水間寺
(みずまでら)
水間寺境内
Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.古寺巡訪MENU
1.所在地
   大阪府貝塚市水間638番地
2.宗派
  天台宗(総本山:比叡山延暦寺) 本 尊   聖観世音菩薩
3.草創・開基
寺伝では、天平16年(744)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創した。そして開創当時は七堂伽藍を備え、また坊院も150余りを数える大寺であったと伝えている。

この寺伝以外に何らかの文献があるのではないかと調べてみた。だが水間寺の創建に関する記述は全て寺伝を紹介するものばかりだった。例えば「角川日本地名大辞典」角川書店刊では、「寺伝によれば和銅元年、行基の開創で聖武天皇の勅願所とされる」と述べるにとどまり、また貝塚市公式ホームページでも「水間寺は、山号を「龍谷山」といい、天台宗延暦寺末で別格本山の寺院です。寺伝によれば、聖武天皇の勅願、行基の開基とされます。創建以来、古代から中世にかけては多くの院坊と寺領を有していたようです。」(教育部 社会教育課 文化財担当)とあり、いずれも寺伝以外は何も述べられていなかった。

これらが示すように、要は、水間寺の草創は寺伝以外には確実な史料は無く、史実としての水間寺の創建時期などは不詳だ、というのが現状のようである。

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4.その後の変遷

天平勝宝9年(757) 孝謙天皇仏舎利塔を多宝塔に安置する(水間寺古記)
建久元年(1190) 七堂伽藍が完成する
正平6年(1351) 楠木正儀(まさのり、楠木正成の三男)水間寺の別当職と寺領を安堵し、軍勢等の乱入狼藉を禁止した(井手文書)
天正13年(1585) 豊臣秀吉の根来寺征伐に先立ち、貝塚の諸城・水間寺炎上 陥落する
文禄5年(1596) 岸和田城主小出秀政が本堂を再興する
寛文元年(1661) 三重塔が完成する
元禄元年(1688) 井原西鶴「日本永代蔵」を刊行し、水間寺利生の銭の話を紹介する
天明4年(1784) 怪火により本堂、諸堂焼失する
文政10年(1827) 岸和田藩主岡部長愼により本堂が再建される
天保5年(1834) 三重塔が再建される
(以上、水間寺HP「歴史年表」より)

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5.特記事項
  • 水間寺といえば、作家で僧侶であった今東光さんが貫主をされたことでもよく知られている。
    今東光氏は昭和36年に就任され昭和48年に退任されるまでの12年間、貫主を務められた。
  • 行基建立四十九カ寺に、この水間寺をあげている向きもあるが、私の狭い学習の範囲ではあるが四十九カ寺の中に水間寺の名をあげている研究者はおられないようである。
  • ※ 行基については、下記の各ページをご参照ください。
       日本メモ 行基   喜光寺  竹林寺  東大寺   家原寺   孝恩寺  久米田寺

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6.現在の境内

現在の境内図
  水間寺伽藍配置図
当寺院HP「水間寺境内図」を参考に作成
厄除橋 本堂と三重塔
水間寺厄除橋 水間寺本堂
本堂   本堂扁額
水間寺本堂 水間寺本堂扁額
  本堂の基壇の高さは約0.8メートル、平面は約23メートルあり、大阪府下でも最大級の規模だといわれる。この本堂には「(梵字〈ぼんじ〉)奉再興龍谷山水間寺金堂一宇」という墨書(ぼくしょ)があり、「辛 文化八年/未 三月廿六日」の年月日が書かれた文化8年(1811)の棟札が残されており、本堂の建築年代が正確に知ることができる貴重な資料といわれている。
 
三重塔 三重塔側面の十二支
水間寺三重塔 水間寺三重塔十二支彫刻
「かつては多宝塔で多宝如来を安置した。古い記録に依れば孝謙天皇が舎利塔を安置したと伝える。天正の兵乱に焼亡したので萬治年間に改めて三重層の塔を建て、釈迦仏の像を安置した。井原西鶴の「日本永代蔵」に記載されたモデルの塔と考えられる。現塔は天保5年(1834)の再建となる。」(境内の説明文より)
(孝謙天皇)聖武天皇第2皇女。後に重祚して称徳天皇となる。
(在位)孝謙天皇749-758年、称徳天皇770-781年
経堂 鐘楼
水間寺経堂 水間寺鐘楼
経堂 : かっては「聖武天皇宸書の妙典、光明皇后の般若経、慈覚大師の妙法経等が収められていたが、兵火にあって焼失。高倉天皇(在位:1168-1180年)の勅命をもって大般若経の写本の1部が収められている。」(境内の説明文より)
     
