鑑 真
(がんじん)
「続日本紀」が語る鑑真
続日本紀には鑑真逝去について、下記のとおり異例の詳細さで記述している。
天平宝字7年5月6日の条 (西暦763年)「大和上の鑑真が逝去した。和上は唐の揚州 竜興寺の高僧であった。博く経典やその注釈を読破し、特に戒律にくわしく、長江(揚子江)と淮水(注1)の間において、ただ一人の指導者とみなされた。
唐の天宝二歳(わが天平十五年)に、留学僧の栄叡(ようえい)・業行(ぎょうぎょう)らは和上に次のように申し上げた。「仏法は東にひろがってわが国に伝わりました。しかし、その教えは存在しますが、伝授する人がおりません。できることならば、和上が東方の国においでいただいて、教化を盛んにして下さるようお願いいたします。」と。訴えの言葉が丁寧で、請願してやまなかった。
その熱意にうたれ、鑑真は揚州で船を買い入れ、そこから海に乗り出した。しかし途中で風のため漂流し、船は波で打ち破られた。和上は一心に仏に念じ、人々もみなこれに頼って死を免れた。天宝七歳(天平二十年)に至り再びまた渡海を試みたが、また風波に遭って日南(ベトナム北部)に漂着した。このとき栄叡が死去した。和上は泣き悲しんで失明した。
天平勝宝四年に、わが国の使節がたまたま唐に赴いたとき、業行が宿願を打ち明けた。鑑真はついに弟子二十四人とともに、遣唐副使・大伴宿禰古麻呂の船に便乗して、わが国に入り帰化した。
朝廷は鑑真を東大寺に安置して供養した。この時天皇は勅を下して、一切の経典と注釈を校正させていたが、しばしば誤字があり、諸本がみな同じようであるため、訂正することができないでいた。和上は全てよく暗誦しているため、多くの字句を改め正した。また天皇は、いろいろな薬物についても、真偽を見分けさせたが、和上はいちいち鼻でかいで区別し、一つも誤らなかった。聖武天皇はこの人(鑑真)を師として授戒した。皇太后(光明)が病気になったときも、鑑真が進上した医薬が効果があった。
大僧正の位を授けられたが、にわかに僧網としての務めが煩雑になったため、改めて大和上の称号を授け、備前国の水田百町を施入し、また新田部親王(天武天皇の皇子。天平七年九月三十日薨去)の旧宅を施入して戒院とした。今の唐招提寺がこれである。和上はあらかじめ自己の没日をさとっており、死期が迫ると端座してやすらかに逝去した。時に年七十七歳であった。」宇治谷孟著 講談社学術文庫刊 「続日本紀 全現代語訳」
(注1)淮水、淮河の意。「淮河とは 中国の大河。河南省の南部桐柏山に発源し、安徽省を経て、洪沢湖を貫流し、江蘇省に出て大運河に連なる。下流はもと黄河の河道を通って黄海に注いだ。中華人民共和国成立以来、大規模な治水工事が進んだ。全長約一千キロメートル。」出典:広辞苑
授戒制度整備に不可欠だった鑑真招聘
奈良時代、僧尼は免税という特権が与えられていた。このため税を逃れようするものが正式な授戒をを受けることなく僧尼のごとく振る舞う者が多数現出し、律令制度の根幹を揺るがしかねないという懸念を朝廷は持っていた。
しかし当時の行政機関は無論のこと仏教界にも授戒制度が未整備だった。そのため朝廷(聖武天皇)は、唐から伝戒師を招き我が国においても正式な授戒制度を導入することが喫緊の課題になっていた。
そこで唐から伝戒師を招聘することを決定し、招聘を特別任務とする大安寺(興福寺の僧との説もあり)の僧、栄叡(ようえい)と普照を天平5年(733)第10回遣唐使船にて派遣する。そして、栄叡と普照はさまざまな唐仏教界・道教界の妨害などを受けながらも、当時揚州の大明寺の住職であった鑑真に出会う。
苦難に満ちた鑑真和上の渡航
鑑真はその当時既に南山律宗の後継者といわれる程の唐仏教界の高僧であった。鑑真は栄叡と普照をはじめとする日本からの留学僧の熱心な懇請を受けて、弟子の中から伝戒師として渡日するものを募るよう指示したが誰一人として無かったといわれる。それを聞いた鑑真は自らが伝戒師として渡日することを多くの高弟の反対を押し切って決意する。
743年に第一回目の渡航を試みるが渡日に反対する高弟の一人が日本僧の真偽を疑われる旨を官吏に密告するという妨害に遭って中止せざるを得なくなり、翌744年1月にようやく疑いが晴れて出航することができたが嵐に遭い失敗。以降3回にわたり試みるがいずれも果たせず、5回目の渡航の際には栄叡が死去するという事態にまでに陥り、さすがの鑑真和上も深く落胆したと伝えられている。
しかし752年、遣唐使藤原C河が鑑真に再び懇請に訪れた。鑑真はこれを受けて翌年の天平勝宝5年(753)12月第12回遣唐使船の第二船目に、14人の僧と3人の尼僧とともに 乗船した。遣唐使藤原C河が乗船する第一船目は遭難したが、僧鑑真の乗る第二船は幸い薩摩坊津に漂着、翌年1月平城京に入り来朝を果たした。第一回渡航失敗から10年、栄叡と普照を派遣してからは実に20年の長きを経て伝戒師の招聘がここに実現したのである。
なお、この遣唐使船への乗船は正式なものではなかったという。それは鑑真の有能さを惜しんだ玄宗皇帝が渡日を許さなかったことにあった。このため遣唐使藤原清河は、玄宗皇帝の威を恐れて乗船を拒否したのである。しかし、これを知った副遣唐使の大伴古麻呂は己の船・第二船に鑑真一行を唐官憲の監視をかいくぐって乗船させた。この大伴古麻呂の剛胆さがなければ鑑真の来日は果たしてあり得たかどうか、真にこの大伴古麻呂の存在抜きに鑑真の渡日は語り得ないといえるのである。そして、そうした絶対権力者の意にも反してでも渡日しようとした鑑真の強靱な精神力には驚かされるばかりである
東大寺戒壇院の設立
来朝後、鑑真は日本の授戒を一任され東大寺に居住した。そして天平勝宝8年(756)聖武太上天皇が崩御し、それまでの聖武太上天皇のための看病禅師の任を解かれ大僧都に任じられた鑑真は、授戒を行う場である戒壇を先ず東大寺に築き、その後太宰府観世音寺、下野薬師寺にも戒壇を築いた。以降この三カ所が正式な戒壇の場とされ、ここで授戒を受けた者のみが正式な僧と認められることとなる。こうした授戒制度の整備と共に鑑真は授戒を行う僧の育成する律宗を興し、日本の仏教界に大きな変革をもたらしたのである。
東大寺戒壇院
鑑真和上の晩年と唐招提寺の建立
しかし、鑑真のこうした変革は当時の僧侶の既得権を脅かすものであり反発も激しかった。鑑真はこうした仏教界の圧力に押される形で大僧正の位を降り、朝廷より新田部邸跡地を譲り受け唐招提寺を建立し来日後たった4年余りで仏教界の表舞台から去る。10年の歳月をかけ、五度の渡航失敗の辛苦と失明という多大な犠牲を払って来日した鑑真和上にとって、この晩年の日本仏教界の仕打ちはどう感じられたろうか。1300年の時を経て今なおその無念さに胸が痛む。
唐招提寺金堂
日本史メモ 鑑真