大聖勝軍寺
(たいせいしょうぐんじ)

大聖勝軍寺山門
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.特記事項
5.現在の境内
6.古寺巡訪MENU

1.所在地
大阪府八尾市太子堂3-3-16
(寺名)椋樹山(りょうじゅさん)大聖勝軍寺
駐車場:国道25号線から山門までの参道に有り。但し3台程度と狭い。
2.宗派
高野山真言宗
(本尊)木造二臂如意輪観音思惟半跏像(もくぞう にひ にょいりんかんのん しい はんかぞう)
        髪聖徳太子十六歳像
3.草創・開基
本寺院の草創、開基あるいはその後の変遷はどうであったのか、当寺院を取り上げた書物等を筆者の狭い範囲ではあるが調べてみたが、もっぱら寺伝を能弁に語るものばかりであった。これは裏返せば当寺院には確実な史料がないということであり、ある意味これは、この寺院の特性、即ち、当寺院が聖徳太子信仰盛衰の歴史を共に歩んだ成り立ちを色濃く示しているとも考えることができる。 そういう意味では聖徳太子信仰の歴史を体現してきた寺院としてもっと注目され、研究されてしかるべき寺院であるが、しかし現実には余り進んでいないようである。
(1)寺伝が語る当寺院の草創・開基
大聖勝軍寺~妙椋樹「日本書紀、太子伝等に仏教伝来時、崇仏の蘇我馬子、敬神の物部守屋が激突。守屋は八尾に「稲城」を築き、その兵力強大。崇仏軍三度敗退す。太子、守屋の大軍に囲まれ絶体絶命の時、椋の大木真二つに割れ太子を包み九死に一生を得て、太子最後に四天王の加護を祈り、守屋を倒す。
 乱後四天王を祭る太子堂を創建し救命椋樹のそばに仏塔を造り、敵将守屋公の尊像と御自身十六歳像を安置、敵味方の区別なく両軍の美霊弔らい、「和の心」を後世に伝う。推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え山号寺名を賜う。」
(境内の「~妙椋樹」の横に立てられている石碑記載文から転載) ※右上の画像は境内にある寺伝の「~妙椋樹」

(2)寺伝の主たる根拠となった日本書紀
大聖勝軍寺聖徳太子古戦場跡石碑@丁未の乱
  日本書紀用明天皇2年(587)7月の条で、物部守屋大連と蘇我馬子大臣との間で軍事衝突が起こったことを寺伝記載のとおり、詳しく伝えている。丁未の乱(ていびのらん)である。そして、この戦は、多くの皇親と豪族を取り込み支持を得た蘇我馬子が勝利し決着した。寺伝では、この戦いの原因を、崇仏派蘇我氏と敬神派物部氏の宗教戦争とするが、実際上は新興豪族蘇我氏と名門豪族・物部氏との覇権争いが主たる原因であったことは多くの歴史家が認めるところである。

A丁未の乱の主戦場となった大聖勝軍寺周辺
 この戦について日本書紀は、蘇我馬子の軍が「志紀郡から澁河の家に到った。大連は自身で子弟と奴軍とひきい、稲城を築いて戦った。」と伝えている。
  志紀郡とは今の大阪府南河内郡・八尾市であり、澁河とは東大阪市に該当し、この地域一帯は名門豪族・物部氏の本拠地であり館もあった。即ち、大聖勝軍寺の所在する一帯は、この丁未の乱の主戦場となったのである。

(3)太子信仰と当寺院
以上、日本書紀が伝える丁未の乱を紹介したが、これが、早くは奈良時代にはじまる太子信仰の広がりなかで、様々な伝承と結びつき、信仰としての聖徳太子が形成されていくという経過を辿る。そして、この聖徳太子信仰は、平安期を経て鎌倉時代には最高潮に達する。こうした聖徳太子信仰とともに当寺院は盛衰を繰り返してきた。
文献には、鎌倉時代の弘安元(1267)年ごろ「河内国金光寺太子堂」という名の寺院が登場し、この金光寺太子堂は当寺院と推定されている。そして室町時代に入って康正元(1455)年には「大聖勝軍寺賂縁起」が策定されている。こうしたことから当寺院は、少なくとも鎌倉期には既に当地に於ける太子信仰の中核をなす寺院として存在していたのではないかと考えられている。

4.特記事項
(1)境内の聖徳太子と四天王像について
大聖勝軍寺 聖徳太子と四天王像右の画像は、当寺院門前の右横に安置されている「聖徳太子と四天王像」である。この像の特異な点は、四天王が丁未の乱で貢献したとされる4名を四天王に準えていることである。
即ち、「持国天」=「蘇我馬子」、「多聞天」=「秦川勝(はたのかわかつ)」、「広目天」=「迹見赤檮(とみのいちい)」、「増長天」=「小野妹子」である。 この特異な像も太子信仰の産物といえる。 

なお、この像の横に石碑「太子と四天王の由来」が、次のように記載されていた。
「千四百余年の昔、仏教伝来を巡り排仏派の反乱軍は仏教軍に猛攻を加え、太子軍は三度敗退する。時に御年十六歳の太子は部下四将軍に四天王の像を刻ましめ、誓願をたて排仏軍を平定する。 「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀) 乱後難波の高台に日本仏教最始の四天王寺を建立し、仏教公伝の礎となった当地渋川に勝軍寺を創建、御自身十六歳の植髪の太子像と四天王像を安置されたと伝う。」
(2)河内三太子
当寺院は、古くより南河内郡太子町の叡福寺を「上の太子」、羽曳野市の野中寺を「中の太子」に対して「下の太子」と呼ばれ、河内における太子信仰の中核を成す寺院の一つである。

(3)聖徳太子に関連する当サイトのページは以下のとおりです。ご参照ください。
 叡福寺  野中寺  四天王寺  飛鳥寺  法隆寺  法輪寺  法起寺  橘寺

5.現在の境内

本堂(太子堂) 毘沙門堂
大聖勝軍寺本堂(太子堂)   大聖勝軍寺毘沙門堂
     
地蔵堂   平和塔
大聖勝軍寺地蔵堂   大聖勝軍寺平和塔
     
新太子堂    
大聖勝軍寺新太子堂  
     
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<更新履歴>2013/6作成 2015/02改訂 2020/12改訂
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