元 興 寺
(がんごうじ)

元興寺東門
Contents

1.所在地 
(1)法興寺の盛衰と三つの元興寺
 平城京の官寺は平安京遷都後朝廷の庇護が弱り次第に衰微していくが、当寺院も同じ道を歩む。そしてその衰退が決定的になったのは室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆によって出火し、主要堂宇のほとんどが焼失してしまったことである。焼け残ったのは、五重塔、観音堂、極楽坊のみであった。その後金堂が再建されるがこれも台風により倒壊し、その後一つの伽藍として再興されることなく寺地は荒廃した。そこに町家が次第に進出し始め、元興寺は進出した町家の中に埋もれるように観音堂・五重塔、焼失後仮堂を建て復興に努めた小塔院、極楽坊の三つに分かれ存続することとなった。そして、この三寺の中で東大寺より支援を受けた五重塔を擁した観音堂が元興寺を称した。
(2)三つの元興寺の所在地
元興寺・極楽坊         奈良市中院町11      真言律宗
元興寺・観音堂/塔跡         奈良市芝新屋町12     華厳宗
元興寺・小塔院         奈良市西新屋町45     真言律宗

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2.宗派
元興寺・極楽坊  真言律宗   元興寺・観音堂/塔跡 華厳宗   元興寺・小塔院 真言律宗
3.草創・開基
(1)草創・開基
平城京に於ける元興寺の位置 元興寺は平城京遷都によって718年に飛鳥にあった飛鳥寺を現在地に移された官寺である。
  飛鳥寺の創建については「日本書紀」に異例なほど詳細に記載されておりよく知ることができる。
崇仏派であった蘇我馬子は、崇峻天皇元年(587)政敵であり廃仏派であった物部守屋を倒し、全権力を手中に収めた。そして、その翌年の588年に馬子は己の権力を誇示するために飛鳥の地に我が国初の本格的な寺院の建立を計画する。この建立計画に対して、蘇我氏と結びつきが強かった百済国から6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などが派遣され、造立を開始。その後8年の時を要して596年これを完成させた。これが元興寺の前身である法興寺(飛鳥寺)である。

2)平城京遷都により法興寺(飛鳥寺)も移される
和銅3年(710)藤原京から平城京に遷都され、当時の大寺も順次移された。薬師寺、藤原氏の私寺厩坂寺(興福寺)、大官大寺(大安寺)がそれである。 法興寺は遅れて養老2年9月(718)に現在地に移され元興寺となった。移された場所は、上の図のように平城京の東七坊の三条大路と四条大路を跨ぐ所である。寺域は約15町(1町=約120平方メート)であった。現在、観光客が賑わう「なら町」が、ほぼこの元興寺の寺域であったことがこの図でもよくわかる。

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4.創建時の伽藍配置
(1)創建時の伽藍配置
元興寺創建時の伽藍配置図平城京遷都に伴い移設された官寺の伽藍配置を元興寺も踏襲し、中心伽藍である金堂、講堂を回廊で囲い、その南の東西隅には五重塔と小塔院という宗教施設を置き、北側には僧坊を、さらにその北側には大衆院などの寺院経済を支える各院を配置していた。
(2)創建時の寺域 (その他の平城京官寺との比較
東大寺 50町
西大寺  31町
興福寺 20町
 大安寺 15町
元興寺 15町
薬師寺 10町
(参考)
平城宮   76町
       
(3)極楽坊の位置
 なお、現在、われわれが参拝することができる極楽坊は、右の図の青色の点線で囲った創建時の東室南階大房である。度重なる改築によって大きく変貌しているとはいえ、創建時建築物として貴重な建物である。
(4)観音堂(塔跡)と小塔院の位置
 また、極楽房から南に暫く行くと元興寺五重塔跡があるが、これが青い点線で円表示したところである。さらに、これを暫く西に真直ぐ進むと現在の小塔院に至る。図では創建時南西隅にあった小塔院である。

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5.その後の変遷(三つの元興寺の変遷 )
  • 元興寺観音堂(塔跡)は、東大寺末寺として又観音信仰にも支えられ存続するが、江戸末期の安政6年毘沙門町から出火した火に五重塔とともに焼失。
  • 小塔院は、江戸時代の元禄期に愛染堂、宝永4年仮堂が再建されるもの復興にいたらず衰微した。
  • 一方、極楽坊は、平安末期から盛んになる阿弥陀信仰によって、智光の曼荼羅を祀る寺として庶民信仰を集め、元興寺本来のものとは全く異なる元興寺極楽院として存続していくこととなる。
  • しかし、明治に入りこの元興寺極楽院も、神仏分離・廃仏毀釈によって朱印地は全て没収され西大寺預けとなり、この三つの寺は明治、大正時代には無住寺院化するまでに衰退してしまうこととなった。
  •  再建が図られたのは昭和に入ってからである。昭和10年に小規模ながら元興寺観音堂が再建された他、極楽院は戦後、奈良時代建築物遺構として又当寺院に残る庶民信仰の貴重な資料が見直され順次復興。今日に至っている。

