 二週間後の朝、僕の部屋にはいつになく張り詰めた空気が漂っていた。その重苦しい空気の中、僕は一言も言葉を発せず、機械的な動きでインスタントコーヒーを作り、部屋に来てくれた二人に差し出した。説明は後でするが、このときは、余計な動作を一切できない状況に追い込まれていたのだ。
「ありがと、でも、このコップよく洗った?」
ラルセはだされたコーヒーを指差し、汚いものを見るような、不審感極まった表情で言った。これだからエリートは嫌なのだ。
「別に無理して飲まなくてもいいよ。そんなこと言うならね」
「しかし、あれだよな。学校辞めることにならなくて、まずは良かったよな」
京介がコーヒーをズズズと吸い込みながら、そんな短絡的なことを言った。
「自宅禁固2週間のどこがいいんだよ」
僕は機嫌が悪かったので、冷たくそう言い放った。
「天罰よ、会場の準備も手伝いも何もしなかったから。今年になってから、あんたに天罰が落ちたところをもう五回は見たわ」
「だから、悪気があったわけじゃないって、言ってるだろ。歓迎会自体を完全に忘れてたんだよ」
「それもどうですかね」
ラルセはそう言い返してからようやくコーヒーに口をつけた。
 あの事件の後、生徒会主催の事故審査会が本部で開かれ、僕の処分について話し合われた。多数を占める保守派の生徒からはすみやかに退学にすべしとの声も多くあったらしいが、結局、更正を期待しての自宅禁固処分ということになった。禁固は謹慎よりも重い処分で、その生徒は処分期間の間、自分の部屋から一歩も外へ出ることを許されず、さらに、生徒会の監視員によって、四六時中見張られることになる。今も、この部屋の片隅で、黒い覆面を被った監視員が目を光らせている。占いに使う道具や教材も有無を言わさずダンボール詰めにされ、生徒会に押収されてしまった。完全な監禁状態なので、授業に出ることはもちろん、食料を買いに出ることもできない。しかし、この二週間、毎日のように京介とロドリゲスが僕の部屋に食糧を供給してくれたので、なんとか命は助かった。自ら友達思いと言い張るラルセは、その食料を食らうために、僕の部屋に遊びに来ている。なんて女だ。しかし、そんな非人間的な禁固期間も、あと少しで終わる。
「のこ〜り〜さんじゅっぷ〜ん!!」
後ろから覆面監視員が大声を張り上げた。
「うっさいわね! 目の前に時計あるからわかってるわよ!」
今年になって血圧が高めになったラルセが僕よりも早く切れてしまった。
 どのみち、歓迎会のときに僕の水晶は失われてしまったので、このまま禁固期間が無事に終わったら、僕らは占い専門ショップに、新しい水晶を買いに行かなければならない。そのため、今日は朝早くから、京介とラルセが僕の部屋に来て、待機しているのだ。
「ロドリゲスは買い物に来ないの?」
「ああ、なんか、あまり行きたくないらしいよ。行くのはりんごの木商店だろ? あの店があんまり好きじゃないんだって。」
「好きじゃないというのは?」
「店長がさあ、なんかおっかない人らしいよ」
僕は一度も行ったことはないが、『りんごの木商店』と言えば、占い通の間では知る人ぞ知る存在だ。
「あなたは何か買うの?」
ラルセが京介に鋭くそう尋ねた。
「ああ、新しい入魂棒が欲しいんだよ、金属製の」
「すでに木製の入魂棒は持ってるでしょ? 金属製と木製のとは、どう違うの?」
「強力な霊魂に憑依された場合、木製の棒だと、一度叩いたぐらいじゃ、脳にへばりついた霊魂がしぶとくて、なかなか出ていかないことがあるからね。まあ、最近続けざまにたちの悪い霊魂に狙われてるし、無駄に何発も殴られるのは嫌なんだよ」
「それで、叩くときさあ、血は出ないの?」
僕は前から一度聞いてみたかったことについて尋ねた。
「入魂棒は木製にしろ金属製にしろ、神聖な材料を使って作られているから、どんなに強く引っぱたいても、怪我をするということは滅多にないんだよ。ただ、気持ちが入ってなかったり、叩き方が悪いと血が吹き出すことが稀にあるけどね。だからまあ、できれば君らには叩いて欲しくないんだ…」
彼はそう言ってから、何か思い出したのか、少し寂しそうな顔になり、ゆっくりとカップに口をあてた。
「のこ〜り〜にじゅっぷ〜ん!!」
再び、後ろで監視員が大声を張り上げたので、三人とも肩を震わせてビクッとした。
「だから、大声だすなって、言ってるでしょ! ぶん殴るわよ!」
ラルセが学内一とも評される自分の大声を棚に上げて、監視員に殴りかかろうとした。
「まあ、いいから、いいから…」
僕らは必死に彼女を押さえた。監視員は不気味な笑いを口元に浮かべている。その余裕の笑みは、一般の生徒はどんな理由があっても生徒会の委員に手出しできないということを示しているのだ。
「生徒会の奴らって、根暗だから嫌いなのよ。大したことしてないくせに、えばっちゃてさぁ。なめてるわよね」
ラルセはわざと聞こえるように独り言を言った。監視員はそれを聞いても、ニヤニヤしているだけだった。
