川原寺 跡
(かわらでら)


Contents
1.所在地
2.草創・開基
3.創建時の伽藍配置
4.その後の変遷
5.川原寺の謎
6.その他
7.現在の境内
8.寺域北限遺構
9.古寺巡訪MENU

 
1.所在地

奈良県高市郡明日香村川原1109

法号 弘福寺

川原寺跡全景
2.草創・開基
   川原寺は、飛鳥時代の天武天皇期には飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥三大寺として、下って持統・文武天皇期では薬師寺を加えて飛鳥四大寺に数えられ、朝廷に重用されてきた大寺である。これら飛鳥時代の大寺は、日本の正史である「日本書紀」にその創建目的や発願者等について比較的詳しく記載され、特に飛鳥寺は異様なほどに詳細に記述されていることはよく知られるところである。
   ところが、川原寺に限っては一切その記載が無く、また後述のとおり室町時代末期に焼失して以降完全に廃寺となったために寺伝も残されておらず、川原寺は創建目的や発願者は誰であるのかなど、全く知ることができない、当時の大寺としては実に不思議な寺院である。
   このため当寺院の創建年次は諸説あるが、未だ確定するには至っていない。しかし、「日本書紀」「続日本紀」等の川原寺で行われた諸行事記録や発掘調査による伽藍遺構、出土瓦などの遺物などから、当寺院は、斉明天皇没後から天武朝初期までの間、即ち661~670年代の間に斉明天皇の冥福を祈る為に、天智天皇が発願し斉明天皇の宮であった川原宮(※1)の故地に建立されたのではないかというのが最も有力な説となっている。
(※1)川原宮とは?
川原宮について、日本書紀に次ぎのような記載がある。   
  • 斉明元年(655)の条 「この冬に、飛鳥板蓋宮に火災があったので、飛鳥川原宮にお移りになった。」
  • 斉明二年(656)の条 [この歳、飛鳥の岡本にあらためて宮を定めた。(中略)やがて宮室が建ち、天皇はお移りになった。宮を名付けて後飛鳥岡本宮といった。」
 この記録から、川原宮は、板蓋宮が火災に遭ったので新造された宮ではなく以前よりあった離宮であり、 それが板蓋宮が焼失したので、急遽、皇宮として一時的に使用されたのではないかと考えられている。

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3.創建時の伽藍配置
(1)創建時の伽藍配置 < 「川原寺式伽藍配置」と呼ばれる独特の伽藍配置>
川原寺創建時伽藍配置図  川原寺は昭和32年から35年にかけて発掘調査が行われている。その結果、伽藍配置は右の伽藍配置図のとおり 、南大門から中門を入ると右手に五重塔、左手に西金堂、そしてその向こう正面に中金堂がある「一塔二金堂」の配置であったこと、そして西金堂は南面せず、五重塔のある東を正面としていたことが判明した。

  また、図にあるように講堂の周りを囲むように三面に僧坊が造られていたこと、そしてこの三面の僧坊の前には吹き放しが設けられいたことも判明した。これは、「僧坊の古い例が初めて明らかに」なった事例とされている。
  さらに南大門よりも東門の方が大きく壮大であったことも判明した。これは飛鳥川を挟んだところには下の「飛鳥京主要施設図」にあるとおり板蓋宮など重要な施設があるために重要視された結果ではないかと推測されている。

  なお、同様な事例は飛鳥寺西門にも 見ることができる。飛鳥寺は、西に当時のランドマークともいうべき重要な「槻の木広場」があった。そのために西門がとりわけ壮大に造られていた ことが発掘調査により判明している。

発掘調査の結果により判明した伽藍配置
(「図説 日本の史跡 第五巻 古代2」を参考に作成)

 川原寺伽藍復元図(現地に設置されているパネルより作成)
川原寺復元絵図
(2)川原寺伽藍復元図と飛鳥「京」における川原寺の位置
飛鳥京鳥瞰図   右図は、飛鳥京に於ける川原寺の立地を示したものである。(飛鳥「京」に於ける川原寺の位置(甘樫丘展望台パネル写真より作成)

