1.所在地 |
大阪府堺市中区土塔町2143-1
(行き方)最寄りの駅は、泉北高速鉄道「深井駅」。駅から東へ徒歩約7分程度のところにあり、史跡の回りは「土塔町公園」という名称で整備されている。専用の駐車場は無い。上の写真は土塔町公園の入口である。 |
2.草創・開基 |
(堺市制作の説明文)
『土塔は、堺出身の奈良時代の僧・行基が建立したとされる四十九院のひとつ大野寺の仏塔です。平安時代に書かれた「行基年譜」には神亀4年(727)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵図」(重要文化財)にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と期された塔が描かれています。発掘調査によって土を盛り上げた一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、各層には瓦が葺かれていたことがわかりました。また「行基年譜」の記述と同じ「神亀四年」と記された軒丸瓦も出土しています。現在の姿は全体の盛土で保護し、十二層まで復元したものです。土塔から北西約160mのところには土塔に使われた瓦を焼いた窯跡が二基見つかっています。また、約460m北方には行基天平13年(741)以前に作った「薦江池(こもえいけ)」ではないかと考えられる「菰池(こもいけ)」というため池もあります。』 <目次へ戻る>
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3.創建時の構造・規模 |
昭和62年に発掘調査が行われた結果、以下の通りのことが現在では判明または推定されるに至っている
(築造当時の全体像)
- 先ず方形の基壇があり、その上に12壇の土壇が築かれ、その全体に6万枚にも及ぶ瓦を葺き、風雨から土壇を保護する構造であった
- そして最上壇には木造の八角堂が建てられていた痕跡が発掘調査で判明した
- これら発掘調査結果を踏まえ築造時の土塔は、下の写真のようなものではなかったかと想像されている
(規模)
(この土塔は行基(※1)を敬う「知識」(※2)という人たちが建立した)
- 土塔全体に瓦が葺かれていたのは前述の通りだが、発掘された創建当時の瓦には文字を記したものが約1300枚発見された。そしてその内容は大半が人名であった
- 人名を刻んだ人々は、行基とともにこの土塔を建立した「知識」と言われる者と考えられている
- これらの人々は、この人名から判断して、僧尼だけで無く、庶民から氏族などの身分を超え、また男女を問わない広範囲に及ぶことがわかった
- 当時の寺院が、朝廷や有力豪族が建立することがあっても、このように一般民衆にまでの広範囲の人々の寄進によって建立されることは考えられないことであった。そういう時代背景を考えれば、この土塔は行基が如何に一般民衆から氏族豪族に渡る広範囲の人々の支持を集めていたか、そして仏教がどのように民衆までに信仰されていったのかを知る貴重な史料である
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4.特記事項 |
- 日本の仏塔は五重塔などの木造建築が主として作られ残されているが、このような土塔は希少で、このほかの類例として東大寺の僧・実忠が建立した奈良市の「頭塔」がある
- また規模は小さいが岡山県赤磐郡熊山町吉原に三段石積の方形遺構がある
この遺構は一辺11.7m、高さ約3.7mである
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※1.僧・行基については 下記の各ページをご参照ください
日本メモ 行基 喜光寺 東大寺 家原寺 水間寺 孝恩寺 久米田寺
※2.知識とは
- 仏教用語で、知人、朋友の意であるが、転じて人を仏道に導く識者の意となり、さらに仏道に結縁して造寺、造仏、写経、法会などのために財物などを寄進する行為、もしくはそうした行為を行う人々を意味するようになった。
- 寄進される財物を知識物といい、集団的に知識を行うことを知識結といった。
- 知識結は奈良時代に盛んに行われた民間仏教の展開の場となった。
- 行基の社会事業も広い意味での知識とみなすことができる。
- 中世以降は、勧進、普請などの用語が用いられるようになった。
以上、平成2年6月5日 東京創元社発行 京大日本史辞典編纂会編「新編 日本史辞典」より
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5.現在の状況 |