「悔しかったら、占星でも憑依でも、やってみろっていうのよ。どうせくだらない占いしかできないくせに、私みたいなエリートに逆らうんじゃないわよ…」
ラルセは続けざまに罵倒した。しかし監視員はそれを聞いても、「占星がエリートね…、ふふん」とささやいて、せせら笑うだけだった。
「ラルセ、もうやめろよ」
子供達の膨らます赤い風船のように彼女の殺意が大きくなっていくのを感じたのか、京介は再び呼びかけて制止した。
「ああ、そう言えば!」
京介は何か思いだしたらしく、ポケットの手に突っ込んだ。
「たでま先生にりんごの木商店に行くっていう話をしたら、今日結婚記念日だから、奥さんへのプレゼントに何か買ってきてほしいって頼まれちゃって、その分のお金を預かったんだよ」
京介はそう言って、ポケットから数枚の紙幣を抜き出した。
「あの人、結婚してたの?」
ラルセが意外そうな顔をして言った。
「先生はあまり自分の家庭のことは話さないからね。これまでの人生に後ろ暗いことが多すぎるんだよ…」
「プレゼントかあ。でも、そんなの買わないで、三人で何かうまいもん食っちゃうっていう手もあるよな」
「それはまずいよ。引き受けたのは俺なんだぜ」
京介は僕の申し出をあっさりと退けた。そんなことを話しているうちに、禁固期間が残り10分になった。
「よし、そろそろ行くか」
そう言いつつ、京介は全く似合わない茶色の革コートを羽織った。僕らは出かける準備を始めることにした。ラルセは流し台にコップを片付けにいった。
「のこりじゅっぷ〜ん!」
監視員がそう叫ぶと、突如、ドアが開き、数人の男がドヤドヤと室内に押し入ってきた。
「なによ、あんたたちは!」
ラルセが振り向きざまそう叫んだので、僕も侵入者に気がついた。学生らしからぬ偉そうな濃紺のスーツを着ていたので、最初はわからなかったが、よく見てみると、部屋に入ってきたのは生徒会長とその取り巻きだった。
「やあ、バヌッチ君。どうでしたか、この二週間は?」
生徒会長は入ってくるなり、開口一番にそう言った。
「ええ、まあ、それなりに…」
僕が苦笑いを交えつつ、おとなしくそう言うと、生徒会長はゆっくりと近づいてきた。
「そうですか、まあ、君はもう処分は受け慣れていますからね。どうせあまり堪えなかったでしょうね」
「それはそうと、あんた寝癖ついてるわよ」
ラルセが会長の後ろ頭を指差し、笑いを含んでそう言った。話の腰を完全にへし折り、かなりの嫌みを含んだ言葉だった。
「ほう、ラルセ君もいたんですか、君たちは相変わらず仲がいいですね。ちょっと変わった者同士、惹かれるものがあるんですよね、きっと」
生徒会長は視線だけラルセの方へ移して、嫌みを返した。
「だから、寝癖がついてるって。早く直しなさいよ、みっともない…」
聞く耳持たずに、彼女は同じ口調でまた言った。僕と京介もそれを聞いて笑った。生徒会長は少し気分を害したようだった。生徒会長とラルセの不仲は今に始まったことではない。昨年、教授会でラルセを海外留学の推薦候補に指名するための決議が取られたとき、その会議に生徒としては唯一参加していた生徒会長が反対票を投じたのだった。会長は彼女の素行の悪さを理由としてあげていたが、実際の理由は彼女のようなできる人間が僕のようなリベラルな思想の人間と仲がいいことが気に入らなかったらしい。ラルセは一応、推薦候補にはなれたが、自分が学内で有数の占い師であるにも関わらず満場一致でないと聞き、かなり腹を立てていたのだ。それ以来、二人は校内で出会う度に睨みつけあい、一瞬即発の状態が続いていた。今日は僕に警告を言い渡すために来たのであろうから、今はラルセに引導を渡すことはあきらめたのか、生徒会長は口元に笑いを浮かべながら、再び僕と話し始めた。
「あなたはねえ、もう、とっくの昔に退学になっていなければならない人間なんですよ、本当に」
「すいません。毎度毎度、申し訳ない」
ここでこの男に逆らっては全てがおじゃんになってしまうので、僕はとにかく頭を下げた。
「禁固の処分なんて、我が校の長い歴史の中でも、三人しか出ていないんですよ。しかもその人たちは全て大戦前の人です。実に四十五年ぶりの禁固刑ですよ。あなたは大変貴重な人です」
僕がこれほど頭を下げても、会長はそのつまらない話をやめようとはしなかった。
「私は恥ずかしいですよ。同じ学校の生徒としてね」
「生徒会長が寝癖をつけてるっていうのも、恥ずかしいけどね」
ラルセは我慢できなくなったらしく、再び口を挟んだ。
「おい、そのぐらいにしておけよ」
京介はあわててラルセの口を塞ぎ、部屋の外へ連れ出していった。彼らが部屋から出ていった後、生徒会長はドアの方へ嫌悪の視線を向けると、「ふん」と鼻から息を吹き出した。
