野中寺
(やちゅうじ)
野中寺門
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

 1.所在地
   大阪府羽曳野市野々上5丁目9番24号
 2.宗 派
   高野山真言宗  本尊:薬師如来
 3.草創・開基
(1)寺伝−聖徳太子の命により蘇我馬子が創建とするが
寺伝は聖徳太子の命により蘇我馬子が創建した寺院だとする。これに従えば、野中寺の創建は、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした「丁末の乱」(587)の以後から太子が没した推古天皇30年(622)の間となる。 しかし、後述するように当寺院の境内に残された塔土壇の発掘調査で創建は推古天皇6年(650)頃であることがほぼ確実視されている。よって聖徳太子発願蘇我馬子建立説は聖徳太子信仰の高まりの中で生まれたものであろうと考えられている。

(2)渡来系有力氏族・船氏の氏寺説が有力
それでは当寺院は誰が何のために建立したのか。当寺院の境内に掲げられている文化庁等の説明文によれば「(東大寺)正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来氏族船史のちの船連の本貫であったから、その氏寺であったことが察せられる」とあり、また、吉川弘文館刊平成元年10月20日発行門脇禎二・水野正好編「古代を考える 河内飛鳥」では、野中寺の創建について「(6世紀後半ごろから)船舶のことを掌った王辰爾を祖とする百済王氏の一族として、船史(ふなのふひと)で代表される船・津・白猪(しらい)らの氏族が、同郡の西に隣接した丹比郡にかけて活躍するようになる。この中で船氏の氏寺として造建されたのが野中寺である。」と断定されており、当寺院は渡来系有力氏族船氏が一族の繁栄と守護を願って建立した氏寺であるという説が有力となっている。   

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 4.創建時の伽藍
(1)明日香村の川原寺に近い伽藍配置
当寺院境内には整然と並ぶ建物礎石が、境内中央部の東西に残されており、従前から注目されていたが、昭和60年に塔跡と思われる土壇の発掘調査が実施された。そして昭和62年には金堂跡が地中レーダーで探査された。それら調査の結果、野中寺の伽藍配置は「飛鳥時代に創建された寺院に多く見られる四天王寺式より新しく、法隆寺式より古い形式で、川原寺とは若干違う伽藍配置が用いられた」ものであることが明らかになっている。

(野中寺式伽藍配置)
しかし伽藍全体の復元までは調査が至っていないようで、伽藍復元図を掲載した書籍等は、私の狭い範囲ではあるが無かった。

なお、発掘調査で現在までに判明している詳細については、現地のそれぞれの土壇・礎石跡に掲げられている「説明パネル」に簡潔にわかり易く記載されていたので参考にして頂きたい。以下はその全文である。

(2)塔跡(現地説明パネルより抜粋 )
<塔基壇と礎石>
野中寺三重塔基壇跡「この土壇は心礎が存在することから塔跡と考えられていた。
昭和60年にこの土壇を発掘調査したところ、凝灰岩を加工した石材でつくられた「壇上積み基壇」と呼ばれる基壇が認められた。この基壇は、東西13.6m、南北12.9m、高さ約1.5mの規模を持ち、東側に階段が存在した。このことから、塔が金堂の方を向いていたことになる。」
        右の写真は塔基壇跡上にある礎石を撮影したもの 


<塔心礎>
「基壇の中央に心礎を置き、その四方に12個の礎石を配しており、他の寺院の塔に見られる四天柱礎は存在しなかった。心礎は、径71cmの円孔があり、その周囲に半円形の支柱孔を三つもち、上面に亀の彫刻が認められる。円孔の内側には方形の舎利孔がある。
塔跡の調査で「庚戌年正月」の記念名平瓦が出土しているので、650年頃には塔が設立されていたことがわかった。」 

※(注)説明パネルでは触れられていないが、塔心礎は東西3.4m・南北2.1m・高さ1.8mの巨石である
            左の写真は心礎を、右は亀の線刻がある部分を撮影したもの
野中寺三重塔心礎野中寺三重塔心礎にある亀の線刻

(3)金堂跡(現地説明パネルより抜粋 )
野中寺金堂基壇跡「金堂跡は塔跡に対して東側に存在していた。現在残っている土壇や礎石などから開口4間、奥行き3間の南北に長い建物で、おそらく西面していたと思われる。東面していた塔跡と金堂跡とは向き合っていたいたことになる。

