橘寺の全景 |
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この写真は東西にはしる県道155線を挟んで橘寺の北にある川原寺跡から撮影した橘寺の全景である。後方に見える小山は橘寺の山号でもある仏頭山といい、同寺院の寺域でもある。 |
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東門入り口
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東門
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この石段を上がったところに東門がある。 |
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橘寺は東面して建てられた。従って、この東門が当寺院の正門となる。
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境内
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本堂(太子殿)
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東門からまっすぐに伸びる参道。正面が本堂 |
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現橘寺の本堂。この位置に創建時講堂があった。現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864)建てられた。
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聖徳太子の愛馬・黒駒
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観音堂
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本堂右手前にある黒駒の銅像。聖徳太子の愛馬。太子信仰ではこの馬は空を駆けたといわれ、達磨大師の化身と伝える。
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寺伝によるとこの堂は安永6年(1777)に本堂として建立された。しかし、元治元年(1864)に現本堂が新築されることに伴い現在地に移築されたという。
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塔礎石
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←有名な橘寺の塔礎石である。斜めからの写真であるためにおかしな形に見えるが、礎石の大きさは一辺2.7mと大きく、中央に直径約1mの孔、周囲三カ所の突出部は添え木を入れるために設けられた。この礎石の大きさなどから創建時には初層一辺7mの五重塔であったと推定されている。
ところが、平安時代前期久安4年(1148)に雷火により焼失した。その後、鎌倉時代の文治年間(1185−1189)に再建(三重塔)されるが、これも永正3年(1506)多武峰の衆徒(僧兵)によって焼き討ちされ、以降再建されず今日に至っている。
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蓮華塚(南面から撮影) |
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←寺伝では「太子が勝鬘経の講義の時降った蓮の華を埋めたところで、大化の改新でこれを一畝(36坪)と定め、面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれている」とされる。
だが、日本書紀の「改新の詔」では「田は、およそ長さ三十歩、広さ十二歩を段とする。・・・」と書かれており、当時の一歩は高麗尺で方六尺の広さであることも判っている。これらのことから「蓮の華を埋めたところ」は兎に角として面積の基準となったというのはいかがなものか。
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二面石
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←明日香村飛鳥時代石造物といえば亀石が有名だが、この石像もその一つで「二面石」と呼ばれている。よく右善面、左悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされるが他の飛鳥石造物と同様、この石像が何故造られたのか等の本来の意味はよく解っていない
なお亀石は、この橘寺の西門を出て少し西に行ったところにある
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左悪面
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右善面
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西門
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←この西門を出て坂道を下ると川原寺の南大門である。その坂道の途中に創建当時には橘寺の北大門があったことが発掘調査により判明している。 |
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亀石
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←橘寺の西門を出て遊歩道を暫く行くとこの有名な明日香村の亀石がある。
大きさは長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルもある。
いつ頃制作されたのかや目的・用途など詳しいことはわかっていないが、弘福寺(川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記載されたもの有り川原寺の寺域の境界を示す石標ではないかという説や、猿石、二面石、人頭石など一連の飛鳥石造物の一つではないかなど、様々な説がある。 |
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