「まあ、あなたとは初めて会うわけでもないですし、知らない仲でもないですから、丁寧な挨拶も無しに唐突に本題に入らせていただきますけど、聞いたところでは、あなたは校内で生徒会の委員とすれ違うときにわざと舌打ちをしたり、授業の始めの点呼の時に生徒会員の名が呼ばれると、わざと大きな雑音をたてたりするそうですね? 大物風吹かせたいのはわかりますが、この学校では少々場違いなのではないですか? アナキストとして振る舞うなら、それなりの才覚と覚悟が必要なんですよ。今のあなたにそれがあると思いますか? 間違いなく能力もなければ、生徒会と真っ向から対峙しようという覚悟もない。ほとんどふざけ半分です。自分に何の才能もないことを生徒会に当てつけないでいただきたいですね。これが、あなたに最初に申し渡したいことです」
「その件については本当にすいませんでした…。半分、妬む気持ちがあったのかもしれません…」
僕は屈辱にまみれながらそのような返答をした。
「それを踏まえた上で言っておきますがね、歓迎会で登場したアベックのお二方は、我が学校の多くの男女の中から、生徒会で素行のいい人を選んで、私自ら頭を下げて来てもらったんです。そして、生徒会に敵対意識の強いあなたの親友と知りながらも、ロドリゲスをあの会の占い師に選任したのも、あなたたちとの複雑な因縁よりも、学校行事の管轄機関である生徒会として歓迎会の成功を優先させたからです。あの人を選ばないで他の占い師を壇上に上げることだってできたんですよ? それをしなかったのは、ロドリゲスが恋愛占いの第一人者であることを買ったからです。決して、あなたのような人に大事なイベントの舵取りを任せるつもりはなかったんです。あなたは頼んでもいないのに勝手に現れて、すべてぶち壊していったわけです」
「今となってはすべて言い訳になりますが、諸事情が色々と重なったんです。私だけが悪いわけではないです…」
生徒会長はしばらくの間、僕の顔をじっと見据えていた。僕の言葉が本当に反省に至っているのかどうか、見定めようとしているようだった。
「じゃあ、そろそろ儀式を始めましょうか」
どうやら言うことも無くなったらしく、生徒会長は他の会員にそう合図した。すると、生徒会員の一人がバッグの中から古ぼけた木製の杖を取りだした。僕は黙って床に手をつけ、ひざまづいた。生徒会長は杖を受け取ると、その先で僕の頭をコツンと小突いた。そして、祈り始めた。
「おお、太古の昔より我が国に在する神聖なる神々よ〜、どうかこの男の頭脳に潜む大いなる邪気を振り払いたまえ〜」
そう言いつつ、会長は再びコツンコツンと杖で僕の頭を打った。
「どうか、どうか、振り払いたまへ〜」
僕はこの儀式を受けるのはもう三回目なので、何ら戸惑うことなく、リズムに合わせてそう祈った。
「では、これで儀式を終わります」
生徒会長はそう言うと、持っていた杖を再びバッグにしまった。続いてドアが開き、風呂敷包みを持った生徒会員が入ってきた。会員がその風呂敷を広げると、中から押収されていた僕の占いグッズが出てきた。
「じゃあ、もう二度とこういう事が無いようにして下さいよ」
生徒会長は最後にそう忠告して、部屋を出ていった。最後まで残っていた例の覆面監視員も、ドアに張り付けてあった『営業停止』の張り紙を丁寧にはがして、立ち去っていった。それと同時に、ドアが開いてラルセが顔を出した。
「あんた、終わったんだったら、ぐずぐずしてないで早く出かける準備しなさいよ」
僕はあわてて本棚に財布を取りにいった。ドアの外へ出ると、京介とラルセは待ちくたびれたように立っていた。
「いやあ〜、十五日ぶりに外の空気を吸ったよ」
僕はそう言って、大きく呼吸をして体を縦に伸ばした。
「あんた、そんななめたこと言ってる場合じゃないわよ。今日は四時から雨が降るんだから、早くしてよ」
ラルセはそう言うと、スカートをなびかせ、軽いステップで階段を駆け降りていった。りんごの木商店はこの学校から徒歩で三十分ぐらいの距離である。僕らは警備員さんに軽く挨拶をして、正門を出た。
「いやあ、しかし、久しぶりに君の憑依を見たよ」
 沿道に咲いている赤いチューリップにも目を向けながら、僕は京介に声をかけた。
「でもねえ、実は講堂に着いてから、学長に頼まれたもんだから、あまり自信がなかったんだよ」
「いやいや、僕は感動したよ。やっぱり憑依はいいね。気分がすっきりするよね」
「えっ、なに、京介、歓迎会で憑依やったの?」
ラルセが反射的に振り向いて、そう聞いてきた。
「ほら、遅刻していったじゃん。だから断りきれなくてさあ」
京介は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「すごかったよ〜、立派な狼に憑依されてね、もう少しで新入生をかみ殺すところだったんだ」
「うわ〜、見たかったな〜」
ラルセはずいぶん残念そうだった。
「いやあ、俺もさあ、久しぶりの憑依だったし、新入生の前だったから、ついつい本気を出しちゃったんだよね」