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6.特記事項
(1)法興寺と日本仏教
 蘇我馬子によって596年に完成した法興寺(飛鳥寺)は、飛鳥時代の日本仏教の先導者となった。即ち、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧恵慈や、完成時に来朝した百済の高僧恵聡などがこの寺に住して本格的な教学研究の場となった。
 下って推古天皇33年(625)高句麗僧恵灌が来朝して法興寺に入り三論宗を講説して我が国に初めて体系的な仏教教学を伝へ、さらに斉明天皇7年(661)当寺の僧道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識説(法相宗)を初めて伝えている。
 さらに下って天平期には当寺の僧智光が三論宗の「空」の概念から 、後の浄土思想の源流となる観想浄土系の浄土思想を独自に展開した。これらの史実が示すとおり、三論宗や法相宗を初めとする日本仏教はこの寺から全て出発し発展した。まさに日本仏教のルーツはこの法興寺にあるといえる。

(2)その他
南都七大寺 飛鳥四大寺

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7.現在の境内
 
(1)元興寺・極楽坊
 

東門
元興寺東門

 

極楽堂
元興寺極楽堂

  この門は東大寺西南院から室町初期の応永年中(1394-1428)に移設されたもので重要文化財に指定されている。 創建時、僧坊であった東室南階大房を12世紀後半に東側二房分が分離され堂となり、さらに鎌倉時代初期の寛元2年(1244)に大改造が行われ現在の阿弥陀堂形式の堂となった。  
   
  極楽堂と禅室
元興寺極楽堂
  禅室
元興寺禅室
 
  禅室は、極楽堂の真裏に建っている。
 
  切り離され残った僧坊は、極楽堂と同様に鎌倉期に興隆した禅宗の禅室に改造された。  
   
  屋根瓦
元興寺極楽堂屋根瓦
地蔵石仏と千塔塚
元興寺石仏郡
 
  極楽堂、禅室の屋根は、行基葺きと呼ばれる天平時代の様式で葺かれ、使用されている丸瓦には、飛鳥から移築された瓦が一部現役で使用されていることで有名である。 平安京への遷都、加えて兵火で衰退したこの元興寺極楽坊を救ったのは智光曼荼羅を中心とする浄土信仰をはじめ、地蔵信仰、聖徳太子、弘法大師崇拝などの庶民信仰で有ったと言われている。その庶民信仰の「多数作善」を示すものの一つがこの境内にある地蔵石仏と千塔塚で、その他、庶民信仰研究の貴重な資料が当寺院には多数残されていることでも知られている。
 
 
(2)元興寺・観音堂/塔跡 
  まさに民家に埋もれて五重塔跡の元興寺がある。右の石塔には「史跡 元興寺塔跡」とあり左の小さい石塔に元興寺とある。本来大きさは逆だろうと思うが、残念ながら現状の元興寺の姿をよく反映している。  
     
 

元興寺(観音堂)門
元興寺

 

五重塔土壇と礎石
元興寺五重塔土壇跡

 
  室町時代の宝徳3年(1451)10月14日土一揆による出火でも観音堂とこの五重塔は残ったが、江戸末期の安政6年(1859)の大火で焼失。今は土壇と礎石が残るのみである。塔の高さは、57mあったというから興福寺五重塔より高く、南都七大寺 元興寺に相応しい塔であったことだろう。   
     
(3)元興寺・小塔院 
  小塔院は、称徳天皇が恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)による戦没者の供養を目的に建立したという。建立された場所は、南大門を入り、右手の大塔院(東塔院)とは対称の位置であった。院内には、礼堂を持った小塔堂を中心に檜皮葺の三棟および門屋の建物があった。
 なお、現在極楽坊にある五重小塔はこの小塔院に安置されていたと推測されている。
 
 
     
  小塔院への進入路
元興寺小塔院付近
  小塔院門
元興寺小塔院門
 
  鳴川町の通りからこの路地のような道を入って行くと小塔院の入り口に至る。    門に「真言律宗小塔院」との表札が掲げられている。  
         
  虚空蔵堂
元興寺小塔院虚空蔵堂
 この堂は江戸時代の宝永4年(1707)に仮堂として建立された。当時は瓦葺きであった。
本尊は木像虚空菩薩座像。
護命僧正供養塔
元興寺小塔院護命僧正供養塔 
 
   護命僧正は、奈良時代から平安初期の南都仏教を代表する元興寺法相宗の学僧である。この小塔院に居住した。
 護命は、比叡山の最澄が天台宗の戒壇院設立に際して、当時僧綱の上首として強力な反対運動を起こした南都の学僧としてもよく知られている。
 
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8.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2011/3 小塔院追加 2012/9 補記改訂 2015/12補記改訂 2020/11補記改訂
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