藤原京・藤原宮跡

(ふじわらきゅうせき)


Contents
1.所在地
2.藤原京とは何か
3.画期的な岸俊男氏の登場・「藤原京条坊復元案」
4.その後の発掘調査進展によって各種の説が登場
5.小澤毅・中村太一氏の大藤原京説の登場
6.大藤原京説の概要
7.現段階での藤原京全体像の解明状況
8.なぜ藤原京は造営されたのか(日本最初の都城・藤原京造営の背景 )
9.造営時期はいつ頃か
10.わずか16年で廃都となった藤原京
11.その他
12.古寺巡訪MENU

1.所在地
奈良県橿原市高殿町

(行き方)近鉄大和八木駅から橿原市コミュニティバス昆虫館行に乗車、「橿原市藤原京資料室前」にて下車(約所要時間20分)同バス停より徒歩2分

(現地の状況)
(1)藤原宮跡は、橿原市高殿町にあり、藤原宮にあった大極殿基壇跡を残すのみである。この基壇跡の前は「史跡」として保存されている広大な更地が広がり、今でもその所々で発掘調査が断続的に行われている。

(2)この大極殿基壇跡の前にあった大極殿院と朝堂院を区切る大極殿院閤門に立って周囲を見渡すと、北には耳成山、東には天香久山、西には畝傍山の大和三山を見ることができる。日本書紀は、684年「天皇は、京師を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた」と記述している。

(3)これが現在の藤原宮跡なのかどうか確実なことは言えないが、この視線を妨げるものが一切無い、この広大な史跡に立って美しい周囲の風景を遠望していると、この地がなぜ選ばれたのか、理由もなくわかったような気がしてくる。基壇以外に何もないが、遠い古の世界に思いを馳せるには格好のロケーションを備えた史跡である。

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2.藤原京とは何か
藤原京とは、人為的計画的に造られた日本最初の人工都市である。この都市開発に際しては、朝鮮半島の都城、または5-6世紀中国の北魏の洛陽城、南朝東晋以後の建康城(現在の南京)、あるいは中国の古典「周礼」孝工記に記述されている王城としての「理想の都城」等をモデルとしたのではないかと考えられている。

それでは、それらモデルをベースとする「藤原京基本設計図」は、如何なるものであったのか。残念ながら未だ確定的なことは判明していないが、発掘調査結果や文献資料から、過去、様々な説が展開されている。以下、その代表的な説を紹介したい。
(注)都城とは
  「都城とは中国において城壁に囲まれた都市の意とされるが、中国都城を模倣して建設した日本古代の都城は城壁により囲まれるようなものではなかった。それ故に日本古代の都に都城の用語を使うことをためらう研究者いるほどである。(中略)都城は皇帝(天皇)と官僚たちの居住地のために造られた都であり、左右対称の整然たる計画都市である」吉川弘文館刊 国史大事典編集委員会編「国史大辞典第七巻」より
(注)「藤原京」という名称について
 日本書紀では、新城、新益京、藤原宮という記載はあるが、「藤原京」という名称は見られない。それでは何故に[藤原京」と呼称されるようになったかであるが、最初に「藤原京」と呼称したのは、大正時代から昭和初期にかけて藤原宮の研究で知られる歴史学者・喜田貞吉氏である。同氏は藤原宮の位置そしてその都の範囲などをわが国で最初に体系的に研究された歴史学者で、その論文の中でその都を「藤原京」と名付け、これ以後学会の中で定着した

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3.画期的な岸俊男氏の登場「藤原京条坊復元案」
(1)解明を困難にした平城京遷都後の藤原京の条里制による田畑化
果たして藤原京とはどのよう条坊であったのか、そしてその全体の大きさはどうであったのか。是非知りたいところであるが、しかしこの解明には平城京にはない困難な事情があった。なぜなら藤原京の条坊は、平城京遷都後に条里の施工が推し進められてほぼ完全に消し去られたという歴史があるからである。即ち田畑化したために、藤原京の条坊を知るためには発掘調査によってその傷跡を知る以外に方法がなかったのである。