   これを見て思うことは、天智天皇以降の権力構造から、これだけの規模(※2)の寺院を官(朝廷)以外が造営できるとは考えられないということである。
そう考えるのは規模だけではない。この川原寺の立地である。この地は斉明天皇の宮があったとされる。天皇の宮跡に官以外の者がたとえ寺院であるにせよ造営できるとは考えがたいのである。
そうであればこの川原寺は天智帝か天武帝のいずれかが造営した官寺と考えるのが自然であろう。

(※2)奈良文化財研究所の2003年【川原寺鉄釜鋳造土坑(飛鳥藤原第119-5次調査) 】によって北限大垣が発見された。その結果、川原寺の寺域は南北長がほぼ3町(333m)であることが判明し、飛鳥寺の寺域南北長(294m)を上回り、川原寺が如何に大寺であったか裏付けられた。

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4.その後の変遷
(1)天武朝に重用された川原寺
   川原寺は天武朝にいかに重用された寺院であったか、くどくどと述べるよりも「日本書紀」の以下の記述を列挙すればよくわかる 。
天武天皇二年三月の条
「この月に、書生(写経生)を集めて、川原寺で一切経の書写をお始めになった」
天武天皇二年三月の条
「この月に、書生(写経生)を集めて、川原寺で一切経の書写をお始めになった」
朱鳥元年四月の条
「新羅の客人を饗応するために川原寺の伎楽(舞人、楽人、衣裳)を筑紫に運んだ」
朱鳥元年五月の条
「五月二四日から天皇は病あつくなられ、ために川原寺で薬師経(薬師如来本願経)を説かせ・・」
朱鳥元年六月の条
「勅して、百官の人々を川原寺に遣わして燃灯供養を行い、盛大な斎会を設けて悔過を行った」
朱鳥元年九月の条
「親王以下諸臣にいたるまでことごとく川原寺に集い、天皇の御病平癒のために云々と誓願した」
   先ず、天武天皇二年三月の条の一切経の書写とは膨大な経典を写経することを意味し、国家的事業として取り組まなければ成し得ないことである。この大事業を川原寺で行われたということは川原寺が官寺であったか、それ同等の寺院であったと考えてよいのではないか。さらに、朱鳥元年の各条は、天武天皇が病に倒れ、崩御されるまでの間の重要な誓願がここ川原寺で行われたことを示している。これらから少なくとも天武天皇の御代に於いては筆頭の官寺であったといっても過言ではない大寺だったといえる。
(2)天武朝以降の変遷
  • 前述の通り、天武朝に朝廷から重用され飛鳥の大寺として隆盛した。
  • 平城京遷都に際して飛鳥四大寺のうち飛鳥寺、大官大寺、薬師寺は官寺として移設されたが、川原寺だけがそのまま飛鳥の地に留め置かれた。
  • 天平勝宝元年(749)5月に聖武天皇が、施物墾田を諸寺に施入しているが、大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺が最も多く、次いで法隆寺、その下に四天王寺と同等として川原寺とされ、さらに同年7月「諸寺墾田地限」が定められたが、東大寺4000町、元興寺2000町、大安寺・薬師寺・興福寺・法華寺1000町に対して川原寺は500町とされ、既に寺格が大いに低下していることがわかる。(続日本紀 天平勝宝元年5月の条、同7月の条)
  • 平安時代前期と鎌倉時代初期の建久2年(1191)の二度にわたって焼失した。なお、平安時代前期に空海が平安京の東寺と高野山の往路での宿所として川原寺を使用しており、時期は不詳ながら平安時代には東寺の末寺となっていた。
  • 建久2年(1191)の焼失後の同じ鎌倉時代に、中金堂、塔、南門、僧坊が再建された。しかしこれも室町時代末にことごとく焼失し、これ以降本格的な再建はされることなく衰退する。
  • 江戸時代中期に、現在の弘福寺は再興された。しかし現弘福寺は全く創建時川原寺とは異質の寺院である。この現弘福寺の場所は創建時川原寺の中金堂があったところで、現本堂と庫裏の床下や前庭に、他の寺院では例が無い有名な大理石の礎石が28個が残されている。

