四天王寺

(してんのうじ)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.創建時の伽藍配置
5.その後の変遷
6.特記事項
7.現在の境内
8.古寺巡訪MENU

 1.所在地
   大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号   駐車場:南大門前に有り
四天王寺鳥居
 2.宗派
   和宗   本尊:救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)
 3.草創・開基
(1)創建時期
日本書紀に推古天皇元年(593)「この年、始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造りはじめた」とあり寺伝でもこれを採用している。なおこの年は聖徳太子が摂政となった年でもある。

しかし、発掘調査による出土瓦から、実際は建立に着手されてから中心伽藍が整備されたのは7世紀初頭の推古天皇15年(607)頃であろうと推定されている。

但し、講堂付近の発掘の出土瓦がこれより更に後の飛鳥時代後半から奈良時代初期のものが多いところから明確な時期は不詳である。
(2)創建の目的
四天王寺の創建目的には二つの見方がある。一つは、聖徳太子の物部守屋討伐戦勝誓願成就を建立目的だとするもの、今ひとつは、当時の激動する東アジア情勢を受けて、当時の日本の玄関口であった難波津の丘の上に最先端技術による壮麗な伽藍を建立することによって、その国威を諸外国に対して誇示すると同時に、四天王の法力による国家鎮護を祈願したのが建立目的だとする。果たして、史実としてはどうなのか、以下その二つの見方を紹介したい。
   @聖徳太子の物部守屋討伐戦勝誓願成就を建立目的とする
先ず一つ目は日本書紀の記述を根拠とする建立目的である。
用明天皇2年(587)、物部守屋大連を滅ぼし朝廷における権力を独占しようとする蘇我馬子大臣との間で戦が起こる(「丁未の変」(ていびのへん)。その戦いに臨んで、聖徳太子と蘇我馬子は戦勝祈願をした。即ち、誓願を聞き入れられた時は、聖徳太子は四天王寺を、蘇我馬子は法興寺(飛鳥寺)を建立することを約定したいうものである。その根拠となっている日本書紀の記述を紹介すると以下のとおりである。
  • 蘇我馬子は周到な準備を重ね、厩戸皇子(うまやとのみこ)(のちの聖徳太子)をはじめとする皇子や大半の有力豪族を味方につけ、軍勢を整えて物部守屋の本拠地であった河内国渋川郡(東大阪市)に攻め入った。
  • しかし物部守屋はもともと軍事氏族で、一族の結束が固く軍事能力の高い精鋭部隊を率いていた。このため寄せ集めの馬子の軍勢は攻めあぐねるどころか、敗北しかねない程に追い込まれる。
  • そのため、馬子は「諸天王と大神王のために寺塔を建てて三宝を広める」、厩戸皇子は「白膠木(ぬりで)を切りとって急いで四天王の像を作り、・・・今もし自分をこの戦に勝たせて下さったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」と誓願して軍勢を立て直した。
  • その結果、何とか守屋を射殺することが適い勝利することができた。
   A国家鎮護と諸外国に対して国威を誇示することを目的とする
もう一つは当時の東アジア情勢と日本との関係を背景とする建立目的である。
即ち、四天王寺は激動する東アジアの国際情勢下で、外敵から守る護国の寺として、今一つは諸外国の来朝者への国威誇示のために建立されたというのである。
この見解については、日本書紀等の史料には直接の言及はないものの、四天王寺の建立目的として最も史実を反映したものであろうと考えられている。
その理由を列挙すると以下のとおりである。
  • 蘇我馬子が物部守屋を倒した用明2年(587)の2年後の589年に中国が統一され随という強力な国家が成立しようとしていた。一方朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済が激しく覇権を争い、いずれ強力な国家が形成される可能性を秘めていた。
  • こうした東アジアの枠組みの大きな変動を、当時の日本の朝廷(実質は蘇我氏)が、充分に情報を得ており、危機感を持っていたとしても不思議ではない。
  • この危機感が593年即位の推古天皇の下での、聖徳太子と蘇我馬子の共同執政による仏教の国教化(三宝興隆の詔)、半島への派兵、遣隋使派遣、街道の整備、冠位十二階制定、十七条憲法制定等へと突き動かして行くこととなる。 総じて言えば、日本の国家体制を次々に生まれる強力な隣国に対抗しうるものへと変貌・整備する必要に迫られていたのである。
  • この当時、倭国(日本)の諸外国との玄関口となっていたのは難波津である。
    難波津には諸外国の船が頻繁に出入りし、外国使節も無論この港を往来していた。
  • 四天王寺は、この難波津の見下ろす丘の上に推古元年(593年)に建立が開始された。建設は国家事業に準じる扱いとされ、主として朝鮮半島の最先端の技術を導入し、大規模に行われたと推定されている。 そして異例にも、本来南面して置かれるべき四天王(仏の守護神)が、東アジア諸国のある西に向けて安置されたと伝わっている。そして四天王寺は、創建以来「四天王護国之大寺」と呼ばれてきた。

