Myourei,インドへ行く その2 


サルナート


初転法輪説法仏

まず、最初に訪れたのは、サルナート(鹿野苑)でした。
ブッダガヤで悟りを開いたお釈迦さまが、その教えを始めて人に説いた場所=初転法輪の地
ベナレスから10キロの郊外にあります。ベナレスはお釈迦様以前からあった都だそうです。


    
ベナレスの町


  
      迎仏塔(チャウカンディ・ストゥーパ)            後ろから見たところ こちらのほうが土が残っていて趣がある

お釈迦様は、悟りを開いて仏陀となられたが、その真理の法を果たして人が理解できるかどうか、説くべきか否かを沈思されさらに1週間の断食に入られた。
そしてその法を理解し得る者としてかつてのヨーガの師匠アーラーダ・カーラーマ仙とウドラカ・ラーマプトラ仙を想起したが、その聖仙たちはすでにこの世の人ではなかった。
次に、かつて釈尊と苦行を共にしながらも、苦行を捨てた釈尊に失望してサルナートへ行ってしまった5人を想起された。
彼らを理解させずして他の人々への教化はあり得ないと考えられたからである。
またサルナートは当時の学問の中心地であり、バラモンの聖典・ヴェーダやウパニシャド神学を追求する思想家の集まるところであった。

釈尊の来訪の報せを耳にした5人は、修行者としての苦行を捨てたシッダールタを失格者と考えていたので喜ばなかった。
修行者たちの習慣に従って足を洗う水を用意し、食物を施し勝手にさせて、話をするのは止めよう・・・と約束していた。
ところが釈尊が近づいてこられると、その姿は光り輝いている・・・その人は以前のシッダールタではなく、まさしく仏陀である。
カウンディニャら5人は取り急ぎ歓迎の場所を設けた。それが後世仏塔が建立され、迎仏塔として今日に伝えられるものである。
頂上の八角の見張り塔は、16世紀インドを統一したムガル王朝第3代のアクバル大帝が建立した。(前田行貴著「インド仏跡巡禮」参照)


   
お説法をしているスリランカの僧か?                                 僧坊、講堂の跡


           

ダメーク大塔(高さ42.6m・底辺直径36.6m)
玄奘三蔵は「弥勒菩薩が仏となる予言を受けられたところである」と記してある。
その当時(7世紀)には「伽藍は8つに分かれて、僧徒は1500人」とある。
サルナートは釈尊の初転法輪以来1500年にわたる教育のセンターとして繁栄するが、
その間、ミヒラグを首領とする遊牧騎馬民族のフン族侵入の際に強奪にあい、また1017年にアフガニスタンのカズニーの
奴隷出身の第3代スルタン・マフムード軍のヴァーラナシー(ベナレス)侵冠の際にも著しい破壊を蒙ったが、
その都度インド各地の篤信家によって修復されてきた。しかし、デリーで最初のイスラム王朝を開いた奴隷出身の
クトゥプ・ウッディーン・アイバクの率いる軍団に蹂躙された時には灰塵に帰し、無人の荒野と化してしまった。(「仏跡巡禮」より)



    
          仏像があったところ(8か所) 破壊されたか盗まれて今はない    蓮華模様とマンジくずしの連続模様が美しい(ダメーク大塔)                                          

   
アショーカ王時代から12世紀にいたる数々のストゥーパや僧院の跡がある


  
BC3世紀のアショーカ王石柱柱頭部の四匹獅子像(サルナート考古学美術館内にある)と、その下部(三つに折れた)

チュナール産の灰色硬質砂岩を磨き、高さ2.1m、四方へ獅子吼していく様は、釈尊の説法の姿を表現し、
その台座には、初転法輪を表すダルマチャクラ(法輪)が四方に刻まれ、その法輪の間に瘤牛、馬、獅子、象のインドの
四聖獣が浮き彫りとなっている。鹿野苑の遺品では最古のものであり、マウリア王朝美術の最高傑作のひとつである。
独立後はインド政府の紋章となり、政府直轄の官庁関係の建物にはすべて四匹獅子像がシンボルとなっている。
またインドの貨幣並びに紙幣とその透かしにもこの紋章が入っている。(「インド仏跡巡禮」より)

↑考古学博物館の入口をはいったすぐのところにある。とても美しくて、紀元前のものとは思えない。


   
ムーラガンダクティ・ヴィハーラ(初転法輪寺)とダルマパーラ師の像

近世になってスリランカの高僧ダルマパーラ師は、インドの仏跡復興を計画、マハーボディ・ソサエティ(大菩提会)を
組織して、インド考古学の創始者カニンガムの発掘跡を整理し、1931年東西の人々の善意によって
古代インドの寺院神殿様式に則り建立した。(「インド仏跡巡禮」より) 


