吉備池廃寺跡
(きびいけはいじあと)

Contents
1.所在地
2.吉備池廃寺とは
3.伽藍配置
4.建立目的
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の吉備池廃寺
8.古寺巡訪MENU

1.所在地

奈良県桜井市大字吉備
吉備池の全景
吉備池の全景
 

2.吉備池廃寺とは

(1)発掘調査に至った経緯 吉備池鳥瞰図と伽藍配置図 右の図は吉備池の鳥瞰図と発掘調査の結果判明した伽藍配置図を重ね合わせたものであるが、この吉備池は、江戸時代に造成された農業用溜池です。この地は飛鳥寺から直線距離で約3キロ北東に位置し、住所表示では桜井市大字吉備です。

 吉備池には、東南隅と南辺の堤に重複して2つの大きな土壇が存在し,東南部を中心にして飛鳥時代の瓦片が散布していることが以前から知られておりました。しかしこの遺構は、その出土品から瓦窯説と寺院説の二通りの説がありはっきりとは解らないままでありました。なかでも注目されていたのは瓦窯説です。

 その根拠は池の南東隅出土する瓦片が橿原市木之本町にある飛鳥時代の木之本廃寺と同一型式のものあることから、木之本廃寺の瓦を焼いた瓦窯だったのではないかと言うものでした。

 果たして寺院跡かそれとも瓦窯跡なのか、さまざまな史料研究が行われましたが、これ以上明確な結論を得るためには現地の専門的な発掘調査が期待されている状況に至っておりました。そして喜ばしいことに、その期待が平成に入って直ぐに現実のものとなりました。桜井市が当池の護岸工事計画を策定、それに伴う事前調査が実施されることとなったのです。
 1997年(平成9年)事前調査(発掘調査)は、当池東南隅の土壇を中心に、桜井市教育委員会と奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)飛鳥藤原宮跡発掘調査部によって実施されました。その結果、予想を上回る大きな成果を得ることができたのです。その成果は以下の通りです。

(2)発掘調査で判明したこと
  • この遺構は、瓦窯跡ではなく飛鳥時代の寺院跡である
  • この寺院跡は、巨大な金堂基壇および塔基壇跡が発見されており、その規模およびその立地条件から氏族の単なる氏寺ではなく何らかの公的性格を有した寺院と考えられる
  • この寺院は短期間で移築されたと考えられる痕跡がある
  • これら発掘調査で判明したことを総合的に判断すると、即ち創建時期、伽藍の規模,立地条件および短期間内で移築された可能性などから見て、当寺院は、
    平城京の大安寺や文武朝大官大寺の前身で,九重塔を持っていたとされる舒明天皇による史上初の勅願寺,百済大寺(639年発願,673年移築)である可能性」
    がある。
 なお、この発掘調査結果については、 奈良文化財研究所第105次吉備池廃寺の調査「1 調査の経緯と概要」に、以下の通り、わかりやすく記述されているのでご参照ください。

 「1 調査の経緯と概要」
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所 第105次吉備池廃寺の調査より抜粋

 これまでの3カ年に亘る調査により、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔を配し、巨大な規模を有する「百済大寺」の可能性が極めて高いものと考えられるに至った。

 第8 1 - 1 4 次調査では、金堂は東西約3 7 m、南北約2 8 mの掘込地業の上に高さ2m以上の基壇を築いたものであることが判明した。

 第8 9 次調査では、塔は旧地表面上に1辺約3 0 m、高さ2mを大きく超える方形の基城を築いたもので、飛鳥時代の主要な寺院の塔基壇と比較して4倍近くの而積を有することが判明した。いずれも当時の最大級の規模を誇るものである。

 第89.95次調査では、塔基垣の南方約3 0 mの位置に幅約6mの南面回廊を検出、さらに塔基域の西方約2 6 mに南面回廊と同規模の西面回廊が見つかり、寺地はさらにその外方へ少なくとも2 2 m以上広がることが確認され、また、金堂と塔の中央南方には門が存在しないことが明らかとなった。このように、吉備池廃寺は広大な規模の伽藍をもつこと、塔はその基壇の規模から考えて我が国では大官大寺と百済大寺の2寺にしか例のない九重塔の可能性が考えられること、出土した軒瓦は西暦6 4 3 年に金堂から創建された山田寺所用瓦の祖型にあたり、それよりわずかに先行する6 4 0 年頃の年代が与えられること、また、瓦の出土量が少なく補修用の瓦が認められないうえに完形品が一例もないことから、短期間の内に他へ移建された可能性が高いことなどが判明した。