<目次へ戻る>

 4.伽藍配置(四天王寺式伽藍配置)
下図のとおり中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が南北一直線上に並び、廻廊は中門左右から講堂左右に取り付き閉じる。飛鳥時代の代表的な一塔一金堂の伽藍配置で四天王寺式伽藍配置と呼ばれている。
四天王寺伽藍配置図
(四天王寺拝観パンフより)
一直線上に並ぶ伽藍
四天王寺伽藍
講堂 金堂 五重塔

<目次へ戻る>

 5.その後の変遷
 四天王寺は以下の通り、度重なる兵火、災害を受けながらも、下記のとおり、その都度再興され現在に至っている
  • 承和3年(836)、雷火により塔損壊
  • 天徳4年(960)、火災により古代伽藍焼失し荒廃する
  • 平安時代後期、霊場参詣、太子信仰の隆盛、西方浄土信仰の流行によって四天王寺はその聖地とされ復興を見る
  • 南北朝争乱による兵火により焼失
  • 室町期、兵火により焼失
  • 天正4年(1576)、織田信長による石山本願寺攻めに伴う焼き討ちにあい焼失
  • 慶長5年(1600)、豊臣秀吉により復興
  • 慶長19年(1614)、大坂冬の陣により焼失
  • 元和9年(1623)、徳川幕府により復興
  • 享和元年(1801)、落雷により焼失
  • 文化9年(1812)、大坂白銀町淡路屋太郎兵衛が再建
  • 昭和9年、室戸台風により主要伽藍倒壊
  • 昭和15年、再建
  • 昭和20年3月、米軍の空襲により焼失
  • 昭和38年、中心伽藍(五重塔、金堂、講堂、仁王門)を再建し現在に至る

<目次へ戻る>

 6.特記事項
(1)度重なる再建にかかる驚くべきこと
 昭和38年の再建を前にして中心伽藍の徹底的な発掘調査が実施された。この調査の結果、驚くべき事実が判明した。それは、「中心伽藍が飛鳥時代の尺度である高麗尺で1000尺四方と実測され、創建時の規模がそのまま守られてきていること、そしてさらに再建の都度、創建当初と全く同じ場所に復元されてきた」ということである。この例を見ない再建の歴史は、その都度関わった人々のこの四天王寺にかけた並々ならぬ篤い思いをわれわれに伝えてくれている。

(2)四天王寺を支えた信仰三本柱
 四天王寺を支えてきたのは三つの信仰である。それは太子信仰、舎利信仰、極楽浄土信仰である。四天王寺の創建時代の仏教は個人の精神的救済よりも法力による国家鎮護を祈るものであった。以降仏教は、その中心教義に変化はあるものの国家仏教として権力者から手厚い保護を受ける。しかし平安時代後期から個人の精神的救済を重きを置く浄土教が中流以下の公家を中心に信仰を集め、やがて興隆する。

 多くの寺院がこうした時代の流れに埋没し衰退していく中で、四天王寺はこうした信仰の移り変わりに柔軟に対応し権力者から支持をつなぎ止める一方で、浄土教の私度僧や真言密教の聖らを媒介して広がる庶民信仰を幅広く吸収して浄財を集め寺院経営を維持してきたといえる。現代風に云えば多角経営の成果である。

 しかし国家仏教そのものを具現化したという重い歴史を引きずる四天王寺僧団が、こうした柔軟な発想と対応ができたことは驚きである。これを可能にしたのは様々な理由があろうが、決め手になるのは天平時代にも遡るといわれる「太子信仰」の広がりである。平安期初頭から活躍する天台宗の最澄、真言密教の空海、そして更に下って浄土宗開祖法然、浄土真宗開祖親鸞など日本仏教の巨星が挙って聖徳太子を日本仏教の開祖と崇め、とりわけ親鸞は深く傾倒し、自宗を布教するのと同等の勢いでこれを広めたのである。これら宗派を超えて広がっていく「太子信仰」に、太子を発願者とする四天王寺の僧団としてもこれは願ってもないこととして受け入れたであろう。後の多々ある四天王寺の庶民信仰は、この結果として生まれたものである。

(3)天王寺舞楽
聖霊会舞楽・天王寺舞楽聖徳太子の命日である4月22日(旧暦2月22日)に聖霊会舞楽が石舞台で行われる。この舞楽は1400年の伝統を持ち、日本の最古の雅楽の様式を伝えることでよく知られている。

 その歴史は古く、推古天皇20年(612)、百済の味摩之(みまし)が渡来した。味摩之は、自分は中国の呉で音楽と舞踏(伎楽)を習得した人間なので必ず貴国のお役に立つことができると申し立てた。そこでこの者を桜井に住まわせ、少年達を集めてこれを習わせた(日本書紀)。そしてこの少年達が習熟を重ね天王寺舞楽が生まれる。またこの少年の中に聖徳太子の強力な支持者であった渡来系豪族の秦河勝の息子がいた。そしてこの息子の末裔達が四天王寺において天王寺楽人の中心となり活躍したと伝えられている。

