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(1)元興寺・極楽坊 |
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東門
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極楽堂
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この門は東大寺西南院から室町初期の応永年中(1394-1428)に移設されたもので重要文化財に指定されている。 |
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創建時、僧坊であった東室南階大房を12世紀後半に東側二房分が分離され堂となり、さらに鎌倉時代初期の寛元2年(1244)に大改造が行われ現在の阿弥陀堂形式の堂となった。 |
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極楽堂と禅室
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禅室
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禅室は、極楽堂の真裏に建っている。
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切り離され残った僧坊は、極楽堂と同様に鎌倉期に興隆した禅宗の禅室に改造された。 |
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屋根瓦
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地蔵石仏と千塔塚
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極楽堂、禅室の屋根は、行基葺きと呼ばれる天平時代の様式で葺かれ、使用されている丸瓦には、飛鳥から移築された瓦が一部現役で使用されていることで有名である。 |
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平安京への遷都、加えて兵火で衰退したこの元興寺極楽坊を救ったのは智光曼荼羅を中心とする浄土信仰をはじめ、地蔵信仰、聖徳太子、弘法大師崇拝などの庶民信仰で有ったと言われている。その庶民信仰の「多数作善」を示すものの一つがこの境内にある地蔵石仏と千塔塚で、その他、庶民信仰研究の貴重な資料が当寺院には多数残されていることでも知られている。
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(2)元興寺・観音堂/塔跡 |
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まさに民家に埋もれて五重塔跡の元興寺がある。右の石塔には「史跡 元興寺塔跡」とあり左の小さい石塔に元興寺とある。本来大きさは逆だろうと思うが、残念ながら現状の元興寺の姿をよく反映している。
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元興寺(観音堂)門
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五重塔土壇と礎石
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室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆による出火でも観音堂とこの五重塔は残ったが、江戸末期の安政6年(1859)の大火で焼失。今は土壇と礎石が残るのみである。塔の高さは、57mあったというから興福寺五重塔より高く、南都七大寺
元興寺に相応しい塔であったことだろう。 |
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(3)元興寺・小塔院 |
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小塔院は、称徳天皇が恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)による戦没者の供養を目的に建立したという。建立された場所は、南大門を入り、右手の大塔院(東塔院)とは対称の位置であった。院内には、礼堂を持った小塔堂を中心に檜皮葺の三棟および門屋の建物があった。
なお、現在極楽坊にある五重小塔はこの小塔院に安置されていたと推測されている。
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小塔院への進入路
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小塔院門
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鳴川町の通りからこの路地のような道を入って行くと小塔院の入り口に至る。 |
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門に「真言律宗小塔院」との表札が掲げられている。 |
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虚空蔵堂
この堂は江戸時代の宝永4年(1707)に仮堂として建立された。当時は瓦葺きであった。
本尊は木像虚空菩薩座像。 |
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護命僧正供養塔
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護命僧正は、奈良時代から平安初期の南都仏教を代表する元興寺法相宗の学僧である。この小塔院に居住した。
護命は、比叡山の最澄が天台宗の戒壇院設立に際して、当時僧綱の上首として強力な反対運動を起こした南都の学僧としてもよく知られている。 |
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