久米田池堤から久米田寺を望む |
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大門 |
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久米田池を維持管理するために池の傍に髓r院が建てられた。これが久米田寺の草創である。訪ねた時期が11月であった、水が抜かれていた。 |
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江戸時代中期の宝永3年(1706)に再建された。ここに掲げられている扁額には当寺院の山号である『龍臥山』とあり、徳大寺実祖の筆と伝わる。 |
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久米田寺境内配置図 |
久米田寺境内の案内パネルから作成
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大門を潜ると、この境内風景が広がる。奈良の官寺の整然とした伽藍配置に比べるといかにも雑然とした感がするが、この寺院が江戸期以降、もっぱら民間の信徒によって支えられてきたという、その歴史を考えるとごく当然のことで、むしろこれだけの境内をよく今日まで維持してきたその信仰の力とそれを支えた泉南の財力に驚かされるばかりである。 |
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金堂 |
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金堂の扁額 |
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江戸中期の明和7年(1770)に再建された、本尊は釈迦如来、脇待は、普望・文殊の両菩薩立像を祀る |
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本堂正面に掲げられた扁額、「髓r院」とある。寛政の改革で知られる松平定信の筆と伝わる |
開山堂(行基堂) |
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毎年10月には久米田池の恩恵を受ける八木地区の全町と山直地区の田治米町・今木町の「だんじり」が、境内に乗り入れ、行基堂前に集合する。これは久米田池を開削した行基への感謝の意をこめた「お礼参り」である。その「だんじり」は13台。境内を埋め尽くす「だんじり」とその関係者の有り様は圧巻であるという。 |
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観音堂 |
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大師堂 |
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江戸時代後期の享和3年(1803)に再建された堂宇。扁額の文字は同時代の右大臣も務めた貴族 徳大寺実祖の筆と伝わる。堂内には行基菩薩四十歳の時、自刻と伝わる千手観世音が安置されている。 |
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文政七年(1824)に建立と伝わり、弘法大師の像を祀る大師堂である。 |
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多宝塔 |
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平成15年(2003)に再建された。密教寺院にあるこの種の多宝塔を多く観たわけではないため、比較して云々はできないが、私には均整のとれたなかにも充分な重厚さを感じさせる美しい塔だと思った。
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靖霊殿 |
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昭和32年10月、日清・日露戦争から太平洋戦争に至る岸和田市出身戦没者の霊を祀るために法隆寺夢殿が参考にして建立された。 |
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華厳院(塔頭) |
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当寺院の塔頭は現在、左の華厳院、下の多門院、明王院の三院のみである。
しかし、当寺院の最盛期と言われる鎌倉時代には、東大寺、高山寺と並ぶ華厳教学の中心として栄え、境内地は東西5丁、南北8丁、子院は20余ケ寺もあったという。 |
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多門院(塔頭) |
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明王院(塔頭) |
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行基墓 |
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光明塚古墳 |
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この行基墓は当寺院の西側に隣接した所にある。行基が喜光寺(菅原寺)で没し、分骨されこの墓地に埋葬された伝わっている。 |
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光明皇后の遺髪が埋葬されたとの伝承によるが、この塚の場所は久米田古墳群に属しており、橘諸兄の墓の伝承と同様に虚構であろう。 |
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聖武天皇、光明皇后、亀山天皇の五輪石塔 |
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この三基の五輪石塔は、当寺院の南に隣接した所にある。
久米田寺一帯の村々の伝承によると、中央は聖武天皇、左端を光明皇后、右端を亀山天皇の墓であるとされている。
しかし、石塔の様式が鎌倉期のものであることから、鎌倉時代の嘉元3年(1305)に崩御された亀山天皇の遺徳をしのび、また久米田寺の外護者であった聖武天皇と光明皇后の追福も合わせて、安置したのではないかと推測されている。
亀山天皇1249−1305(在位1259−1274) |
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久米田古墳群1(無名塚古墳) |
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久米田古墳群2( 風吹山古墳) |
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久米田古墳群3(貝吹山古墳) |
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久米田寺の西には久米田古墳群という多数の古墳が点在している。築造されたのは発掘調査の結果、その多くは5世紀後半ごろと推定されている。上の1と2は発掘調査後に復元され、古墳公園として整備された。
古墳3は、伝承では橘諸兄の墓とされているが、無論、諸兄は天平勝宝9年(757)に死去しており全く年代が異なるため、この伝承は虚構である。しかし、この伝承は諸兄が、この地に何らかの関わりが、無論、久米田池築造についてあったことを示している。 |
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