久米田寺
(くめだでら)
久米田寺境内
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU

1.所在地
   大阪府岸和田市池尻町934 (院号)隆池院
2.宗 派
  高野山真言宗 本尊:釈迦如来
3.草創・開基
  久米田寺の草創を語るには下の写真の久米田池造築を説明すること抜きには語り得ない。
  久米田池は、行基が造った農業用水のための溜池である。行基年譜では、当時、久米田池北西に位置する八木郷一帯は、水量の少ない天の川に頼っており、度々の干ばつに苦しむ農民を見て溜池の築造を決意。地元農民や知識結を集めて神亀2年(725)に着工し、天平10年(738)に14年の長い歳月を経て完成させた。そして完成後にも、更に岡山町の物部田池や当時の小さな数個の池を集めて規模を拡大させていき現在の大きな久米田池にしたと伝えている。
  行基は菩薩道を実践することにひたすら生きた僧である。行基にとって菩薩道を実践することとは、困窮する人々を救済することであった。そのために行基は、数々の布施屋(救護所)や溜池、橋の造築を手がけているが、それらを造築したところには必ずその施設の維持管理と布教の場を目的とする「院」を併設している。この院が後に発展し、「続日本紀」に記載されている行基建立四十九寺と呼ばれる寺院等となるのだが、久米田寺もその一つで、久米田池の維持管理と布教の場を目的として併設された「髓r院」が、久米田寺の草創である。
 久米田池
久米田寺門前に広がる久米田池の全景
 完成から1300年の時を経た現在の久米田池は、ご覧の通り、周囲2.2Km、面積46.5ヘクタールある大阪府内で最大のため池として今なお、潅漑用水に使用され続けている。また潅漑用だけでなく、カワチブナ等の養魚にも利用されいる。このため毎年10月から11月に水田に水を供給する必要が無くなると養魚を捕獲しやすくするために徐々に水が抜かれ12月には完全に無くなる。そして翌年の2月初旬から牛滝川から水を入れはじめ4月上旬には満水とされる。こうした作業が毎年繰り返されている。 私が訪れたの12月の末近くだったため、上の写真の通り完全に水は抜かれていた。

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4.その後の変遷
  • こうして開かれた当寺院であるが奈良から平安時代にかけての寺史は残念ながらよく分かっていない 。
  • ただ、鎌倉時代に再興した安東蓮聖が当寺院を訪れた時は相当荒廃していたいう。
  • 安東連聖とは、鎌倉時代後期の武将で、鎌倉幕府執権北条時ョの御内人で、摂津国、和泉国を中心とした瀬戸内海沿岸一帯に所領をもっていた。そして建治 3年(1277)己の所領地にあるこの久米田寺の別当職を買い取り、所領の一部を寄進して、華厳宗と律宗の寺として再興した人物である。
  • なお、当寺院にはこの中興の祖といえる安東連聖の像を描いた「絹本著色安東蓮聖像」があり、国の重要文化財に指定されている。
  • この安東連聖の再興によって、鎌倉時代から室町時代には東大寺、高山寺と並ぶ華厳教学の中心といわれるまでに隆盛し、境内地は東西5丁、南北8丁、子院は20余ケ寺と大規模なものであったと伝わる。
  • その隆盛振りは、足利尊氏が全国に設けた安国寺のひとつに指定されたことでもわかる。
  • 織田信長が桶狭間で今川義元を討って三年後の永禄5年(1563)三好実休と畠山高政が、この久米田の地で激突(久米田合戦)。この戦火によって堂塔の大半を焼失する。以降、寺は衰微し荒廃した。
  • 江戸時代に入って世が治まるとともに当寺院も復興、延宝2年(1674)に至って一応再興を遂げる。
  • その後も宝暦-明和(1751-72)にかけて順次修理・再建が行われ、今日に至っている。現存する主要な堂舎はこの頃に建立されたものである。

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5.特記事項
  • 毎年10月に久米田池を開削した行基への感謝の意をこめた「お礼参り」という行事が当寺院で行われる。
  • その主役は有名な岸和田の「だんじり」である。久米田池の恩恵を受ける八木地区の全町と山直地区の田治米町・今木町の「だんじり」が、一斉に境内に乗り入れ、行基堂前に集合し奉納、そして順次「だんじり」が市内に向け出発、祭りが始まるのである。およそ1300年を経ても行基への感謝の念が地元の人々に受け継がれている「お礼参り」、行基の偉大さが成せるところである。
   ※ 行基については、下記の各ページを参照ください 。
       日本メモ 行基   喜光寺  東大寺  大野寺・土塔  水間寺  孝恩寺  家原寺

