中宮寺跡
(ちゅうぐうじあと)

Contents
1.所在地
2.草創・開基
3.創建中宮寺の概要
4.創建中宮寺の歴史
5.古寺巡訪MENU

1.所在地
  • 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺東2所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺東2
  • 中宮寺跡は、下の地図の通り現中宮寺の東約500mのところに位置し、発掘調査で判明した金堂礎石並びに塔礎石が復元展示されています。
中宮寺基壇跡      創建中宮寺所在地図
2.草創・開基
  • 現在の中宮寺は、法隆寺東伽藍夢殿の東隣にありますが、創建時の中宮寺は室町時代後期ごろまでは、現在の本堂から約500m東の地にありました。

  • 開基は聖徳太子で、母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)のためにその宮を改めて寺とした伝えられ、聖徳太子建立七カ寺に数えられています。なお異説として、開基は穴穂部間人皇后自身であるとの伝承もあります。

  • そしてその創建時期は、昭和38年から実施された発掘調査によって法隆寺の前身寺である若草伽藍と同時期の7世紀前半ごろと推定され、四天王寺式伽藍であったと明らかになっています。

  • また、古くから「大和三門跡尼寺(法華寺、円照寺、中宮寺)」に数えられ、その中でも最も草創が古い尼寺として知られています。

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3.創建中宮寺の概要
 その創建中宮寺発掘調査は、昭和38年から同59年にかけて断続的に実施されました。その結果、創建時中宮寺は以下のようであったことが次第に明らかになってきました。
  • 創建時期は、出土瓦、建築様式などから、法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立されたと推定され、創建時中宮寺は斑鳩地方最古の寺院であり、上宮王家との深い由縁を物語る寺院と考えられる。
  • 境内地は、東西約128メートル、南北約165メートルの規模であった。
  • 伽藍配置は、四天王寺式で金堂を北、塔を南に一直線に並べる配置で、若草伽藍と同じ四天王寺式伽藍配置であった。しかし当寺院は塔と金堂とは大変接近して建てられていた特徴がある。
  • しかし、講堂や回廊は発掘調査でも発見されず、 計画はあってものの造立されなかった、と推定され、創建中宮寺は、「未完の大寺」との説もあります。
  • この中宮寺跡は国指定史跡とされており、その史跡指定理由が文化庁国指定文化財等データベース にあり、その全文は以下の通りです。ご参照下さい。
        出典:文化庁国指定文化財等データベース
              http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html           http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp


中宮寺跡 史跡指定理由

  名     称: 中宮寺跡 ふりがな: ちゅうぐうじあと
 種     別: 史跡
 都 道 府 県: 奈良県  市区町村: 生駒郡斑鳩町
 特別指定年月日: 1990年5月19日(平成2.05.19) 指定基準: 史3
 追加指定年月日: 2001年8月13日(平成13.08.13 )

(解説文)

 天寿国曼陀羅〓帳(*1)や菩薩半伽像を蔵する寺として著名な中宮寺は、現在、法隆寺東院伽藍の東北に隣接した寺地を占めるが、この地へは16世紀前半の移転と伝え、創建当初の寺跡が東方500メートルの水田中に残る。

 土壇を中心に方形の地割を持つ旧寺地には、旧殿、赤門前、西ノ門等の字名が残り、周囲には江戸時代まで崩壊途上の築地が遺存したようである。その伽藍については、昭和9年に福山敏男が「聖徳太子絵伝〓(*2)風」(延久元年 秦致真筆)や「諸寺雑記」の記述をもとに、桁行5間、粱行4間の重層入母屋造の金堂と、初層に板葺の裳階をつけた三重塔が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置を想定した。その後、本格的な調査がなされぬまま耕作や礎石の搬出などの改変を受け、寺跡の荒廃が進んだが、昭和38年に石田茂作による残存土壇の発掘調査が行われ、金堂と塔の構造の一部が初めて明らかになった。昭和47年から62年にかけては5次にわたる確認調査が実施され、伽藍の概要と寺域などが解明されている。

 金堂跡の調査は部分的な確認調査であったが、2度の改作の跡が認められている。創建時は凝灰岩切石による壇上積基壇と推定され、これを平安時代初期に縮小して瓦積基壇とし、さらに鎌倉時代に花崗岩割石による乱石積基壇に修造するといった変遷を辿っている。鎌倉時代の基壇規模は、東西17・3メートル、南北14・1メートルで、創建時の基壇もこれとほぼ同規模と推定される。基壇上の礎石は創建当初の位置を保っており、現存礎石1箇と礎石抜取穴から、桁行5間、粱行4間(各柱間2・6メートル等間)の建物が復原できる。

 塔基壇は上面の削平が著しく、側柱礎石を抜き取った溝の一部と、花崗岩製の地下心礎を検出したにとどまる。基壇規模は、一辺約13メートルで、塔の平面形式は不明であるが、一辺6・8メートル前後と推定される、地下2・5メートルに遺存する心礎の上面には、心柱の根元を固定した根巻粘土が遺存し、その内側から金環、金糸片、金延板小塊、琥珀棗玉、ガラス捩玉、丸玉、水晶角柱などの埋納物が発見されている。これらは、心礎に舎利孔などの細工がみられないことから、心柱の根元に穿った小孔内に納められていたものと考えられる。塔と金堂の基壇は5・2メートルと近接して南北に並び、往時には軒を接するような状況であったと思われる。現在のところ、講堂や中門、回廊などの存在は明確になっていない。

