東 大 寺
(とうだいじ)
東大寺金堂    Contents
     1.所在地
   2.宗派
   3.草創・開基
   4.壮麗な大仏開眼供養会の執行
   5.創建時の伽藍配置
   6.その後の変遷
   7.特記事項
   8.現在の境内
   9.古寺巡訪MENU

1.所在地

奈良県奈良市雑司町406-1     ※住所をクリックすると地図のページを表示します

2.宗派

華厳宗大本山     本尊:盧舎那仏座像(国宝)

3.草創・開基

奈良時代の天平15年(743)聖武天皇が発した「盧舎那大仏造立の詔」により建立はじまる。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立が始まった。その後現在地であらためて造立開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われた。

4.壮麗な大仏開眼供養会の執行

天平勝宝4年4月9日(752)に挙行された開眼供養会は、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、 内外の僧(中国、朝鮮、インド、ベトナム等)約一万人が参列し、華麗に且つ壮大に執り行われたと伝えられている。

開眼導師はインド僧菩提遷那(ぼだいせんな)がつとめ、当時の名だたる寺院である大安寺、元興寺、興福寺等の僧がそれに従った。そして開眼は、開眼の筆に長い紐がつながれ、その紐を聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め多くの参列者が握り行われた。その後、楽人によって大仏の前に設けられた舞台で華麗な楽舞が奉納されたという。

 聖武帝が大仏造像を発願して9年目の春である。結縁のその紐を握りしめた時の喜びに溢れた聖武帝の表情が目に浮かぶようである。 だが、聖武帝はこの4年後に崩御する。
< 参考 >
西暦 ;和 暦 出来事
740 天平12年2月 聖武天皇、河内国大県郡の知識寺に行幸し盧舎那仏を礼拝
743 天平15年10月 聖武天皇、盧舎那仏造顕発願の詔を出す
747 天平19年9月 大仏の造像工事が開始される
749 天平勝宝元 大仏本体の鋳造が完了
751 天平勝宝3年 大仏殿完成
752 天平勝宝4年4月 開眼供養会(かいげんくようえ)
756 天平勝宝8年5月 聖武太上天皇崩御

5.創建時の伽藍

(1)寺院規模
東大寺は右下の「平城京と大寺の所在地」が示すとおり京域外に建立された。しかしその寺域面積は、なんと
50町と平城宮76町に次ぐ巨大さで平城京大寺随一の規模であった.。

 平城京官寺の寺域比較 


 東大寺   50町


 西大寺   31町


 興福寺   20町


 大安寺   15町


 元興寺   15町


 薬師寺   10町


(参考)平城宮   76町
平城京と大寺の所在地
(2)伽藍配置
東大寺伽藍配置平城京に隣接する地に50町もの広大な寺域を有する寺院として造立された伽藍は、右の「東大寺創建時伽藍配置図」のとおり、大仏を祀る金堂を中心に巨大で壮麗なものであった。それは、聖武太上天皇が大仏建立に託した思いをまさに具現化させた寺院であった。

また中門前の東西に配置された塔は、七重塔で、高さは70m程度あったと東大要録には記録されている。興福寺五重塔の50.25m(基壇を除く)よりも20mも高くしかも七重塔である。その圧倒的で華麗な姿と高さは見る者を感嘆させるものであったろう。

しかしこの塔も治承4年(1180)12月平重衡の南都焼き討ちにより焼失した。その後、東塔は安貞元年(1227)に再建されたが再び焼失した。一方西塔は再建を試みられたが頓挫し、今日に至っている。
東大寺大仏殿内に展示されている「伽藍復元模型」
東大寺大仏殿内展示伽藍復元模型

6.その後の変遷

治承4年(1180)の平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討により焼失その後、重源上人(ちょうげんしょうにん)により再興され、文治元年(1185)に大仏の開眼供養、建久6年(1195)には大仏殿の上棟供養が行われた。

