大官大寺跡
(だいかんだいじ)


Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.現在の境内
7.特記事項
8.古寺巡訪MENU

1.所在地
   奈良県明日香村小山・・橿原市南浦町 (橿原神宮前駅から奈良交通バス停「明日香小山」で下車
大官大寺跡石標  

                  天香久山の南に広がる平坦地にあり、南に下れば甘樫丘、飛鳥寺などがある。
2.宗派
  ******
3.草 創 ・ 開 基
(1)文武天皇建立の最高位の官寺
 大官大寺は、文武天皇(在位697-707)が建立に着手した国家の寺である。大官大寺の「大官(おほつかさ)」とは天皇を意味するともいわれ、大官大寺とは天皇の大寺をそのまま寺名とする官寺の中でも最高位の官寺である。
(2)完成前に焼亡した大官大寺
 しかし、建築途中の和銅4年(711)に火災により全て灰燼に期した。この焼亡時の建築進捗状況は、金堂と講堂は完成、塔本体は完成していたものの基壇化粧などの最終工程には至っていなかった。また中門、廻廊はまさに建築途中であったという。(「扶桑略記」平安時代の私撰歴史書
 なお、この「扶桑略記」の記事は、昭和48年から57年頃まで行われた発掘調査で、大量の焼土や焼けた瓦が発見され、その信憑性が裏付けられた。さらに創建時の中心伽藍の規模と配置も明らかとなり、塔はその基壇規模などから伝承のとおり九重塔であったと推定されている。

<目次へ戻る

4.創建時の伽藍配置
   創建時の伽藍は、奈良文化財研究所の昭和48年から同57年までの10年に及ぶ発掘調査によって、以下のことが明らかになっている。

(1)寺域の規模と藤原京条坊地割との関係
@寺域の大きさ
  上記の発掘調査の結果、寺域全体の大きさは、南北354m東西205mにもおよび、飛鳥寺のそれと比較とすると下記の通りで、国家の寺、大官大寺の名に恥じぬ飛鳥・白鳳時代最大の寺院であったという。
寺域の大きさ
  大官大寺  飛鳥寺
東西(m) 205  210
南北(m) 354 290
A大官大寺の藤原京における位置
   藤原京の建設は、天武天皇が天武5年(678)に新都城建設構想実現のために実際に建設場所の検討を開始したのが始まりである。そして天武13年(684)、正式に藤原の地に造営することが決定されたが、その2年後の朱鳥元年9月9日(686)に天武天皇は崩御される。しかし、直ちに称制した持統天皇が、これを引き継ぎ、遂に持統8年(694)12月に藤原京遷都を実現したのである。
  文武天皇は、母持統天皇より譲位されて697年に即位し、やがてこの大官大寺建立に着手したのである。
 大官すなわち天皇の寺である。その期待される役割は鎮護国家であり、当然、京内でなければならない。発掘調査の結果、実際に建立された場所は、右図のとおり「東西を藤原京の東四坊大路と三坊大路とで限り、南は十条大路、北は九条条間路によって画された南北三町、東西二町、計六町の範囲を占めていた」(木下正史著、角川書店刊、「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」)ことが確認され、京内であったことが明らかになっている。
※注1 各南北条間路の表示は省略しております。
   (事例)  朱雀大路と西一坊大路の条間路は右京一坊
   (事例) 朱雀大路と東一坊大路の条間路は左京一坊
※注2  東西条間路の表示は省略しております。
    (事例)   北京極大路と一条大路の条間路は一条
※注3  なお、右図は筆者が作成したもので作成目的は藤原京における 大官大寺の位置関係を示すことにあり、相対比や各大路の道路幅は正確ではありません。

(2)伽藍配置
@大官大寺式伽藍配置
   伽藍配置は右下の見取図のとおり、中門、金堂、講堂が南北線上に並び、塔は金堂の東南前におかれた。この伽藍配置は、天智朝時代の主要な官寺に採用された川原寺式伽藍配置から塔に対面する西金堂を省略したものと近似しており、当時の官の大寺の伝統的な形式を踏襲しつつ、金堂前に広い空間を必要としたなど、変化する仏教催事へも対応したのではないかと推察されている。