昭和62年に地中レーダーによる探査を行い、金堂の基壇東端と南端を確認した。 一般的に塔が西にあり金堂が東にある堂跡の配置は法隆寺に類似するが、法隆寺の場合、野中寺のように堂塔が向かい合わず、塔と金堂は南面している。堂塔が向き合う形は川原寺にみられるが、野中寺の配置とは金堂と塔が逆である。

このことから、野中寺は飛鳥時代に多く用いられた四天王寺の配置方法より新しく、法隆寺より古い形態で、白鳳期の官寺に用いられていた川原寺の変形した配置方法が用いられていたと考えられる。しかし、堂塔が向き合う形は飛鳥の川原寺も同様ですが、野中寺の配置とは金堂と塔が逆になっています。

これらのことから野中寺の伽藍配置は、飛鳥時代に創建された寺院に多く見られる四天王寺式より新しく、法隆寺式より古い形式で、川原寺とは若干違う伽藍配置が用いられたと思われます。」

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 5.その後の変遷
(1)古文書など確たるものが無く不明
当寺院は創建以降、荒廃を繰り返したことが発掘調査でも明らかになっている。しかし野中寺に関する多くの書籍では南北朝以降のものを記述しているが、奈良・平安時代の変遷についてほとんど触れられていない。今後の古文書調査や発掘調査に期待されるところである。

(2)「大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉」による当寺院の歴史
山川出版社刊 大阪府の歴史散歩編集委員会編「大阪府の歴史散歩 下 河内・堺・和泉」では以下のとおり記載され ている。
  • 南北朝時代には,兵火により堂宇が焼失(延元の戦い(野中寺合戦))
  • 1661(寛文元)年,京都槇尾山西明寺派(真言宗)の僧政賢覚英(せいけんかくえい)和上と慈忍恵猛(じにんえ いもう)律師らによって再建された。
  • 江戸時代の享保年間(1716〜36)に再び火災に遭ったため,境内にある現在の建物は,地蔵堂以外は享保年間 (1716〜36)以後の造営とされている。
  • 享保9年(1724)、柳沢吉里(側用人柳沢吉保の子)の帰依により大和郡山城内にあった客殿が移築・寄進され, それを方丈・客殿とした。
  • 現在、野中寺は真言宗に属しているが、江戸時代は律宗の戒律道場で、律宗本山野中寺と称していた。

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 6.その他特記事項
(1)銅造弥勒菩薩半跏思惟像
野中寺で最も注目されているものに「銅造弥勒菩薩半跏思惟像」がある。この像について、吉川弘文館刊平成元年10月20日発行門脇禎二・水野正好編「古代を考える 河内飛鳥」のなかで北野耕平氏が<華ひらく仏教文化>と題して詳細に述べられているのでこれを紹介したい。 
「野中寺で重要なことは、白鳳時代の丙寅年の銘文をもち金堂弥勒菩薩半跏像の存在であろう。一九一八年五月に偶然同寺の宝蔵内の塵芥から発見されたという不思議な来歴をもっている。榻(こしかけ)上に半跏した高さ三〇・九センチの座像で、大きな頭には三面頭飾の冠をつける。腰に裳をまとい、縁に九曜形の文様をめぐらし、台座の蓮弁には細緻な線刻がある。「丙寅年四月…」に始まる銘文は、この台座の後方に上下二字ずつ三一行に刻まれている。丙寅は天智五年(六六六)にあてられ、栢寺の僧や寄進者一一八人が中宮天皇の病気平癒を祈願してこの弥勒像を造ったことを記している。栢寺がどの寺をさすかはまだ不明で、中宮天皇を斉明天皇あるいは孝徳天皇后間人皇女とする説などもあり、まだ結論はでていない。この金銅仏の価値は造像の年次が明らかで、中国隋代の作風を承けた白鳳初頭の代表作というところにある。
 興味深いのは、同様な丙寅の干支をもつもう一つの金銅菩薩半跏像が、法隆寺献納御物として現在東京国立博物館の蔵品になっていることである。その台座の銘文中には、この野中寺からほど近い古市を本拠としていたと推測される高屋大夫の名が刻まれている。銘文の内容から、かれが死別した夫人であった韓人の女性、阿麻古の追福のために造ったと解され、古市高屋の豪族と渡来系女性との深いかかわりを示すとともに、飛鳥時代における河内飛鳥の仏教文化と地域色が、いかに多彩なものであったかを物語っている。なおこの丙寅年については、造像の作風からさきの野中寺の弥勒像よりも干支を一巡遡らせて、推古四年(六〇六)とする説が有力であるが、なお同じ天智五年(六六六)説も捨てきれない。」
 なお、この像に関しては、歴史学者・東野治之がこの銘文の暦の表示方法等に問題があり、この仏像は後世の贋作ではないかと疑問を投げかけられていることも留意しておきたい。
(2)ヒチンジョ池西古墳石棺
野中寺ヒチンジョ池古墳石棺当寺院本堂西前に、ヒチンジョ池西古墳から出土した右の石棺が安置されている。

