橘 寺
(たちばなでら)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

1.所在地
 奈良県高市郡明日香村橘532番地
橘寺本堂と黒駒    
2.宗派
   天台宗 ( 創建時:法相宗 )
3.草創・開基
梅原猛氏が著書「飛鳥とは何か」のなかで「飛鳥の寺のうちでもっとも分からない寺は、橘寺であろう。橘寺は正史と寺伝とが大きく食い違う寺である。」と述べておられるが、寺伝と「正史」を並記すると以下の通りである。
 【寺伝】
  • 聖徳太子は、欽明天皇の別宮があったこの地で誕生された。
  • 当寺院は、推古天皇が発願され、聖徳太子にこの地に寺院建立を命じられ、聖徳太子が建立された。
 【「正史」事例】
  • 聖徳太子の誕生地は、父・用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれのいけのへのなみつきみや)であろう。
    (根拠:「上宮聖徳法王帝説」など)
     但し、この磐余池辺双槻宮は、現在の桜井市池之内・橋本付近、桜井市上之宮遺跡他、諸説有り、未確定。
  • 発掘調査結果などから、天智朝創建の可能性が高いことが判明し、このことから時期は不詳ながら、天智朝(662−671)に川原寺と対を成す尼寺として建立されたのではないかと推定する説が有力となっている。 従って創建時期は寺伝の推古天皇時代までは遡らないとされている。
4.創建時の伽藍配置
昭和28年、31-32年に石田茂作氏が発掘調査され、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線にならぶ四天王寺式伽藍配置であることが推定された。これに基づく橘寺創建時伽藍配置は下図のとおりである。但し、廻廊が金堂の裏で閉じる可能性もあり、この場合は山田寺伽藍配置ともいえるが、その後の他の研究機関による発掘調査でもこの点は未だ明確にはなっていない。
橘寺伽藍配置図

(出典:境内に掲げられている絵図頼作成)
明日香村における橘寺の位置
橘寺は下図のとおり川原寺の南に建てられている。この位置関係でも橘寺は川原寺と対を成す尼寺として建立されたことがよくわかる。
明日香村に於ける橘寺の位置
(出典:甘樫丘展望台パネル写真より作成) 
5.その後の変遷
  • 奈良時代には「光明皇后より丈六の釈迦三尊が寄贈された」とあるところから伽藍整備も進み高い格式を保っていたと思われるが、平安期に入り他の南都大寺と同様に衰える。
  • だが鎌倉時代には太子信仰の隆盛とともに復興を見せ、平安時代後期の久安4年(1148)に雷火によって焼失した五重塔が文治年間(1185−1189)には三重塔ながら再建される。
  • しかし、室町時代後期の永正3年(1506)、室町幕府管領細川政元の武将赤沢朝経(あかざわともつね)の多武峰(とうのみね)攻めに橘寺の僧が与したために、多武峰の衆徒(僧兵)によって焼き討ちされほぼ伽藍全体が灰燼と帰し、廃寺同然に衰えた。
     なお、多武峰とは藤原鎌足を祀る多武峰寺(現在の談山神社)をはじめとする寺院群を指す。
  • その後本格的な伽藍の再建はされることなかったものの、聖徳太子信仰に支えられて法灯を守り継ぎ、約360年後の江戸末期の「蛤御門の変」があった元治元年(1864)に現在の堂舎が再建され、現在に至っている。
6.特記事項
  • 橘寺は、太子建立七大寺に数えられている。
    「上宮聖徳法王帝説」「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」に以下の寺院が聖徳太子建立寺との記録があることから呼称されることなった。
    • 四天王寺       大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号
    • 法隆寺        奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺寺山内1−1
    • 中宮寺(中宮尼寺)  奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1−1−2
    • 橘寺         奈良県高市郡明日香村橘532番地
    • 蜂岡寺(広隆寺)   京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
    • 池後寺(法起寺)   奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873
    • 葛城寺(葛城尼寺)  現存せず。遺構については諸説あるも未確定
  • 橘寺は、創建時より東面して建てられていた。
     同時期の寺院は中国の「王者南面」の思想を受け仏教寺院は南面して建てられるのが通常であったが、橘寺はこれに反して東面して建立されている。立地条件からやむを得ずそうしたのか、あるいは他に理由があったのか等、詳細は未だ不明である。
7.現在の境内
橘寺の全景
  橘寺全景
  この写真は東西にはしる県道155線を挟んで橘寺の北にある川原寺跡から撮影した橘寺の全景である。後方に見える小山は橘寺の山号でもある仏頭山といい、同寺院の寺域でもある。
 
