飛 鳥 寺
(あすかでら)
飛鳥寺
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.飛鳥寺完成と豪族たちの衝撃
6.その後の変遷
7.特記事項
8.現在の境内
9.古寺巡訪MENU

1.所在地
奈良県高市郡明日香村飛鳥682 駐車場:寺院の前にあり
2.宗   派
現在の寺院、安吾院の宗派:真言宗豊山派
3.草創・開基
(1)建てたのは蘇我馬子。その建立目的は?
 用明2年5月、蘇我馬子は政敵であった物部守屋を河内で倒した。この戦いには聖徳太子も蘇我氏の陣営にあった。この結果、蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収めることになるが、それを確固たるものにするためにその強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させる必要があった。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたものがある。それは人が驚きその力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物の造立である。それがこの飛鳥寺である。完成には下記のとおり約21年を要した。
       ・崇峻元年(588)造営開始、
       ・推古4年(596)、一応の完成を見せ、馬子は息子の膳徳を寺司に任命し、僧を居住させる
       ・推古13年(605)、本尊の鋳造開始。高麗国、大興王から黄金三百両送られる。
       ・推古14年(606)、本尊完成し金堂に安置し完成する
    ・法号は法興寺または元興寺
  (以上は、日本書紀による。しかし、和田萃著「飛鳥」では「「元興寺縁起」にある史料で は推古17年4月丈六仏像完成とあり、今日では推古17年(609)完成説が定説となっている。」と記述されている)
(2)飛鳥寺は我が国最初の仏教寺院
飛鳥寺は当時の朝鮮半島の先端技術によって建立された本格的な伽藍をもった我が国最初の仏教寺院である。

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4.創建時の伽藍配置
(1)伽藍配置
飛鳥寺(法興寺)伽藍配置図  1956-57年に行われた発掘調査で、伽藍配置は右の伽藍配置図のとおり、南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、更に塔の東西に金堂を配置するという「一塔三金堂」式伽藍であったことが判明した。
  この結果、四天王寺式伽藍配置が我が国で最も古いとされていた定説を覆すこととなった。
  なお、この伽藍配置は高句麗の寺院跡にその例が見られるといわれ、当時の朝鮮半島の寺院建立形式が色濃く反映されているという。
 (注)右の伽藍配置図のように、飛鳥寺の西門は正門である南門よりも大きく、壮大な門であったことが発掘調査で明らかになっている。その理由は、飛鳥寺の西には、飛鳥(京)のランドマークともいうべき「槻の樹広場」があったためであろうと推定されている。なお、右の図は同朋出版刊・文化庁文化財保護部史跡研究会編「図説日本の史跡 第五巻古代2」を参考に作成した。
(2)建築技術は古代朝鮮半島の先端技術が導入された
  飛鳥寺は、蘇我氏と結びつきが強かった渡来人に繋がる朝鮮半島の百済国などから6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと記録(日本書紀)にあり、彼らの指導の下に建立されたと考えられている。また、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧・恵慈など、既に日本に渡来していた僧もその指導に加わっていたであろうとも推測されている。
創建時の伽藍配置鳥瞰図(明日香村作成)
飛鳥寺伽藍復元図 
(3)伽藍規模
  発掘調査の結果、飛鳥寺の寺域は、南北293m、北辺215m、南辺260mの台形であったことも明らかになっている。