しかし、この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567)の松永・三好の合戦によって再び炎上。以降、江戸時代になって公慶上人(こうけいしょうにん)の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690)に鋳造されたもので、元禄5年(1692)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709)に落慶したものである。

7.特記事項

  • 東大寺は、南都七大寺の筆頭寺院である
  • 東大寺では、大仏創建に貢献した聖武天皇・良弁・行基・菩提僊那の4名を東大寺では四聖(ししょう)
    と呼び尊んでいる。
  • 東大寺戒壇院を創建した鑑真の詳細については、鑑真 のページを参照下さい

8.現在の境内

南大門(国宝)
南大門
南大門を支える柱群
南大門
  創建時の門は平安時代に倒壊。現存のものは建仁3年(1203)鎌倉時代に重源上人が再建したもの。高さは基壇上25.46mあり、わが国最大の山門。  南大門が如何に大きいか、門下の人と比較してもらえばよくわかるのではないか。柱の巨大さは圧巻である。
金堂(国宝)
大仏殿
鏡池から中門、金堂を望む
鏡池
  金堂(大仏殿 高さ46.8m間口57m奥行50.5m)。中央に見えるのは八角燈籠で創建当時のものである(高さ4.6m)。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690)に鋳造されたもので、元禄5年(1692)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709)に落慶した。   大仏殿の前に鏡池がある。中門、大仏殿がこの池に映る。観光客が押し寄せる前の静寂な一時がそこにあった。 
  なお、東大寺とは、東の大寺を意味し、その反対側には西の大寺として孝謙天皇が発願し建立した西大寺がある。
大仏殿正面の観相窓
観相窓
講堂跡東大寺講堂跡
  8月15日万灯供養会(まんとうくようえ)には、この観相窓(かんそうまど)が開かれ、大仏様のお顔を拝むことができる 。幽玄というか幻想的というか、言葉で表現できうる境界線を超えたものだった。   金堂(大仏殿)真裏に講堂の大きな礎石が並んでいる。この講堂は大仏開眼供養会が行われた天平勝宝5年〜8年にかけて建立された が、治承4年(1180)の平重衡の南都焼討により焼失した。
二月堂
東大寺二月堂
二月堂への登り坂
東大寺二月堂
 天平勝宝4年(752)孝謙天皇の勅願により建立された。以降、2度の戦火(平重衡の兵火(1180)、三好・松永の戦い(1567))にも、焼失を免れたが、寛文7年(1667)の「お水取り」で失火焼失した。現存のものは、その2年後に再建されたものである。 大仏殿の裏道をあがっていくと二月堂にでる。この道から見上げる二月堂の風景が私は好きで、東大寺に行けば必ずこの裏道から二月堂へ行く。 二月堂といえば「お水取り」(修二会)で有名なお堂である。この修二会は天平勝宝4年から一度も休むことなく現在まで続けられている。
東大寺二月堂からの展望
東大寺二月堂からの展望
法華堂(三月堂)
法華堂 三月堂
鐘 楼
東大寺鐘楼
  この堂は、寺伝によると東大寺の前身寺院である金鐘寺であるという。
  創建は天平20年頃と推定されており、当寺でも数少ない奈良時代の建造物である。東大寺創建以降の数多くの罹災を免れたために、本来他の堂にあった仏像などがこの堂に移されたといわれており、堂内には国宝、重文の多数の仏像が祀られている。また、治承4年の兵火で大仏殿を始め主要堂宇が消失した際、諸仏事は主としてこの堂で行われた。
 鐘楼そのものは、鎌倉時代(13世紀初頭)に建築されたものであるが、吊られている梵鐘は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752)の制作である(梵鐘は国宝)。中世以前の梵鐘としては最大のものといわれ 、高385p、口径271p、重さは26.364トンもある。従って、これを支える鐘楼の柱は太く力強く豪快である。
 この鐘楼を復興したのは禅宗を伝え、臨済宗開祖である栄西である。大仏様を基としながらも禅宗様を採り入れているといわれ、東大寺建造物のなかでもこの鐘楼は異彩を放っているのはそのためであろう。
戒壇院
東大寺戒壇院
←大仏開眼供養会の2年後の天平勝宝6年唐より鑑真が来朝し、大仏殿の前に戒壇を築き聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下百官公卿約440名に戒を授けた。
 その一ヶ月後の5月の孝謙天皇は戒壇院建立の宣旨を発し、翌7年完成した。以降南都六宗僧、真言宗僧の戒壇として使用された。
 しかし治承4年(1180)12月平重衡の南都焼き討ちにより焼失し、その後焼失再建を繰り返し、現存のものは江戸時代の享保18年に江戸霊雲寺の恵光長老が再興したものである。
行基堂
東大寺行基堂
俊乗堂
東大寺俊乗堂
東大寺は創建に貢献した聖武天皇、菩提遷、良弁僧正、行基菩薩を四聖としている。この堂は名の通りその行基菩薩を祀っている。 俊乗坊重源を祀っている。重源は、鎌倉時代に東大寺再建を行った。現存の堂は江戸時代の宝栄元年(1704)に再建されたものである
転害門
東大寺転蓋門
←碾磑門から転じて転害門(てがいもん)となったといわれる。「碾磑」とは広辞苑によると「水力で動かす脱穀製粉用の石臼。みずうす。」とある。この門の名前の由来はこれに関係するのかどうか。。。 いずれにしてもこの門は、東大寺創建時の唯一現存する建造物であり、国宝である。位置は東大寺の西面にあり、この門から東に少し入れば左手に正倉院がある。
正倉院
正倉院
←有名な高床、校倉造りの倉庫である。天平勝宝8年(756)、光明皇后が天武天皇77忌に天皇愛用品、約650点を東大寺に奉献したものが納められている。従ってこの建造物と収蔵物は全て東大寺に属するはずであるが、明治8年に国管理に移され、明治17年から宮内省が管理している。建立は天平勝宝(756)から天平宝字3年(759)の間にされたと推定されている。
七重塔跡(東塔)
東塔跡