(2)岸俊男説の登場-----発掘調査によって徐々に明らかになってきた藤原京
藤原京条坊復元図 岸説このために、文献研究や発掘調査が行われ多くの議論が重ねられ、徐々に明らかになってくるのだが、その画期となったのが、国道165線バイパス建設工事計画に伴って1966年(昭和41年)から行われた藤原宮跡発掘調査である。
この調査結果に基づき、この発掘調査を指導した一人である歴史学者岸俊男氏が1699年(昭和44年)に右のような藤原京条坊復元案を発表した。

(3)岸俊男説の藤原京の大きさ(範囲)
右の復元図のとおり、岸氏は大和の古道である南北に走る中ツ道・下ツ道と東西に走る横大路・上ツ道の延長線上にある山田道を基準にして条坊街路が敷かれたと考えられた。即ち中ツ道=東京極、下ツ道=西京極、横大路=北京極、山田道=南京極である。(中公新書 木下正史著「藤原京」を参考に作成)

(4)岸俊男氏説の街区の区画
そして街区の区画は、藤原京時代の大宝令の職員令(注)に、京内の行政を担当する組織として条坊ごとに坊長1名、左右京のそれぞれに坊令を12名を置くとの規定に注目し、藤原京は、東西四坊、南北十二条に区分する条坊制街区で構成されていたと考えられた。
(注)大宝令職員令:これは大宝令の実質上同一視できる養老令を指す。これには以下のとおりの記載がある。

○『養老職員令』左京職条
左京職 右京職准此。管一司。夫一人。(中略)亮一人。大進一人。少進二人。大属一人。少属二人。坊令十二人。使部人。直丁二人。

○『養老戸令』置坊長条
凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。(後略)これに従い計算すると次の通りとなる。
(総坊数)12×8=96坊 (左右京別坊数)96÷2=48坊 (左右京別坊令人数)48÷4=12人

以上の(注)は中村太一著「藤原京と『周礼』王城プラン」による。
(5)岸俊男氏説の一坊の大きさ
 中ツ道(東京極)と下ツ道(西京極)との間の距離が約2,118mあり、これは藤原京時代の尺度である令大尺の6000尺に相当し、これを東西8坊に分割すれば一坊の長さは750尺(6000÷8)となる。そして条街区は正方形であるから、一坊の面積は750尺×750尺であったとされた。(なお、750尺は約265mに相当する)

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4.その後の発掘調査進展によって各種の説が登場

この岸説は高い説得力・納得性ある藤原京復元説として広く受け入れられた。ところが以後の発掘調査が進むにつれて、岸説の再検討を迫る発見が相次いだのである。それは岸説では京外と考えた場所での岸説藤原京の各条坊道路の延長線上での条坊道路の発見である。

これら発見によって以後、様々な説が登場することとなったが、その諸説を中公新書刊、木下正史著「藤原京」では、以下のとおりに分類されている。
(1)外京説
岸説藤原京の外側に、外京としての「大藤原京」の存在を確定する。
(2)拡大説
まず岸説藤原京が成立し、後に手狭になったために、その外側に条坊街路・街区を増設して、「大藤原京」が成立した。
(3)本来説
当初から平城京に匹敵する規模、ないしはそれ以上の大面積を持つ「大藤原京」が建設された。

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5.小澤毅・中村太一氏の大藤原京説の登場

これら諸説が議論されているなか、これに終止符を打つ次の大きな発見があった。
(1)土橋遺跡の発見
平成7-8年にかけて行われた橿原市土橋町・中曾司町土地区画整理事業に伴う発掘調査で下の(図2)の一条南大路と西御坊大路の交点において、西御坊大路を終点とする条坊道路が発見された。
(2)上之庄遺跡の発見
同年に、今度は土橋遺跡の真東に当たる桜井市上之庄で下の(図2)の東五坊大路跡が発見された。
この二つの発見により藤原京の東西の京極がほぼ確定したのである。そしてこの結果に依拠した新たな復元案が登場する。「十条十坊の都城」説である。その代表的な説は小沢毅氏が提示した下の(図2)の「大藤原京復元図」である。 但し、同様の説は中村太一氏も発表されている。( 図2は中公新書 木下正史著「藤原京」を参考に作成)