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5.飛鳥寺完成と豪族たちの衝撃・・・飛鳥寺は日本仏教の先導者となる
(1)飛鳥寺完成と豪族たちの衝撃
以上のように蘇我馬子によって日本最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺が推古四年(596)に完成した。完成した飛鳥寺には今まで見たことも無い大陸文化が凝縮され具現化されていた。これに当時の有力豪族たちを魅了されたのであろう。飛鳥寺完成以降に有力豪族が競って寺院を建立した。それら豪族の氏寺として建立された寺院は凡そ以下のとおりである。
国名 寺院名  後援者  寺院名  後援者 
大和  斑鳩寺  聖徳太子   横井廃寺  中臣連 
 豊浦寺  聖徳太子   法輪寺  膳臣
 法起寺  聖徳太子  巨勢寺  巨勢臣
 中宮寺  聖徳太子  平郡寺  平郡臣
 奥山久米寺  久米臣   御所増廃寺  不明 
 葛木寺  葛城臣   片岡王寺  大原史
 軽寺  軽臣   豊田廃寺  東漢値
山城 高麗寺  狛造  北野廃寺(白梅廃寺)  秦造
河内 渋川寺  物部連  衣縫廃寺  衣縫造
新堂廃寺  錦部造
摂津 四天王寺  聖徳太子
出典;2010.6.18発行KKベストセラーズ刊 武光誠著「教科書が教えてくれない「奈良」歴史の謎」P83

(2)飛鳥寺は日本仏教の先導者となる
 このように飛鳥寺完成を契機にして、仏教は当時の支配者層である豪族へ急速に広がりを見せ興隆した。飛鳥寺はその興隆の常に中心にあってそれを支え、或いはその先導者として大変重要な役割を果たしたのである。
 即ち、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧恵慈や、完成時に来朝した百済の高僧恵聡などがこの寺に住して本格的な教学研究の場となった。下って推古天皇33年(625)高句麗僧恵灌が来朝して法興寺に入り三論宗を講説して我が国に初めて体系的な仏教教学を伝へ、さらに斉明天皇7年(661)当寺の僧道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識説(法相宗)を初めて伝えている。さらに下って天平期には当寺 (平城京元興寺)の僧智光が三論宗の「空」の概念から 、後の浄土思想の源流となる観想浄土系の浄土思想を独自に展開した。これらの史実が示すとおり、三論宗や法相宗を初めとする日本仏教はこの寺から全て出発し発展した。まさに日本仏教のルーツはこの法興寺にあるといえる。
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6.その後の変遷
(1)乙巳の変と飛鳥寺・・・蘇我本宗家の氏寺から官寺へ
 飛鳥寺は、乙巳の変以降は滅亡した蘇我本宗家の氏寺から官寺的性格を有する寺へと変わり、養老2年9月(718)平城京に移され元興寺なるまでの間、飛鳥、藤原京時代を代表する我が国仏教教学の中心寺院であった。
(2)乙巳の変
 推古34年(626)、蘇我馬子が没しその子蝦夷が本宗家を継ぐが、その17年後の皇極2年(643)11月、蝦夷の子入鹿が斑鳩の上宮王家を襲撃させ、ことごとく一族を滅亡させるという大事件がおこる。これを契機に専横著しい蘇我本宗家への反発を強めていた皇親、本宗家以外の蘇我氏などの豪族らがさらに離反し、蝦夷・入鹿は孤立化を深め、そして遂にその2年後の皇極4年6月、入鹿は飛鳥板蓋宮において謀殺される。乙巳の変である。

(注1)上宮王家:聖徳太子の遺子で有力な皇位継承資格者であった山背大兄王一族
(注2)飛鳥板蓋宮: 下の画像は、飛鳥寺からの南にある「飛鳥板蓋宮」の大井戸跡である。推古天皇から持統天皇までの7世紀の100年の間、歴代天皇の宮殿はこの飛鳥の地に建てられてきた。この遺跡の発掘調査でも更に下層にも遺構が確認されており、果たしてこの大井戸が飛鳥板蓋宮のものであるか否かは未確定という。しかし板蓋宮はこの位置付近であったことはほぼ確実と推定されている。なお、下の写真の後方に見える丘は甘樫丘である。
 「飛鳥板蓋宮」の大井戸跡
飛鳥板蓋宮跡

