インドへ行く その7

ルンビニ・カピラ城跡


翌2月16日は日蓮聖人のご生誕の日ですが、この日ちょうど釈尊ご誕生の地・ルンビニをお参りしました
近くでイスラム教徒の集まりがあったそうで、ルンビニはアジアの仏教徒の他、
イスラムの人たちも参拝していて、にぎやかでした


  
中央がマーヤー堂    出店がいっぱい


  
チベットの僧                     幡にはお経が書いてある                     


     
アショカ王仏塔の前 参拝の僧・信者


  
マーヤー堂内に入る 遺跡は仏塔の跡                      ここで誕生された


釈尊の母・マーヤー夫人はカピラ城の浄飯王のもとに嫁いだが、なかなか子供に恵まれなかった。
晩年になって、天上界から白象が右の脇下から胎内に入る夢を見て懐妊されたと伝えられる。
出産のため、インドの風習によって里帰りの途中、ルンビニ園で沐浴され、真っ赤な無憂樹(アショカの木)の花に手を触れられた時
太子が生誕したと伝えられる。


    
アショカ王石柱

ブラーフミー文字でアショカ王の詔勅が刻まれている
「神々に愛せられ温容ある王(アショカ王)は即位20年後にこの地に巡拝された。
ここは仏釈迦牟尼の生誕地であるが故に、石で馬像を造り石柱を建立させた。
神がここで降誕されたので、ルンビニ村は租税を免じ生産物の8分の1のみを
収めるものとされた」と明刻されている。
633年に訪れた玄奘の記録によると
「大石柱あり、上に馬の像を作る。阿育王の建立せるものなり。
のちに落雷のため、その柱は中断して地に横たわる・・・」
中央に落雷による亀裂があり、鉄環で3か所が締められている。
高さ7.2m(「インド仏跡巡禮」より)


   
                              沐浴の池


   
イスラム教徒のバス       人力車もあった


ネパールからまた国境を越えて、インドのカピラ城跡へ


  
写真は仏舎利の入れ物(ソープストーン)ここで発見されたのでここがカピラ城跡であるとわかった
実物はデリー国立博物館にある(最後の日に見学)


太子出生に、ヒマラヤ山中で瞑想していたアシダ仙人は、カピラ城一帯の漂う吉相を見て
現れ、「菩薩の生まれ変わりが、カピラ城のマーヤー夫人に生まれた。その子は
悟りを開いて仏陀になられる」と太子を両手に捧げて見ているうちに、涙を流して
嘆息するので理由を聞くと、自分は老いて、太子が仏陀となられるとき、
その説法を聞くことができないと嘆き五体投地の禮拝をして去った。
また8人のバラモンに相を見てもらうと
「城主となれば戦うことなくして世界を治める転輪聖王となり、出家されれば仏陀となるが、
在家の因縁がないので出家して仏陀となるであろう」と予言された。
太子が誕生して2日後に母上のマーヤー夫人がこの世を去ったので
夫人の妹マハープラジャパティに養育される。
太子は幼少の頃から学問や武芸に優れていたが、常に物思いに耽っていた。
ある年の農耕祭の日、土から出てきた小虫が小鳥に啄ばまれ、その小鳥は又大きな猛鳥に
襲われるのを見たのである。
心配した父王は太子が19歳の折ヤショーダラ姫と結婚させ
美しい侍女たちも侍らせたが、
そのような華美な王宮の生活に満足はせず、
城門を出ては、老・病・死や人の争いを見、最後に出家の清浄な姿を見て
そこに理想を見出し、自ら出家して人生の苦悩を解決すべく決意するのである。
ラフラという男j児も生まれ、城の後継者ができたことにより
29歳の時、わが子の成長を念じて城を出られた。

釈尊は成道後6年目に、浄飯王の懇請に応じてカピラバストゥに説法に訪れると
釈迦族の青年たちが500人も出家したと伝えられる。
王位継承者であった義弟のナンダや、従兄のアーナンダ(第一結集において”律蔵”の本文を定める)
ウパーリ(第一結集において”経蔵”の本文を定める)そしてラフラも出家した。

しかし、釈尊の晩年になって釈迦族は大国のコーサラ国に滅ぼされてしまった。
釈迦族はコーサラ国に属していたが、コーサラ国のプラセーナジット王が、優秀な釈迦族の女性を妃に求めたのに対し、
その無礼な求めに、浄飯王の宰相の家に賤民の産んだ美しい娘を差し出した。
その娘は妃となってヴィドゥーダバ王を生むが、王子の時、カピラバストゥを訪れた時、
表面的には歓迎しても、母君の生まれの卑しさを嘲笑する陰口を耳にして
その悔しさを忘れられなかった。後に王となった時、大軍をもってカピラバストゥを攻めた。
釈尊は大樹の下で禅定に入っておられ、2度まではヴィドゥーダバ王も反省し、止めたが
三度目は釈尊も止めることができなかった。
釈迦族は釈尊の不殺生(アヒンサー)の教えを守って、無抵抗のまま殺されたり
またヒマラヤ山系の山岳地帯に逃げ、かくしてカピラバストゥは荒廃していった。
ネパールには、釈迦族の子孫としてシャーキャの姓を名乗る種族がいるが、
首都カトマンズにはクマーリ・バヒーと呼ばれる“生き女神”の館があり
その女神はネパールの伝統でシャーキャ族からのみ選ばれる。

7世紀に玄奘が訪れた時も既に王城は荒廃して、れんがを積み立てた基礎が残るのみで
人もあまり住んでいなかったようである。
しかし土地は肥沃で、四季の変化は穏やかであり、風俗も温和であると記している。
現在でも2500年前の伝統を保持しているが、インド亜大陸における自然条件の下で
無肥料栽培を続けながら、最良質のもっとも生産高の高い稲の産地としては、
このカピラバストゥからルンビニ地方である。(「インド仏跡巡禮」より)

  


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