京介は全く悪びれず、少し得意げになって言った。失敗したのだから本来ならば罰せられるところなのだろうが、憑依に詳しい者は少ないので、どこからが失敗なのかがわかりにくく、さらに学校側も彼の憑依の研究には期待しているので、基本的に京介はやりたい放題なのだ。
「去年、京介が十字軍の亡霊に憑依されて大暴れしたのを見て以来だからなあ、また見たいなあ」
ラルセはそう言うと、再び前を向いたが、つくづく残念そうだった。
「だいぶ長いこと説教されてたな。あいつにどんなこと言われたんだ?」
京介が僕の顔を真剣な表情で見つめて、心配そうにそう尋ねてきた。
「これまでの人生でも、これからの人生でも、絶対に体験できないような凄まじい悪口を言われたよ。矢継ぎ早にいろいろと言われたから、心が傷つく暇もなかったな…」
「まあ、気にするなよ。結局はあいつらも暇なんだよ」
「もうすぐ、占い師候補生の発表も控えてるし、今の時期に生徒会に、にらまれるようなことをしちゃったのはまずかったかなあ…」
小声でそんなことをつぶやくと、ラルセが心配そうに僕の顔を見つめた。
「ねえ、パヌッチ…。危険な産業道路を赤信号で渡ることもできるけど、ほとんどの人たちは青信号になってからゆっくり渡るでしょ? あなたも、もう少し慎重に生きたほうがいいと思うわ…」
「わかってる。わかってるよ。これからはあんな無茶はしないようにするよ」
そんな話をしているうちに、僕らは地元の商店街にたどり着いた。
 もうあと数日でガンボレ祭が始まるということで、商店街の各店舗の店員たちは、店の内外の飾り付けにせわしなく追われていた。ほとんどの店がいつもとは違った、きらびやかな装いをしていたが、中央通りを南に向かって果てしなく歩くと、町の片隅に一つだけ全く普段と同じ装いをした小汚い店があった。それが他ならぬりんごの木商店だったのである。
「これが音に聞くりんごの木商店かあ。町ぐるみで祝うガンボレ祭を無視するとはすごいね」
京介が看板を見上げ、感心したのか呆れたのか、大きなため息をついた。うちの学校の生徒ならば、この店を知らない者はいない。しかし、実際に入ったことがある者は意外と少ない。この店に近づくだけで、占い師の直感からか、ただならぬ身の危険を感じるらしい。ロドリゲスは我が校の中で、この店に侵入したことがある数少ない生徒のうちの一人だが、彼は今日意図的に来ていないので、僕らの中には、この店の内情を知る者はいない。
 恐る恐る近づいてみると、店の入り口には鹿の首が飾られていた。
「ああ、これはねえ、剥製っていうんだよ。上流階級の家には必ずあるような飾りだから心配ないよ」
京介が偉そうにそう説明して、僕らを安心させようとした。
「私は金持ちになっても、あんな物飾らないわ」
ラルセはそうぼやいて一歩後ろに下がった。
 外見はすっかり荒れ果てていて、商店であるどころか、人が住んでいるようにも見えないのだった。屋根は傾き、壁のペンキは所々でひび割れ、ドアは腐りかけており、子供の一叩きでも家全体が崩れてしまいそうだった。ウインドウが埃だらけで中の様子が確認できないので、僕はとりあえずドアを軽くノックしてみた。
「はいはい、どちらさんでしょうか〜?」
少し間を置いて、中からしゃがれた声が返ってきた。
「ちょっと、商品を見せていただきたいんですけど〜」
「だから、どなたさんですか〜? 泥棒さんですか〜?」
中からはそんなふざけたことを言ってきた。店主は相当ボケた老人のようだった。
「もういいから、帰ろうよ」
どうやら、ラルセは相手にするのが嫌になったらしく、僕の上着の袖を引っ張ってきた。しかし、せっかくここまで来たのに店の中も見ずに、のこのこと帰るわけにもいかない。
「僕らは客ですよ〜、店の中へ入れてもらえませんか〜」
僕は怪しまれないように少し語気を弱めて、優しく呼びかけてみた。
「ああ、そうですか! そうだったんですか!」
店主はそう言うと、ようやくドアを開けてくれた。しかし、店内に足を踏み入れたとたん、刺激臭が鼻をついた。
「うげっ!」
京介が手を鼻に押しあて、後ずさりした。ラルセはその様子を見て、危険を感じたのか、入ってこようともしなかった。
 店長はもう十年は着続けていそうな、破けまくった紫色のローブを身にまとっていて、しわくちゃなその顔は絶対悪いことを企んでいると考えて間違いなさそうなお尋ね者顔だった。僕はかつて体験したことのない後悔感に襲われていた。
「なんか、食べ物が腐ってるような臭いがするんですけど…」
僕が不安げな声でそう言うと、店主はしゃがれた声で、「うちの店の中ではいろんな物が腐っていますからねえ〜、何がこの臭いを放っているのか、特定は出来ませんねえ〜、ぐへぐへぐへ…」と悪びれずに返答した。店内には紫色の集気が漂っていて、大窓があるにも関わらず、昼間でも薄暗い。数年前から完全に腐りきっていたような木製の本棚が数個置かれていて、その棚の上に、常識では考えられないような姿形をした物品が並べられていた。例えば、頭に巨大な釘が突き刺さったトカゲの剥製であるとか、油断してコブラに負けてしまったマングースの剥製などである。まだあるが、それ以上は説明しない方がよいであろう。