 これらのことから、吉備池廃寺は、一豪族の氏寺などではなく、天皇家に関わり、国家的象徴としてその威容を誇っていた寺院とみるべきであることが、調査の進展と共に、より確実性を増してきた。史料の上でこれに相応しい寺院を求めるとすれば、『日本書紀」および「大安寺伽藍縁起井流記資財帳』が箭明天皇1 1 年( 6 3 9 ) 発願と伝え、『大安寺伽藍縁起井流記資財帳』では天武2年( 6 7 3 )に高市の地に移建され高市大寺となった、日本最初の勅願寺である百済大寺である蓋然性が極めて高いといえる。


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3.吉備池廃寺伽藍配置

百済大寺(吉備池廃寺)伽藍配置 それではこの巨大寺院、即ち百済大寺伽藍はどのようなものであったのでしょうか。この件について「吉備池廃寺史跡指定解説文」に下記の通り簡潔に記載されています。
 なお、これを理解し易くするために、右のとおり伽藍配置図を作成してみました。この図作成に際しては奈良文化財研究所学報2003年3月28日「吉備池廃寺発掘調査報告」を参考にさせていただきました。

「吉備池廃寺」史跡指定解説文」

 「中心伽藍は,東に金堂,西に塔を置き,両者を回廊が囲み,中門は金堂の正面に位置するという特殊な配置をとる。金堂基壇は東西37m,南北28m,高さ2m以上,塔基壇は1辺30mの正方形で,高さ約2.8mと推定される。この両者は,いずれも,飛鳥時代の古代寺院の中では隔絶した規模をほこるが,特に塔の基壇は,文武朝に建立された大官大寺のものに匹敵することから、塔自体も高さ80~90mと推定されるその九重塔に近い規模であったと考えられる。伽藍の北部には大型の掘立柱建物が列をなして並び,僧坊跡と推定されている。さらに,中門の南約40mの地点からは,寺域の南面を画すると考えられる16mの間隔をおいて平行する東西溝2条および,南大門と考えられる建物跡も検出された。出土した瓦から見て,創建時期は7世紀前半頃と考えられるが、伽藍規模に比較して瓦の出土量が少なく、基壇外装も見つかっていない点などからみて,短期間のうちに他に移築された可能性が指摘されている。」

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4.吉備池廃寺の建立目的

 以上のとおりこの吉備池廃寺は、舒明天皇が発願した我が国初の勅願寺・百済大寺(639年発願、673年移築)であることがほぼ明らかになりました。それでは、欽明天皇は何故この巨大寺院を建立しようとしたのでしょうか。その理由はおおよそ次のようです。
 当時の東アジアの国際情勢が緊迫していました。当時世界で最も先進国であった中国で大きな政変が起こったのです。すなわち、随が滅び唐が建国されたのです。建国の勢いに乗って唐は強大な軍事力を背景に周辺諸国を圧迫しはじめていたのです。そのため周辺諸国では唐へ積極的に朝見外交を展開する一方で、自らの国力をできる限り強大に見せようとしました。その例として隣国・新羅では九重塔を備える巨大寺院・皇龍寺が645年に建立されました。日本でも同時期に同じ規模の九重塔を持つこの百済大寺が建立されたました。こうしたことを併せて考えればこの寺院が、天皇家の権威誇示という国内事情以上に、巨大国家・唐誕生によって国家存亡に関わる東アジアの緊迫した当時の国際情勢の下で、国家の威信をかけて建設された大寺であったと考えられます。

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5.吉備池廃寺の変遷

 先にも記述したとおり、百済大寺は639年舒明天皇が発願した我が国初の勅願寺で、その舒明天皇は発願2年後の641年に崩御されますが、皇后であった皇極天皇が造営を引き継ぎ、孝徳朝(645~654)にはある程度寺観を整えられたと推定されています。そして早くも673年には天武天皇によって高市の地に移され、その高市大寺は677年に大官大寺へと改称され(天武朝大官大寺)ます。なお、高市に移建された理由は「天武天皇の宮室であった飛鳥浄御原宮との関わり」であったと考えられています。そして平城京遷都に伴い大官大寺は大安寺として変遷します。