なお、下図の赤点線で囲った部分が岸説の藤原京で、この大藤原京条坊復元説が、岸説と如何に顕著な相違があるかよくわかる。

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6.大藤原京説の概略

それでは小澤・中村氏等の大藤原京説とはいかなるものか、概略すると以下のとおりである。
(1)藤原京の範囲
大藤原京条坊復元図 小澤説   東西の京極を西を土橋遺跡、東の京極は上ノ庄遺跡とし、南の京極は秋山日出男氏説の北端を採用、北の京極は、後述する「京域は十里四方」であるとして、北端から十里を南の京極とする。(十里=約5.3km)

(2)街区の区画
 そして、岸説での大路は奇数条坊大路が偶数条坊大路より狭かった可能性に注目し、それぞれの条坊路を再検証された。その結果、それぞれは同一の条坊ではなく、偶数条坊道路が大路、奇数条坊道路が条間・坊間小路ではないかと結論づけた。これに基づき街区の区画割をやり直すと、一坊の一辺は一里となり、街区の区画は東西10坊×南北10坊であったする。
 また岸説と同様に、藤原京時代の大宝令の職員令に、京内の行政を担当する組織として条坊ごとに坊長1名、左右京のそれぞれに坊令を12名を置くとの規定に注目し、これを検証した。そして岸説の計算では藤原宮が占有している坊まで人員が含まれていると指摘し、下記のとおり東西10坊×南北10坊でも、この職員令に一致すると主張されている。
   (総坊数)10×10=100坊 (宮域を除いた坊数)100-4=96 (左右京別坊数)96÷2=48坊 
   (左右京別坊令人数)48÷4=12人
 

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(3)一坊の大きさ
藤原京一坊の大きさ
 上之庄遺跡(東京極)と土橋遺跡(西京極)との間の距離が約5.3kmあり、これは藤原京時代の尺度である令大尺の15000尺に相当し、これを東西10坊に分割すれば一坊の長さは1500尺(15000÷10)となる。そして条街区は正方形であるから、一坊の面積は1500×1500尺であったとされた(なお、1500尺は約530mに相当する)。従って条坊一辺は、岸説の条坊の一辺の二倍に相当する。これを図にしたものが右の(図3)である。(Nara Women's University Digital Information Repository林部均著「藤原京の条坊制‐その実像と意義‐」を参考に作成
(注)但し、各条坊内の各区画の実際の広さは、区画割りが各道路の中心と中心を基準によって行われているために幅員の大きい道路に面している区画と逆の場合では異なっていた。

(4)各条坊路の種類
 藤原京の条坊道路は、朱雀大路と古道である下ツ道、中ツ道を除くと、ほぼ三種類であったと発掘調査によって明らかになっている。即ち大路・条間路・小路の三種類である。そのそれぞれの道路幅は次のとおりである。
朱雀大路 24m 大路 16m 条間路 9m 小路 6.5m 
  これに対して後の平城京の条坊路は様々な幅員の異なる道路があり、その原因は、その用途や使用頻度等の実効性に照らして造られたからであろうと考えられる。だが、藤原京はほぼ三種類の道路によって画一的に造営された。このことからも藤原京の造営は必要性・実用性からプランされたものではなく、後述する周礼考工記の理想王城に見倣った理念先行形のものではなかったとする一つの理由として小澤・中村説では主張されている。