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5.川原寺の謎
(1)何故か、創建について正史「日本書紀」には記述されなかった川原寺
   以上のとおり川原寺は、当時、大官大寺、飛鳥寺とともに飛鳥三大寺に数えられ、その中でも筆頭の「官」寺であった。大官大寺、飛鳥寺は官寺として当然に正史である「日本書紀」にその創建について記述がされている。しかし何故か川原寺はその創建について記述が一切ないのである。何故、記述されなかったのであろうか。実に不可解である。その理由は藤原京から平城京へ遷都された時、唯一この川原寺だけが移建されなかったことと、その軌を同じくしているのであろうか。是非とも知りたいところである。しかし残念ながら、どうもこの答えは今のところどの研究者からも出されていないようである。
(2)何故か、平城京に移設されなかった川原寺
   この疑問に対しても、前述の「謎の大寺 飛鳥 川原寺」(網干善教/NHK取材班著)に興味深い見解が述べられているので紹介したい。
「川原寺が平城遷都に際し、どうして平城京に移建されなかったのか、その謎を解く手がかりがある。飛鳥四大寺の中で、川原寺は異質の寺であったのだ。
 インド仏教の影響を強く受け、それゆえに斉明、天武両帝の庇護を受け飛鳥仏教に独特の地歩を築いた。インド石窟寺院と見まがう異様な金堂。伎楽団、瑠璃の礎石。外国に向かって開かれた寺として大きな役割を果たした。山田寺や虚空蔵寺などの氏寺にも影響力を持った。それが天武天皇の宗教政策にも叶っていたからである。しかし川原寺は、その異端であることによって凋落の時を迎える。
 すでに仏教はこの時代になると日本化の傾向をたどるようになる。飛鳥の諸大寺は平城への遷都を許されたが、川原寺はあまりに日本仏教の中で異質であり、人々の信を失いはじめていたのだ。かくして川原寺は飛鳥に残る。」
(3)創建時の中金堂は、天井・壁面の全面を塑像の三尊塼仏によって飾られた異色の金堂だった?
   先程の伽藍配置図の左上にある板蓋神社に注目していただきたい。この神社は上の写真にある通り小高い丘の上にある。
 ここで興味深いものが、昭和49年1月から始められた神社の崖面発掘調査で発見された。それは他では例を見ない大量の三尊塼仏(塑像)である。
 出土した三尊塼仏の大きさは大半が、縦約22.5cm、横約17.5cm、厚さ約2.5cmで、その内一点だけは約三倍の大きさのものがあった。 川原寺三尊塼仏この結果、ここが川原寺の焼失した塑像や三尊塼仏を埋納した遺構(川原寺裏山遺跡)であることが判明した.。しかし、これはこれで新たな疑問が生じることになったのである。前述の通り、こうした塑像が大量に出土した事例は同時代の寺院では無く、果たしてこの三尊塼仏は川原寺でどのように使われていたのかということである。残念ながらこの疑問に対して明確な答えは今のところ出されていないようである。しかし今までの研究のうち示唆に富んだ大変興味深いものがあり、これをここで紹介したい。
  それは「謎の大寺 飛鳥川原寺」(網干善教/NHK取材班)である。要約すると以下のように述べられている。  先ず、この出土した量から判断して、いずれかの堂宇の壁面を飾っていたのではないかと推定される。そして、この推定を検証するために、この時代にそうした実例が果たしてあったのかを、塼の源流を辿ることから始め、それは仏像の発祥の地であるガンダーラ地方にあること、さらにこの三尊塼仏によって荘厳された寺院の事例としてインドのオーランガバードの石窟寺院群内に行き着く。そしてこの石窟寺院は川原寺より古い遺跡であることも確認される。こうした検証結果から川原寺がインド仏教寺院の影響を、少なくとも中金堂に色濃く反映した寺院として建立されたのではないかという推定も充分にあり得ると結論づけている。