降臨の滝・聖観世音出現滝
聖観世音菩薩出現滝
    寺伝には「聖武天皇42歳の厄年に病気にかかった折り「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」との夢のお告げがあった。聖武天皇はこの仏像を探すことを行基に勅命した。
  行基は奈良の西南方の地に出向き到達したのがこの水間の地であった。すると突然「十六人の童子」が出現し、誘うともなく行基菩薩を谷間に導いた。この谷間の美しい水の流れる巨岩の上に白髪の老人がおり、手に一体の仏様を捧げ、「汝を待つこと久し」と言って、自分の手首を自ら噛み切って、その尊像を行基菩薩に手渡し、そうして自分は龍となって昇天した」とあり、 この「谷間の美しい水の流れる巨岩」がこの場所であるという。
     
鎮守権現宮
水間寺三所権現
 当寺院の説明パネルによると、この鎮守権現宮には「熊野・蔵王・白山三所権現に勧請し給うたもので水間寺創建時より祀られている。」とある。
 行基は仏教徒であるが同時に道教や山岳信仰の修験道にも強い関心を持ち、実際それを修行し呪術的なものも布教活動に生かしていたのではないかと考えられている。それは続日本紀の養老元年(717)四月の条にある行基集団に対する「僧尼令による禁圧」に、行基集団が仏法に背く術を用いていることに言及していることでもよく知られている。
 従って、この鎮守権現宮が果たして創建時からあったか否かは不明ながら、山岳信仰の代表的なこの三権現が、行基ゆかりの寺とするこの水間寺に祀られていることは当然とも考えられる。
     
行基堂 行基堂
水間寺行基堂 水間寺行基堂
行基堂は、本堂から秬谷(きびたに)川を渡った西側の丘の中腹にある。3間四方、寄棟造(よせむねづくり)本瓦葺の小堂である。建物の(組物)の様式から、天正年間以前に構築され江戸時代の前期に改築した建造物と推定されている。従って、水間寺では最古のものとされている。なお、この堂には木造行基坐像が安置されている。
 
弁天堂 薬師堂
水間寺弁天堂 水間寺薬師堂
岸和田藩主岡部氏によって、江戸時代前期に再建された本瓦葺の小堂。堂内には木造弁財天坐像(江戸時代前期制作)を安置されている。 行基菩薩が当地を訪れたときに聖観音の出現を祈願して薬師如来像を彫って祀ったとの伝承があり、この堂には薬師如来像が安置されている。
     
 行基水・薬師井戸   鏡池と瑞泉堂
水間寺行基水・薬師井戸   水間寺鏡池・瑞泉堂
     
愛染堂 お夏清十郎の墓石
水間寺愛染堂 水間寺お夏清十郎の墓
  お夏清十郎の墓にある碑文には、約700年前、水間の豪農楠右エ門の娘、お夏がこの愛染明王に祈願し、勅使であった山名清十郎との恋を成就させたとある。水間の「お夏清十郎」の伝説は、昭和11年に映画化され有名になった。主演は、田中絹枝、林長十郎(長谷川一夫)で、この墓の前の花立てには、その記念に二人の名前が刻まれている。
 
護摩堂    水闢S道水關 水闃マ音駅  
水間寺護摩堂   水間鉄道・水間観音駅
  護摩堂は、本堂の南にある。3間四方、本瓦葺の小堂である。元禄年間に岸和田藩主岡部氏が再建したと伝わる。堂内には、不動明王立像が安置されている。      この駅は水間寺参詣の最寄り駅で、当駅から南に約600mのところに水間寺がある。 この駅舎は大正15年開業時に寺院風に建築され、現在に至っている。また、平成12年の近畿の駅百選の第一回認定駅としてもよく知られている.。 

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7.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2012/4作成 2016/2補記改訂 2020/11補記改訂
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