(5)小澤・中村説の特徴は「藤原京の設計プランは「周礼」考工記記載の理想的な都城を採用した」にあり
 小澤・中村説の特徴は、なんと言っても表題のとおり、「藤原京の基本設計プランは「周礼」考工記記載の理想的な都城を採用した」にある。これについて、次の通り、小澤氏自身が雑誌のなかで非常にわかりやすく述べられ、同時に自らの大藤原京条坊復元案の基底が何であるかを明らかにされているので参考にして頂きたい。
<参考> 小澤毅著「藤原京-律令制都城の誕生-」
 『藤原京のこうした形態は、平城京以後の都城とは大きく異なっており、時期の近接する中国都城にも類例を見ない。その反面、中国の古典『周礼(しゅらい)』考工記(こうこうき)の記述と多くの点が一致する。『周礼』は儒学で尊重された理念法典で、古代の中国では大きな影響力をもっていた。そこでは、都城の理想型として、正方形の都城の中央に宮をおき、一辺に3つずつの門を開くこと、前面に政治の場、後方に市を設けること、南北と東西に9本ずつの道路を交差させることなどが述べられる。藤原京の場合も、宮を中心とする正方形の京域をもち、京極を除いて縦横9本ずつの大路が通る。また、宮の周囲には各辺3つずつの門が開き、大極殿・朝堂は内裏の前面におかれていた。さらに、北面の門を通って市に行ったことを示す木簡から、宮の北方に市が存在した事実も判明している。藤原京の設計にあたって『周礼』が用いられたことは確実だろう。もちろん、そこには、現実の中国都城についての情報不足も大きく関係していたに違いない。遣唐使の派遣が669年から702年までの長期にわたって中断し、日本はその間、新羅経由での情報はあったものの、中国からの直接情報の途絶えたなかで、律令国家の建設に邁進した。こうした状況下で建設された藤原京は、『周礼』に記されるような中国都城の理想型に基づく、理念先行型の都城としての性格をもっていたと推定されるのである。』 出典:建設コンサルタンツ協会誌

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7.現段階での藤原京全体像の解明状況

以上のような研究推移を経て、現段階では小澤・中村説の「大藤原京」説が有力説とされている。だがこの説も確定的ではないことも事実である。京の南端に当たる十条大路の痕跡は未発見で、そもそもこの十条大路に該当する地域の多くが丘陵地であり、果たして存在したのかどうかさえ疑問視するなど、異論が多々ある。

残念ながら藤原京は遷都した時には未完成で、造営工事は続けられていたことは確実である。そして遷都後わずか16年で放棄されている。いわば未完の都市であったのではなかろうか。このことが今後も全体把握にとって難しいものとなる可能性があるが、研究者の方々の地道な努力で克服され、新たな発見・研究によって新説が登場するかもしれない。藤原京解明のさらなる進展に注目し続けたい。

その他---藤原宮の位置と大和三山
 藤原宮は、その地理的条件の良悪を占う風水思想と神仙思想によってその位置が決められたのではないかと考えられている。
 それは、日本書紀天武11年(682)3月1日に「小柴三野王(みののおおきみ)と宮内官大夫(みやのうちのつかさのかみ)らに命じ、新城に遣わしてその地形を視察させ、都を造ろうとされた」とあり、この「新城に遣わしてその地形を視察させ」とは、地理的条件が風水思想あるいは神仙思想に適っているか否かを視察させたことを意味することからである。また、平城京遷都に際しても、「続日本紀」に、このことがより具体的に述べられていることからも明らかであると考えられている。 
※「続日本紀」和銅元年2月15日元明天皇の詔
 「(前略)正に今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武の四つの動物が、陰陽の吉相に配され、三つの山が鎮護のはたらきをなし、亀甲や筮竹(ぜいちく)による占いもかなっている。 ここに都邑を建てるべきである。(後略)」
大和三山
天香具山 畝傍山 耳成山
 天香具山 畝傍山  耳成山 

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8.なぜ藤原京は造営されたのか (日本最初の都城・藤原京造営の背景 )
以上のように日本最初の都城・藤原京の全体像は連綿と続く研究・発掘調査によって明らかにされつつあり、現在、小澤・中村説が最も有力な説と見なされている。

それでは、この壮大な新都建設をなぜ計画し推し進めようと天武天皇は考えたのであろうか。それも天武天皇はこの新都計画に、即位してから崩御するまでの間中、大変な執着を見せているのである。それは日本書紀の記述からも充分に読み取れる。(参照「<参考1>日本書紀に見る藤原京への道程」) その理由は何であったのか。これも諸説あるが、以下の二点が主たるものであろうと考えられている。

