大安寺の前身寺は舒明天皇の百済大寺まで遡る
(1)寺伝
寺伝(「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」)によると、「聖徳太子が薨去の際、田村皇子(後の舒明天皇)に、「天下太平・万民安楽」の祈りの道場として平郡の地に建立した「熊凝精舎(くまごり)」を国の大寺とするよう遺言された。舒明天皇はその遺願により百済大寺を建立された。これが我が国最初の官寺となった。そしてその後この百済大寺は飛鳥の藤原京に移設され、呼称を「高市大寺」と変え、次いで「大官大寺」と改称された。この大官大寺は文字通り、飛鳥時代の国家鎮護の中心寺院として栄えたが、平城京遷都に伴い今日の地に移建され、寺名は「大安寺」と改称された。」と伝えている。
(2)百済大寺の創建時期と創建場所
果たして聖徳太子の遺言および熊凝精舎が史実かどうか、その信憑性はともかくとして、舒明天皇により建立が開始され、これを持統天皇が引き継ぎ百済大寺を建立したのは史実である。ではこの百済大寺はいつ、どこに建てられたのか過去諸説があったが、平成9(1997)年、奈良文化財研究所が桜井市吉備の吉備池廃寺跡を発掘調査した結果、巨大な法隆寺式伽藍の寺院跡であることが判明、これが舒明11年(639)頃建立が着手された百済大寺であることが現在最も有力な説となっている。
(3)二つの大官大寺・・・天武天皇創建の大官大寺 と 文武天皇創建の大官大寺
- 寺伝にある聖徳太子の遺言云々・・はともかくとして、大安寺の前身は、大官大寺であり、その大官大寺の前身は百済大寺であることは諸資料で確認されている。
- しかし、この前身の大官大寺については、「天武天皇即位した年(672)に百済大寺が高市郡に移され大官大寺と改称されたという大官大寺と、文武天皇が大宝2年大安寺司を任命し建立を開始したという大官大寺は、同一のものかそれとも併存し二寺あったのか」という点が未解明のままであった。
- そこで、この解明のため過去、発掘調査や研究が成されてきた。この結果現在、下記の通りのことが判明している
(4)百済大寺が高市郡に移され大官大寺と改称されたという大官大寺と文武天皇建立の大官大寺は別物
- これには明確な答えは出ていないのが現状であるが、「藤原京」中公新書著者木下正史氏は、「天武天皇が移建した高市大寺は「近年、香久山西北麓の【木之本廃寺」が、天武朝大官大寺の有力候補として急浮上している。遺構は全く確認できていないが、通常の軒瓦よりひとまわり大きい軒瓦の出土によって、巨大な堂塔を備えた大寺の存在を予想させるからである。」と述べておられる。
- 平城京大安寺の建立開始時期は霊亀2年(716)である。ところが日本書紀には文武天皇建立の大官大寺は和銅4年(711)に焼亡したと記載されている。この日本書紀の記録は、昭和48年から57年頃まで行われた大官大寺跡発掘調査の結果、事実であることが判明している。即ち、平城京大安寺が建立開始された霊亀2年(716)には既に文武天皇建立の大官大寺は無かった。移建の対象となったのは天武天皇創建の大官大寺であったことが確定的となっている。
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4.創建時の伽藍配置(平城京移設後の大安寺伽藍配置)
(1)移設された場所
大安寺が建立された場所は、下図のとおり左京東四坊の六条大路を跨ぐ地である。なお、この地は、文武朝大官大寺の藤原京における位置をほぼ踏襲しており、これら官寺の移設が藤原京に於けるそれぞれの位置まで考慮していることがわかる。その広さは、約15町(1町=約120平方メートル)にもおよぶ広大なものであった。
平城京官寺の寺域比較
東大寺 50町
西大寺 31町
興福寺 20町
大安寺 15町
元興寺 15町
薬師寺 10町
(参考)平城宮 76町 |
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(2)国家最高位の寺として威容を誇った巨大な伽藍
和銅3年(710)平城京へ遷都され、藤原京の主要堂宇も移設されるが、大安寺もこれに従い霊亀2年(716)現在地において移建工事が開始される。当時、薬師寺が天皇家の寺、興福寺は藤原氏の寺であったが、大安寺は国家の寺であった。それも官寺の中でも最も格の高い国家の寺であった。そのために移設建立された大安寺は、下の復元模型の通り大官大寺(国家の大寺)の名に相応しい規模であった。即ち、寺院の広さは約265千uにおよび、金堂をはじめ90棟近くの建物があり、約900名の僧が居住し、東大寺が建立されるまで最大の伽藍を誇った。