蘇我入鹿首塚(注3)入鹿の首塚: 入鹿の首塚は西門から約100m西にある(右画像)。入鹿は皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される。乙巳の変である。伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600〜650m離れたこの地まで飛び、入鹿の超人的な首飛翔に恐れおののき、その祟りを祓うために首塚が建てられたという。
(3)飛鳥寺に置かれた中大兄皇子と中臣鎌足等の陣
 入鹿を謀殺した中大兄皇子と中臣鎌足等は、直ちに飛鳥寺に陣を構え蘇我本宗家の逆襲に備える。蝦夷・入鹿の館は飛鳥寺の西を流れる飛鳥川を挟んだ甘樫丘にあった。そのため飛鳥寺は蘇我蝦夷等の動きを察知しこれを封じるには最適な場所であった。だが、蝦夷は頼りにしていた腹心の高向臣国押(たかむくのおみくにおし)や漢直(あやのあたい)等が武器を捨てて逃亡したために、なすすべ無く館に火を放ち自沈するというあっけない結末で収束し、ここに蘇我本宗家は滅亡する。
飛鳥「京」における飛鳥寺などの位置関係
飛鳥京主要施設図
(甘樫丘展望台に掲示されているパネル写真より作成)
(4)平城京遷都と飛鳥寺
 和銅3年(710)藤原京から平城京に遷都され、当時の大寺も順次移された。薬師寺、藤原氏の私寺厩坂寺(興福寺)、大官大寺(大安寺)がそれである。飛鳥寺は遅れて養老2年9月(718)に平城京に移され法号は元興寺と変更された。そして、飛鳥寺の伽藍はそのまま残されて寺院としても存続し、平城京元興寺に対して本元興寺と呼ばれた。
(5)本元興寺(飛鳥寺)の変遷
 平城京遷都後もよくその法灯を守った元元興寺で会ったが、平安時代前期の仁和3年(887)と建久7年(1196)の火災によって伽藍が焼失し、室町時代以降は廃寺同然となった。
 江戸時代の寛永9年(1632)と文政9年(1826)に、旧金堂の跡に小寺院が再建され「安居院」と称した。この小寺院が現在に至っている。(出典:飛鳥寺配布「飛鳥寺」)

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7.特記事項
 (1)飛鳥寺と「槻の樹の広場」
 飛鳥寺西門と甘樫丘との間には、槻 (欅=ケヤキ)の巨木を中心とした広場があった。この広場は日本書紀に度々登場し、ここで外国使節の饗宴など、さまざまな国家的儀礼が執り行われ、「槻の樹の広場」と呼ばれる飛鳥「京」の象徴的な空間となっていた。その広さは、飛鳥寺西側に南北200メートル、東西120メートルの範囲であったろうと推定されている。
 よく知られる中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会ったところである。そしてこの二人による乙巳の変では中大兄皇子側の陣が置かれ、更に下って壬申の乱の際にはこの広場に大友皇子の本陣が置かれ兵士で埋め尽くされたなど、飛鳥をめぐる重要な歴史の転換点に度々登場する。また、甘樫丘には蘇我蝦夷、蘇我入鹿の居城があった。
槻の樹の広場
槻の樹広場
(注)「槻の樹の広場」であることが発掘調査で裏付けられる(2013年1月)
 2013年1月に明日香村教育委員会が、従来より槻の樹の広場と推定されていた飛鳥寺西方遺跡の発掘調査結果を下記のとおり公開した。これにより、この地が推定どおり「槻の樹の広場」であることがほぼ確定的になったといえる。発掘調査にあたられた方々の地道な努力に心から敬意を表したい。
   飛鳥寺西方遺跡の調査
「(前略)今回の調査の結果、飛鳥寺西門付近から以南では砂利で覆われた広場が広がっていたことが明らかになりました。これらの時期は、飛鳥時代の後半、つまり7世紀後半代と考えられます。また、調査区内では、建物に伴う柱穴は確認できませんでした。これまでの調査成果からみても、飛鳥寺西方地域は、建物が希薄な地域であったと考えられます。
 よって、この遺跡が「槻の樹の広場」に相当する可能性が高いといえます。今後の調査によって、飛鳥寺西にあったといわれる槻の樹の広場が具体的にどのような姿をしていたか、より鮮明となってくるでしょう。」
出典:「広報あすか」に掲載された明日香村教育委員会開催説明会資料より抜粋
(2)飛鳥寺と飛鳥四大寺
飛鳥四大寺とは、大官大寺薬師寺本薬師寺)、元興寺(飛鳥寺)弘福寺(川原寺)の四寺を指す。これは、続日本紀大宝二年十二月二十五日「斎会(持統太上天皇の)を四大寺(大官大寺、薬師寺、元興寺、弘福寺)で行った」との記載に基づいている。