(1)依然として流動化する東アジア情勢
 672年、壬申の乱に勝利した大海人皇子はその翌年に即位し、天武天皇が誕生する。天武帝は、兄である天智帝と同じく、唐に倣った天皇による中央集権国家の建設を目指し、これを強力に推し進めた。それは、天武帝にとって他に選択肢のない喫緊の課題であった。
 確かに「白村江の戦い」で大敗を期した天智天皇の治世は全体として戦時体制そのものであったが、唐と新羅が対立するに至ってからは唐・新羅連合軍が侵攻を受けるという直接的脅威は回避され、日本は徐々に平時体制へと移行しつつあった。しかし、大陸では強大な国家・唐が存在し、朝鮮半島では新羅が急速に勢力を拡大して半島における統一国家を樹立せんという勢いで成長するなど、依然として、東アジア情勢は流動的であった。いつ何時、再び脅威に晒されるかわからない情況に日本は置かれていたのである。
 従って、日本は新たな国家体制(律令制国家)を早急に整備して威容を示し、東アジアに於ける確固たる国として他の国に認めさせる必要に迫られていた。まさに国家の存亡にかかわる情勢下に日本はあったのである。
 律令制国家の根幹は言うまでもなく律令法典にある。天武10年(681)2月25日天武天皇は律令制定の詔を発して、日本初の本格的な律令法典の策定を急いだ。しかしながらその律令制国家を効率的に運用していく為には各政府機関の集中と、そこに従事する官僚・役人を集住させる巨大な都市が求められる。言うなれば律令法典はソフトウェア-であり都市はハードウェア-である。その両方が揃うことが律令制国家成立の要件である。同時並行して進められなければならない。
 そうしてこの巨大なプロジェクトは、天武天皇没後の持統3年6月飛鳥淨御原令が制定され、一方ではその舞台となる政治都市・藤原京造営へと突き進むこととなったのである。
 なお、飛鳥淨御原令は名のとおり「律」は伴っておらず、また「令」もほぼ隋・唐の令に倣うことよって策定されたために当時の国情に沿わない不完全なものであった。このため制定後も改訂・推考が重ねられ、遂に、藤原京遷都(694)から7年後の大宝元年(701)に日本初の律令法典・大宝律令制定へと結実、ここに天智・天武天皇の悲願であった名実ともに律令制国家の完成に至る。
(2)時代が求めた新都建設
 天武天皇は、天皇を中心にした新たな国家体制・中央集権国家建設を唐の律令制に倣った律令制国家に求めた。だがその律令国家を機能的・効率的に運営するためには、政治儀式場・役所・そこに従事する者たちの生活の場(住居・市場)を一定地域に集めることが不可欠であった。やはり飛鳥の地ではこれも不可能であったのである。即ち、飛鳥の地に代わる新たな政治都市の建設が必要であったのである。
  そして今ひとつの要素として、大和政権の肥大化があった。大和政権はこの頃既に九州から関東まで勢力は拡大し、その統治のための政府機構も年々膨張し、それを一箇所に集め効率的に運用する必要性が高まっていた。組織の拡大は即ちそこに従事する役人をはじめとする者たちも増加する。その者たちの住居も必要である。しかし既にこれは狭い飛鳥の地では賄いきれなかった。即ち、飛鳥に代わる都を時代が求めていたのである。
(注)律令制とは
「中国を中心とする東アジア諸国で行われた国家統治制度。中国では秦・漢の時代に律が発達し、令は補足的な法規であったが、西晋に律(刑事法)と令(行政法)が並立する法体系が確立し、南北朝を経て隋・唐に律令とそれを補う格式の法体系、いわゆる律令格式が整備され国家の骨格として重要な機能を果たす。(中略) 日本では7世紀後半の「近江令」「淨御原令」を経て8世紀初めに「大宝律令」が制定され「律令」法典が完成する。」    吉川弘文館刊国史辞典編集委員会編「国史大事典」第7巻

