本薬師寺跡
(もとやくしじ)
本薬師寺金堂土壇跡と礎石

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

1.所在地
奈良県 橿原市城殿町
2.宗派
法相宗(存続時)
3.草創・開基
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武2年(673)に即位し天武天皇となる。しかし、その8年後の天武天皇9年(680)、壬申の乱をともに闘った鸕野讚良皇后(うののさらら・後の持統天皇)が病に倒れた。天武帝は皇后の病気平癒を祈願して薬師寺建立を発願し、その2年後に建立に着手した。そしてまもなく皇后は病気も平癒する。ところが発願から6年後の朱鳥元年(686)天武天皇自身が病を得て崩御されてしまう。この後、持統天皇として即位した鸕野讚良皇后が夫の意志を継ぎ建立を続け、持統11年(697)開眼仏会を、そして着工からおよそ16年の月日を要して文武2年(698)に、ほぼ完成させた。建立地は藤原宮の右京八条三坊(現在の橿原市城殿町)である。
なお、平城京遷都後は、新たに平城京西の京に建立された薬師寺と区別するために、本薬師寺と呼ばれるようになった。
4.創建時の伽藍配置
(1)薬師寺式伽藍配置
現在、残っている金堂・東西両塔の土壇跡は国の特別史跡となっており、右図のような伽藍復元図が掲げられている。これによると中門と講堂を回廊で結びその中に、中央に金堂、金堂の南に二塔を左右対称に配置されていることがわかる。本薬師寺のこの伽藍配置は、「薬師寺式伽藍配置」と分類されている。
なお、平城京薬師寺は、この伽藍配置は無論のこと、堂宇そのものも本薬師寺を正確に模写して建設されている。なぜここまで模写することにこだわったのであろう。その理由を解き明かしてくれる文献は私の拙い勉強では無かった。

(2)建築された場所
右下の図は、岸俊男説による藤原京の条坊を復元したものである。本薬師寺は、ご覧のとおり、藤原宮に近い右京八条三坊に位置し、天武天皇の本薬師寺にかける思いがいかに強いものであったか想像できるのではなかろうか。なお、平城京薬師寺も右京六条二坊にあり、京に於ける位置関係をほぼ踏襲している。

 (注1) 南北条間路の表示は省略しております。
    事例:朱雀大路と西一坊大路の条間路は右京一坊
 
(注2) 東西条間路の表示は省略しております。 
    事例:北京極大路と一条大路の条間路は一条、 

 (注3) なお、図は筆者が作成したもので作成目的は藤原京における本薬師寺の位置関係を示すことにあり、相対比や各大路の道路幅は正確ではありません。

(注4) 藤原京は、藤原京跡  のページに紹介していますので、ご参照下さい。
     
(3)広大な寺域
寺域は、前述のとおり、藤原京の右京八条三坊の四町分を占めていた。藤原京都市計画の一単位である 1町=132.5mで換算すると一辺265mとなり、70,225平米の広大な寺域であった。なお、本薬師寺に関する古文書の記載などから大衆院などの本薬師寺の関連施設が七条三坊の南半部分にもあった可能性が高いとされており、これよりもさらに広い寺域を本薬師寺は、藤原京で占めていたとも考えられている。(右上の伽藍配置本図は、橿原市教育委員会現地設置パネルを撮影したものです)

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5.その後の変遷
養老2年(718)平城京の西ノ京で薬師寺は建立を開始されたが、藤原京の薬師寺はそのまま存続し飛鳥四大寺として崇拝されていたと各種古文書から明らかになっている。しかし南都の大寺が平安京に遷都されて以降衰退したのと同様に藤原京薬師寺も次第に衰微し、平安時代中頃には廃寺となったのではないかと推定されている。

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6.特記事項
(1)藤原京(新益京)建設計画と本薬師寺
①天武天皇の新都城建設計画の推移
天武天皇が新都城建設構想実現のために実際に場所の検討を始めたのは、天武5年(678)である。そして天武13年(684)、正式に藤原の地に造営することが決定された。ところが、その2年後の朱鳥元年9月9日(686)に天武天皇は崩御される。そして、持統天皇が直ちに称制し、持統4年(690)正式に即位した翌年に藤原京(新益京)の建設が始まり、遂に持統8年(694)12月、藤原宮が完成したのであろう、藤原京に遷都される。

②本薬師寺は、藤原京条坊地割を先取りして造営された
一方、本薬師寺が着工されたのは天武11年(682)である。そして文武2年(698)に開眼仏会が執り行われ、完成した。即ち、藤原京建設計画の推移と本薬師寺の造営推移は符合しているのである。そして、完成した本薬師寺の地は、藤原京条坊地割に則った右京八条三坊であった。

③藤原京の条坊地割は本薬師寺着工以前に決定されていた
 以上(1)(2)から、本薬師寺着工(682以前には新都城・藤原京条坊地割は出来上がっていたことは明らかで、藤原京の数々の発掘調査でも、それが裏付けされている。

(2)平城京遷都と本薬師寺
しかし、完成後12年余りしか経たない710年に、平城京へ藤原京から遷都され、主要な官寺も平城京に移されることとなった。これに従い平城京薬師寺も養老2年(718)、西ノ京での建立を開始し天平2年(730)ごろ伽藍全体が整った。

(3)移建説と非移建説論争
この移転について 藤原京の薬師寺が建物、本尊ともに移されたという説(移建設説)と、新たに本尊、建物とも建設されたという説(非移建説)が明治以降史学会で大きな論争になった。確定的なことは未だ不明ながら平城薬師寺は藤原京薬師寺の規模、様式をほぼ正確に模写され新築されたという説が有力なっている。

(4)飛鳥四大寺
日本書紀 持統天皇称制十二月十九日の条 に記述されているように薬師寺は、飛鳥四大寺(大官大寺、飛鳥寺、川原寺、薬師寺)に数えられていた

(5)本薬師寺に関連するページ
藤原京跡    藥師寺   大官大寺

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7.現在の境内
本薬師寺跡の全景
     
金堂土壇跡と礎石 東・西 塔土壇跡
本薬師寺金堂土壇跡と礎石   本薬師寺西塔土壇跡と礎石
 金堂土壇の上には巨大な礎石(15個)が残されている    金堂土壇南側に東西両塔土壇がある。
   
東塔土壇跡   東塔土壇跡の礎石
本薬師寺東塔土壇跡   本薬師寺東塔礎石
 この土壇の一辺は14.2m、高さ1.45m。平城薬師寺は一辺が13.65m、高さ1.4mで、規模はほぼ同じの三重塔であったと考えられている    東塔土壇跡に残る舎利を納めた孔がある芯柱の礎石。平城薬師寺では舎利を納めた孔は西塔の芯柱礎石へと変更されている。
     
西塔土壇跡   西塔土壇跡の礎石
本薬師寺西塔土壇跡 本薬師寺西塔土壇跡と礎石
  この西塔土壇址から平城薬師寺の創建瓦が大量に発見された。この結果、この西塔は本薬師寺が完成したと思われる698年ごろではなく、平城薬師寺建立以降に建てられたのではないかという新たな疑問が出されている。

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8.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2011/02作成 2012/8補記改訂 2013/10補記改訂  2015/12補記改訂 2020/11補記改訂

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