(3)本尊の飛鳥大仏(釈迦如来座像)
・日本最古の仏像(大仏の鋳造は推古天皇17年(609年))
飛鳥寺配布の「飛鳥寺」によると、推古天皇17年(609年)に鞍作鳥(止利仏師)によって、高さ3mで、当時銅15t、黄金30kgを用いて造られたとある。

・多くの苦難を乗り越えた大仏さま
この飛鳥大仏は、鎌倉時代の建久7年(1196年)の火災によって大きく破損し、その後に修復されたものの、頭部と右手指の一部のみが創建当時のままであるという。

・日本最古の仏像であると判明しているにも拘わらず国宝には指定されいない不思議
また、この飛鳥大仏は、鋳造年が判明している仏像の中で、日本最古の仏像といわれながら国宝には指定されていない。 その理由は、上記(2)の通り大部分が後世の作だという。

・大仏さまは、アルカイックスマイルとアーモンドに似た目
本尊の飛鳥大仏は、飛鳥彫刻の最高傑作と評価されている。
そしてお顔には口元に僅かながら微笑みを浮かべておられる。この微笑みは、遠く古代ギリシャのアルカイックスマイルと呼ばれている。

(3)寺名の変遷
飛鳥寺の法号には、平城京遷都以前の法興寺と遷都に伴い移転後の元興寺の二つの呼称がある。
また、安居院(あんごいん)は、江戸時代に旧金堂跡に建てられ、現在も続く寺院の公称名である。

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8.現在の境内
現在の正門
飛鳥寺 門
  本堂
飛鳥寺本堂
 この東面する門が現在の正門。創建時は無論南面に正門があった。   本堂、ここに飛鳥大仏は安置されている。創建時に、ほぼこの位置に中金堂があった。
 現存する本堂は江戸時代の文政8年(1825)に建てられたもの。
     
塔跡表示柱
飛鳥寺塔跡
  釈迦如来座像(飛鳥大仏)
飛鳥大仏像
 塔跡を表示する標柱。この地下2.7mのところに石礎があった。発掘調査によってこの心礎から舎利の他、他種類の埋納品が発見された。   (1)本尊の飛鳥大仏(釈迦如来座像)。
飛鳥寺配布の「飛鳥寺」によると、推古天皇17年(609)に鞍作鳥(止利仏師)によって、高さ3mで、当時銅15t、黄金30kgを用いて造られたとある。

(2)この飛鳥大仏は、鎌倉時代の建久7年(1196年)の火災によって大きく破損し、その後に修復されたものの、頭部と右手指の一部のみが創建当時のままであるという。
(3)また、この飛鳥大仏は、鋳造年が判明している仏像の中で、日本最古の仏像といわれながら国宝には指定されていない。 その理由は、上記(2)の通り大部分が後世の作だということによっている。

(2)本尊の飛鳥大仏は、飛鳥彫刻の最高傑作と評価されている。
そしてお顔には口元に僅かながら微笑みを浮かべておられる。この微笑みは、遠く古代ギリシャのアルカイックスマイルと呼ばれている。
   
西門基壇址
飛鳥寺西門跡
写真中央にある二段の石垣が組まれたところに当寺院の西門があった。
 

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9.古寺巡訪MENU
<更新履歴> 
   2010/9新規作成  2012/08改訂  2012/10補記改訂  2013/3補記改訂  2013/9補記改訂  2016/1補記改訂  2016/6補記改訂 
   2018/10補記改訂 2019/6補記改訂 2020/11補記改訂
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