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9.造営時期はいつ頃か
(1)工事着手は天武5年(675)頃か
新都建設に関して日本書紀では、下記の<参考1>のとおり天武5年(676)にはじめて登場する。この新都建設計画は、実際に着工され、この頃、条坊区割工事もはじまったのではないかと考えられている。その理由は、藤原宮の下層から二期に渡る条坊道路跡が発掘されていることや、本薬師寺の下層からも条坊道路が発掘により確認されているからである。
なお、本薬師寺はよく知られているとおり、天武天皇が鸕野皇后病気平癒のため天武9年に発願して建立した寺院で、その寺域は、既に後の藤原京の条坊に沿って建てられていたことが明らかになっている。しかし、この工事は何らかの理由で中止された。その理由は「日本書紀」は伝えていない。

(2)天武11年(682)に工事は再開される
天武天皇は、中断していた都城の建設を天武11年(682)、同じ地に小柴三野王等を遣わして検分させ、工事を再開させる。そしてその二年後の天武13年3月には、都城にとって最も重要な宮殿建設地を決定し、以降、都城の工事は着々と進められた。
 ところが、天武天皇は二年後の天武15年(686)9月に崩御される。これにより都城建設は再び中断される。

(3)即位した持統天皇(鸕野皇后)が、天武天皇の意思を引き継ぎ都城建設を進める
天武・持統天皇陵天武天皇の有力後継者であった草壁皇子が持統3年(689)に急死したため、孫の当時7歳であった珂留皇子が即位するまでの中継ぎの天皇として鸕野皇后が持統4年(690)正月に即位する。持統天皇である。(右は天武・持統天皇が合葬されている檜隈大内陵)→

持統天皇は、即位した年の10月には早くも太政大臣である高市皇子に命じて「藤原の宮地」を視察させた。これには公卿百官も随行させている。これは新都建設工事再開について有力皇親や豪族の反応を探る為だったのかとも考えられるが、この二ヶ月後の12月には自らが「藤原の宮」を視察しているところをみると新都建設を是が非でも成し遂げるという強固な決意を皇親をはじめ有力豪族に誇示するためであったのであろう。

事実、翌年(691)10月には「新益京に地鎮の祭」を執行して内外に対し工事再開を宣言し、本格的な工事を再開に漕ぎ着けたのである。そして三年後、持統8年(694)12月に、ほぼ藤原宮を完成させ遷都を果たした。天武天皇の工事着手から数えて実に18年の時を経て新都計画は達成されたのである。

(4)日本書紀に見る藤原京への道程
西暦 日本書紀 日付  記述内容
676 天武05年 この年、新城(※1)に都を造ろうとされたので、区域内の公私ともみな耕作せず、荒れ地となった、しかし、結局、都を造ることは中止された
682 天武11年03月01日 小柴三野王(みののおおきみ)と宮内官大夫(みやのうちのつかさのかみ)らに命じ、新城に遣わしてその地形を視察させ、都を造ろうとされた
683 天武12年12月17日 都城や宮室は、一ヵ所だけということはなく、かならず二、三ヵ所造るべきものである。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。百寮の者はそれぞれ難波に行き、家の敷地を賜るようにせよ 
684 天武13年03月09日 天皇は、京師を巡行されて、宮室に適当な場所を定められた
690 持統04年10月29日 高市皇子は藤原の宮地を視察され、公卿百官がお供した
持統04年12月19日 天皇は藤原宮においでになり、宮地をご覧になった
691 持統05年10月27日 使者を遣わして新益京に、地鎮の祭をさせられた
692   持統06年01月12日 天皇は新益京の大路をご覧になった
持統06年05月23日 浄広肆難波王らを遣わして、藤原の宮地の地鎮祭をさせられた
持統06年05月26日 使者を遣わし幣帛を伊勢・大倭・住吉・紀伊の四ヵ所の大神にたてまつらせ、新宮のことを報告させた
693 持統07年08月01日 藤原の宮地においでになった
694 持統08年12月06日 藤原宮に遷都された
   (注)「新城」の解釈について
         「大和郡山市新木に比定する」説と「新しく都城を造るべき地」等の諸説がある。