川原寺裏山遺跡と板蓋神社
板蓋神社 板蓋神社 板蓋神社
川原寺跡北にある丘 板蓋神社への石階段  板蓋神社本殿

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6.その他
(1)「川原寺式伽藍配置」の類例寺院は、次ぎの二寺院があります。なお、この二寺院も天智天皇発願によるものです。
       福岡県太宰府市 観世音寺    滋賀県大津市 南滋賀廃寺

(2)川原寺に関連する同時代の寺院は次の通りです。参考にご覧下さい。
         橘寺 大官大寺  本薬師寺  飛鳥寺 

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7.現在の境内
南大門跡から見た川原寺跡
川原寺中門跡

  手前から南大門、中門、その奥の右に塔、左に西金堂、更にその奥に中金堂があり、中金堂の奥には右手に経蔵、左手に鐘楼があり、さらにその奥に講堂があった。 中金堂の基壇規模は、東西約23.8m、南北約19.2m、高さ約1.5mで、礎石は他では例を見られない白色大理石で、28個が現弘福寺境内に現存している。
  講堂は、建久2年の焼失後、削平され、堀を巡らせた邸宅として利用されたことが、そして基壇規模は、東西約40.5m、南北約16mであったことが発掘調査で判明している。なお、現在、中金堂跡の上には弘福寺が建っている。この弘福寺は江戸時代中期に建てられたものである。

     
南大門礎石
川原寺南大門礎石
  中門と廻廊跡
川原寺中門、回廊跡
 
中門基壇と礎石
川原寺中門基壇と礎石
東西14m、南北10mの規模で、堂々たる中門であったことがわかる。
 
西金堂土壇跡
川原寺西金堂土壇跡
土壇の大きさは東西約13.6m、南北約21,8mで細長い建屋であった。
     
塔基壇跡
川原寺塔跡
  基壇上の礎石
川原寺塔跡
  土壇の大きさは一辺11.7m高さ1.5mある。創建時は五重塔が建てられていた。なお、鎌倉時代の再建時には三重塔に変更されていたことも判明している。
 
北に向かって延びる東廻廊址と東室跡
川原寺東回廊跡と東室跡

如何に巨大寺院であったか遺跡からも想像できる。

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8.川原寺寺域北限遺構

川原寺寺域北限遺構の概要 ( 下の図は遺構の現地説明板から作成したもの )
川原寺寺域北限遺構図 この遺構は、独立法人文化財研究所 奈良文化財研究所が2003年2月14日から7月31日の約5カ月間、発掘調査を行って発見されたものである、。
  この発掘調査書は、【川原寺鉄釜鋳造土坑(飛鳥藤原第119-5次調査) 】として公表されている。
 その調査書によれば、この遺構の発見の意義について以下の通り簡潔に述べられているので参考にしていただきたい。

 「本調査によって、川原寺の北面大垣を初めて確認し、寺域の南北長がほぼ3町(333m)であることが判明した。これは持統・文武朝の四大寺のうち飛鳥寺の寺域南北長(294m)とほぼ同規模であり、川原寺が大寺にふさわしい寺域をもつことを確認できた。また、北面大垣に接する寺域北部に工房関係遺構が展開する状況が明らかになった。工房の操業期間は7世紀後半の創建期から平安時代に及ぶ。工房では、鉄・銅・銀などの金属加工を行っており、また同時に、瓦、ガラス製品、漆塗製品などの生産を行っている。この工房は、川原寺寺域内に営まれ、操業時期が川原寺の造営や消長と密接に連動するところから、川原寺の造営や営繕のために設置された寺院工房と考えられる。
 奈良時代の資財帳や縁起などの文献史料により、古代寺院の寺域内には大衆院、倉垣院、花苑院、修理院などの諸施設が配置されていた様子が知られる。今回、川原寺の寺域北端で工房関係遺構を確認したことにより、古代寺院の空間利用の一端を解明することができた。」
 以上、奈良文化財研究所【川原寺鉄釜鋳造土坑(飛鳥藤原第119-5次調査) 】より抜粋
川原寺寺域北限遺構 全景
川原寺寺域北限遺構
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9.古寺巡訪MENU
<更新履歴>2011/4作成 2012/1追記改訂 2012/3追記改訂 2012/5追記改訂 2012/11追記改訂  2016/1補記改訂
川原寺