1.所在地
奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
2.宗 派
聖徳宗 別名 三井寺
3.草創・開基
法輪寺創建には、以下の通り二説ある。
- 一つ目は、推古天皇30年(622)に、聖徳太子の病気平癒を祈願して、子の山背大兄王と孫の由義王が発願した説である。
- 二つ目は、天智天皇9年(670)の法隆寺(若草伽藍)焼後、その再建が遅遅として進まなかったため、百済の開法師、円明法師、下氷新物の3名が、この法輪寺を建立したという説である。
いずれが正しいのか不明であるが、斑鳩を本拠とした厩戸王の一族に深く関わる寺院であることには相違ない。
4.創建時の伽藍配置
昭和25年に石田茂作博士の指揮の下に行われた発掘調査によって、法輪寺創建時の伽藍配置は法隆寺式で 、その規模は法隆寺の三分の二程度であったことが、明らかになっている。
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5.その後の変遷
- 平安時代には寺運隆盛を極め室町時代までに寺観を整えた。
- その後没落し、興福寺末寺となった。
- 江戸時代の正保2年(1645)台風のために諸堂倒壊。元文2年宝祐上人が復興に着手し三重塔修復、金堂、講堂を再建したが規模は現在のものまでに縮減した。
- 明治初年の神仏分離・廃仏毀釈によって興福寺が実質廃寺同然となったことから真言宗に、さらに第二次大戦後は聖徳宗に改宗し現在に至っている。
- 昭和19年雷火により三重塔を焼失。現存のものは、作家の幸田文氏らの再建運動によって、昭和50年再興された。
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6.特記事項
- 当寺院は、聖徳太子の妃膳部菩岐々美郎女(かしわでのいらつめ)の館跡であると伝わる。
- 膳部菩岐々美郎女は、聖徳太子の4人の妃の中の一人である 。
- 膳部菩岐々美郎女は、太子が最も寵愛した妃と伝えられ、法隆寺、法起寺そして当寺法輪寺があるこの斑鳩は、彼女の実家膳部氏が領していた地域でもある。太子はこの斑鳩に先ず斑鳩宮を推古12年(604)に建立して居住し、ここから10km程度離れた推古天皇がいる小墾田(おはりだ)宮へ馬に乗り通ったという伝承はよく知られるところであるが、この路を太子道と呼ばれ今でも残っている。
- そして太子は、膳部菩岐々美郎女が、推古30年(622)2月21日に亡くなった翌日、まさに後を追うように没したと伝わる。
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7.現在の境内
山門 |
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金堂 |
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講堂 |
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三重塔 |
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妙見堂 |
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山門から見た三重塔 |
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8.古寺巡訪MENU
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