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6.特記事項

  • 吉備池廃寺と命名された理由
     これらのことから本来この遺跡は「百済大寺跡」とすべきだと思われますが、この巨大寺院遺跡を百済大寺遺跡とするには確定的な発見が無く異論もあるところから、慎重を期して遺跡名を発見地名をとって「吉備池廃寺」とされたようです。
  • 天武朝大官大寺、および文武朝大官大寺から平城京大安寺へと変遷する詳細は、当サイトの 大官大寺 および 大安寺 をご参照ください。
  • 百済大寺建立からそのごの変遷については下の表 「百済大寺関連年表」 として纏めております。
    ご参照ください。

百済大寺関連年表


西暦 和暦 出来事 出典




 
629 舒明1 舒明天皇(田村皇子)即位
636 舒明8 舒明8年6月、岡本宮焼亡し田中宮へ遷る  
639 舒明11 大宮・大寺建立の詔、出される(百済宮と百済寺) 日本書紀
百済川のほとりを宮処とし、西の民は宮を造り、東の民は寺を造る。
書直県をその大臣とする
百済川のほとりに九重塔を建てる
百済川のほとりに子部社を切りひらいて九重塔をたてる。百済寺と号す。  縁起
社神の怨みにより九重塔と金堂の石鴟尾を焼破  〃
640 舒明12 舒明天皇、百済宮に移る 日本書紀
641 舒明13 舒明天皇、百済宮で崩御 宮の北でもがりをおこなう 日本書紀
642 皇極1 百済寺を建てるために近江と越の人夫を動員 日本書紀
阿倍倉橋麻呂と穂積百足の二人を造此寺司に任命 縁起
643 皇極2 皇極、飛鳥板蓋宮に移る 日本書紀
645 大化1 恵妙法師を百済寺の寺主とする
大化元年6月、【乙巳の変】、中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我入鹿を宮中で謀殺する 。蘇我蝦夷は自殺。  
6月、皇極天皇、弟の軽皇子へ譲位。軽皇子、孝徳天皇として即位
12月、孝徳天皇、難波に遷都
650 白雉1 丈六・脇侍・八部など36体の繍仏を造らせる
651 白雉2 丈六の繍仏などが完成す
655 斉明1 斉明(皇極)、飛鳥板蓋宮で重祚
668 天智7 丈六釈迦仏像ほかの諸像を百済大寺に安置する 扶桑略記




673 天武2 天武、飛鳥浄御原宮で即位 日本書紀
美濃王と紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命する
百済の地から高市の地に寺を移す 縁起
677 天武6 高市大寺を改めて、大官大寺と号す
682 天武11 大官大寺で140人あまりを出家させる 日本書紀
685 天武14 大官大寺・川原寺・飛鳥寺で経をよませる
694 持統8 持統、藤原宮へ移る







  
701 大宝1 造大安寺官と造薬師寺官を寮に準じさせる
造塔官と造丈六官を司に準じさせる
続日本紀
702 大宝2 高橋朝臣笠間を造大安寺司に任命する
文武朝 文武、九重塔と金堂を建て、丈六の仏像を造らせる 縁起
710 和銅3 元明、平城宮へ移る 続日本紀
711 和銅4 大官大寺焼亡 扶桑略記



716 霊亀2 (大安寺を)平城京左京六条四坊へ移し建てる 続日本紀
767 神護
景雲1
高市郡高市里の古寺地西辺の田2町など、大和・摂津・山背の計6町の田を大安寺に献入する 類聚三代格
880 元慶4 百済大寺と「高市大官寺」の旧寺地である十市郡百済川辺の田1町7段160歩と高市郡夜部村の田10町7段250歩を、大安寺の願い出によって返還する。 日本三代実録
※ 縁起=大安寺伽藍縁起

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7.現在の吉備池廃寺跡

吉備池廃寺金堂基壇跡 吉備池廃寺塔基壇跡
金堂基壇跡 塔基壇跡
吉備池廃寺基壇跡 吉備池廃寺基壇跡
金堂基壇跡から塔基壇跡を撮影 対岸から右・塔基壇跡、左・金堂基壇跡

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8.古寺巡訪MENU

 
<更新履歴>2017/3作成  2018/1補記・改訂
吉備池廃寺