Myourei,インドへ行く その5

ラジギール(霊鷲山・竹林精舎・ナーランダ大学)


霊鷲山はお釈迦さまが、法華経をはじめ大無量寿経、観無量寿経、般若経などを説かれたと伝えられるところ
夜明け前、登りご来光を拝む


    
霊鷲山頂 釈尊香室跡にて法華経読誦、お題目を唱える

                                 

  
                 ご来光                        

       
                          鷲の形の岩                             



   

瞑想をした洞窟の跡


  
山下の叢林


   
                                     物売りが付きまとって困る


   
竹林精舎跡 沐浴のカランダ池と菩提樹

マカダ国のカランダ長者が釈尊に寄進した寺院のはじめとなる、竹林精舎(南方伝道の中心地となる)
次いでコーサラ国のスダッタ長者が祇園精舎を寄進(北方伝道の中心地となる)
この竹林精舎と祇園精舎の間をガンジス河が流れ、それに沿って楕円形上に遊行教化されている。
精舎寺院とは、雨季や暑期に瞑想・修学される場所で、平生には遊行(マイトレーヤ)の生活を送る。(「インド仏跡巡禮」より)



   
王舎城跡 城壁の厚さは5m



ナーランダ大学跡

釈尊十大弟子で知恵第一の舎利弗尊者と神通第一の目連尊者がこの地方の出身者で
この二人はともにバラモンの出家者でそれぞれ百有余名の弟子を持って名声があったが、
釈尊の弟子アッサジの沈静な態度に感心して、釈尊を知り、釈尊を竹林精舎にたずね、
「因と縁」の縁起を知り釈尊の弟子となった。
その地方はマンゴー樹林帯で中央に池があり、池にはナーランダと呼ばれる竜がいて
水と雨を支配するという伝説がありそれでナーランダ村と呼ばれていた。
豊かな森と水に恵まれ、禅定三昧の場としてもすばらしかったので、500人の商人たちが
共同して、アームラ長者の私有地を購入し釈尊に寄進したと伝えられている。
紀元前後から仏教学研究の中心地となる。

さらに5世紀になってグプタ王朝のシャークラ・ディテヤ王が増築拡張したので
総合大学としての学風を示すに至り、最盛期には学生1万余人、学匠2千人に達する広大なものとなった。

玄奘三蔵の学んだ7世紀当時も、インドでは他に比肩するもののない権威ある大学で
数千人が学び、大乗仏教が研究の中心であったが、他の諸派の仏教も研究され、
バラモン教典のヴェーダ、ウパニシャドを始め,、因明(論理)、声明(音楽)、医方明(医学)、工、治金、数、書画、
呪術などの権威者が集まっていて、毎日百余ケ所に講座が開かれていたという。
玄奘は、唯識学のシーラパドラ学長に師事し、631年から36年(29歳から34歳の5年間)まで学び
ヨーガ論をはじめ、インド哲学の中論、百論、純正理論のほか、古代のサンスクリット書をことごとく学んで
のちには学長代理まで勤めた。
玄奘の熱意に触発されて、7世紀後半には、玄奘が長安の都に帰って26年目に
義浄三蔵も留学した。

しかし、このナーランダ大学も12世紀の終わりにアフガニスタンのバクティヤール・ハルジーの率いる
イスラム軍団の焼打ちにあい、建物は炎上、経典・書物は6カ月余にわたって延焼した。

その間、仏教徒たちはネパールやチベットの山岳地帯にからくも持ち出した経典類を運び、
消火のために土を覆って逃げたので、以降700年間埋没したままだった。

1016年から発掘調査が開始されたが、堂塔伽藍・学舎の遺跡は東西250m、南北610mの広い地域で
今日も発掘されている。(「インド仏跡巡禮」より)

  
仏塔

  
井戸の跡  講堂

  




  
                   発掘中


   
       僧坊                                            ベッド


  
井戸の跡                        かまどの跡


   
見学のカレッジの女学生と


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