東門入り口
橘寺入口
  東門
橘寺東門
この石段を上がったところに東門がある。    橘寺は東面して建てられた。従って、この東門が当寺院の正門となる。 

境内
橘寺境内
  本堂(太子殿)
橘寺本堂
東門からまっすぐに伸びる参道。正面が本堂   現橘寺の本堂。この位置に創建時講堂があった。現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864)建てられた。
 
聖徳太子の愛馬・黒駒
橘寺本堂と黒駒
  観音堂
橘寺観音堂
本堂右手前にある黒駒の銅像。聖徳太子の愛馬。太子信仰ではこの馬は空を駆けたといわれ、達磨大師の化身と伝える。
 
  寺伝によるとこの堂は安永6年(1777)に本堂として建立された。しかし、元治元年(1864)に現本堂が新築されることに伴い現在地に移築されたという。
 
塔礎石
橘寺塔跡
 
←有名な橘寺の塔礎石である。斜めからの写真であるためにおかしな形に見えるが、礎石の大きさは一辺2.7mと大きく、中央に直径約1mの孔、周囲三カ所の突出部は添え木を入れるために設けられた。この礎石の大きさなどから創建時には初層一辺7mの五重塔であったと推定されている。
 ところが、平安時代前期久安4年(1148)に雷火により焼失した。その後、鎌倉時代の文治年間(1185−1189)に再建(三重塔)されるが、これも永正3年(1506)多武峰の衆徒(僧兵)によって焼き討ちされ、以降再建されず今日に至っている。
 

蓮華塚(南面から撮影)橘寺蓮華塚
 

←寺伝では「太子が勝鬘経の講義の時降った蓮の華を埋めたところで、大化の改新でこれを一畝(36坪)と定め、面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれている」とされる。
 だが、日本書紀の「改新の詔」では「田は、およそ長さ三十歩、広さ十二歩を段とする。・・・」と書かれており、当時の一歩は高麗尺で方六尺の広さであることも判っている。これらのことから「蓮の華を埋めたところ」は兎に角として面積の基準となったというのはいかがなものか。

二面石
橘寺二面石
 
←明日香村飛鳥時代石造物といえば亀石が有名だが、この石像もその一つで「二面石」と呼ばれている。よく右善面、左悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされるが他の飛鳥石造物と同様、この石像が何故造られたのか等の本来の意味はよく解っていない
 なお亀石は、この橘寺の西門を出て少し西に行ったところにある
   
左悪面
橘寺二面石左悪面
  右善面
橘寺二面石右善面
 
西門
橘寺西門
  ←この西門を出て坂道を下ると川原寺の南大門である。その坂道の途中に創建当時には橘寺の北大門があったことが発掘調査により判明している。
   
亀石
亀石
  ←橘寺の西門を出て遊歩道を暫く行くとこの有名な明日香村の亀石がある。
  大きさは長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルもある。
 いつ頃制作されたのかや目的・用途など詳しいことはわかっていないが、弘福寺(川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記載されたもの有り川原寺の寺域の境界を示す石標ではないかという説や、猿石、二面石、人頭石など一連の飛鳥石造物の一つではないかなど、様々な説がある。
     
8.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>  2011/7作成 2012/4改訂  2012/12補記改訂  2016/01補記改訂
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