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6.現在の境内

久米田池堤から久米田寺を望む   大門 
久米田寺全景 久米田寺大門
久米田池を維持管理するために池の傍に髓r院が建てられた。これが久米田寺の草創である。訪ねた時期が11月であった、水が抜かれていた。 江戸時代中期の宝永3年(1706)に再建された。ここに掲げられている扁額には当寺院の山号である『龍臥山』とあり、徳大寺実祖の筆と伝わる。
     
久米田寺境内配置図
久米田寺境内図
久米田寺境内の案内パネルから作成

久米田寺全景
  大門を潜ると、この境内風景が広がる。奈良の官寺の整然とした伽藍配置に比べるといかにも雑然とした感がするが、この寺院が江戸期以降、もっぱら民間の信徒によって支えられてきたという、その歴史を考えるとごく当然のことで、むしろこれだけの境内をよく今日まで維持してきたその信仰の力とそれを支えた泉南の財力に驚かされるばかりである。
     
金堂 金堂の扁額
久米田寺金堂 久米田寺本堂扁額
 江戸中期の明和7年(1770)に再建された、本尊は釈迦如来、脇待は、普望・文殊の両菩薩立像を祀る    本堂正面に掲げられた扁額、「髓r院」とある。寛政の改革で知られる松平定信の筆と伝わる
開山堂(行基堂)
久米田寺開山堂   毎年10月には久米田池の恩恵を受ける八木地区の全町と山直地区の田治米町・今木町の「だんじり」が、境内に乗り入れ、行基堂前に集合する。これは久米田池を開削した行基への感謝の意をこめた「お礼参り」である。その「だんじり」は13台。境内を埋め尽くす「だんじり」とその関係者の有り様は圧巻であるという。
     
観音堂   大師堂
久米田寺観音堂   久米田寺観音堂
  江戸時代後期の享和3年(1803)に再建された堂宇。扁額の文字は同時代の右大臣も務めた貴族 徳大寺実祖の筆と伝わる。堂内には行基菩薩四十歳の時、自刻と伝わる千手観世音が安置されている。   文政七年(1824)に建立と伝わり、弘法大師の像を祀る大師堂である。
     
多宝塔     
久米田寺多宝塔    久米田寺多宝塔

  平成15年(2003)に再建された。密教寺院にあるこの種の多宝塔を多く観たわけではないため、比較して云々はできないが、私には均整のとれたなかにも充分な重厚さを感じさせる美しい塔だと思った。
     
  靖霊殿  
久米田寺靖霊殿     昭和32年10月、日清・日露戦争から太平洋戦争に至る岸和田市出身戦没者の霊を祀るために法隆寺夢殿が参考にして建立された。
     
 華厳院(塔頭)    
久米田寺華厳院     当寺院の塔頭は現在、左の華厳院、下の多門院、明王院の三院のみである。
  しかし、当寺院の最盛期と言われる鎌倉時代には、東大寺、高山寺と並ぶ華厳教学の中心として栄え、境内地は東西5丁、南北8丁、子院は20余ケ寺もあったという。
     
多門院(塔頭)   明王院(塔頭) 
久米田寺多門院   久米田寺明王院
     
行基墓   光明塚古墳
久米田寺行基墓   久米田寺光明塚古墳
この行基墓は当寺院の西側に隣接した所にある。行基が喜光寺(菅原寺)で没し、分骨されこの墓地に埋葬された伝わっている。    光明皇后の遺髪が埋葬されたとの伝承によるが、この塚の場所は久米田古墳群に属しており、橘諸兄の墓の伝承と同様に虚構であろう。 
     
聖武天皇、光明皇后、亀山天皇の五輪石塔    
久米田寺聖武天皇光明皇后亀山天皇五輪塔     この三基の五輪石塔は、当寺院の南に隣接した所にある。
  久米田寺一帯の村々の伝承によると、中央は聖武天皇、左端を光明皇后、右端を亀山天皇の墓であるとされている。
  しかし、石塔の様式が鎌倉期のものであることから、鎌倉時代の嘉元3年(1305)に崩御された亀山天皇の遺徳をしのび、また久米田寺の外護者であった聖武天皇と光明皇后の追福も合わせて、安置したのではないかと推測されている。

亀山天皇1249−1305(在位1259−1274)
 
久米田古墳群1(無名塚古墳)   久米田古墳群2( 風吹山古墳)
久米田古墳群   久米田古墳群
 久米田古墳群3(貝吹山古墳)    
久米田古墳群     久米田寺の西には久米田古墳群という多数の古墳が点在している。築造されたのは発掘調査の結果、その多くは5世紀後半ごろと推定されている。上の1と2は発掘調査後に復元され、古墳公園として整備された。
  古墳3は、伝承では橘諸兄の墓とされているが、無論、諸兄は天平勝宝9年(757)に死去しており全く年代が異なるため、この伝承は虚構である。しかし、この伝承は諸兄が、この地に何らかの関わりが、無論、久米田池築造についてあったことを示している。
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