「あのう、ガンボレ祭なんかには参加しないんですか?」
 僕はこの雰囲気に耐え切れなくなって、店主とコミニケーションを計ろうと思い、そう声をかけた。
「ぐへっ、そうですねぇ、今なんか祭りをやっているようですねえ。しかし、いったい何の祭りなんですか、あれは?」
それを聞いて、黙っていられなくなったらしく、ラルセが鼻をつまみながらも店内に踏み込んできた。
「あんた、なめてんじゃないわよ。ガンボレ祭を知らないの?」
「知りたくもないですじゃ」
老人は血も涙もないような冷たさで即答した。
ガンボレ祭は占い師ゆかりのイベントであるため、ラルセが怒るのも無理はない。僕らはこの際、仕方なくこの老人にガンボレ祭の真実を伝えようと試みた。
 今から約千年前、この港町にガンボレという漁師が住んでいた。この男の名が、ガンボレ祭の由来になっていることは言うまでもない。彼は元来の怠け者だったので、仲間が一生懸命網を投げ、魚を釣っているときでも、船の上に一人で寝っころがって、特に何を考えることもなく、太陽や星や飛んでいく海鳥をぼんやりと眺めたりしていた。ある日、いつもと同じように、船の上で寝ぼけながら星を見ていると、突然、彼は大津波が起こって、この町が大被害を受けるような予感に駆られたのだ。彼はすぐに起きあがって、このことを仲間の漁師たちに話した。しかし、いつもの行いの悪さからか、周りの漁師たちは誰も信じてくれなかった。それもそのはず、彼自身も半信半疑だったのだから。彼は船から逃げ出そうかと、一度は考えたのだが、しばらくすると、走って逃げることすら面倒臭いと思うようになり、もうそんなことはどうでも良くなってきた。そして、再び横になり、そのまま眠りについたのだった。その直後、その港町近海での地震から大津波が発生したが、当然のごとく、それに反応できる者はいなかった。人々は逃げ惑い、町は津波に飲み込まれ、住民200人が水死した。ガンボレの船も津波に巻き込まれ、彼もあっけなくおぼれ死んだ。この大事件の後、港町の住民たちは津波を予言していながら、自らの怠け癖によって、死ぬことになったガンボレを哀れみ、毎年この時期に彼の霊魂を慰める祭りを執り行うことにしたのだ。寝っころがって、星を見ながら、大波を予言したガンボレの行為が、現在の占星術の遠因になっているといわれている。
「今の話聞いてた? これでわかったでしょ。ガンボレ祭がこの町の重要な行事だって事が」
ラルセが声高らかにそう付け足して、僕らは説明を終えた。
「何度聞いても、いい話だよなあ、おい…」
京介が一番心動かされたらしく、溢れる涙を隠すことなく号泣していた。しかし、店主の爺はふざけているのか、全く動じていなかった。
「げふっ、話はわかりましたがのぉ、なんでそんな怠け者を祭らなきゃならんのですかのぉ」
「あんた、なめてんじゃないわよ。ガンボレは占星占い師の英雄よ!」
「ぼふっ、しかし、その男がきちんとした言葉で、予言したことを町民たちに正確に知らせていたら、そんな被害が出ることも無かったんじゃないですかのお」
なかなか鋭いことを言う爺だ。実は僕自身も、前々からそこのところが今一つ納得できないでいたのだ。
「それはつまり…、その…」
ラルセは口ごもった。 老人は相手の痛いところを突けて、嬉しくなったらしく、少し調子に乗りながら話を続けた。
「そんなわけのわからない男を、先祖代々祭って喜んでるこの町の住民は、わしから見れば、アホ丸出しですじゃ」
「ふん、あんたみたいな偏屈爺なんかに、神話をきちんと理解させようとした私がバカだったわ」
ラルセは説得をあきらめて、きびすを返すと、店内の商品を物色し始めた。
「それで、おまえさんらは何を買いに来なすった」
店主はレジの前のイスに腰を落ち着けると、そう尋ねてきた。
「実は結婚記念日のお祝いの品を探しに来たのですが…」
 京介は自信がなさそうに弱々しい声で言った。来店の本当の理由はまだ隠しておきたいらしかった。
「なるほどぉ、結婚記念日かあ、それはいいのお、生涯独身のわしにとっては、結婚記念日など、あって無いようなものじゃからねえ…」
店主は眉間にここぞとばかりに皺を寄せ、しみじみとそうつぶやいた。
「これなんかどぉ? 見たところちょっとオシャレだし…」
 その声と共に、ラルセが店の奥の暗がりから小さく綺麗な装飾の箱に収まったタロットを一つ持ってきた。
「占い専門店ならではのプレゼントになるし、いいかもね。これはおいくらですか?」
京介も相当気に入ったようで、それを手の平に載せてみせてから、店主に尋ねた。
「500万ですじゃ」
「な、なんでそんなバカみたいに高いのよ!?」
驚愕したラルセが眉間にありえないほど皺を寄せ、老人に詰め寄った。