聖霊会舞楽・天王寺舞楽 なお、よく云われる三方楽所とは、江戸時代に幕府がその伝統保護のために宮中(京都)、南都、四天王寺に各楽所を置き、その維持運営のための知行地を与えたことからそう呼ばれるようになった。そうした楽所の中でも天王寺楽所はよく古来の舞楽を守り抜き今日に至っている。

(4)その他
1.当寺院は、下記の聖徳太子建立七大寺に数えられています。
      
四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛城寺(葛城尼寺)
2.当サイトの聖徳太子信仰に関係する寺院は下記のとおりです。ご参照下さい。
     法隆寺  法輪寺   法起寺   橘 寺   叡福寺   野中寺

<目次へ戻る>

 7.現在の境内

南大門
四天王寺南門
  中門(仁王門)
四天王寺中門
     
中門(仁王門)
四天王寺中門
伽藍が南北一直線上に建てられているために中門前から撮ると
五重塔がこのように見える。この姿は他寺では見ることはできない。
昭和36年再建。

熊野権現礼拝石          熊野権現礼拝石

 平安時代後期から鎌倉時代に浄土信仰が盛んとなるが、その極楽往生を願う聖地の一つとして熊野三山が篤い信仰の対象となっていた。
 このため末法思想に恐れる京都の公家等は極楽往生を願い、挙って熊野三山への参拝に出かけた。
 この熊野詣の行程は、宇治から天満までを船で下り、天満から四天王寺を経て住吉大社へ、さらに和歌山田辺(熊野街道)へというのが通常であった。
 こうして、四天王寺に入った巡礼者は本尊を参拝した後、この礼拝石から熊野方向に礼拝し旅の安全を祈願したところから、「熊野権現礼拝石」と呼ばれるようになったいう。
     
中門仁王尊像
四天王寺中門金剛力士像
     
     
 鳥居と西大門
四天王寺鳥居
  西大門(極楽門)
四天王寺西門
鎌倉時代の永仁2年(1294)に建立されたといわれ四天王寺で現存する建物で最も古い建築物。高さ9m。掲げられている扁額には「釈迦如来転法輪処当極楽浄土東門中心」とある。山形市成沢の八幡神社の鳥居、山形市小立の石鳥居に次いで古い鳥居で重要文化財に指定されている。
  四天王寺が建立されたこの地は古代から夕日が美しいところで知られていた。
 この立地が平安時代後期から隆盛になる浄土教の「沈む夕日を眺めながら念仏すると極楽浄土へいける」という西方極楽浄土信仰と重なり、四天王寺の西門は「日想観」の聖地となった。
 これ以降、四天王寺の西門は特別な意味を持つこととなる。即ち石鳥居は、極楽浄土と現世との結界であり、その手前にある西大門は極楽浄土の入り口である「極楽浄土東門」へ通じる門ということで「極楽門」と呼ばれ四天王寺の中で最も大きく荘厳なものとなっていく。

 ←四天王寺を西から参拝するすると鳥居、西大門を経てこの西重門に至り、右手に五重塔、左手に金堂を一望することができる。四天王寺伽藍の美しさを知るにはこのポイントは外せない。  
西重門
四天王寺西重門
 
     
     
金堂
四天王寺金堂
  講堂
四天王寺講堂
昭和36年再建。本尊である救世観音菩薩を安置し、周囲に四天王が配置されている。

 
  昭和36年再建。 十一面観世音菩薩像と阿弥陀如来座像が安置されている。特に阿弥陀如来座像は基壇から6mもある大きな仏像である。

廻廊
四天王寺廻廊
  五重塔
四天王寺五重塔
四天王寺の廻廊は仁王門の左右から出て講堂の左右に取り付き閉じている。柱は法隆寺廻廊の柱と同じくエンタシス様式である。   これが鉄筋コンクリート造りとは思えない見事な塔である。緩やかな各屋根の傾斜が法隆寺五重塔とは異なる優雅でしなやかな姿が印象的だ。昭和34年再建。全高37.05m。相輪は全高の三分の一を占める。

六時堂(六時礼讃堂)と石舞台
四天王寺六時堂
  石舞台
四天王寺石舞台
天台宗を起こした最澄が弘仁7年(816)に四天王寺に居住したとき六時堂を創建したという。現存のものは、江戸時代初期の元和9年(1623)に再建されたもので重要文化財に指定されている。

(注)六時礼讃とは
 浄土教の法要の一つである。一日を六分割し、その六分割の時刻が到来ごとに読経・礼拝・念仏を行う。
  江戸時代の文化5年(1808)に再建されたもので日本の三舞台のひとつに数えられ重要文化財に指定されている。聖徳太子の命日とされる4月22日に終日雅楽がこの舞台で奉納される。


(注)三舞台とは

 四天王寺石舞台・住吉大社石舞台・厳島神社板舞
(下の画像参照)

(参考)
日本三舞台
厳島神社板舞台   住吉大社石舞台
厳島神社板舞台   住吉大社石舞台

<目次へ戻る>
 8.古寺巡訪MENU
<更新履歴> 2011/7作成  2013/4補記・改訂  2013/9補記・改訂
四天王寺