鹿野苑物語

昔々・・・・鹿野苑一帯は元来鹿の群棲する平穏な地方で、修行者たちの集まるところでもあり、リシバタナ(聖仙の住む処)ともいわれていたが、
カーシー国王は鹿狩を好んだので、鹿もだんだん数が減っていった。その事を憂慮した鹿の王は、カーシー国王の前に進み出て
「1日1頭の鹿を届けますので鹿狩りをやめてください。そうすれば大王には新鮮な料理が続き、私たちは命を延ばすことができます。」と懇願した。
国王はそれを承認し、狩りを中止したので、鹿の王は1頭ずつ届けていた。
ある時鹿の群れの中に懐妊している鹿がおり、順番がきて送り届けられることになった。
その雌鹿は「私は死ぬべき順番ではありますが、腹の子は順番には当たっておりません。」と鹿の王に申し出た。
鹿の王は「なんと悲しいものであるか・・慈母の心というものは・・・私がお前に代わろう。」といい、カーシー国王のところへ行った。
国王は「鹿の王はどうして突然に来たのか!」と問うた。鹿の王は「雌鹿が死ぬ番になりましたが、腹の子はまだ生まれておりません。
この不尽を忍ことができず、私の身をもって代わることにしました」と言上した。
国王はこの言葉を聞き感嘆して「余は人間でありながらなんという野獣のような心だ!それに対して汝は鹿の身でありながら
本当の人間の心をもっておる」と言って、その一帯の林を鹿の楽園として保護し、これに因んで施鹿林と称した。鹿野苑の名はここから起こったのである。
以上は鹿にまつわるジャータカ物語であり、玄奘の「大唐西域記」より引用したものであるが、この慈悲のある鹿王こそ釈尊の前世の姿であった、と
説かれている。

もうひとつ…カルカッタの国立博物館にある、BC2世紀のパールフィットのストゥーパの周囲の玉垣の石柱にも鹿のジャータカ物語が浮き彫りにされている。
ある時、若い木こりが谷川に落ち溺れかかっていた。それを見た黄金色の鹿の王は、木こりを助けてやった。九死に一生を得た木こりは、感謝しながら
よく見ると黄金色の鹿である。鹿の王はこのことを誰にも口外しないように、その木こりと約束をした。
木こりが都に行くと、都では国王が黄金色の鹿を発見したものには多大の褒美を取らせるとの風評であった。
若い木こりは思わず欲望を起こし、助けてもらった恩義も忘れ、黄金色の鹿の住む場所を国王に告げた。
その木こりの案内で鹿狩りが催された。国王たちの弓矢の前に鹿の群れは林の中を逃げ回った。
ところが黄金色の鹿王は、泰然自若として国王の弓矢の前に立ち阻んだ。
国王は不審に思い「なぜ逃げないのか!」と問うた。
鹿の王は「私が犠牲になれば皆が助かります。実はその道案内人は、先般谷川に落ちて溺れるところを助けてやった人です。
しかし賞金に目がくらみ約束を忘れ、案内してきたのです」と国王に申し出た。
国王はその話を聞いて感嘆し「この鹿の王こそ人間の徳を備え、人間こそ畜生のような心しかもっていない!余は汝の言葉によって
大いに反省させられ、真に人間として恥じ入るばかりである。今後は鹿狩りをやめて鹿の群れを保護することにしよう」と約束された。
隠して鹿の園が出現し、鹿野苑として鹿群の永遠の平和郷、極楽浄土が出現したのである。
サールナートの地名はサーランガ・ナータ(鹿の王)に由来する。

この美しい鹿野苑成立の物語は仏教の伝播と共にその国々に伝承され、日本にもその伝統は今日に至っており、それが奈良春日公園の鹿の群れである。
犠牲になろうとした鹿の王こそ、実は前世における釈尊の菩薩行時代の姿であり、その犠牲的功徳によって今日の仏陀が存在すると
ジャータカ物語は記している。その土地・その場所・その時の環境に自らを没入させて、巧みに生かす説得力の素晴らしさである。
従って初転法輪説法仏の台座には、必ず法輪を中心としてその両脇に鹿が対峙する。(「インド仏跡巡禮」より)


初転法輪の説法

では、初めに釈尊は何を説かれたのか?
「初転法輪経」によれば、
「世の中には二つの極端がある。修行者はそのどちらにも偏ってはならない。二つの極端とは、
第一には官能のままに欲望の快楽に耽ることである。これは卑しくて低級で愚かしく、下等で無益なことである。
第二には自分で自分を苦しめることに夢中になることである。これは苦しむばかりで、下等で無益なことである。
如来は二つの極端を捨てて、中道を悟ったのである。」(「インド仏跡巡禮」より)
次に四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を説かれた。[仏教についてのページを見てください]
中道と四聖諦は、永遠の真理であり、仏教の最も根幹となる教えです。


サルナートの仏跡を参拝した後、ベナレスの日蓮宗のお寺・日月山法輪寺にお参りしました。(つづく)


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