七重塔跡 (西塔)
西塔跡
東大寺七重塔復元模型
東大寺七重塔復元模型
大仏殿内展示「東大寺伽藍復元模型」より
  中門前にある鏡池を挟んで真西と真東にある。どちらも残っているのは土壇のみで礎石もない。また塔跡との標示版もないためうっかり通り過ぎてしまう。建立されたのは両塔とも天平宝字8年 (764)頃と推定されている。
  塔は七重塔で、高さは70m程度あったと東大要録には記録されている。興福寺五重塔の50.25m(基壇を除く)よりも20mも高くしかも七重塔である。華麗な姿と高さに見る者を感嘆させたことは容易に想像できる。
  しかしこの塔も治承4年(1180)12月平重衡の南都焼き討ちにより焼失した。その後、東塔は安貞元年(1227)に再建されたが再び焼失した。一方西塔は再建を試みられたが頓挫し、今日に至っている。
手向山神社
手向山神社
手向山神社宝庫
手向山神社宝庫
大仏鋳造以来の東大寺の守護神を祀る神社である。大仏鋳造は天平勝宝元年(749)に完成した。そこで朝廷は、同年この神社を建立して東大寺の鎮守した。祀られている神は宇佐八幡神である。以降、東大寺はことあるごとにこの神の助けを求め一山の守護神として崇拝したという。
  ところが治承4年(1180)12月平重衡の南都焼き討ちにより東大寺主要伽藍とともに焼失し 、その後源頼朝により再建されるも再び焼失した。現存のものは元禄4年(1691)8月に再建されたものである。
  明治に入って、神仏分離令が施行され、独立させられた。 特定の寺の守護神であるものまでも分離するなど真にバカバカしいことをやったものであるが、明治新政府の一つの側面でもある。

9.古寺巡訪MENU

 
 <更新履歴>2014/11補記改訂 2015/11補記改訂 2015/12補記 改訂 2020/11補記 改訂
東大寺