ヒチンジョ池西古墳は野中寺から南へ900m行った聖徳太子の弟来目皇子墓(塚穴古墳)に近いヒチンジョ池西側にあった。野中寺のある羽曳野陵一帯は、第二次対戦後の食糧難で農地として開墾された歴史があり、この開墾時に偶然に古墳が発見され石棺が出土したという。その後、昭和40年(1965)に、野中寺にこの石棺が移設されたいう。

この石棺は、二上山凝灰岩を使用した箱型横口式と呼称されるもので、古墳時代終末期(注)のものと推定されている。大きさは、長さ3.1m、横幅1.7m、高さ1.8mある。被葬者は,精巧な石棺の造りなどから渡来系の有力氏族であろう考えられているが詳細は不明である。なお、大阪府指定文化財に昭和48年(1973)に指定され、平成6年(1993)には保存修理も行なわれている。

※(注)終末期古墳とは
前方後円墳廃絶後から7世紀に作られた古墳を一般的に終末期古墳と呼ばれている。代表的な終末期古墳としては、美しい彩色壁画の発見で有名な奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳がある。

(3)河内三太子
野中寺の寺伝は、太子町の叡福寺を「上ノ太子」、八尾市の勝軍寺を「下ノ太子」とし、この野中寺は「中ノ太子」と称している。中世以降に盛んになる太子信仰のなかで、叡福寺、野中寺、勝軍寺さらには四天王寺といういずれも竹之内街道に沿った寺院参詣ルートが生まれ、いつか河内に所在するこれら三寺院の総称として「河内三太子」と呼ばれるようになったと考えられている。

(4)野中寺の土壇・礎石の遺構は寺院建築史上貴重な遺跡--今後の発掘調査に期待したい
当寺院を訪ねて、残されている塔心礎の円孔の形が奈良の明日香村にある 橘寺 に残る塔心礎円孔にそっくりであったのには驚かされた。

橘寺は、天智朝(662−671)に川原寺と対をなす尼寺として建立されたと推定されている寺院である。もし野中寺の創建時期を650年頃とすると野中寺は橘寺より古く、「橘寺塔心礎円孔の形状は野中寺のものとそっくりという」のが正しい表現ということになる。そういう意味でも野中寺のこれら遺跡は歴史上大変貴重であり、大切に保存される必要があることがわかる。そして願わくば今後も発掘調査が行われ、詳しい伽藍配置等が更に明らかになることに期待したいと思う。

(5)当サイトの野中寺に関連する寺院は以下のとおりです。ご参照下さい。
橘寺   川原寺   法隆寺   四天王寺   叡福寺   法起寺   法輪寺

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 7.現在の境内

 野中寺境内全景
野中寺境内全景
 現在の門基壇上から撮った当寺院境内の全景である。正面の本堂までの真っ直ぐな参道を挟んで右に創建時の金堂基壇跡、左には創建時の三重塔基壇跡がある。 野中寺は享保年間(1716-1736)の火災でほとんどの堂宇を焼失し、現存の堂宇の大半はこれ以降再建されたものである。
     
本堂   地蔵堂
野中寺本堂   野中寺地蔵堂
     
大師堂   石人像
野中寺大師堂   野中寺石人像
     
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<更新履歴>2013/02作成 2016/01補記改訂 2020/11補記改訂
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