「これは、17世紀末にプイ十六世が愛用していた品ですじゃ」
「ずいぶん偉そうな名前だけど、プイ十六世って誰よ? どこかの国王?」
「んん〜…、鋼鉄製の鍋造りの名人ですじゃ…」
「偉いの?」
「か、かなりの数の職人に尊敬されていたですじゃ…。二回ほど離婚してましたがな…」
「あのねえ、このタロット、裏にメイドインジャパンって書いてあるんだけど…」
「そ、それよりもっといい品があるですじゃ」
店主は懸命にごまかしながら、レジの下に置いてある段ボールの中から、別の薄汚いタロットを取りだした。
「それは?」
「死神のタロットですじゃ」
「死神のタロット!?」
そう叫び声をあげると、京介が真っ青な顔で走り寄ってきた。
「死神のタロットっていうのは?」
静まり返った雰囲気の中、僕がそう尋ねると、京介は遠くの壁の方に視線を向けながら、静かな声で解説を始めた。
「今から約四百五十年前…、この国を支配していた王が、我が子が生まれたことを記念して、ある高名な占い師を城に呼び寄せて、我が子の成長と自国の将来について、占わせたんだ。その時招かれた占い師が使って見せたのが、この死神のタロットだと言われているんだよ。安閑な結果が出ればよかったのだけど、その占い師はなんと、王も含めたこの城の住人が十日以内に全滅するであろうと予言したんだ! 占いを聞いて、王は恐れおののき、兵士たちに徹夜で城の警備にあたらせたんだ…。そして、王自身も決して自分の部屋から一歩も出ようとはしなかった。考えようによっては、城の中に裏切り者がいるかもしれないからね…。しかし、そんな厳重な警備もむなしく、十日後に城の人間は食中毒で全員死んでしまったんだよ…。ずっと引きこもってたから、食料が底をついてきてたんだけど、その時に不用意に食べてしまった毒キノコが原因だったんだ…」
「ひえ〜、おっかねえ〜!」
幼少の頃から怪談が苦手な僕は叫び声をあげてしゃがみ込み、頭を抱えた。
「それは笑い話じゃないの?」
ラルセはそれほど感銘を受けた様子はなく、いたって冷静だった。
「このカードで占うと、必ず恐ろしい結果が出て、しかもそれは100%現実になると言われてるんだよ」
京介はその神秘的な話をそう結んだ。
「外見は特に変わったところはないわねえ…」
ラルセは疑わしげにそう言うと、そのタロットの箱を裏返して、調べ始めた。
「なんか、これもねえ…、割合、新しい物みたいなんだけど…。400年前って事はないと思う…」
ラルセはさらに不審極まった表情でそう言うと、タロットの蓋に手をかけた。その瞬間、店主が叫んだ。
「蓋を開けてはいかんですじゃ!」
「なんでよ?」
「中から悪霊が飛び出してくる危険性があるですじゃ!」
店主はそう言って、必死な形相でラルセからタロットをむしり取った。
「あのさあ、私、今思いついたんだけど…、もしかして、そのタロットさぁ、中に死神のカードしか入ってないってことは無いわよねえ?」
それを聞くと、店主は顔色を変え、何も言わずにタロットを机の引き出しにしまってしまった。
「さてと! さっさと、お祝い品だけでも探しちゃおうぜ」
京介はごまかすように無理に空元気を出してそう言い、再び店内の商品に眼を向け、物色し始めた。
「あんたの知識も相当いい加減ねえ…」
呆れ果てたラルセに後ろから暗い声で言われて、京介はやる瀬なく頭を掻いた。
「そうだった、新しい水晶を買いに来たんだったな」
不毛な会話のせいで間が持たなくなったので、僕は仕方なくそう言って無理無理に話題を作り、水晶らしき物が並べられている棚へ近づいた。
「やっぱり青いのがいいかなあ…」
そんなことを呟きながら、いくつか水晶を手に取り、重さを感じたり、中心部を覗き込んだり、回転させて眺めたりしていたのだが、そのうち、僕はその棚の一番奥に古ぼけた真っ黒な電話が置かれているのを見つけた。その電話は回線も繋がっていて、見た目は普通の電話機だが、ダイヤルがついておらず、その代わりに本体の真ん中に白い大きな呼び出しボタンが一つだけついていた。
「これはなんだい?」
僕は奥で呪殺棒を振り回していた京介を呼んできて、そう尋ねた。
「いやあ、よくこれを見つけたねえ。これこそ伝説の『霊界電話』だよ」
京介は感心したようにうなずくと、そう解説した。
「霊界電話というと?」
「まあ、電話の一種であることには違いないけれど、霊界電話はその名の通り、すでにこの世にいない人と話が出来る電話なんだよ。」
「なんですって!?」
ラルセも今度こそはとばかりに猛然と駆け寄ってきた。
「つまりねえ、死者と話す手段としては憑依があるわけなんだけれど、あれはごく限られた者しかできないし、大変な労力と手間がかかるだろ? だから、気軽に死んだ人としゃべりたいときなんかには、こっちを使うのさ」
「こんな辺鄙な店にそんな恐ろしいものが…」
僕は恐る恐る、その電話の受話器に震える手を伸ばした。
