叡福寺
(えいふくじ)
叡福寺南大門
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
大阪府南河内郡太子町太子2146
(行き方)近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バス太子線「太子前」バス停下車。駐車場あり。
 太子町は二上山の西麓に位置し、周囲3km四方の狭い谷間にある町である。この谷を磯長谷(しながだに)という。この谷には、6世紀後半以降に在位した敏達・用明・推古・孝徳の各天皇の陵とされる墳墓が点在することから「王陵の谷」とも呼ばれている。叡福寺は、この王陵の谷にある聖徳太子の陵とされる北古墳の前にあり、古来より太子墓を守護し奉祀する寺院として建立されたと伝えられている。
2.宗  派
真言宗  本尊:聖如意輪観世音菩薩
3.草創・開基
寺伝に従えば、叡福寺の草創は、聖徳太子が生前の推古天皇28年(620)にこの地を墓所と定められたことからはじまる。そしてその翌年に太子の生母である穴穂部間人皇后がここに埋葬された。続いて聖徳太子と妃・膳部菩岐々美郎女が推古天皇30年に相次い亡くなり、ここに追葬された。 同年、推古天皇は聖徳太子の霊を慰めるために墓所の前に、坊舎十軒余りを建て香華寺とした。下って神亀元年(724)、聖武天皇の発願によって東院(転法輪寺)・西院(叡福寺)が整備されて伽藍を整えたとされる。

以上が自伝の要約だが史実としては、寺伝以外に確たるものがなく不明である。ただし、境内から採集される瓦などから当寺院の創建は平安後期を遡らないのではないかという説があり、また、文献研究に於いても「治安4年(1024)の九条家文『天王寺事』(鎌倉時代成立)には「聖徳太子御墓,治安4年6月14日記云、右御墓所古今雖奉尋、乎今楢所不知也」とあり、「聖徳太子墓」そのものが11世紀はじめにはわからなくなつていたという。」(大巧社刊森浩一著『天皇陵古墳』)のように当寺院の創建は中世の聖徳太子信仰の高まった時代前後ではないかとする説もある。

    (聖徳太子廟・北古墳 )
叡福寺の奥にある「北古墳」は直径約54m、高さ約7mの円墳である。この円墳は横穴式石室があり、その構造は、「岩屋山式の切石造り両袖式」であるという。そしてこの石室の最深部に太子の生母である穴穂部間人皇后の石棺、前面右側に太子、左側に妃の膳部菩岐々美郎女の乾漆棺が安置されていると伝えられている(なおこの埋葬形態は「三骨一廟式」と呼ぶ)。

果たしてこの円墳が伝承どおり、聖徳太子の墳墓であるのかどうかであるが、「岩屋山式の切石造り両袖式」石室の築造時期を7世紀中葉前後から7世紀第3四半期と推定する見解に従えば、太子の没年が621年または622年であることから「北古墳」は太子の陵墓ではないこととなる。しかし、逆に「岩屋山式の切石造り両袖式」の築造時期をこの「北古墳=聖徳太子墳墓」と考えて太子没年の7世紀前半に繰り上げる(それによって矛盾する明日香村の石舞台は馬子が生存中に築造に着手したとする)見解もあって、未だ確定するに至っていないのが現状である。

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4.その後の変遷
  • 中世の聖徳太子信仰の高まりによって、親鸞、日蓮などが参籠し、興隆したが、戦国時代の天正2年(1574)織田信長の兵火により主要堂塔が灰燼となった。
  • 慶長8年(1603)に豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として聖霊殿を再建するなどして一定の復興を見せる。
  • 江戸時代に入って徳川綱吉が丹南藩第六代藩主高木正陳に命じて、太子廟の入り口である二天門と東西に連なる回廊、鐘楼堂、および聖徳太子摂政像を祀る御堂を寄進させるなどさせ寺観を整えた。
    (注)丹南藩:江戸時代に現在の大阪府松原市を中心に一万石を領した譜代大名
  • その後も聖徳太子の民間信仰の広がりに支えられ法灯を守り今日に至っている。

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5.特記事項
  • 当寺院は、鎌倉時代には前述の通り親鸞、叡尊、日蓮、一遍など鎌倉仏教を代表する高僧が参詣し、四天王寺とともに、大阪における太子信仰の拠点寺院となったといわれる。
  • またこの太子信仰は新たな太子ゆかりの寺院をも生み出した。野中寺(羽曳野市)、大聖勝軍寺(八尾市)である。野中寺は太子発願寺院、大聖勝軍寺は厩戸皇子(聖徳太子)が参加した蘇我氏を中心とする物部氏追討軍の主戦場で、その戦中で活躍した太子ゆかりの寺院であるとする。
  • 以後、叡福寺を「上ノ太子」、野中寺を「中之太子」、大聖勝軍寺を「下之太子」と呼ばれる。なお、「河内三太子」とはこの三カ寺の総称である。
  • 叡福寺に関連するページ
    当サイトの叡福寺に関連するページは以下のとおりです。ご参照下さい。
        四天王寺   橘寺   法隆寺   法起寺   法輪寺

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6.現在の境内
南大門   金堂
叡福寺南大門   叡福寺金堂
 戦国時代の天正2年(1574)織田信長の兵火により焼失。慶長8年(1603)に豊臣秀頼の寄進よって再建、しかし、老朽化により昭和33年、再々建。    現在の金堂は、小屋裏で発見された棟札に享保17年(1732)の日付があることから、この頃再建されたと考えられている。
 聖霊殿(太子堂)   多宝塔
叡福寺聖霊殿(太子堂)

  堂内には聖徳太子の十六歳像が祀られている。慶長8年(1603)に豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再建。昭和52年、国の重要文化財に指定される。
  叡福寺多宝塔
    現存のものは、江戸時代の承応元年(1652)に江戸の豪商三谷三九郎によって再建された。昭和52年、国の重要文化財に指定される。
 二天門   聖徳太子御廟・北古墳
叡福寺二天門   聖徳太子御廟 北古墳
元禄元年(1688)、将軍綱吉の命によって丹南藩第六代藩主高木正陳が太子廟の入り口である二天門と東西に連なる回廊・鐘楼堂、および聖徳太子摂政像を祀る御堂を寄進したもの  
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7.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2013/2作成 2016/1改訂 2020/11改訂
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