 A当代随一の巨大な中心伽藍
   下表は、川原寺飛鳥寺の中心伽藍と比較したものである。面積に置き換えると大官大寺は川原寺の約2.7倍となり、大官大寺の名に相応しく、いかに巨大なものであったか、がわかる。
中心伽藍の大きさ
  大官大寺 川原寺 飛鳥寺
東西(m) 144 82 112
南北(m) 197 129 90
面積(平米)  28,368 10,578 10,080


右上の「大官大寺伽藍配置」は、奈良文化財研究所作成の伽藍配置図面を参考に筆者が作成したものです。但し、構成比などは正確ではありません。
(3)金堂は藤原京大極殿に匹敵する大きさ
  現存する土壇の大きさや形状から、発掘調査される前までは講堂の土壇であろうと考えられてきた。ところが、次の項目「(4)講堂」に記述のとおり、講堂土壇跡が発見され、現存する土壇は金堂土壇であることが明確になった。
 そして発掘調査で発見された礎石跡などから、金堂の大きさは、下表の通り当時の寺院規模を遙かに上回り、藤原京大極殿と並び立つ規模であったことが明らかになっている。
金堂の大きさ
  大官大寺 大極殿 川原寺 山田寺 法隆寺
東西(m) 45 45  16.8 14.7 14
南北(m) 21 21 12 11.6 10.8

(4)講堂
  昭和54年の発掘調査によって、金堂土壇の北約50mのところで講堂土壇跡(東西52m、南北27m)が発見された。そして同時に礎石抜き取り跡も発見され、講堂の大きさはほぼ金堂と同じであったろうことも判明した。但し、基壇の高さは金堂基壇より「相当に低い」ものだったことも判明している。
(5)九重塔
  「文武3年6月に九重塔を起こした」(扶桑略記)、大安寺資財帳にも同様な記載が残されていることから、現存する土壇上には九重塔が建てられていたと推定されてきた。この推定も先の発掘調査で土壇、心礎等の礎石の大きさからほぼ裏付けされた。下表は大官大寺の塔初層一辺長を他の塔と比較したものである。その大きさは奈良時代の官寺を先取りする、まさに国家筆頭の大寺の塔として相応しいものであったことがわかる。なお、高さは東大寺七重塔の高さ約100mに匹敵するものであったろうと考えられている。
塔の初層一辺長の大きさ(但し、「国分寺七重塔」は相模国分寺の事例)
  大官大寺
九重塔
東大寺
七重塔
大安寺
七重塔
国分寺
七重塔
興福寺
五重塔
法隆寺
五重塔
山田寺
五重塔
初層一辺長(m) 15 16.3 12 10.8 8.8 6.3 6.6

<目次へ戻る>

5.その後の変遷
   草創・開基の項でも記載したとおり、)大官大寺は建築途中の和銅4年(711)に火災により全て灰燼に期した。これは平安時代の私撰歴史書「扶桑略記」に大官大寺焼亡の記事があり、昭和48年から57年頃まで行われた発掘調査で、大量の焼土や焼けた瓦が発見され、その信憑性が裏付けられた。さらに創建時の中心伽藍の規模と配置も明らかとなり、塔はその基壇規模などから伝承のとおり九重塔であったと推定されている。

<目次へ戻る>

6.現在の境内
 橿原神宮前駅から奈良交通バスで「明日香小山」で下車すると、北に天香久山があり、その南には広大な田園地帯が広がっている。大官大寺跡は、そのバス停の真東の一画にあるが、バス停からはその痕跡すら判然としない。しかし、畦道をまっすぐ東に進むとやがて、下の写真の通り、「金堂跡」「塔基壇跡」と明記された標石があり、ここが大官大寺跡である。

 金堂土壇跡
   北西から撮影した金堂土壇跡。金堂土壇の周りは一面が田畑。そればかりか土壇上にも畑がある。今後の遺跡保存はどうなるのか心配になった。左隅に写っているが下の「史跡大官大寺址」と刻まれた石柱。
塔基壇跡の標石
  西側から撮影した塔土壇。ここに九重塔が建てられていた。塔の芯柱の礎石は、明治22年橿原神宮造営に際して、その建築工事に転用するために抜き取られ、結果、後世に残すべき貴重な国家的歴史遺産は破壊された。
 塔基壇跡の全景