 寺跡の区画施設としては、北面と西面の築地を確認している。築地は基底幅は2・1メートルで、築地外側には幅2・5メートル、深さ0・7メートルの外濠がめぐる。また内側にも同規模の内濠が存在するが、これは鎌倉時代に開削されたものである。寺域は西面築地と伽藍中軸線の距離から東西128メートル、南北165メートルと推定でき、東西幅は高麗尺1町に相当する。外郭施設の調査では、北門や南門の一部、西面築地に平行する南北古道を検出している。またこの他に、塔跡の西南方で掘立柱東西塀を、塔跡の東側で掘立柱建物を検出しているが、その時期や性格は明らかでない。

 出土瓦は飛鳥時代から室町時代におよび、伽藍の消長と軌を1つにする。創建時の単弁蓮華文軒丸瓦は、平群の平隆寺出土品と同笵関係にあり、角端点珠の百済系と有稜弁間点珠の高句麗系軒丸瓦からなる。ともに今池瓦窯で生産されたことが判明しており、7世紀前半代に位置付けられる。また、法隆寺若草伽藍出土品と同笵の忍冬弁六弁蓮華文軒丸瓦や、斑鳩宮跡に比定される法隆寺東院地下遺構出土品と同笵の均整忍冬唐草文軒平瓦の出土もあり、法隆寺との密接な関係を示唆している。

 中宮寺は別名中宮尼寺、鵤尼寺とも呼ばれ、聖徳太子創建7か寺の1つに挙げられている。太子が御母穴穂部間人皇后の宮を寺にしたと伝えるが、創建年代については諸説があり定かではない。いずれにせよ法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立された斑鳩地方最古の寺院であることは確かであり、上宮王家との深い由縁を物語る寺院跡として高い価値を有している。よってここに史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

  • 現在、この中宮寺跡は、下の写真の通り史跡として整備され見学する事ができます。

    創建時中宮寺跡発掘現場と保存状況
    中宮寺跡全景
    創建時中宮寺の塔跡と金堂跡全景  
    中宮寺塔基壇と礎石跡
    塔跡
    中宮寺金堂きだんと礎石跡
    金堂跡 

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4.中宮寺の歴史
  • 中宮寺の創建時期は、前述の通り、法隆寺の前身寺である若草伽藍と同時期の7世紀前半ごろと推定されています。

  • 創建理由は、法隆寺は僧寺に対する中宮寺は尼寺として建立されたのではと考えられます、しかし中宮寺には古寺によくある創立縁起などが残されておらず、その詳細は不明です。

  • 平安遷都後は、飛鳥・奈良時代の諸寺と同様に中宮寺も次第に寺勢は衰え「僅かに草堂一宇を残して本尊様のみ居られる」ほどに衰退しました。

  • しかし、鎌倉時代に入って中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られました。
    (信如比丘尼は法相宗の大本山・興福寺の尼僧)

  • ところが、鎌倉時代末期の延暦2年(1309)火災によって伽藍に大きな損傷を受け、以後の再興のために寺宝の多くを法隆寺に移すなどして注力したものの、これ以降再び廃寺同然に衰退したようです。

  • 室町時代後期の天文年間(1532-55)に現在地の法隆寺東伽藍夢殿東隣に寺地を移し再興を図りましたが、厳しい経営は続いたようです。

  • 関ヶ原の戦いの2年後の慶長7年(1602)に、念願の慈覚院宮(後伏見天皇の八世に当たる尊智女王)を、初代門跡に迎え、以降江戸時代を通して門跡尼寺として一定の寺勢を保ちます。

  • しかし、明治新政府の廃仏毀釈によって法隆寺とともに当寺院も苦難の道を歩みますが、 昭和43年、高松宮妃の発願、吉田五十八の設計により、新本堂が建立されて寺観も整えられ、現在に至っております。

  • 以上を年表として纏めると以下の表の通りです。ご参照下さい。
中宮寺歴史年表
 西暦  時代・和暦等  出来事
 607   推古15年   聖徳太子により前身法隆寺創建される (寺伝)
 同時期に中宮寺創建される
 670  天智9年  前身法隆寺、焼亡する(日本書紀)
 673-685  天武1-14年  再建法隆寺着工される
 708-714  元明1-7年  再建法隆寺完成する
 794-1192  平安時代  中宮寺、大いに寺運傾き「僅かに草堂一宇を残して本尊様のみ居られる  」ほどに衰退する
 1273ごろ  鎌倉時代  法相宗の大本山・興福寺から信如比丘尼が来住し復興を図る。
 信如比丘尼、法隆寺網封蔵から「天寿国曼荼羅」を発見
 1309  鎌倉時代末期  兵火により伽藍焼失、寺宝の多くを法隆寺に移す。
 1532ごろ  室町時代  寺地を法隆寺夢殿の東隣へ移し再興を図る
 1602  江戸時代  慈覚院宮(後伏見天皇の八世に当たる尊智女王)を初代門跡に迎え、
 以後門跡尼寺となる
 1868  明治元年  明治維新を迎え真言宗泉涌寺派に属する
 1953  昭和28年  聖徳宗に入宗
 1968  昭和43年  高松宮妃の発願、吉田五十八の設計により、新本堂建立。
 1963-1984  昭和38-59年  中宮寺跡地発掘調査実施される

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<更新履歴>2018/2作成
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