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10.わずか16年で廃都となった藤原京
(1)わずか16年で廃都された原因
わが国最初の都城・藤原京は、和銅3年(710)3月10日(続日本紀)平城京へ遷都され廃都となった。何故これ程の短期に藤原京から平城京に遷都されたのであろうか。その原因について諸々の研究されているがそれらを列挙すると以下のとおりである。
  • (ⅰ)汚水処理の不具合による疫病の多発など都市問題の深刻化
  • (ⅱ)慶雲元年(704)7月に帰国した遣唐使が持ち帰った唐・長安城の最新情報と藤原京との落差への衝撃
  • (ⅲ)藤原不比等による藤原氏一門による朝廷に於ける権勢増大策の一貫として遷都を主導した
これらのうち私は(ⅲ)の藤原不比等説が最も当を得たものではないかと考えるがどうであろうか。その理由は以下のとおりである。
(2)最大の理由は、藤原不比等の藤原一門の権勢安寧・繁栄のための布石か
 不比等は、当時既に絶大な権勢を手中に収めていた。しかしそれは不比等の政治家としての抜きん出た個人の資質に負うところが大きく、不比等亡き後の藤原氏一門の先行きは悲観的要素に満ちていたのである。それは、不比等の専制に反発する皇親勢力や名門貴族の存在である。これら反藤原勢力をどう押さえ込むか、この難題解決を抜きにして不比等亡き後の藤原一門の繁栄はあり得ないことであった。

 長年政権の座にあって権謀術策に長けた不比等である。その唯一の解決策は、「天皇の外戚になること」、不比等の答えである。このための布石は既に打ってあった。娘・宮子が文武天皇との間で生んだ首皇子である。即ち、己の孫である首皇子(聖武天皇)を確実に即位させることである。

 首皇子即位に向けて、必ず障害となる皇親勢力や名門貴族。彼らをどう従わせるか。従わせるには、藤原氏の権勢を誇示し畏怖させる必要があった。このための方策を不比等は心血を注いで考えた。

 この時に浮上してきたのが、藤原京の都市問題の深刻化や、唐・長安城との大きな齟齬があるとの帰朝した遣唐使等のもたらした情報である。不比等は、この千載一遇の好機を見逃さなかった。遷都である。藤原京を捨て、不比等主導で新都をつくり、遷都することである。

 続日本紀和銅元年(708)二月十五日元明天皇は平城京遷都の詔を発するが、そのなかで「宮室を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする、ということばがある。遷都のことは必ずしもまだ急がなくてよい。」と述べた後で、「ところが王公大臣はみな言う」と続け、結論として「ここ(平城)に都邑を建てるべき(中略)、秋の収穫の終わるを待って、路や橋を造らせよ」と、何とも歯切れの悪いものとなっている。これは藤原不比等等の圧力に抗しきれなかった元明天皇が、心情の一端を言外に伝えたかった結果の詔とも読める。

兎に角も和銅3年(710)3月10日平城京へ遷都され、藤原京は廃都となった。
11.その他
(1) 大極殿院閤門について 
藤原宮跡  大極殿院閤門は、大極殿院と朝堂院を区切る門である。正面約30m側面約25m有ったと推定されている巨大な建物である。なお、右の写真の赤い列柱は、この大極殿院閤門跡を視覚的に示すために現地に設置されており確認することができる。

(2)藤等京に関連するページは次ぎのとおりです。ご参照下さい。        本薬師寺      大官大寺
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12.古寺巡訪MENU

(参考図書)講談社学術文庫宇治谷孟著「全現代語訳日本書紀(下)・同「続日本紀現代語誤訳(上)」・中公新書 木下正史著「藤原京」・Nara Women's University Digital Information Repository林部均著「藤原京の条坊制‐その実像と意義‐」・中村太一著「藤原京と『周礼』王城プラン」・建設コンサルタンツ協会誌小澤毅著「藤原京-律令制都城の誕生-」・岩波新書吉川真司著[飛鳥の都」・柳原出版刊橿原市教育委員会奈良県立橿原考古学研究所著「藤原京100のなぞ」・中公新書千田稔著「平城京遷都」

<更新履歴>2013/01作成  2013/07改訂  2015/12補記・改訂 2018/10補記改訂 2020/11補記改訂
藤原京・藤原宮跡