<目次へ戻る>

7.特記事項
 (1)文武朝大官大寺は、天武朝大官大寺と一時期併存していた
 平城京大安寺の前身寺は大官大寺であったこと、大官大寺の前身寺は高市大寺、更にその前は百済大寺であった。このそれぞれの寺の概要は以下のとおりである。
  • 百済大寺
     日本書紀、舒明天皇11年(639)7月の条に百済川のほとりに大宮と大寺を造った、そして、同年12月の条には百済川のほとりに九重塔を建てた、とあり、舒明天皇が建立したわが国最初の官寺である。
     この所在地を巡って様々な研究がされてきたが、1997ー2000年度までに実施された吉備池廃寺発掘調査の結果、発見された巨大な金堂土壇跡と塔土壇跡、出土瓦からこの吉備池廃寺が百済大寺であることが、現在最も有力な説となっている。
  • 高市大寺
     672年壬申の乱で勝利した天武天皇は翌年飛鳥浄御原宮で即位する。同年12月17日に造高市大寺司を任命し高市大寺建立に着手する。そして天武天皇6年(677)、高市大寺を大官大寺に改名させている。
     この高市大寺の所在地は、発掘調査が行われるまでは、この大官大寺跡が最も有力な推定地であった。しかし、発掘によって出土した遺物からこの遺構の着工時期は文武朝を遡ることがないこと、遺構の下層には建物遺構が一切発見されないことから、この推定は成り立たないことが確定的なった。このように、高市大寺の所在地問題は、再び白紙に戻り、現在、いろいろな説が検討されている。
  • 大安寺
     大官大寺は、和銅3年(710)平城京遷都後、薬師寺や元興寺(飛鳥寺)などと同様に、霊亀2年(716)、平城京への移建工事が開始され、国家鎮護のための国家筆頭の寺、大安寺として平城京に受け継がれ、同時に旧大官大寺の多くの資財が大安寺に引き継がれたことは、大安寺資財帳によって確認されている。
     そして、この引き継がれた多くの資財は、文武朝大官大寺のものではなく、より古い天武朝大官大寺のものであることも明らかになっている。
 以上のことなどから、天武朝大官大寺と文武朝大官大寺は一時期併存していたのではないかと木下正史氏は著 角川書店刊 「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」にて述べられている。しかし、この推定によって次の新たな疑問が生じているのも事実で今後の研究の進展に期待されるとこである。
  • 疑問1. なぜ文武天皇は、天武朝大官大寺が既にあったにも拘わらず、新たな大官大寺を建立しようとしたのか
  • 疑問2. 高市大寺(大官大寺)はどこにあったか。(文武大官大寺は旧寺院跡に建立されたものでないことが発掘調査で明らかになった。では高市大寺(天武大官大寺)はどこにあったのか)
 (2)大官大寺は、 飛鳥四大寺 筆頭の官寺であった。

 (3)大官大寺跡の北には天香久山がある。
大官大寺跡の北側には天香久山がある。
標高は152.4mと大和三山の中で最も低いが飛鳥人に崇拝され、
万葉集にも度々登場する。


ひさかたの 天の香具山
この夕霞(ゆうべかすみ)たなびく 春立つらしも
(柿本人麻呂)
(4)このページの参考図書
このページは、主として下記の木下正史先生の著書を参考にして作成しました。感謝申し上げます。本著書は、内容は大変専門的にも拘わらず、私のような素人でも非常にわかり易く著述されています。「今まで知りたかったことが知ることが出来た」という爽快な読書感を味わうことができました。ぜひ時間があれば一読されることをお勧めします。木下正史著 角川書店刊 「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎 」

<目次へ戻る>

8.古寺巡訪MENU
 
  <更新履歴>2010/11 作成  2012/8 補記改訂2012/12 補記改訂 201512補記改訂 2019/1補記改訂
 大官大寺跡