「霊界は広いから、単純に死者といっても、誰にかかるかは分からないからね…」
 後ろで京介が冷たい声で丁寧に説明してくれた。受話器を耳に当てると、ツーツーという発信音が聞こえた。ここまでは普通の電話と同じだ。僕は電話の本体に手を伸ばし、ゆっくりと白いボタンを押した。その途端、キッコッカ〜ン! という耳障りな電子音が鳴り響いた。
「ついにやってしまったね…。この音が霊界との接続合図なんだよ…」
京介が声を押し殺して僕の耳元でそうささやいた。いつの間にか受話器を持つ手が汗びっしょりになっていることに気がついた。
「本当にあの世にかかるの?」
さすがのラルセも眼に光がなく、不安げな声になってきた。
「間違いないよ。俺は何度もこの電話を使ったことがあるからね。まあ、初めての人にとっては恐ろしいのかもしれないけど、こういうことは慣れだからね」
「もし、誰か霊が出たらどうするのよ?」
「気軽に話せばいいんだよ。最近ではこんなことは珍しくないし、占い学生の君らにとっても、いい経験にはなるだろ?」
 二人は僕の後ろでそんなことを気楽に話していた。僕自身は手が震えていて、とてもそんなことを話せるような気分じゃない。受話器からは4・5回ほど、ピーピーという電子音が聞こえてきたが、やがて、ガチャという受話器を起こす音が聞こえた。
「もしもし…」
受話器の向こうで暗い男の声がした。
「つ、つながっちゃったよ、どうするよ?」
僕はあわてて後ろを振り返り、京介に尋ねた。
「気楽に、気楽に」
京介は軽く目を閉じて肩を上げ下げしながら、小声でそう言った。
「どちらさんですか…?」
電話の向こうの男はそう聞いてきた。本当はこっちが聞かなくてはならないことだが、先に言われてしまった。
「あお、あああの、ど、どうなんですか、そっちは?」
僕はそれだけ聞くのが精一杯だった。
「はあ? そちらはどなた様でしょう?」
「い、いや、こここ、こっちは現世なんですが…」
僕は顔を真っ青にしながら、そう言った。
「じれったいわねえ。あんた、もういいわ、ちょっと、どきなさいよ!」
ラルセが僕から受話器を取り上げた。
「こっちのことなんかどうでもいいでしょ! あんた、一体誰なのよ!?」
「いや、こちらは三丁目のフレンドリー裁縫店ですが…、ご注文ですか?」
受話器の向こうの声は、間違いなくはっきりとそう言った。フレンドリー商店はここから徒歩で2分ぐらいの場所にある学生服を専門に扱う洋裁店だ。
「げっ、あっ、間違えました。すいません、それじゃあ!」
ラルセはあわてて受話器を置いた。
「それは霊界電話じゃなくて、『いたずら電話』ですじゃ。ぐへっ、ぐへっ。最近、商店街の連中が祭りの寄付金をよこせとうるさいから、それで復讐してるんですじゃ。どこへかかるかわからんという点では似てますのぉ、ぐははははっ!」
 この様子を後ろで見ていた店主はそう言うと、突然けたたましく笑い出した。
「あんた、どうすんのよ? これでもう、あの店に行けなくなっちゃったじゃないのよ!」
取り返しのつかないことをしでかしたラルセが京介を激しく責めた。
「いや、でも、いい勉強になったじゃないか。本物の霊界電話を見つけたときは、ああいう風に使えばいいんだよ。俺達は何も間違ったことしてないぜ…」
 恐ろしいことに、京介は反省の言葉なく、平然とそのようなことを言ったのだ。彼が全くあてにならないことがはっきりしたので、その後は、各自で自分の欲しい物を探すことにした。
 京介は豪華な黄金製の入魂棒が気に入ったらしく、生徒の小遣いの限界と思われる額を支払ってそれを購入していた。
「あんた、その棒、先端にトゲトゲがたくさん付いてるじゃないの…。そんな破壊力があるので頭部を叩かれて大丈夫なの?」
ラルセは強張った顔で京介に尋ねた。
「いやあ、将来的にはヒットラーやナポレオン辺りの憑依にも挑戦したいからね。こういうのも準備しておきたいんだよ。憑依は何が起こるかわからないから万全の体制で挑まないとね。ただ、この棒自体は純金でなくて金箔なんだけどね」
彼は入魂棒を手の甲でコンコンと軽く叩きながら、満面の笑みでそう答えた。
 僕はというと、棚に並んでいるたくさんの水晶の中から、真っ赤な水晶を見つけだした。不気味な色合いだが、その妖艶な雰囲気がすっかり気に入ってしまった。
「これがいいなあ…」
僕はそれを大事に抱え、レジに持っていった。
「これが欲しいんですが、おいくらですか?」
「ほお、おまえさんは水晶をやりなさるか…。まだ、若いのにのぉ…」
店主は感心したようにそう唸った。
「おじいさん、おじいさん、その男の腕前はすごいわよ。なにせ、客の希望通りの結果をだしたことがないし、最後には自分の水晶を占いの最中に叩き割るんだから! キャハハハハハ!」
ラルセは僕の肩をバシバシ叩きながら笑い転げた。
「それで、これはいくらですか?」
僕は冷静な心を保ち、彼女を無視して話を進めた。