なお、東大寺大仏開眼の導師を務めた僧として知られるインド僧 菩提僊那は大安寺の僧である。
(3)今までに無かった新しい伽藍配置−大安寺式伽藍配置−
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大安寺の伽藍配置は従来と大きく異なったいた。右図のとおり、先ず金堂の前に広い空地を持たせ、塔は飛鳥寺以降、全て廻廊の中に金堂とともに建てられたが、大安寺では回廊の外側に独立して建てられた。この伽藍配置は大安寺式と呼ばれ、これ以降建立される勅願寺(聖武天皇の東大寺、法華寺、孝謙天皇の西大寺、光仁天皇の秋篠寺)はこの伽藍配置が基本となった。
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大安寺建立を主導したのは道慈(注1)である。入唐僧である道慈は養老2年(718)に帰国し、大安寺建立に主導的役割を果たした。
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道慈は、建立にあたって基本伽藍配置を、唐留学僧時代に学んだ長安の「西明寺」の伽藍配置に求め、「大安寺縁起」によると、天平12年(742)完成させたという。
(注)道慈の略歴
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(天智10年(671) ? 生−天平16年(744)没
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大宝2年(702)遣唐使船で渡唐、長安の西明寺に入り、当時の唐仏教界の重鎮義浄(635-713)、道宣(596-667)等に学ぶ。
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在唐中にその才を認められて宮中で「仁王般若経」を講じる義学の高僧百人の中に選ばれ、皇帝からも厚遇されたと伝わる。
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養老2年(718)帰国(在唐期間17年)、藤原不比等にその豊富な知識を認められ日本書紀編纂に加わる。
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養老3年(719)11月 元正天皇より神叡法師と共に有徳者として食封50戸を賜る(続日本紀養老3年(719)11月1日)
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天平元年(729)聖武天皇、道慈を律師に任じ(続日本紀天平元年11月7日)、大官大寺を移造させる(扶桑略記)とある。 <目次へ戻る>
5.その後の変遷
道慈が唐から持ち帰った金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)は、仏教の力により国を安寧に治めるという鎮護国家思想を説き、仏教を篤く信奉する王のために四天王が天空から降りてきて王の治世を助けるとも説いた。この教えは、度重なる天変地異や反乱・謀反に苦しむ聖武朝廷に大いに受け入れられたことは言うまでもない。聖武天皇が主要な各地に国分寺を建立したのは、この金光明最勝王経に深く帰依した結果である。
このように奈良時代には国家筆頭の大寺として大安寺は隆盛を極めたが、平安京遷都後は律令制の崩壊とともに朝廷の庇護は次第に衰微していくこととなる。
それに加えて、949,1017,1041年の火災が追い打ちをかけ、南北朝時代には西大寺の末寺とまでになった。創建時の広大な境内も寺勢の衰えと共に人家が建ち、田畑化され、現在の南大門跡地から旧金堂の手前までの狭いものとなった。
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6.特記事項
□大安寺の前身寺である天武朝大官大寺(百済大寺)は、吉備池廃寺 のページをご参照ください
□大安寺の前身寺の一つである文武朝大官大寺は、大官大寺跡 のページを設けています。ご参照下さい
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7.現在の境内
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