「値段か、値段は二万五千じゃが…、その水晶はいくぶんか呪われとるぞ」
「どのくらいの呪いなんですか?」
「うむ…、依頼者が少し嫌な気分になるような、ひねた結果が頻繁に出るのじゃ」
なんだ、それだったら、これまでの僕の占いとたいして変わらないじゃないかと、かえって胸を撫で下ろすことになった。
「やめといたほうがいいわよ。明らかに無駄もの買いだわ…」
ラルセが後ろから余計な口を挟んだ。
「それに二万五千じゃあねえ…、ちょっと高いねえ。他の店に行ってみようか、もっといい物があるかもしれないからね」
京介はそう言うと、これを幸いとばかりに、この店から抜け出そうとした。最初から少し気分が悪そうにしていたし、その後のこともあって、本当は居づらかったのだろう。
「ちょっと、待ってくれ!」
僕はそう叫んで、京介を引き留めると、ラルセの方を振り返った。
「おまえ、今日いくら持ってる?」
ラルセの顔が初夏の快晴の空のように真っ青になった。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ! 親に仕送りを止められて、あんたお金無いんでしょ? なんで無理に買おうとするのよ!?」
「だから、いくら持ってるのか、ちょっと教えてみ?」
僕は声を和らげて、話を続けた。
「一万二千あるけど、これはだめよ。私だって欲しいものがあるんだから…」
「それをちょっと貸してみてくれ」
僕は手を差し出して、静かにそう要求した。
「だめだって! あんたには、もうすでに五千以上貸してるんだから、まずはそれを返してからにしてよ!」
「頼む、貸してくれ。いずれ返す」
「だ、だめよ。資本主義をなめてんじゃないわよ、あんた。世の中、そんなに甘くないんだから。」
「もう説得は無理だ。貸してくれ…」
僕は無機質な声で金を要求し続けた。彼女はついに泣きそうな顔になりながら、お金を差し出した。その金を受け取ると、次の瞬間、僕は反射的に京介の方を向いた。
「俺は六千ぐらいしか持ってないけど…」
京介はすでに何を言われるか、分かっていた様子で、財布の中をのぞき込みながら、そう言った。これでは、僕自身の二千と併せても、二万にしかならない。
「どうすんのよ、足りない分は?」
「あれがあったじゃん、ほら、たでま先生の結婚記念日用の…」
「あのお金に手をつけたらどうなるか、おまえだってよくわかってるだろ? 明日の夕焼けを見れなくなるぞ…」
京介は悲痛な顔になって腕組みをして、そう言った。
「大丈夫だよ。ちょっと、考えがあるんだ」
僕はそう言って、京介からお金を受け取ると、それを店主の爺に渡した。
「この赤い水晶を買いますから、おまけにあのタロットを付けて下さいよ。ほら、死神の…」
店主はそれを聞いて、少し考え込んでしまった。それほど無茶な要求でもないと思うのだが…。
 だが、しばらくして、「まあ、ええじゃろう、久しぶりのお客だし」と、承諾してくれた。
「おいおい、まさかそのタロットをたでま先生に渡す気じゃないだろうなあ?」
今頃気づいたのか、それとも単純に驚いたのか、京介は真っ青な顔で、そう言ってきた。
「大丈夫だよ。だいたい、結婚記念日なんて、そのぐらいアクの強い物をプレゼントするぐらいがちょうどいいんだよ。あの関係だっていつまで続くか怪しいものだし…」
「これはプレゼント用に包装しますか?」
「あっ、お願いします」
僕がそう答えると、店主は死神のタロットに、慣れた手つきで赤い大きなリボンをかけてくれた。
「結婚記念日に死神のタロットを贈られた妻は一体どう対応すればいいのよ?」
ラルセが首を左右に振りながら、呆れた様子で言った。
「いやいや、お嬢ちゃん、中世のヨーロッパではこういう事もよく行われたんじゃよ」
 店主は薄笑いを浮かべて、胡散臭いことを平気で言った。包装が終わると、配送途中で何か悪いことが起きないようにタロットを封印布でぐるぐる巻きにしてくれた。僕らは店主にタロットの送り先を告げて、新しい水晶を持って店を出ようとしたのだが、その時、店のドアが外からダンダンと激しく叩かれた。また、新しい展開だった。
「やばい! またヤツラが来た! あんたたち、裏口からでなされ!」
店主は真っ青になってそう言うと、店の裏手の方を指差した。
「りんごの木商店さ〜ん! お祭りの寄付金集めに来ましたよ〜!」
外にいる人は隣近所まで響く大声でそう呼び掛けてきた。
「帰ってくれ! ないわ! おまえらに払うものなどないわ!」
「あのですね〜! この際だから言っておきますが、寄付金も払わない人間なんてのはねぇ、泥棒と一緒なんですよ!!」
 今にもドアを蹴破って乗り込んで来そうな剣幕だった。純な未成年の僕らがこんな恐ろしい局面に耐えられるわけはなく、そそくさとりんごの木商店を後にしたのだった。

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